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佐屋街道独歩記
さやかいどうひとりあるき
佐屋街道ウォーク その1
平成18年1月8日(日) <その1>
10月16日に伊勢神宮の外宮から内宮までを歩いて伊勢参宮街道を完歩した。その後は色々な行事に追われて日を過ごし、そして年が暮れ、新しい年が明けた。次は何処を歩こうか? 道中行き帰りの事などを考えなくても気軽に行ける所を、先ずは今年の歩き初めとして、しっかりとした取り組みはその後に回すことにした。その手始めは佐屋街道。
家内に駅まで送ってもらって、久し振りの街道歩き。JR東海道本線の電車、豊橋8時37分の新快速で金山まで。9時24分に金山着。駅前のホテルグランコート名古屋の前を通り、国道19号線金山新橋交差点へ。ここが美濃路と佐屋街道の追分で、ここを今日のスタート地点とした。
佐屋街道とは
佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三大将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められ、寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。この街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。永年にわたり日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5年(1872)の熱田と前ヶ須新田(現:弥富町)を結ぶ新道の開通によりその役目を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。(中川福祉会館前の解説板より)
金山の追分から岩塚宿へ
「国道19号線金山新橋交差点」
金山駅で降り、南口を出て、高層のホテルの前を行くと、その正面が国道19号線金山新橋交差点。この19号線が美濃路でここから正面、西へと延びるのが佐屋街道である。宮の宿の伝馬町にある道標から東海道と別れ、熱田神宮の西を通ってここまでは、美濃路と重複しているので、今回はここをスタート地点とする。
「佐屋街道道標」
交差点の南西角、マンションの1階にあるコンビニの前の歩道に道標が立っている。これが美濃路と佐屋街道との追分である。
「佐屋街道道標解説板」
道標のそばにこの道標の解説板がある。
『佐屋街道は、江戸時代初期、東海道の脇街道として開かれたもので、海路の「七里の渡し」を避けた道である。道標は文化4年(1821)佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通りから尾頭橋へ抜ける佐屋街道への分岐点にあたるこの地に建てたものである。戦災に遭い破損したが、その後修理された。道標には
「東 右 なごや 木曽 海道」
「西 右 宮海道 左 なこや道」
「南 左 佐屋海道 津しま道」
「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」
と刻まれている。』
「歩道に埋められた佐屋街道のタイル」
交差点から左側の歩道を少し行った所に佐屋街道のタイルが埋め込まれている。40〜50cm角で真ん中に街道が通り左右に松並木が描かれている。
「尾頭橋」
間も無く背の高い住宅群を背景に尾頭橋が見える。これは堀川に架かる橋。
「堀川」
下を流れる堀川は名古屋城築城のために作られた運河で、城の西の龍の口から広井・日置・古渡と下って熱田の西で海に注いでいた。時代が下がると両岸には藩の米倉や商家の納屋が並び、河口には船蔵・白鳥貯木場や材木奉行所などが置かれた。堀川には上から五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋・尾頭橋の七橋が架けられ、現在では製材や木工など木材関係の会社が並び、川面には筏が浮んでいる。
金山駅からここまでの右側の歩道は、西に向かって絶え間なく人が行く。みんな共通の雰囲気。橋を渡ったら交通整理の人が居て、みんな右に曲がって行く。何かと思ったらこの先にJRAのウインズ名古屋があるのだ。
「江川線尾頭橋交差点の案内標識」
次の大きな交差点は江川線の尾頭橋交差点。案内標識には直進・津島とある。
「尾頭橋商店街」
交差点を渡ると頭上に鉄のアーチがあって『尾頭橋』の文字。このあたりは商店街になっている。
水が撒かれた跡は、今朝の冷え込みで凍っていて、寒々としている。
「東海道新幹線をくぐる」
正面に新幹線のガード、その上をグレーっぽい色の500系が通り過ぎて行った。余韻の残るガードをくぐる。
「唯然寺」
もう少し待って新幹線の通っている写真を撮れば良かった反省。この辺りに唯然寺と一里塚碑があるはずなのに、行っても、行っても見当たらない。お寺なら見落とす訳はないと高を括っていたのだが、不安になって道に出ている婦人に聞いたら、新幹線をくぐってすぐ右だと言う。慌てて戻った。街道には面しているが規模は小さく門が少し奥まっている。先に反省して、振り返って新幹線を見ているうちに通り越してしまったのだ。
「津島街道一里塚碑」
このお寺の境内、街道からは鉄のフェンスの向こう、植木の間に石碑が見える。この一里塚は五女子の一里塚と言われている。自分が見落としたから言うわけではないが、これは余程注意をしないと見落としてしまう。
「佐屋街道碑」
一度歩いた道を再び西へ、五女子を過ぎ二女子を過ぎる。この珍しい地名の由来は『昔、古渡村の裕福な家に7人の娘がいて、近在の村々に嫁ぎ、それぞれが多くの子を産み子孫繁栄したという。そこで一女子から七女子までの地名となった。』 今、残っているのは二女子と四女子と五女子である。八幡本通りの左手に中川福祉会館があり、その前に碑と解説板がある。碑には『佐屋街道』と刻まれている。
「佐屋街道解説板」
碑の隣に解説板があり、日本語と英語の解説、街道の地図、この付近の碑や旧跡の地図、昔の分間絵図が掲げられている。非常に丁寧な解説で、このようなのが随所に有ればよいのにと思う。
「明治天皇御駐蹕之所碑」
この先同じ左側、中川運河のすぐ手前にこの碑が立っている。『駐蹕』は辞典で調べると「ちゅうひつ」と読み、「天子が行幸の途中で、一時その地にとどまること」とあった。明治元年(1868)12月に東京から京都へ還幸される際にここで小休止された場所である。
「中川運河長良橋」
中川運河の長良橋を渡るが、只今この橋、架け替え工事中。左の仮橋を渡る。
「工事中の橋から名駅方面」
仮橋を渡りながら右手を見ると、名古屋駅の白いツインタワーと工事中の黒いトヨタのビルが遥か向こうに見えた。
「萬念寺」
長良橋を渡り、名古屋環状線と交差する長良町3丁目の交差点、渡った左に万念寺がある。浄土真宗大谷派のお寺。
「二階建ての長屋」
このあたり長良町、右手に二階建ての長屋が連なっている。それ程古いものではないが、何となく街道らしくなってきた。
「明治天皇御駐輦之所碑」
左手にある郵便局と駐在所を過ぎた左手奥に広場があり、この碑と後にクスノキの古木が立っている。ここは『駐輦』とあり、辞典で調べると「ちゅうれん」と読み、「天子が車をとめる。天子がご滞在になる」とあった。この碑の背面には『明治二年三月車駕東幸ノ・・・此所ニ御小休シ・・・』と刻まれていた。明治2年(1869)3月、東幸(2回目)される際にここで小休止している。
先の碑とこことが余りに近いので、寒い時期ゆえ、あっちでおしっこ、こっちでもおしっこ、をして行ったのかと思ったら、1年ずれていた。
「JRと近鉄の下をくぐる」
先へ進むと松葉町交差点。その向こうに鉄道の高架橋が見える。手前が第三セクターのあおなみ線、続いてJR関西本線、そして近鉄名古屋本線が通っている。これをくぐったすぐ右が近鉄烏森駅、駅の高架工事中でほぼ出来上がりの状態。
「二本松あたり」
高架を過ぎた辺りから先は松並木があった所。この辺りは二本松があったらしい。今は右手のマンションの角に二本の松が植えられている。
「八幡社」
街道の右手、石の鳥居の手前に、高い台座に乗った常夜燈があるのが八幡社。境内に安政元年(1854)建立、上に常夜燈が乗った柳街道道標があったのだが、中までは見ず通り過ぎてしまった。それには「左なごや道」と彫られていると言う。
「古い建て方のお茶屋さん」
その先左手にお茶屋さんがあり、シャッターが閉まってお休みのようだが、この建物はちょっと古そう。
「古い町屋」
更にその先、左側にも古い大きな町屋がある。ツシ二階で壁は土壁、街道の面影が残る。
「柳街道」
右手にある烏森郵便局のある丁字路が柳街道の追分とか。柳街道は佐屋海道の烏森から、米野村、牧野村を経て、祢宜町(中村区)に通う道筋で、ご城下から佐屋街道への近道だった。道筋に柳が植えられていたので柳街道と呼ばれた。
「並木」
烏森から岩塚に至るこの辺りには松並木が続いていた。今は並木と言う地名になって残っており、電柱に取り付けられた広告看板の下にはっきりとその文字が見える。並木町と言うバス停もある。左が並木で右が岩塚町。左手一帯に三菱重工が広がる。左の三菱、右の岩塚小、この辺りに一里塚が有ったはずだが、何処を見てもその印が無い。
岩塚宿
「格子造りの町屋」
岩塚石橋と言う名の信号交差点やバス停がある。この石橋が昔の宿場への入口だった。右手には古そうな格子造りの家がある。
この岩塚宿は佐屋街道初めての宿場。本陣1、問屋場1、旅籠7、人口1,038人、家数212軒、町内4町9間、万場へ18町。岩塚と万場とで一宿とされ、月の前半は万場宿、後半は岩塚宿が交代でつとめていた。
「光明寺」
左手にモダンな鐘楼を兼ねた山門がある。曹洞宗見陽山光明寺。ここの本尊は行基作の地蔵菩薩。
「八幡社」
光明寺と隣り合わせに八幡社。ここの社殿は茅葺で一寸珍しい。
「本陣跡」
神社の向かい側、宿場の道の右手、この辺りに岩塚宿の本陣があった。でも、今はその印も無い。
「三十三観音」
光明寺の山門の先には三十三観音の祠や、幕末の学者篠田政忠の頌徳碑、板碑や石仏などがある。
「茅葺屋根の名残を示すトタン屋根」
その先左手には黒いトタン葺きの家、昔は茅葺の家だったと思われる。
「万場の渡し跡」
宿場の道は庄内川の堤防に突き当たった。ここまでは金山の追分から一本道、何ら迷うことなく安心して歩いてこられた。右は高札場、左は川高札があった所。堤防に上って眺めると、川幅は広く、手前は畑になっているが、何とも汚い。愛・地球博やセントレアなど綺麗なイメージを宣伝しているのに、河川敷がこれでは幻滅である。右手には名古屋高速5号万場線が乗った二階建ての万場大橋が見える。
「万場大橋」
万場大橋の歩道をテクテクと歩く。昔の旅人はこの下流およそ100〜150メートルのところを渡しで渡った。
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