中山道ウォーク その16



平成15年5月10日(土)     武佐から草津まで



3月28日に第66宿の武佐宿まで歩いて、中山道67次も残すところ守山宿1宿のみとなった。完歩、達成まで手が届く所まで来ているのに、4月には我家に重大祝儀があって止む無くしばらく足踏み状態。以来辛抱する事凡そ1ヶ月半、何とかそれも落着いて、今日は道中双六草津の上りへ、最後の駒を進める記念すべきウォークである。

先回の近江路は桜の開花が待たれるところであったが、今では新緑に変わり、一面の水田では忙しそうに田植えが行われている。





5月10日(土)


今朝も家内にJR二川駅まで送ってもらって出発する。前回より30分早い二川発7時05分の電車で豊橋へ。豊橋で乗換え7時20分発特別快速米原行きに乗車する。米原着9時18分。さらに米原で9時26分発姫路行き新快速に乗換え近江八幡へ。近江八幡着9時44分。近江八幡からは近江鉄道で1駅目の武佐まで行くのだが、次は10時09分発八日市行き。仕方なくそれを待って武佐へ。10時13分武佐着。無人の駅で装備スタイルを整え、カメラの準備をし、草津を目指して出発する。今日の気温は平年よりやや低め、風も無く歩くのには最適の条件である。

今朝のニュースは昨夜のプロ野球阪神横浜戦。阪神の浜中、片岡、アリアスが3連続アーチ。85年のバース、
掛布、岡田以来の快挙。今年はひょっとして阪神が優勝するかも???






武佐から守山へ

「若宮神社」
武佐の駅のところが曲尺手になっていて、踏切を渡って宿を出る。西宿町の静かな直線道路。間も無く右手奥に若宮神社。

若宮神社

「伊庭貞剛翁生誕の地」
神社入口左の空き地に大きなクスノキがあり、その脇に生誕の地の看板と邸跡の看板とがある。翁は住友中興の祖として称えられている。

伊庭貞剛翁生誕の地

「住蓮坊古墳」
程無く右から来る国道8号線に合流、左に折れて国道を行く。六枚橋交差点で左折し、すぐに右折する。左手田圃の中に住蓮坊の墓と言われる古墳がある。住蓮坊とは鎌倉時代の浄土宗の僧、法然と共に罪に問われこの地で処刑された。古墳とは時代が違う。

住蓮坊古墳

「八幡社・高札所跡」
国道と合流してしばらく進むと馬淵町、右手に八幡社の鳥居がありその左に真新しい石柱に高札所跡と印されている。

八幡社・高札所跡

「日野川舟渡し跡」
東横関の集落を抜けると日野川右岸の堤防に出る。ここに最近作られたような自然石を積んだ常夜灯と廣重の「中山道六十九次の内・武佐」の解説板がある。廣重が描いた日野川の船渡しの様子が説明されている。

日野川舟渡し跡

「日野川横関橋」
今は渡しが無いので上流にある国道の横関橋まで行き、渡ってから再び土手を歩いて旧道に戻る。土手際にハリエンジュ(ニセアカシア)の白い花が咲き、その花を求めて大きな蜂が来ている。土手下の畑からお爺さん?が「歩いてはんのか〜、気〜付けていきや〜」と声を掛けてくれる。とっても嬉しい。

日野川横関橋

「若宮神社」
土手から旧道に下りると竜王町西横関。すぐ右手に若宮神社。神社の大きな石柱の村社と彫られてあったであろうところが黒々とセメントで埋められているのが痛々しい。

若宮神社

「鏡の宿旅籠亀屋跡」
国道に出て善光寺川を渡り、左に入ると鏡の集落。国道に戻ると間の宿の鏡宿。左手に旅籠亀屋の跡。平成3年に鏡の里保存会が多くの標識を立てて呉れているので有り難い。

鏡の宿旅籠亀屋跡

「源義経宿泊の館跡」
国道の右手には館跡の大きな石柱。昔牛若丸が金売吉次と奥州へ下る途中、ここの烏帽子屋五郎大夫宅に泊った。その夜館に強盗が入ったが牛若丸が退治したと伝わっている。

源義経宿泊の館跡

「鏡の宿本陣跡」
同じく国道の右手に本陣跡。

鏡の宿本陣跡

「鏡の宿脇本陣跡」
戻って国道の左手に脇本陣跡。

鏡の宿脇本陣跡

「鏡神社」
その先右手、山裾に赤い鳥居の鏡神社。祭神は新羅の王子、天日槍命(あめのひほこのみこと)で須恵器の技術集団などを連れて渡来しこの地で没した。近くに須恵器の鏡山古窯跡群があり、信楽との関係に注目されている。

鏡神社

「義経元服の池」
国道の右手、山裾に小さな池と大きな碑がある。牛若丸がここで元服し、追手の目をかわしたと言われている。

義経元服の池

「古い造りの家」
池を過ぎたところで国道から左に入る。左の山裾に明治天皇聖跡の碑が立っている。ヤマフジが紫色の花房をつけており、鶯の声も聞こえる。右手の民家、1階は格子造り、2階は塗篭壁で屋根には煙出しがある。妻の所には家紋があって今の住宅には無い日本建築の良さがあり、このような家を見つけると嬉しくなってくる。

古い造りの家

「篠原堤と西池」
国道に戻りしばらく進む。左手に村田製作所の広い敷地と大きな池、雲雀がのどかに囀っている。大篠原で国道から右に入り立場跡を通り国道に戻る。左手に篠原堤が続き土手の向こうは大きな西池が満々と水を湛えている。

篠原堤と西池

「愛宕山常夜灯」
小堤で国道から右に入ると、右手土手の上に愛宕山碑と常夜灯が2基立っている。その向こうは家棟川。

愛宕山常夜灯

「家棟隧道」
道を進むと石積みアーチのトンネルがある。正面に家棟隧道とあり、これは川をくぐるトンネルなのだ。天井川にでくわし近江路を歩いている事を実感する。

家棟隧道

「篠原神社」
家棟川のトンネルを抜けた右手茂みの中に篠原神社がある。

篠原神社

「民家の長屋門」
右手に大きな長屋門の家がある。

民家の長屋門

「子安地蔵堂」
大きな交差点があり左に行くと銅鐸博物館。ここ野洲町は銅鐸がたくさん出たところ。直進すると右手に子安地蔵堂、境内には小さなお地蔵さんが赤い前掛けをして並んでいる。

子安地蔵堂

「円山古墳」
右手の新幹線が近付いてきた所、左手に桜生史跡公園があり小さな資料館がある。その先には円山古墳と甲山古墳がある。この辺りには多くの古墳があり、何れも後期古墳である。

丸山古墳

「家型石棺」
円山古墳の横穴式石室は鉄の格子扉越しに見学出来る。近付くと自動的に中の灯りがともり解説の声が流れるようになっている。石室には家型石棺がある。

家型石棺

「本藍染めの紺九」
小篠原の集落に入ると右手に白い塀の家があり、敷地に大きなか瓶が3個伏せられている。敷地内に立てられた解説板によると『紺九』と呼ばれる滋賀県唯一の本藍染めの店。

本藍染の紺九

「稲荷神社」
左手には稲荷神社、入口の左右には御神燈が下がり、横の看板には御遷座300年祭奉納獅子舞が明日の昼に行われるとある。

稲荷神社

「白壁土蔵のある旧家」
左手には白壁土蔵に門構えの屋敷、庭木の緑が鮮やかで絵になる風景。

白壁土蔵のある旧家

「藁葺き屋根の造り酒屋」
右手には藁葺き屋根が美しい造り酒屋がある。木の表札には暁酒造(有)とある。

藁葺き屋根の造り酒屋

「城のような門構えの家」
その先新幹線際に、石積みの上に白壁の門。どう見てもお城のような門構えの家がある。どのような由緒を持った家なのだろうか。

城のような門構えの家

「野洲宿碑」
新幹線をくぐり、左斜め先に進むと大きな交差点に出る。右手向いに野洲小学校がありその前に中山道野洲の常夜灯型モニュメントがある。

野洲宿碑

「背くらべ地蔵」
街を斜めに進み次の交差点の左に背くらべ地蔵。立派な屋根が懸けられ、後には由来などを書いたレリーフがある。それには野洲町指定文化財背くらべ地蔵(阿弥陀如来立像)とある。

背くらべ地蔵

「行事神社」
その先に石の鳥居のある行事神社。ここにも安土町の奥石神社にあったのとよく似た珍しい注連縄が下がっている。

行事神社

「蓮照寺にある道標」
交差点を渡った先、右手に蓮照寺があり、門を入ったところに中山道の道標がある。これは先ほどの交差点が朝鮮人街道の追分で、ここにあったものが移され保管されている。享保4年(1719)の建立。

蓮照寺にある道標

「十輪院」
JR東海道本線をくぐると右手に十輪院のお堂があり、左手お堂の向いには多くの石地蔵が並んでいる。

十輪院

「野洲川橋」
左から来た道と合流して野洲川を野洲橋で渡る。右手には綺麗な弧を描いた水道橋が並行して渡っている。この川は滋賀県最大の川で昔は水量が少ない時は仮橋で渡り、多いときには舟渡しであったと言う。長い橋ではあるが左側に歩道が確保されているので安心して渡ることが出来る。

野洲川橋




     守山


中山道第六十七宿 守山宿


     所在地 滋賀県守山市
     最寄駅 JR東海道本線守山駅
     本陣2、脇本陣1、旅籠30、総人口1,700、家数415
     草津へ 1里半(5.9q)


「馬路石辺神社」
野洲川橋を渡ってしばらくすると右手に背の高い神社の石柱がある。変わった名前、でも式内とあるので古いもの。どのような由緒の神社なのか?

馬路石辺神社

「益須寺跡」
吉見小学校南交差点手前左に益須寺跡の解説板がある。日本書紀持統天皇7年(692)11月の条に記載があり、昭和42年からの発掘調査で7世紀後半の瓦が多量に出土したとある。

益須寺跡

「中山道高札場跡・稲妻型道路解説板」
吉見1丁目、道路が曲尺手のようになったところに『中山道』の標識と、『高札場跡と稲妻型道路』の解説板がある。稲妻型道路とは先の御嵩の宿で『かくれ場』と称して隣の家との軒並みが2〜3尺ほど食い違いを持たせたものがあったが、それと同じで見通しをきかなくし、非常の時に身を隠す事が出来るように考えられている。

旧中山道高札場跡・稲妻型道路解説板

「稲妻型道路」
ここ吉見町には古い家並が残っている。ブロック塀があって少し判りにくいが家の前面が少しずつ食い違っている。これが稲妻型道路。

稲妻型道路

「帆柱観世音・慈眼寺道標」
道標が左手に立つ。左奥には寺がある。昔伝教大師が入唐し帰朝する時、風難に遭い舟の帆柱が折れた。大師が十一面観世音を念じ、難を逃れ無事帰朝。その帆柱で像を刻んでここに祀ったと言われる。昔は大伽藍であったが信長の焼討ちに遭い本尊を残して焼失、村人が堂を建てて祀ったもので今も航海安全を祈る人が多いと言う。

帆柱観世音・慈眼寺道標

「高谷郷新善光寺道道標」
左手小児科医の前に道標と解説板。新善光寺を経て東海道石部宿への道。『すぐいしべ道』のすぐは真っ直ぐのこと。

高谷郷新善光寺道道標

「造り酒屋宇野本家」
左手にある造り酒屋が宇野本家、元宇野首相の生家。街道らしい雰囲気を持っている。この守山宿には東町に宇野家本陣、西町に小宮山家本陣が有ったと言うが、この宇野本家との関係はどうなっているのだろうか?

造り酒屋宇野本家

「入口の酒林と台灯篭」
入口に下がった酒林と、中山道守山宿、宇野本家と書かれた台灯篭が如何にも宿場らしい。

入口の酒林と台灯篭

「八幡宮」
右手に石の鳥居の天満宮。入口の左手に、ここにも『稲妻型屋敷割の道』の解説板が立っている。

八幡宮

「甲屋之跡」
左手小ぶりな格子造りの家の前に『甲屋之跡』の石柱と『謡曲「望月」と甲屋』の説明板がある。ここは旅籠で謡曲「望月」の舞台となったところ。元信濃の武士であった旅籠の主の所へ旧主の妻子が宿を求めてきた。そこへ偶然かたきの望月が泊り合わせたので、妻子に助勢して仇を討たせて恩返しをしたという。ここが本陣の跡と記したガイドブックもある。

甲屋之跡

「蝋燭屋」
西隣が蝋燭屋さん。古い蝋燭の看板が下がっている事で有名なのだが、今日は下がっていない。

蝋燭屋

「井戸跡」
さらに西隣に井戸と『守山宿井戸跡』の解説板がある。今は石の蓋が置かれているが宿場の防火井戸として活躍したもの。

井戸跡

「錦織寺道標」
やがて三叉路になる。その右角に道標があり『右中山道并美濃路』、『左錦織寺四十五町このはまみち』と彫ってある。延享元年(1744)建立。街道は道なりに左に曲がる。

錦織寺道標

「東門院」
右手赤い幟が立っていて仁王門の見えるのが東門院。伝教大師最澄が延暦13年(794)に比叡山延暦寺の東門の寺院として創建した守山寺。江戸時代には朝鮮通信使の宿所になった。

東門院

「土橋」
次の交差点で守山銀座商店街と交わる。左へ行くとJR東海道本線守山駅。交差点を渡って直進、道がややカーブする所に橋がある。土橋と言いこれから先が加宿の今宿。昔は幅20間屋形船が通行し両岸には旅籠や茶屋が建ち並び、廣重の『木曽街道六拾九次之内守山』はこの橋からの眺めと言う。

土橋

「樹下神社」
橋を渡った右手に樹下神社があり、入口に土橋の由来を書いた石柱が立っている。『昔のどばしの橋全長二十間巾二間・・・』
樹下神社

「古い造りの家」
今宿には落着いた家並が残っている。階下は格子造り、2階は塗篭めで白い壁が印象的。

古い造りの家

「街道らしい家並」
このような家が土蔵を交えて街道筋に軒を連ねている。何時までも残しておきたい風景である。

街道らしい家並





守山から草津へ


「今宿一里塚」
左手にこんもりとした塚が有ってエノキの大木があるのが今宿の一里塚。左の塚しか残っていないが滋賀県唯一のもので、中山道に129箇所あった一里塚のうちの128番目。ゴールが近くなってきた。

今宿一里塚

「住蓮坊母公墓」
武佐を出たところに古墳のあった住蓮坊、その母の墓。

住蓮坊母公墓

「十王寺」
右手のお寺が五道山十王寺、門前に『閻魔法王小野篁御作』の石柱。この辺りの地名が閻魔堂、昔は閻魔堂村。境内に地名の起こりとなった閻魔堂(十王堂)がある。

十王寺

「諏訪神社」
左手にあるのが諏訪神社。神社の境内の隅、街道沿いに領界石がある。

「領界石」
領界石には『従是南淀領』とあり、今宿村と閻魔堂村の境界に立っていた。閻魔堂村が山城淀藩の領地であった。

領界石

「大宝神社」
南西に向かう直線の道をひたすら歩く。やがて守山市から栗東町に入ると、左手に大宝神社。大宝年間(701〜704)の創建で、祭神は素戔鳴命、この辺りの産土神。境内に芭蕉の句碑と真新しい由来の石板がある。

大宝神社

「芭蕉句碑」
       へそむらのまだ麦青し春のくれ     はせを
この辺りの地名を綣(へそ)と言う。腹にあるへそではなく、糸巻、糸を丸めると言う意味。

芭蕉句碑

JR線路際を行く」
草津市に入って葉山川を渡ると左手にJRの線路。旧道は線路で消滅しているとか。しばらく線路際を行き、階段で陸橋に上り、線路を越したら、再び階段で下りる。

JR線路際を行く





     草津


    中山道上り 草津宿


     所在地 滋賀県草津市
     最寄駅 JR東海道本線草津駅
     本陣2、脇本陣2、旅籠72、総人口2,351、家数586
     江戸より 119里18町1間(466.8q)


「伊砂砂神社」
線路を跨いで再び旧道に戻る。静かな住宅街と言ったところ。左手にあるのが伊砂砂神社でこの辺り渋川の産土神。本殿は重要文化財、昔は渋川大将軍社と言ったが明治2年に祭神5神の内の石長比売命、寒川比古命、寒川比売命の3神の頭文字をとって『いささ』神社と改められた。

伊砂砂神社

「アーケード街の始まり」
駅前通りのサンサン通りと交差する大路1丁目の交差点、この辺りに中山道最後の一里塚があったと言うが、今は何の痕跡も無い。この交差点から先はアーケード街となる。

アーケード街の始まり

「くさつ駅前市場」
中山道はアーケードの中を進む。この辺りは草津駅前市場、お店からは活気にあふれた声が聞こえてくる。

くさつ駅前市場

「明治期の道標」
次の交差点を左に折れた先、左手に覚善寺。その門前に大きな道標がある。『右東海道、左中仙道』。明治19年(1886)に立てられたもので、この年に天井川である草津川にトンネルが掘られ、ここが東海道との追分になった。

明治期の道標

「草津川のトンネル」
アーケードが切れたところに白いトンネルが見える。これが草津川の下に掘られたトンネル『草津川隧道』で地元では『まんぽ』と呼んでいる。買い物の人や自転車の中高生で結構交通量が多い。

草津川のトンネル

「東海道追分の道標」
草津川の下をまんぽで抜けるといよいよゴールの追分である。左に見覚えのある常夜灯を兼ねた大きな道標が、右手には復元された高札場ある。

東海道追分の道標

「道標と草津川」
やった〜!今時刻は平成15年5月10日午後4時15分、ついに中山道67次を完歩した。
平成13年6月26日午前5時30分、日本橋をスタートしてから歩くこと16回、10泊26日を要した 119里18町1間(466.8q)の旅であった。

道標と草津川

「草津宿本陣」
東海道を歩いてここに来たのが平成11年11月6日。その日はこの先の大津で泊り翌7日に三条大橋で感激のゴールをしている。その日の思い出がつい先日のように蘇ってくる。

草津宿本陣

「本陣玄関」
前回は秋で本陣の玄関前に菊の花がいっぱい飾られていたが、今日は春でつつじの花が満開である。

本陣玄関

「追分で記念撮影」
ここへ来た証にと、まんぽから出てきたお兄さんにカメラのシャッターを押して貰う。「歩いて来られたんですか〜、いい記念ですね〜」と言って快く引き受けてくれた。お兄さんありがとう。

追分で記念撮影

「草津名物うばがもちや」
一部の区間を一緒に歩いたり、送り迎えなど、この旅に協力してくれた家内に、感謝の意を込めて草津名物うばがもちやでお土産を買う。

草津名物うばがもちや





帰りはJR東海道本線草津発16時57分の米原行きに乗車。17時44分米原着。ここで17時57分発新快速豊橋
行きに乗り換える。次は始発から終着までの気楽な電車の旅、ホームで買った缶ビールとおつまみで、ささや
かながら中山道完歩の祝杯を上げる。乾いた喉をビールがク〜と通って行く。達成感、満足感を味わいながら
のビールは、誰にも味わう事が出来ないオンリーワンの味、実に美味い。19時56分豊橋着。20時07分豊橋発
の浜松行きに乗換え、20時12分二川着。家内の車でのお迎えで家路につく。今頃ビールが効いてきたのか睡
魔が襲ってきた。



     39,122歩         日本橋からの累計は1,017,857歩
     武佐から草津      19.6q、   日本橋から 466.8q


ページ公開 平成15年5月26日
ページ改良 平成22年11月8日
 写真追加 平成23年4月29日


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