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佐屋街道独歩記
さやかいどうひとりあるき
佐屋街道ウォーク その2
平成18年2月4日(土)<その2>
神守宿から佐屋へ
「日光橋通れません」
越津町信号交差点で先に分かれた県道と合流するが、この先の日光川に架かる日光橋が架け替え工事中で通れない。自動車などはここを左折し迂回している。自分の持っている古い地図にはここに橋があるのに、インターネットで調べた地図には橋が無い。おかしいと思っていたら架け替えの工事中だったのだ。歩きは迂回が大変、何とかなるかなと思って直進する。
「歩行者用の仮橋」
橋の所へ来たら「良かった〜」歩行者用の仮橋が架かっている。馬鹿正直に迂回をしていたら1キロ以上は余分に歩くところだった。ええかげんな行き当たりばったりも、時には正解であることも。
「日光川」
今まで架かっていた橋の橋脚が低く、増水時に橋で水が堰き止められ洪水となるので架け替えているとの事。橋の正面からやや左には鈴鹿の山並み、やや右には養老の山並みが見え、いずれも雪が被っている。川面を吹く風が冷たい。
「石地蔵」
仮橋を渡り切ると堤防下に石の地蔵様がある。新しいものだが、前に灯籠一対と手水鉢があり、なかなか立派、地蔵様には赤い布が着せられている。
「秋葉神社」
工事中の日光橋西北詰めに秋葉神社がある。平成になってからここへ移築されたもので、鳥居、社標、灯篭、お社、玉垣、手洗舎、何もかもが新しい。
「地蔵堂」
日光橋西詰、秋葉神社の前から再び県道を進む。次の日光信号交差点の左手前に地蔵堂が有り、その左手にはお寺なのか、今は廃寺になっているのか、そんな建物がある。
「諸鍬神社社標」
その先、右に入る道の手前に『式内諸鍬神社』の社標(石柱)があり、その右脇に『獅子舞開祖、市川柳助碑』がある。
「古川町の町並み」
古川のバス停からしばらくの間、右手に落ち着いた街道筋を思わせる家並みがある。背の低い平屋や或いはツシ二階、表には格子がはまっている。左奥には大型のスーパー。街道は左へとカーブし南西方向へと進み埋田町の信号交差点に至る。この右手方向に津島市役所があり、賑やかなところとなってきた。丁度昼の時間となったので、適当な所を探して昼食をとる。
「明治天皇御小休所跡碑」
埋田町の交差点より一筋先を左へ一筋入る。如何にも旧道らしい佇まい。県道と並行するように進む。右手に神社があり、常夜灯、石の鳥居、その奥の石積みの上に極小さな社が乗っている。これでも千木と鰹木があるので神明社か。鳥居の左手に背丈を超えるほどの石碑がある。よく読めないがこれが『明治天皇御小休所跡碑』とか。
「凍った手水と明治天皇お手植えの椿」
境内に手水鉢が有り、午後になっているのに中の水は凍ったまま。その奥の玉垣の中に石柱があり、『明治天皇お手植えの椿』その後に枯木が立っている。これがその椿か。
「つしま道道標」
先に進むと間も無く道路脇の左に、ぽつんと道標が立っている。
正面の東面には『右 つしま天王みち』
道路側北面には『左 さやみち』
反対側南面には『東 あつた なごや道』
何の防御も無い、よくぞ車にぶっつけられないものだと感心する。
「津島神社一の鳥居跡碑」
次いで道路の右側に赤味がかり先の尖った石碑がある。これには『旧東海道追分、津島神社一ノ鳥居趾』と刻まれている。
「津島街道埋田追分標柱」
石碑の後に『津島街道埋田追分』の標柱があり、それに詳しい解説がある。
『埋田町のここは津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れて台石のみ)と常夜灯(夜どおしあかりをともすとうろう)一対、追分(別れ道)をあらわす道標がのこっている。江戸時代ここから右は津島神社への道、左は佐屋の渡しへの佐屋街道と分かれる所で、江戸時代の終わりごろには茶店などもあって通る人々でにぎわい、大正時代ごろまでは松並木が続いていた。また熱田から津島までの道を下街道とよんでいたが、いまは耕地整理や新しい街づくりで道すじもかわり、ほとんどがすたれてしまっている。佐屋街道は熱田から岩塚、万場(ともに名古屋市)、砂子(大治町)、神守の宿(宿場)を経て、津島追分から佐屋にいたり、佐屋川を船で下って桑名(三重県)へと続き、東海道の脇街道として熱田から桑名までの海上七里の渡し船をきらった人たちに広く利用されていた。徳川三代将軍家光や明治天皇の通られた跡や記録が街道各地にのこされている。』
「常夜灯と鳥居跡」
道を挟んで背の高い常夜灯が一対立っている。
「一の鳥居跡」
常夜灯の先に、道路を挟んでハの字のように立っている石造物がある。これが津島神社の一ノ鳥居の趾、解説にあるように昭和34年の伊勢湾台風で被害を受け、台座だけが残ったもの。これより先愛宕神社までの間は街道が消滅して跡を辿ることが出来ない。
「愛宕神社横」
仕方が無いのでこの道をしばらく直進し、橘町でバス通りに出会い、ここを左折すると、この先左手に大きな津島市民病院が見える。この道をひたすら南下し愛宕町に入ると右手の小道に神社の繁みが見える。この道に入り神社の石垣にそってぐるっと左に曲がると佐屋街道に戻る。
「愛宕神社」
左に有るのが『愛宕神社』、境内には植木屋さんが入って高い所の枝を払っている。危ないのであまり近寄らずに早々に立ち去る。細い道を道なりに進み、広い通りに出る。これが県道114号津島蟹江線。右に西愛宕町の信号交差点が見えるが、それを横目に斜め横断、114号と直交する県道105号富島津島線を再び斜めに横断道なりに進む。左手に名鉄尾西線の日比野の駅が見える。この辺りからまた街道は消滅する。
「名鉄を渡る」
地図を見るとこの辺りに由乃伎神社と明教寺がある。街道は多分この辺りを通ったのではないかと考え、これを辿って行くこととする。左に踏切が見える道を探し、その道で名鉄をわたる。
「由乃伎神社」
しかし、神社が無い。踏切を探して南へ来過ぎた。北へ戻って神社を見付け、ここから西へと進む。
「火の見櫓」
火の見櫓の下を通り、お寺を探す。
「明教寺」
お寺、明教寺を見付けたが、これ等はジグザグコースでまともな道順ではない。やはり昔の道が消滅していることを実感する。
「細道」
お寺の近くの細道に長い塀の続く屋敷がある。この道が、それらしい気がするので、ここを通って広い道県道458号一宮弥富線に出る。ここまでは全く自分勝手に想像して歩いた道である。
「佐屋海道跡碑」
県道に出てこれを南下する。初めての信号交差点、内佐屋を渡った左先に内佐屋変電所があり、その道路沿いに背の高い、茶色っぽい石碑が立っている。それには『佐屋海道址』と刻まれている。
「信力寺」
碑を見た後、今度は街道の右手一筋目を右に入ると右手に『信力寺』がある。門構えは立派だが中は荒れた感じ。横に竹薮が有りカラスが騒いでいたのが不気味で印象に残る。
「切支丹灯篭」
門をくぐると左に墓地があり、その中にひときわ目に付く古い墓があり、その前に一対の灯籠がある。これが切支丹灯篭とか。しかし、詳しいことは何も判らない。
佐屋宿
「黒板壁格子の家」
街道(県道)をひたすら南へと向かうと、やがて家が建て込んできた。中に黒板塀に格子のはまった家などが目に付くようになる。
「浄法寺」
右手石積みの上に鐘楼、モダンな門の前には『芙蓉山浄法寺』の石柱が立っている。
「天神社」
続いて右手に石の鳥居の『天神社』。奥に石灯籠、拝殿などが見える。道路に面した入口には、右に背の高い社標(石柱)、左に看板『(赤い梅鉢の紋)学問の守護神、天神社、祭神・菅原道真』とある。
「地蔵堂」
次の十字路が須依(すえ)の信号交差点。ここを右に曲がると佐屋宿の中心部と三里の渡しへと続く。交差点で曲がらず、渡った右手に地蔵堂がある。
「くいな塚案内標識」
その先一筋目のカーブミラーの所に『芭蕉翁、くいな塚、100m』の案内板がある。
「くいな塚全景」
細道を入って行くと左手に小公園、庭園風に纏められた一角がある。中央に塚の石碑があり、水鶏塚由来記、その他碑や墓石のような物も有る。
「水鶏塚由来記」
佐屋町教育委員会の建てた由来記には『元禄七年五月芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ薮のほとりで木の間がくれに水鶏(くいな)が鳴いた。翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集り千載不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が、
水鶏鳴と 人の云えばや 佐屋泊 はせを
である。翁逝って四十余年後さきに坐を共にした人達により、翁がうたったこの現地でそのときうたった句を石にきざみこの碑がたてられた。とき正に享保二十年五月十二日のことである。昭和三十五年大字佐屋故黒宮庸氏の御遺志によってこの水鶏塚(土地共)は黒宮家から佐屋町へ寄贈された。(昭和六十年三月二十六日 佐屋町文化財指定)』とあった。
「塚の石碑」
碑の正面に『水鶏鳴と人の云えばや佐屋泊 芭蕉翁』と刻まれている。
「八幡社」
くいな塚の向かい、右手には八幡社がある。
「くいな塚道標」
戻らずに先へ進むと、宿の道へ出た。須依の信号交差点を右に曲がって一筋目の左にあたる。この角に道標がある。『くひな塚、是より南一丁』
「宿の家」
宿の道を西へと進む。左手には門構えの豪勢な家がある。建物は新しいようだが庭木が立派だ。この庭は宿場時代からのものに違いない。
「宿の町並み」
石積みの上に白壁の塀が続き、その先には格子造りの町屋があり、さらに向こうには火の見櫓がある。宿場時代を偲ばせる風景だ。
「格子のある家」
切妻平入り二階建て、多くはサッシに変わっているが、昔は格子がはまっていた物と思われる。この辺りには右に本陣や問屋場が、左に脇本陣があり、三里の渡しに乗る旅人で賑わったところ。
ここ佐屋宿は所在が尾張国海東郡、本陣2、脇本陣1、脇本陣格1、問屋場1、旅篭屋31 (大3中13小15)、家数290、人口1260人、街並3町30間、次の宿桑名宿まで3里(12km)。佐屋路の中では一番大きな宿場町であった。
「さや舟場道道標」
先に佐屋交差点が見えてきた。その手前左手に玉垣で囲まれた道標がある。それには『左 さや舟場道』とある。
「道標の解説板」
脇に木製の解説板ある。それには『東海道佐屋路はこの佐屋宿より舟にて桑名へ渡った。寛永十一年佐屋宿創設より明治五年に至る長い年月であった。この道標は舟場への道を示すものである。大字佐屋の山田秀信氏の屋敷内にあったものを同氏の好意により寄附を受け此処に建てた。』とある。
「きこくの生垣解説板」
続いてその先に植え込みがあり、白い解説板が立っている。それには尾張名所図会の佐屋駅の図と『きこくの生垣』と『きこくの説明』が書かれている。
『きこくの生垣』の説明は『江戸時代このあたりは佐屋宿舟番所前で旅籠(近江屋)があった。現在、このブロック塀上に見える「きこくの生け垣」は天保12年(1841年)の「尾張名所図会」に描かれていて、当時の姿を今に伝える貴重なものである。なお、この図会の模型は、佐屋町中央公民館2F郷土資料室に展示されています。』とあり『きこくの説明』には『カラタチの別名。中国原産のミカン科の植物で揚子江沿岸地域に自生しており、わが国への渡来は今からおよそ1000年位前といわれる。果実の香りがよいところから庭木として観賞され、また生け垣用としてよく利用された。現在栽培されている柑橘類の多くは、このカラタチを台木として接木されたものであり、接木することによって木の成育がよくなり果実の収量も多くなるといわれる。』
「佐屋代官所址」
交差点の右手前角に、植え込みに囲まれた広場があり中に『佐屋代官所址』の碑がある。ここらには代官所の他佐屋御殿、舟番所、舟会所などが並んでいた。
「佐屋代官所址解説」
碑の左に立派な黒い石に刻まれた佐屋代官所の解説がある。『わが佐屋は其の昔慶長二十年四月家康が大坂夏の陣に此処から船出し大勝した徳川方吉祥の地。藩祖義直もこの事を嘉し寛永十一年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、更に承応二年船番所を置くに及んで佐屋は天下に知られるに至った。其のため元禄八年奉行所が、次で天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所となり、海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄寛永文久と二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。其後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物も其れを知る人もない。われわれは今その代官所址に在りし日の栄光を偲びつつ其の事を石に刻し、永く後世に伝え語り継ぐことの資とする。』とあった。
「佐屋三里之渡趾碑」
交差点を渡った先左手のゲートボールが出来る広場の一角に『佐屋三里之渡趾』の碑がある。この辺りには浦高札が有り、旅人はこれを見ながら川舟に乗船し、桑名への三里の船旅に出発していった。
これで佐屋街道を歩いたことにはなるのだが、同じ歩くなら津島道と言われた津島埋田の追分から先と、津島の町の中を歩いて見たいと思う。なるべく早くにその機会を見つけ出したいものだ。
名鉄の佐屋発15時14分で津島へ。津島駅前から名鉄バスセンター行きのバスを利用する。名古屋からはJR東海道線を何時ものように乗り継いで帰路についた。
今日のニュース、朝刊では「1400人乗りフェリー沈没、紅海、荒天で捜索難航」。夕刊では「61台衝突31人重軽傷、富山・北陸道、スリップか」。
今日歩いた記録
28,627歩(佐屋街道正味22,864歩)
17.16q (佐屋街道正味13.71q)
1,226kcal(佐屋街道正味976kcal)
今日までの累計
55,295歩(佐屋街道正味44,110歩)
33.14q (佐屋街道正味26.45q)
2,366kcal(佐屋街道正味1,891kcal)
ページ公開 平成18年2月25日
ページ改良 平成23年5月1日
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