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伊賀街道独歩記
いがかいどうひとりあるき
伊賀街道ウォーク その1
平成19年4月5日(木) <その1>
伊勢参宮街道を歩いて津のご城下を訪れたのは平成17年5月28日の土曜日であった。この日は千里をスタートして上野宿から江戸橋を渡って津へと入った。津駅や県庁、城跡を右手に見やりながら格子や卯建のある阿部家住宅や四天王寺、観音寺などを見て、次の雲出へと向かった。この時、津のお城と上野のお城を結ぶ伊賀街道を何時かは歩いてみたいと思った。それが2年後の春に実現出来ることとなり、今日、津のお城をスタートする。
今年の春は天気の変動が激しく、4月1日には静岡市清水区で31.8℃を観測し、全国初の真夏日となった。2日と3日は黄砂が襲い視界が悪く車が泥んこ。4日は強い寒気を伴った低気圧が来て東京都心で19年ぶりの雪が降った。今朝は素晴らしいお天気ではあるが昨日の寒気が残って4月とは思えない寒さである。家内に駅まで送って貰ってJR東海道本線で名古屋へ。名古屋からは近鉄に乗り換え津新町まで。桜が満開となり街道歩きには最高の日和である。
伊賀街道とは
伊勢の国と伊賀の国にまたがる伊賀街道は、津から橡ノ木(とちのき)峠とも呼ばれる長野峠を越えて上野至る全長12里(約50キロ)の街道で、津宿と上野宿の間に、伊勢側に前田宿(後の片田宿)と長野宿が、伊賀側に上阿波宿(後の平松宿)と平田宿があった。道は現在の国道163号に沿う形で通っており、今でも国道沿いのあちこちにかつての街道の面影が残っている。この伊賀街道は、主要街道の五街道とは違い、伊勢神宮への参宮道や上野城への往復に利用された脇街道であったが、慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊勢と伊賀の二つの国の大名に移封され、津を本城に、上野を支城としたため、津を起点に藩の二つの拠点を結ぶ重要な官道として整備された。
津宿
「近鉄津新町駅」
この駅で急行電車を降りたのが9時29分。津駅では何度も乗り降りした事が有るが、次の駅である津新町駅は初めて。駅でトイレを済ませ、街道歩きスタイルを整えいざ出発となったが、何故か一瞬方角が分からなくなった。地図でよく確かめ、先ずは津城址へと向かう。
「津城址」
津城は織田信包(おだのぶかね・信長の弟)が天正8年(1580)に創築。その後、藤堂高虎が伊予今治から移封され、
慶長16年(1611)に大規模な改修と津城下の基礎づくりを行い、明治維新まで32万石城下町の中心となって栄えてきた。現在ではお城公園として整備され、本丸・西の丸・内堀の一部を残すのみではあるが、
復興された三層の角櫓の白壁に老松が映え、苔むす石垣と共に昔を偲ぶことができる。今は丁度桜が満開でその影をお濠の水面に落としていた。
「津市役所」
お城の南には市役所とその関連施設があり、行政の中心となっていて、人々の往来が激しい。
「街道起点の交差点」
市役所の西の道の、津カトリック教会のある交差点が伊賀街道の起点となる。
「西へ延びる街道」
一筋西へ行って直ぐに左折して、一筋行って今度は右折する。その先真っ直ぐに西へと延びるのが伊賀街道である。真っ直ぐの街道に出たとたん方々の民家にオレンジ色の幟がはためいている。「高層マンション建築断固反対」、こんな所にも時代の波が押し寄せているのだ。
「JR紀勢本線と近鉄名古屋本線の踏み切り」
やがて街道は踏み切りに出会う。JR紀勢本線と近鉄名古屋線、JRは単線で線路の幅が狭く、近鉄は複線で線路の幅が広い。警報機が鳴って遮断機が降り、目の前を近鉄のオレンジとブルーの特急電車が走り過ぎて行った。この踏切の手前左手に二階建ての民家があり二階の窓には手摺・欄干が付いており時代が感じられ是から先の街道の様子を予告しているように思えた。
「光澤寺」
踏み切りを渡ると、その先は八町となる。この八町の名の由来は『藤堂高虎が津城下を拡張・整備した際、八丁畷と呼ばれた地に町が開設されたことに因むという。伊賀街道に面したこの町には、江戸店を持つ商人や谷川士清(たにがわ・ことすが)などの学者・文化人も住む賑やかな町であった。』と言う。1丁目の右手先には桜が咲いた公園や学校が見え、2丁目の右手先にお寺が見える。一筋入ってみると白木が眩い鐘楼のある光澤寺がある。落慶法要があるとかで数人で紅白の幕を張っていた。
「観音寺の子安地蔵と琴平大権現」
街道の一筋右の道の光澤寺の先には、古びたお寺があり慈眼院観音寺と言う。山門をくぐった正面に本堂が、左手にはお堂が二つ並んでおり、門側に子安地蔵が、本堂側には琴平大権現が祀られている。
「六阿弥陀」
街道に戻ると、この辺りには古い格子造りの町屋が点在して街道らしい雰囲気が漂ってくる。そんな中、右手に格子戸があり中にお堂が見えた。中に入ってみたらお堂には『六阿弥陀』の額が掛かっていた。外に出て良いカメラアングルを探してキョロキョロしていたら、シルバーカーを押したご婦人が「何かお探しですか」と声を掛けてきた。街道を歩いていることを告げると、「昔はこの辺り格子造りの家が並んでいたが、今は少なくなってしまった。この先には幾らか残っていますよ」と教えてくれた。
「格子造りの町屋」
街道の右手に、両隣が更地になった中、ぽつんと立っている格子造りの家がある。間口は3間、入口こそアルミの戸に替わっているが、その他は昔のまま。一階が格子で小屋根の下に幕板が下がり、ツシ二階は土壁。何かの見本を見ているような気分になる。
「文化財散策マップ」
街道の左手の駐車場の一角に大きな『文化財散策マップ〜谷川士清旧宅周辺〜』があり、この辺りの文化財を地図と写真を入れて解説してある。この駐車場の2台分は谷川士清旧宅見学者のためのもの。
「古い町並み」
街道の左手に古い町屋が並んでいる。左は二階の低い格子作りの酒屋さん。今日はお休みなのかシャッターが下がっているのが残念。小屋根から幕板が下がり、その上にはレトロなお酒の看板が上っている。真ん中の家は二階が高く時代は新しいようだ。
「谷川士清の旧宅」
八町3丁目、街道の左手、家の前に大きな石柱が立つ立派な格子造りの家が谷川士清の旧宅で国指定史跡になっている。『谷川士清は江戸中期の国学者で日本書紀の解説書である『日本書紀通証』(全35巻)や日本初の五十音順の国語辞典である『和訓栞』(21,000語、全95巻)などを著した人で、その旧宅が復元・公開されており、書籍や資料なども展示されている。』この旧宅の向かい側を少し入った所の福蔵寺には谷川士清の墓が、谷川神社境内には反古塚がある。反故塚は士清自身が建てたもので、著作の反故(下書き)が埋められている。
「格子造りの町屋」
谷川士清の旧宅の並びに間口6間、平入り二階建ての典型的な格子造りの家がある。たいていは毎日出入りする格子戸がアルミの戸に替えられているが、ここのお宅は全ての格子が元のままの姿で、幕板、袖壁、漆喰壁と共にこの住宅の特徴を良く表している。
「延命地蔵尊」
谷川士清の旧宅を過ぎると街道は左へとカーブして、平行してきた国道163号と合流し、この先は国道を行くことになる。合流地点のすぐ先には、右の安濃川に架かる納所橋への道が分かれる。この交差点右角にコンクリート造りで瓦屋根が乗った地蔵堂があり、延、命、地、蔵、尊の五つの提灯が下がっている。中央の地蔵の背面に『文化13年丙子7月』(1816)の銘があり、右端は延命地蔵で明治の初めに流れ着いたものを祭ったと言う。これが土手の地蔵さんと呼ばれる延命地蔵尊である。
津宿から前田宿へ
「街道名残の大木」
土手の地蔵さんのところで街道に近付いていた安濃川が右へ蛇行して、街道から離れる。ちょうどその辺り、街道の左手に葉の落ちた大木がある。宿り木がいっぱい付いているので遠くからでも良く目に付く。これが藩の命によって植えられたというエノキの大木である。エノキは東海道などの一里塚に植えられた木だ。
「安濃川土手のさくら」
しばらく行くと安濃川が再び右から近付いてきて国道はその土手を行く様になる。土手下にも道路があり、それが街道で、道に沿って集落がある。土手にある一本の桜が今満開である。
「川沿いを行く」
暫らくは国道を、安濃川を眺めながら歩いた。空は青く、菜の花が黄色く咲いてとっても気持ちが良い。
「土手下の街道」
土手の下の街道沿いには大きな家が並んでおり、中には蔵のある家もある。
「軒に幕板のある民家」
この家は切妻平入りツシ二階の格子造り、一階は格子と出格子で、軒には幕板が下がっている。こんな家を見ると嬉しくなってくる。こんな所が街道歩きに醍醐味だ。
「薬師寺」
この川沿いの集落の中に薬師寺がある。本堂の前にある津市教育委員会の解説板によると、この寺には三重県指定有形民族文化財の『那智参詣曼荼羅図』、『熊野観心十界曼荼羅図』と津市指定民族資料『百万遍念仏用具』が有るとか。
「さんし」
今の土手のどの辺りかは明白ではないが、この付近に堤防が一段と低く作られている所があり、それを『さんし』と呼んだ。安濃川の洪水から津の城下を守るため、大水の時はここを切って左に流れている岩田川に水を流したのだと言う。先人の知恵だ。
「五軒町の分岐」
国道23号中勢バイパスの安濃川橋をくぐり、大きなパチンコ屋さんのある丁字路で左に曲る。すると左手に津市水道局、西部市民センターが続き、いろいろなお医者さんが続く。この辺り再開発されたのだろうか。そして五軒町で街道は国道から左に分かれる。
「石柱」
国道から街道に入ってすぐ右手に石柱がある。正面には『新四国八十八ヶ所霊場』、横の面には『是ヨリ三丁』とあった。
「立派な門構え」
街道の右手には瓦の乗った黒塀に立派な門構えの家がある。ここ五軒町には『茶屋』、『もち屋』などの屋号を残す家があると聞くが、それとはちょっと雰囲気が違う。
「伊勢自動車道をくぐる」
伊勢自動車道をくぐる。その先に道幅の狭くなった街道が続く。くぐった先は一軒町、その先は三軒町となり、忠盛塚バス停で国道に合流する。三軒町から先、街道は岩田川沿いに延びているのだが今はその道は残っていなので、国道を歩いて迂回する。近くに幾つか住宅団地があり、折からの県議会議員選挙の選挙カーが街道歩きの旅人にまであいそ良く手を振って行く。
「片田での分岐」
この辺りでお昼が近付いたと言うのに全く食堂の類が無い。仕方なくコンビニでも見つけて何とかしようと半ば諦めていたら、赤提灯に焼肉と書いたお店があった。小さな黒板に白墨で昼定食のメニューが書かれている。あ〜ラッキー!何のためらいも無くここでお昼を頂くことに決めた。
腹ごしらえが出来て、元気に午後の部の出発。片田志袋団地を過ぎて暫らく行くと国道から左に分かれる道が有る。これが街道だ。
「田圃の中を行く」
街道を行くと間も無く田圃の中の道になる。右手遥か向こうの国道の、更に向こうに小学校が見えるこれが片田小学校。歩いているところから数歩先を小鳥がトコトコと走り、突然舞い上がった。そして、ピーチクピーチク囀りだした。あ〜ヒバリだ!
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