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佐屋街道独歩記

さやかいどうひとりあるき



佐屋街道ウォーク その1

平成18年1月8日(日)<その2> 



万場宿

「万場宿跡解説板」
橋を渡り終えたら直ぐに左へ折れる。県営住宅を右に見て下流へと進むと土手の所に鳥居、祠や常夜燈が2基、万場宿跡の解説板などがある。解説板には『万場宿は、佐屋街道「万場ノ渡」をはさみ、岩塚宿(中村区)と向かいあって、寛永11年(1634)御伝馬所に指定され宿場が置かれた。この両宿場は近距離にあったため、制度上は一宿と見なされ、月の上半月を万場宿が、下半月を岩塚宿が交代で人馬継立の役務を行った。明治5年(1872)御伝馬所は廃止された。』とある。
万場宿は本陣1、問屋場1、旅篭10、人口672人、家数160軒、町内6町10間、神守へ1里半9町。

万場宿跡解説板


「秋葉神社」
神社と言っても小さな祠、その前に拝殿があり、鳥居がある。左右に常夜燈なども。先の解説板の続きには『なお、この秋葉神社は以前、百mほど南の万場宿の東端にあり、その下に渡し場もあった。』 左の石の常夜燈は宿に有ったもので天保13年(1842)、右の木の火袋が乗ったものは万場ノ渡しの秋葉山常夜燈で安永6年(1777)の年号がある。側には明治13年に架橋された欄干石、銘は明治31年となっている。

秋葉神社


「宿場の面影を残す家」
一筋目を狙って堤防下へと下りる。街道は西へと延びる。左手には時代を感じさせる町屋が並ぶ。玉石で積んだ土台に背の低い二階、黒板壁。日影になった道端には雪の塊が残っている。

宿場の面影を残す家


「題目碑」
右手には小さな祠と題目碑が並んでいる。

題目碑


「ち丶の観音覚王院」
右手に背の高い石柱に『ち丶の観音医王山覚王院』、側に『奉納・千手観音菩薩』の赤い幟がはためいている。ここの観音様のお告げで、境内にある乳の木の実を食べたら、乳の出が良くなったと言う言い伝えがある。乳の木の正体は何か?

ちヽの観音覚王院


「国玉神社・八剣社」
覚王院の先が国玉神社。ここには八剣社が合祀されている。

国玉神社・八剣社


「国玉神社・八剣社相殿解説板」
ここの解説板によると『創建は古く「尾張誌」によれば、尾張大国霊神社(稲沢市国府宮)より勧請したという。「延喜式神名帳」に国玉神社、「本国神名帳」には従二位国玉名神と記載されている式内社である。明治元年を合祀・・・、祭神は大物主大神、天照大御神、草薙剣御霊、日本武尊。・・・当社の前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた。』とある。

国玉神社・八剣社相殿解説板


「でっかい石灯籠」
その神社の角を右に曲がると、左手にでっかい石灯籠が目に入ってきた。何だ?こりゃ? 傘になる石が大き過ぎて火袋が押し潰されそう。

でっかい灯籠


「光園寺」
その石灯籠の有るのが真宗大谷派の光園寺、立派な門に『臥龍山』の額が掛かっている。この山門は織田信長と斉藤道三が会見した富田村聖徳寺(尾西市)の山門を移築したものとか。

光園寺





万場宿から七宝へ

「名古屋高速万場線をくぐる」
光園寺を過ぎると街道は北西方向に斜めに進む。万場の信号交差点で二階建てになった道をくぐる。頭上を走るのが名古屋高速5号万場線。交差点を渡っている間、頭の上を押さえつけられるような感じがした。

名古屋高速万場線をくぐる


「浅間神社」
交差点を渡って更に北西へと進むと、右手に浅間神社がある。この神社を過ぎると名古屋市中川区から海部郡大治町に入る。

浅間神社


「新川の砂小橋を渡る」
神社を過ぎ、左、右に曲がって川沿いを北に進むと橋に出る。この川は新川で、庄内川の洪水を防ぐため、放水路として作られたもの。この工事は天明4年(1784)から着手され天明7年に完成している。橋は砂子橋、只今架け替え工事中。脇に作られた歩道で川を渡る。

新川の砂子橋を渡る


「新旧取り混ぜた住宅地を行く」
新川を渡ると古い家や新しい家が混在した住宅地を西へと進む。

新旧取り混ぜた住宅地を行く


「十二所神社鳥居」
やがて右手に『村社十二所神社』の石柱と常夜燈が1対、石の鳥居があり、参道が先へと延びている。

十二所神社鳥居


「旧佐屋街道標識」
鳥居を過ぎると街道は右に曲がる。右手にある小さな畑の脇に『旧佐屋街道』の案内標識がたっていた。青空を背景に白い標識で、よく目に留まった。

旧佐屋街道標識


「玉泉寺」
左手には幼稚園とお寺がある。冨田山玉泉寺。

玉泉寺


「地蔵堂」
この先の十字路で街道は左に曲がる。十字路の北東角に地蔵堂がある。そんなに大きくないお堂だが屋根が立派で、入母屋の屋根に飾りの瓦がいっぱい乗っている

地蔵堂


「旧佐屋街道高札場跡」
十字路の北西角には、住宅のブロックの門柱とカーブミラーの柱の間に、隠れるように白い標柱が立っている。これには『高札場跡(旧佐屋街道)』とあった。

旧佐屋街道高札場跡


「自性院」
十字路を街道とは逆に、右に曲がると左手にお寺がある。石柱に『本尊薬師如来 自性院』とあり、奥に山門が見える。この先には十二所神社がある。

自性院


「常夜燈と題目碑」
十字路に戻って街道を西へと進む。右手ガレージの前に常夜灯と背丈ほどの題目碑がある。

常夜灯と題目碑


「地蔵堂」
右手に地蔵堂。先の程は立派ではないが、お地蔵さまがお堂で守られている。

地蔵堂


「稲荷社」
続いて右手に稲荷社が、ここの拝殿はまだ白木が新しい。

稲荷社


「旧佐屋街道標識」
再び『旧佐屋街道』の標識。これには『道標跡、従是馬嶋明眼院道、大治南小学校200M』の案内標識も一緒に取り付けられている。

旧佐屋街道標識


「東名阪自動車道をくぐる」
今度は稲家の信号で東名阪自動車道をくぐる。上の東名阪、左に行くと名古屋西JCT、先にくぐった名古屋高速と合流し、東名阪は桑名から亀山へ、名古屋高速は千音寺から名古屋の都心へと繋がる。右に行くと甚目寺、清洲方面。昼が過ぎたのにこの辺りには食事の出来そうな所が全く無い。とにかく我慢、我慢で歩くしかない。

東名阪自動車道をくぐる


「七所神社」
左に七所神社。この辺りに千音寺の一里塚跡があるはず。キョロキョロしながら歩くも発見できず。
しかし、この辺りには塚と言う字のついた地名が多い。東尼ヶ塚、西尼ヶ塚、西尾ヶ塚など。

七所神社


「八剣社」
右に八剣社がある。この辺り八剣社が多い。
やたらに多いので気になって調べてみた。これは熱田神宮の別宮の八剣宮、を勧請したものらしい。熱田神宮の別宮の八剣宮は熱田神宮の国道1号線側の南門の鳥居をくぐったすぐ左に鎮座し、神宮の説明では『元明天皇和銅元年(708)9月9日に勅命により神剣をつくり、境内に社を建てて、これをお納め祀ったことが御鎮座の創始である。 建築様式をはじめ、年間の祭典・神事に到るまで全て本宮に準じて執り行われ、古来より武家の信仰が殊に篤く、天正3年織田信長は長篠に出兵の際社殿の修造を命じ、又慶長4年家康は拝殿・回廊・築地の修造を、貞享3年将軍綱吉は本殿の造替を行った等の記録が残っている。』とある。この辺りは熱田神宮の影響が強かったものと考えられる。

八剣社


「秋竹橋」
東名阪をくぐって歩いてきた街道は県道117号西条中川線で、やがて西から南へと大きくカーブして、交通量の多い道に交差する。ここで左折して西へと向かう。すぐ先の西条交差点で、右からバス道である県道68号名古屋津島線とY字で合流する。ここから西の津島方面へと進む。間も無く福田川の秋竹橋を渡る。橋を渡ると海部郡七宝町に入る。一つ目の秋竹信号交差点の右手向こうに藤島神社が見える。

秋竹橋


「秋竹西橋」
続いて小切戸川の秋竹西橋を渡る。渡った所が七宝役場前バス停。役場はこの左およそ200mのところにある。このあたりから七宝町の中心部になる。

秋竹西橋


「黒塀門構えの家」
右手に黒板塀に門構えの大きな屋敷がある。今まで歩いてきて見ることが無かったもの。どんな家柄なのだろうかと興味が湧く。

黒塀門構えの家


「七宝焼原産地道標」
七宝役場北交差点の西北角に道標が立っている。『七宝焼原産地・寶村ノ内・遠島』、横の面に『従是六町』とあり『明治廿八年八月建之』

七宝焼原産地道標


「七宝焼原産地道標解説板」
道標の脇に立つ解説によると『七宝焼(尾張七宝)は、江戸時代末に服部村(現名古屋市中川区富田町)の梶常吉により創始され、七宝町の町名の由来ともなっている。七宝町においては、当時の遠島村の林庄五郎が、梶佐太郎より技法を伝授され、その後、遠島村を中心として広まった。この道標は明治28年に建てられたもので、碑の上部にローマ字でShippoyaki Toshimaとある。明治時代には、七宝焼は輸出の花形であったこと、外国人が直接買いつけに来ていたことなどから、このようなローマ字の道標が建てられたといえる』とあった。

七宝焼原産地道標解説板


「道標のローマ字」
道標上部のローマ字の部分。右横の面には指差しの図が刻まれている。
時間的にも、体力的にも余裕はあるが、次回が中途半端になるので、今日の街道歩きは早めに切り上げここまでとする。
遅くなった昼食を近くにあった食堂でとることにした。歩数計をリセットする。

道標のローマ字


「八幡社」
満腹になったところで、折角の機会、道標にあった七宝焼原産地を訪ねることにする。碑のある七宝役場北交差点より街道を右に折れ、北へと向かう。およそ600m、道の正面に八幡社がある。入口には『郷社八幡社』の石柱が立っている。

八幡社


「林庄五郎顕彰碑」
八幡社の右に沿う道を行き、社殿の横辺り、境内に食い込むようにして二つの大きな碑が並んで立っている。左に有るのが昭和37年建立の『林庄五郎顕彰碑』

林庄五郎顕彰碑


「七宝焼起源碑」
右に有るのが明治20年建立の『七宝焼起源碑』である。
七宝焼について七宝町の資料などから引用すると『七宝とは仏典にある七つの宝物「金・銀・瑠璃・しゃこ・瑪瑙・真珠・まいえ」のことで七宝焼の美しさが七種の貴品に似て絢爛で高貴である所からこの名がつけられている。七宝焼の創始は、服部村(中川区富田町)の梶常吉といわれている。常吉はオランダ人が持ってきた一枚の七宝焼の皿を得ていろいろと研究したが、その技法は容易に会得できなかった。よってこの皿を破砕分析し胴胎植線施釉の構成を知り、それに近い精巧な七宝焼を制作した。その技法が七宝町遠島の林庄五郎に受け継がれ、さらに塚本貝助・塚本儀三郎により、この地に七宝焼の基盤がつくられている。』

七宝焼起源費碑


更に調べてみると、この七つの宝物「金・銀・瑠璃・しゃこ・瑪瑙・真珠・まいえ」は法華経授記品にあるもので、無量寿経では「金、銀、瑠璃、玻璃、珊瑚、瑪瑙、しゃこ」となっている。瑠璃は石灰岩中に産する紺色の宝石、ガラスの古名のこと、玻璃は水晶、しゃこは二枚貝。まいえは中国産の赤い宝石だとか、でも良くは分からない。



帰りは七宝役場前から名鉄バスセンター行きのバスを利用する。暖かい車内でついうとうとと居眠りをして、気が付いたら笹島の交差点まで来ていた。名古屋駅まではわずかな時間で来た。
名古屋からはJR東海道線15時12分の新快速に乗車、浜松行きなので途中で乗り換えることもなく、予想していたより早めの帰着となった。

今日のニュースは「日本橋青空復活へ、2016年までに首都高移設、国交省計画案」。「『白い大壁』自衛隊出動、長野県・飯山市、長野7市町村に災害救助法適用」。

     今日歩いた記録
     26,668歩(佐屋街道正味21,246歩)
     15.98q (佐屋街道正味12.74q)
     1,140kcal(佐屋街道正味915kcal)

ページ公開 平成18年1月21日
ページ改良 平成23年5月1日


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