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伊賀街道独歩記
いがかいどうひとりあるき
伊賀街道ウォーク その1
平成19年4月5日(木)<その2>
前田宿(片田宿)
「菜の花と桃の木」
田圃の中の道が国道を横切る。この交差点は五差路になっていて信号がある。角にコンビニのローソンと、大きなパチンコ屋さん、そして津片田郵便局とがある。信号を渡って一番右の細い道を行く。街道脇には白と黄色の菜の花や、白とピンクのハナモモが咲いている。春らしい長閑な景色だ。
「八乳合神社」
右手に背の高い社標の『八乳合(やちあい)神社』があり、その先の参道には石の鳥居、3対の石灯籠、更に石の鳥居があり、その向こうは石段が山の上へと続いている。社殿は山の中腹に屋根の一部を見せている。この辺りが前田宿の東の入口にあたる。この『八乳合神社』にはこの辺りの八つの神社が祀られているのだと言う。
「蔵のある民家」
間口の広い大きな平入りの母屋に、街道に面した蔵を持つ家がある。宿場と言えば間口の狭い町屋が軒を連ねているのを直ぐに連想してしまうが、ここにはそんな雰囲気は無い。昔からこうだったのか、近年になってこのような建物なったのか、街道を歩いているだけでは分からない。
「古い家並みが残る」
街道が片田バス停のところで国道に合流する。道筋が変わっていなければ、この合流点は曲尺手に相当する。国道に沿っても蔵のある大きな家が何軒かある。この付近は町垣内と呼ばれ問屋場や高札場があった所。この宿には野田屋、徳田屋、片田屋、伊賀屋、久保屋と言った旅籠があったと言う。
「旅籠の名残か」
宿の外れの左手に二階建ての家がある。二階にはガラス障子がはまり、手摺・欄干が付いている。旅館のような建物だ。今は廃業しているが、昔は旅籠「徳田屋」だったと言う。
「道標」
久保バス停の所から街道は国道から左へ分かれ、何度か国道と着きつ離れつする。その途中の国道の右手にパーマ屋さんがあり、その家の横に道標が立っている。『国宝薬師堂約七丁、光善寺約六丁、観慶寺約三丁』
「常夜灯」
そのすぐ先、片田久保町集会所の前に常夜灯がある。火袋は新しそうだが文化の文字が読めた。
「観慶寺」
国道の右手に『観慶寺』の看板があり、右手山の上にお寺の甍と金色に輝く仏像と、桜の花が見える。看板を良く見ると『ぼけ封じの祈願寺』とある。遠くからでは有るが手を合わせ、ぼけを封じて頂く様お祈りをした。お賽銭を払っていないのでこれではダメか?
前田宿(片田宿)から長野宿へ
「古い道を行く」
観慶寺を過ぎて宿場を出たようだ。暫らく国道を行き、やがて左に分かれる。田圃道から山裾の道になる。事前に調べてこれが旧道だと分かって歩いているから良いものの、他人が見たら何処を歩いているの?狐に化かされているのでは?と思われるに違いない。
「津市水道資料館」
やがて国道に戻り、この先暫らくは国道を行く。右手遥か先に綺麗に桜が咲いているところがある。よく見ると背景は溜め池の堤防のようで、下に建物があり、自動車が沢山止まっている。
お昼に入った食堂の女将さんが「片田の貯水池の桜が綺麗だよ」と言っていた所か。地図には津市水道資料館となっている。
「吹上坂」
桜を右手に過ごすとやがて道は上り坂になってきた。ここが伊賀街道難所の一つと言われた吹上坂である。左右には幾つかの溜池がある。
「道路開鑿記念碑」
坂を上りきったら左手に大きな石碑が立っている。これには『道路開鑿記念碑』とあり、裏に刻まれた文字を読むと開鑿は明治13年で、この碑の建立が明治25年とある。今歩いてきた吹上坂は国道で、坂とは言っても車やトラックが走るのでなだらか坂であった。しかし開鑿される以前は相当な難所だったことが良く分かる。
「吹上での分岐」
吹上の集落に入ると国道の頭上に案内標識が有り、直進は国道163号で伊賀、左は県道28号で榊原とある。街道はその標識のところから細い道で左に分かれる。
「新しい神社と石仏」
右手に石垣をめぐらした上に真新しい神社があり、角にはこれも真新しい旅姿のお地蔵さん。確か鳥居には『瀧川龍神神社』とあった。誰かが私財を投げ打って作っているのだろうか?
「道標」
次の細い道を横切った先の左手に、大きな自然石の道標が背を向けて立っている。側には木製の道標もある。石の面には『右さんぐう道、左津』と刻まれており、木製の道標は進行方向に上野市、奈良方面、進行方向の右手が久居市、伊勢方面と記されている。
「行く手山の上の風車群」
下之郷では、国道から離れて田圃や畑の中を行く。正面の山には数多くの風力発電の風車が見える。青山高原辺りか?
「古木と街道」
街道は国道にあるJA津安芸美里支店の所でタッチアンドゴー、一旦国道に接して再び左に分かれ、細い道となって中之郷の集落を行く。右手の家の生垣の中に何の木か判らないが古木が立っている。相当な年数のようで、この街道、この家の古さを物語っている。
「祠」
集落の中で曲尺手の様に曲がる所があり、そこに小さな祠がある。これは御神燈の台石の上に祀られているのだ。
「西方寺」
やがて右手に屋根が美しいお寺が見える。入口には『天台眞盛宗見性山西方寺』とあった。
「着色された蔵」
この集落に幾つかの蔵が有るが、そのうちの一つに着色がされていた。妻の白壁に直線と小屋根の周辺に何れも水色で塗られている。この色は水を表し、防火のまじないだろう。家紋や恵比須、大黒などが色着きで描かれているのは見たこと有るが、こんなのは初めてである。
「グリーンロード交差点」
集落の中で街道はやがて右に曲がって国道に向かい、右に電器工場、左にコンクリート工場となった所で国道に突き当たる。そこで左に折れて国道を行く。次の信号交差点の案内標識には『直進が国道163号で伊賀方面。左右の道路がグリーンロード、右が亀山、芸濃方面。左が白山方面』とある。
「お地蔵様など」
グリーンロードを信号交差点で渡ってすぐ、道は二手に分かれる。右が国道、左が街道。国道を少し行った右手、トタン葺きの屋根の下に幾つかの石仏や五輪塔がある。延命地蔵尊と供養塔、一石五輪塔だと言う。
「御神燈と万度石」
少し戻って再び街道を行く。ここは足坂の集落、左手高宮郵便局の向かいに御神燈と万度石がある。奥に万度石、手前右に御神燈、これには文政10年(1827)の年号が刻まれている。『お百度を踏む』と言う古い習慣が有り、このためにお百度石があることは承知している。しかし万度石と言うのには初めてお目に掛かる。ここへお参りに来れば一万回お参りした事になるのだろうか?
「蔵のある街道」
この集落を抜ける街道は狭く、黒い腰板と白壁が鮮やかな蔵があり、昔ながらの道と言った感じがする。
「御神燈と万度石」
またもや右手に御神燈と万度石がある。先の万度石から凡そ300メートル、万度石と御神燈との位置関係はどちらも同じで、何かの決まりが有るようだ。お百度を踏むように、先のと、ここのとを一万回も往復するのはとても無理だろう。
「永福寺」
左手屋並みの奥にお寺が見えるので寄ってみた。『天台眞盛宗園照山永福寺』で本堂と鐘楼、無縁仏が山のように積まれ、鐘楼の先は崖でその下が墓地になっている。
「かけはし」
街道は国道に合流し、坂を下りながら左へ大きくカーブを切る。左手に川が近付いてきた。川まではかなりの深さだ。綺麗な川で、よく見ると今自分が歩いている国道の左の歩道部分は崖から川へとせり出して、まるでかけはしを行くようだ。この辺りから川の水を取って、先に通ってきた水道資料館のある貯水池に送っているのだと言う。
「伊賀街道案内板」
次の信号のある大きな交差点を左に行くと美里総合支所や保健センター、文化センターなどの施設が集まっている。この交差点に『伊賀街道』と書かれた太い柱に『津市美里町ガイドマップ』がついており、五百野から長野峠までの地図に街道を印し、沿道の見るべきものの絵と解説が書かれている。
「大乗寺」
信号交差点を直進し、間も無く国道から左に分かれ、やがて再び国道に接する。右手に消防署の美里分遣所があり、丁度サイレンを鳴らして救急車が出てきた。その先には『大乗寺』が見える。
「万度石か」
国道から再び離れ川に近付く。右手の高い所に石があり、それに表札大の掘られた窪みがある。先に見た万度石の二つとも、本体の石に、表札大の万度石と彫られた石がはめ込まれていた。これはその万度石部分が無くなったものと思われる。
「新開橋」
川が左から寄り、前方に橋が見えてきたところで左からの来た道と合流する。この川が長野川で橋が新開橋。あれっ?持っている地図を確かめてみたら誤りに気付いた。本来の街道は美里支所のある信号交差点を渡ってから直ぐに左に進み、ここへ出て来なくてはならなかったのに、消防署の美里分遣所や大乗寺と言う目標に気を取られ、その一筋先で曲ったのだ。誤りに気付いただけでも良しとして、戻るのは止めることにした。
「田圃の中を行く」
新開橋を渡り小さな集落を抜けると誰一人通らない田圃の中の道となり、山際を通って行く。右手の方には国道を走る車が見える。もよおしてきたが適当な場所が無いので、しばらく我慢をしていた小用をここですることにした。誰に気兼ねする事無く済ませる事が出来、さっぱりとした。
「立岩橋」
街道は右に曲がり国道に近付いて行く。橋がありその先に集落が見える。この橋は長野川の立岩橋。橋を渡ると直ぐに国道に出た。この辺りが分郷で、ここからは再び国道を行く。
「庚申塔」
街道の右手にはブロック積みの台座に石塔が二つ並び、前の供花の筒には枯れたサカキが茶色くなっている。左のものは庚申塔であるが、右のは何れの神様か分からない。
「長野氏城跡」
国道は左に長野川を見て、緩く左にカーブしながら上って行く。右手石積みの手前に木の道標と解説板が立っている。道標は直進方向に『長野宿まで0.4q』、右に『東の城』とあり、解説板には『国指定、長野氏城跡(東の城、中の城、西の城)』とあって『「城の台」にある長野城跡よりも複雑な構造を持つこの城跡は、堀切や土塁に囲まれた郭をよく残しています。伊賀街道に面する交通の要衝にあって、日常の居館は、通称「しろやしき」の辺りにあったと推定されます。これらの三つの城は、長野氏が国人領主として地歩を固める根拠地となった場と考えられ、丘陵全体を大きく三分した半独立的な城を配置している築城手法も、特色あるものとして注目されるところです。これらの城跡は、長野城と共に記録によってその歴史を知り得る南北朝期の城跡として重要であることから、昭和五十七年一月一六日、国の史跡として指定を受けたものです。美里村教育委員会』と説明されている。
長野宿
「長野宿看板と伊賀街道案内板」
城跡解説板から先へ進むと道は二手に分かれ国道が左へ、街道は右へと進む。この分かれ道の右手に『これより長野宿』の看板と、美里の交差点に有ったのと同じ『伊賀街道』の柱と『津市美里町ガイドマップ』ある。津から数えて二つ目の宿場、長野宿に入る。
三重交通長野東バス停まで来たら、丁度向こうから平木発サティ行きのバスが来た。一瞬ためらったが、反射的に飛び乗った。なんせ、このバスは1時間に1本しか無いのだ。長野の宿場を見ておきたい気もしたが、宿場を見てからの次のバスまで待ち時間が出来き、それだけ帰りが遅くなる。この選択で良かったと、バスに揺られることにした。
今日のニュース、朝刊では「西武、アマ監督にも裏金、延べ170人、最高1000万円」。「タミフル『異常行動』128人」。
今日歩いた記録
自宅で何時もの歩数計「TEKUMARU」をズボンのバンドにはめ、出発時にリセットして出掛けた。津のカトリック教会のある信号のところで記録して、ここから正味のデータを取ろうとしたら液晶表示がおかしい。文字が点滅したり、88888と出たりして、その後は消えてしまった。あ〜、残念、記録をとる事が出来ない。
ページ公開 平成19年4月14日
ページ改良 平成23年5月1日
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