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佐屋街道独歩記

さやかいどうひとりあるき



佐屋街道ウォーク その2 

平成18年2月4日(土) <その1>



東海道の脇往還、佐屋街道を歩いている。今年の歩き初めとして1月8日に金山の追分から岩塚宿、万場宿を経て七宝焼き原産地碑のある七宝役場北交差点までを歩いた。今日はこの続きとなる神守宿、津島街道埋田追分を経て佐屋宿の「佐屋三里之渡趾碑」のある所までを歩く。この冬最大級の寒波が来ており、今朝、我家の屋外の水道蛇口が凍りついて水が出なかった。こんな事は近年には無い。帽子に手袋など防寒対策をばっちり決めての街道歩きである。

家内に駅まで送ってもらって、およそ一ヶ月振りの街道歩き。JR東海道本線、豊橋からは8時26分の特別快速で名古屋まで。名古屋の名鉄バスセンターから9時25分発の津島行きに乗車、七宝役場前まで行く。



七宝から神守宿へ


「七宝役場北交差点」
名鉄バスの七宝役場前で降りる。するとこの辺り西へ向かうリュック姿の人、人、人の群れ。ありゃりゃ! 自分が歩こうと思っているのと同じ方向である。この人達と同じコースを歩くなんて! 困ったな〜、と思っていたら、先回の終着点・七宝焼き原産地碑のある役場北交差点に「名鉄ハイキング」の看板が掛かり、赤い矢印が北を指している。良かった〜、彼らはここから北の八幡神社の方へと曲って行き、自分は一人となって西の神守宿へと向かうのだ。
ここで旅姿を改め、歩数計をリセットして「佐屋街道ウォークその2」の第一歩を踏み出す。

七宝役場北交差点


「東海ラジオ送信所」
西へと伸びるこの街道、今は県道68号名古屋津島線、バスが走りトラック、乗用車も頻繁に走る道で結構賑やか、回りには自動車ディーラーなどが並ぶ。安松の信号を過ぎると用水を渡る。そこには大きなアオサギが2羽とシラサギが4羽居て魚を狙っていた。やがて風景は田圃となり視界が広がり、右前方に背の高い鉄塔が見えてきた。

東海ラジオ送信所


「下田橋」
鉄塔が真横に見える辺りまで来ると『東海ラジオ送信所』の看板があり、やがて蟹江川に懸かる橋を渡る。この川に架かる県道の橋には『下田橋』の名がある。

下田橋


「弓掛橋」
左手の歩行者専用の橋には『弓掛橋』のプレートが付いている。同じ橋でも自動車用と歩行者用とで橋の名前が違う、これは一寸珍しい。
橋を渡った辺りに源義経が松に弓を掛けた場所、「源義経弓掛松跡」の石碑が有ると言うのだが・・・。うろうろ歩き回っても見当たらない。近くの人に尋ねても誰も知らないので諦めた。帰ってから更に詳しく調べたら左手の民家の裏庭にあるとの事だった。残念! でも仕方が無い。

弓掛橋


「津島市の標識」
七宝病院前を過ぎ『莪原』の信号を過ぎると津島市に入る。この莪原は難読地名で自分にも読めなかった。これも帰って調べてみたら(ばいばら)と読み、この草冠に我と書いて(が)は「きつねあざみ、つのよもぎの意味で、これは湿地に自生し若葉を食用とする」とあった。

津島市の標識




神守宿

「神守の一里塚遠望」
県勤労福祉会館口を過ぎ、神守町信号交差点で西尾張中央道と交差する。間も無く左手に『ようこそ津島へ、津島神社、天王川公園、まっすぐお進み下さい』の看板があり、右手先に大木が見える。これが神守の一里塚。
看板にある津島神社は、古くは津島牛頭天王社と云われ、疾病災難避け、授福の神。”牛頭天王信仰”の総本社で、全国各地に摂社・末社が有り、その数は三千社にのぼる。祭神は、建速須佐之男命、相殿には大穴牟遅命が祀られ、欽明天皇元年(1540年)の鎮座。織田、豊臣、徳川から崇敬を受け、江戸時代には、お伊勢参りの折に津島神社を参拝するのが慣わしとなり大いに賑わったと言う。
天王川公園は、江戸時代まで当時の町の中央を流れていた天王川が、市の西部に丸池として残り、一体が公園として整備され、5月には尾張津島藤まつりが行われ、7月には尾張津島天王まつりの舞台となるところである。

神守の一里塚遠望


「神守の一里塚」
神守町の信号を過ぎてすぐ右手、大きな石積みの上に玉垣がありその中に塚がある。右(北)側の塚だけが残り、最近に整備されたようだ。塚にはムクノキ?の大木が一本あり、表忠碑と一対の灯籠、解説板がある。塚の土台の右手に『神守の一里塚』の標柱が立っている。

神守の一里塚


「神守宿の解説板」
塚の玉垣の中に綺麗な解説板がある。それには神守宿の絵図、現在の町並みの写真、神守と津島の地図、付近の神社の写真や一里塚の写真などがあるが、折角の解説板も背の高いところにあるので詳細が読み取れない。もう少し読む人の立場にたって設置してくれたらナ〜と思う。

神守宿の解説板


「下町の家」
次の信号が神守町下町で、この手前左手に立派な門を構えた家がある。歴史が感じられるがどの様な家柄だったのかは分からない。宿はこの信号までが下町で、ここを右に曲がり中町となる。県道から分かれるので急に静かな道に変わる。

下町の家


「養源院への道」
中町の中程に左へ入る道が有り、その奥にお寺が見える。この路地の左の家は黒板塀に白壁で宿場らしい風情がある。

養源院への道


「養源院」
突き当たりに見えるのが養源院。右手に鐘楼、奥に山門、六角堂、本堂などなど。立派なお寺である。

養源院


「中町の問屋場辺り」
宿の道に戻って更に進む。左手に大きな屋根の電気屋さんがある。この辺り問屋場や高札場があった所か。

中町の問屋場辺り


「蓬莱院」
その先左に格子戸のある門にブロック塀。門には蓬莱院の額が掛かっている。中にお堂があるが詳細は分からない。

「石薬師道標」
左手、小道の角に『石薬師※※』の道標がある。『石薬師』の所で折れたものを繋いだのか。下のほうはコンクリートに埋まってしまっている。この辺りに薬師堂が有ると聞いた事があるので、その関係か、先の蓬莱院にも関係するのか、想像を逞しくするがこれ以上のことは判らない。

「火の見櫓と小学校」
左手に火の見櫓と神守小学校の校舎が見えてきた。背の高い鉄の櫓で上に半鐘がぶら下がっている。今でも使っているのだろうか?

火の見櫓と小学校


「中町の家」
火の見櫓の先に古い町屋がある。左に門がありそれに続いて母屋、切妻二階建て、格子作りで二階には小さな袖壁もある。

中町の家


「中町の屋台蔵」
火の見櫓の足元は広場になっており、奥にまだ新しく綺麗な消防の建物、白木に神守分団と大きく墨書されている。その更に奥には屋台蔵、これも同時に建てられたのか未だ新しく、正面の大きな背の高い扉に『中町』と書かれている。

中町の屋台蔵


「桝形にある家」
北へ向かっている宿の道が突き当たって左(西)へと曲がる。この曲がり角にある家も大きな町屋でいわくが有りそう。

桝形にある家


「神守の宿場跡標柱」
宿の道が突き当たった所の電柱の脇に『神守の宿場跡』の標柱が有りそれに解説が書かれている。『江戸時代東海道の宮(熱田)の宿場から桑名(三重県)の宿場への「七里の渡し」にかわる脇街道として佐屋街道が利用されていた。万場(名古屋市)の宿と佐屋の宿との間があまりにも長かったため、正保四年(1647年)に「神守の宿」が定められた。この宿場は古い憶感神社(「おかみのじんじゃ」ともいわれていた)を中心に宿屋・商家がたちならび近くの村々の手助けによって宿駅の仕事を果たしていた。』

神守の宿場跡標柱


「憶感神社」
宿の道は突き当たりを左に曲がるが、逆に右に曲がると正面に神社が見える。石の鳥居が有りその左右に一対の常夜燈、その右に『郷社、式内、憶感神社』の社標(石柱)。『憶感』は「おかみ」、「おかん」、「おくか」とも読み、祭神は雨冠に龍で「おかみの神」、水に関係する農耕の神様だとか。

憶感神社


「吉祥寺」
神社と境内を共有する形で、神社の左(北)にお寺がある。憶感山吉祥寺。

吉祥寺


「弘法大師像」
境内に多くの『奉納南無大師遍照金剛』幟が立ち、左の一角に旅姿の弘法大師像が立っている。

弘法大師像


「地蔵堂」
宿の道の突き当たり、右に曲がってすぐ左(憶感神社、吉祥寺より手前)に二層の屋根を持った立派な六角堂があり、お地蔵さまが祀られている。手前には黒い石に刻まれた縁起がある。その右隣には一寸怖そうな顔をした石の神像か仏像がある。

地蔵堂


「地蔵堂縁起」
縁起には『お地蔵様と言う仏は、お釈迦さまがなくなられた後、この世にお出ましになり、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に悩み苦しむ者たちを救い、また、幼くしてなくなった子供たちを守ってくださる、実にありがたい仏様であります。さて、この延命地蔵は、神守宿場時代、宝暦八年(1758)に当寺に祀られ、文政三年(1820)には檀徒及び村人の厚い信仰により六角堂が建立され、ここに祀られた。人々は、村内安全・子孫繁栄を願い、旅人は道中の安全を祈ったと伝えられる。その後、明治六年(1873)に改築、平成六年十二月に大改修され、現在も多くの人々から厚い信仰を受けている。お地蔵さまのご真言、オンカカカビサンマエイソワカ 憶感山吉祥寺』とあった。

「桝形から見た上町の家並み」
宿の道の突き当りを左に曲がると、そこからが上町。左角には先ほどの大きないわくの有りそうな町屋があり、右手、神守の宿場跡標柱の所からが本陣や問屋場が有ったといわれる。
神守宿の所在は尾張の国海東郡、本陣1、脇本陣無し、問屋場2、旅篭屋12、人口812人、家数184、街並の長さ7町51間、次の佐屋宿まで1里半9町(約5km)。

桝形から見た上町の家並み


「穂歳神社」
上町を西に向かうと右手に神社、石の鳥居、奥へ常夜燈、灯明台、狛犬、拝殿、社殿と続く。社標(石柱)には『村社穂歳神社』とある。ここの祭神は天竺ルイビン国龍帝龍王の御子という。憶感神社といいこの穂歳神社といいどちらも聴き慣れない祭神である。

穂歳神社


「格子と蔵のある家」
神社の向かい、宿の道の左手に切妻平入り背の低い二階の格子造りの家があり、そこの母屋と蔵とが道に面して並んでいる。

格子と蔵のある家


「神社前から振り返る」
神社の前から神守の宿場を振り返って眺める。落ち着いて長閑な街道らしい良い風景だ。

神社前から振り返る


「長屋門」
立派な門が残る家、黒板壁の長屋門の家など昔の面影を残す家が所々にあり、やがて宿を出る。左手にはノリタケの工場が見える。

長屋門




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