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飯田街道独歩記

いいだかいどうひとりあるき



飯田街道ウォーク その5

平成18年9月27日(水)<その2> 



水分峠から武節まで

「北水別」
国道を只ひたすらに北へと歩く。この辺り水別峠からの下りなので歩みは快調に進む。しかしその左右、街道筋としての見るべきものが何も無い。

北水別


「水車」
上黒田のバス停近く、曽根の集落の左手に水車があった。良く見ると水車が3基と大きなお釜とその上に大きなお釜の蓋が乗っている。これは一体何だろう? 水車とお釜の関係は? この水車は働いているようには見えない。単なる物好きの見世物か?

水車


「きぐすりや」
下黒田のバス停近くの左手に『きぐすりや』と書かれたお店がある。これまたレトロなネーミング。これぞ街道時代の名残か。きぐすりとは生薬と書き、未だ調剤していない漢方薬のこと。生薬屋は生薬を売るお店、即ち売薬店。食品、酒、雑貨、くすりとあった。

きぐすりや


「火の見櫓」
きぐすりやの先、はす向かいに火の見櫓が立っている。銀色に塗られた鉄の櫓が秋の青い空に映えている。

火の見櫓


「古い家」
街道の左手、小高い山裾に古い民家と作業小屋がある。この民家、昔は茅葺であったものがトタン葺きに変えられたのか、黒く塗られているが茅葺屋根の形を残している。小屋は赤土の土壁で民家とあわせて見ると興味深い。

古い家


「道の駅の標識」
頭上に道の駅の看板が出た。『道の駅、どんぐりの里いなぶ、2q』、ゴールが近くなってきた。

道の駅の標識


「真弓大橋西」
信号交差点が見えてきた。ここは真弓大橋西。青い大きな案内標識には『有料道路、茶臼山高原道路、9q』、横の看板には『稲武町商店街』とあり左矢印が描かれている。「真弓大橋の信号で国道から左に分かれるのが街道」と先の豊田市稲武郷土資料館で教わってきた。

真弓大橋西


「木地屋」
国道から分かれたら、とたんに車が通らなくなった。これなら気楽に歩ける。間も無く右手の家に『木地屋』と天然木に墨書した看板がある。山国、木の里らしい看板だ。

木地屋


「民家」
右手の民家、切妻平入り、格子造り、背の高い平屋、大屋根と小屋根の間は赤土の壁。

民家


「御所貝津の火の見櫓」
街道の左に川が流れガードレールの脇には交、通、安、全、運、動の大きな看板。その先に火の見櫓が見える。ここは御所貝津町。

御所貝津の火の見櫓


「道標と石仏群」
火の見櫓の根方に石仏などがある。左から道標、秋葉山常夜灯、石仏3体、大きな馬頭観音と並んでいる。道標には『川下奥山半僧坊道凡十五里、上天照皇太神宮道凡二十里余』とあった。

道標と石仏群


「水天宮」
その先、左手、会社の事務所の前に『水天宮』が祀られている。この奥に流れる黒田川を鎮めるためのものか。

水天宮





武節(稲武)

民家
いよいよ稲武の中心部に近付いてきた。街道の脇に家が建て込んでくる。右手にある家は二階家が並び長屋のようだ。

民家


「桑原信号」
稲武の中で数少ない信号の一つ。

桑原信号


「商家」
街道の右側に蔵を持った大きな商家がある。間口の広い格子造りで、街道時代の問屋の跡か。きっと塩も扱っていたのだろう。ここ稲武の町では最近足助に習って春に「お雛様」を展示する様になった。昨年の春には家内とそれを見に来た。きっとこの家にもお雛様が飾られていたに違いない。

商家


「武節村道路元標」
街道の左に小さな石の『武節村道路元標』が残っている。この武節は足助と同様に宿場町で、江戸時代は武節村と呼ばれていた。昭和15年に稲橋村と武節村とが合併し、稲橋の稲と武節の武を合わせて稲武町となった。平成17年(2005)には豊田市になった。こんな石標からも歴史がうかがえる。

武節村道路元標


「大和屋」
街道の左手に蔵と大きな格子造りの商家が並んでいる。その家の前には解説板が立っていて『中馬街道・武節宿・大和屋、街道沿いの中でも土蔵の並んだひときわ大きな旧家。江戸時代から明治にかけて、木材商の傍ら足助方面から運ばれてくる塩の中継問屋を営んでいた。百年以上経った今でも冬の乾燥期になると塩が置かれた土間からは、いくら掃いても塩が浮いてくるそうである。また高僧として名高い山田無文老大師の生家でもある。・・・』とあった。

大和屋


「レトロな酒屋の看板」
その先の右手に酒屋が有って、レトロなお酒の看板が掛かっている。街道時代の代物ではないが、こんなのが残っていると嬉しくなる。

レトロな酒屋の看板


「お不動様と重軽様」
街道が鍵の手に曲る左角に食堂があって『お不動様・重軽様』の解説板が立っている。それによると『お不動様、不動明王・明治初年勧請。いろいろな願い事をかなえてもらえる。特にうせ物のあった時にお参りすると、見つかるといわれている。助けられた人は、お礼に剣や鳥居を奉納した。』
『重軽様(おもかるさま)、天生年間滋賀県近江八幡の城主佐々木越中守重忠、則長の時、比叡山から発見された蛤石と伝えられる。願いを込めて持ち上げると、かなう時は軽く、かなわない時は重く感じるといわれる。』(説明にある天生年間は天正年間の誤りか)。しかし、これらはこの食堂の裏の駐車場の奥にあるという。

お不動様と重軽様


「お不動様と重軽様が祀られた小屋」
面白そうなので裏へ回ってみた。駐車場の奥に白木の鳥居が有り、その奥に小屋掛けされ、中に石仏3体と中央に大きなお不動さん、右に重軽様が並んでいる。

お不動様と重軽様が祀られた小屋


「お不動さん」
大きなお不動さんの足元には薄い鉄板で出来た鳥居や剣が沢山奉納されている。鉄製の鳥居や剣は簡単には手に入らない。どうして奉納しているのか不思議になった。

お不動様


「重軽様」
台になる石の上に布団を敷いて、その上に重軽様の石が置かれている。これを見て子供の頃の思い出が蘇ってきた。京都の今宮神社に丸い石が祀られていて、叩いてから持ち上げると重く、撫でてから持ち上げると軽いと言われていて、何度も試したことを思い出した。

重軽様


「明月清風校跡」
鍵の手を曲りきった右手の家の前に解説板が立っている。それによると『明月清風校跡、「村づくりは教育と産業から」と古橋暉皃義眞父子は、明治の学制発布に先立ち、ここ武節町字屋敷にあった一円寺に明月清風校を開校。校長は平田門の国学者佐藤清臣。・・・。明治六年学制に則る公立小学校(第九中学区第四十三番小学明月清風校)となった。』

明月清風校跡


「大橋」
名倉川を大橋で渡る。この川の手前が武節で、川の向こうが稲橋となる。この名倉川は橋の左先で黒田川を合流し、やがては矢作川になって岡崎へと下って行く。

大橋


「秋葉山常夜燈」
橋を渡って間も無く右手に秋葉山の常夜灯が建っている。そばの解説板によると『秋葉山常夜燈、稲武町稲橋から津具村を経て静岡県の秋葉神社に通じる道は、秋葉街道と呼ばれ、お参りする人々が行きかった。この常夜燈は、稲橋村の名主で、造り酒屋の古橋家四代源六郎義陳が、明和五年(1768)に参詣者のために建立。なお隣の家は、街道の角にあったため、屋号は「角屋」と呼ばれていた。』とある。

秋葉山常夜灯


「役場前交差点」
この信号が役場前で国道257号線と街道との交差点である。右に行くと次の信号が平行してきた国道153号線と国道257号線の交差点。その先は設楽、新城方面。左に行くと岩村、恵那方面となる。

役場前交差点


「瑞龍寺」
この交差点を右に曲がり国道257号線を少し行くと稲武町信号交差点の手前左に瑞龍寺がある。山門のところにある寺の由緒によると、臨済宗妙心寺派で寛永二十一年建立、開山・・・とある。

瑞龍寺


「瑞龍寺のしだれ桜」
山門をくぐった所に愛知県指定天然記念物『瑞龍寺の枝垂れ桜』がある。寺が立てた解説板では『植樹:正保元年(1644)頃、樹齢:約350年、樹高:約8メートル、幹回り:約3.4メートル。』とあり、この桜は有名で以前に家内と一緒に花を見に来たことがある。

瑞龍寺の枝垂れ桜


「古橋懐古館」
街道に戻って、先の常夜灯の所から細道を行くと『古橋懐古館』に出る。ここの解説板によると『古橋懐古館は、西郷隆盛を始めとする幕末維新期の志士及び、本居宣長などの国学者を中心とした書画の一大コレクションを展示。他の美術館とは趣を異にして、幕末維新期という国の混迷期に挺身して新時代を切り拓いた先覚、先哲の遺墨の殿堂である。』とある。ここも以前に見学しているので今日はパスにした。

古橋懐古館


「どんぐりの湯」
国道に面して『道の駅、どんぐりの里いなぶ』があり、それに隣接して『どんぐりの湯』がある。
時間があればひと風呂浴びて行こうと思ったが、残念ながらそのゆとりは無かった。


どんぐりの湯





帰りは稲武から15時45分発の稲武バスを利用して足助へ。足助からは名鉄バスで東岡崎へ。東岡崎からは名鉄、JRに乗り継いで、19時過ぎには自宅へと戻った。

今日のニュースは「安倍内閣が発足」、「論功型濃い保守色、官邸主導へ側近重用」。

名古屋から稲武までの飯田街道を5回に分けて歩いてきた。しかし、これから先の飯田までは、交通の便が極端に悪くなり、今までの調子では歩けなくなる。どうすれば良いのか、良い考えが纏まるまでは、しばらく中断となりそう。



今日歩いた記録
残念ながら、今回は歩数計の電池が切れて計測不能。

ページ公開 平成18年10月11日
ページ改良 平成23年5月1日




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