中山道ウォーク その14



平成15年2月15日(日)     柏原から高宮まで





前回1月14日の『ウォーク』では赤坂から柏原までを歩いた。交通の便が良く、土日祝の割安切符青空フリーパスが有るので、もっともっと歩きに出られそうなものなのに、なかなか出られず早1ヶ月が経ってしった。





2月15日(日)


今朝も家内にJR二川駅まで送ってもらって出発する。前回と同じ電車二川発7時35分に乗車、豊橋で乗換え、7時50分発特別快速米原行きで柏原へ。乗換えなしで行けるので有難い。柏原に9時35分着。駅でトイレを済ませ装備スタイルを整え出発する。今日は快晴で車窓からは雪の伊吹山が綺麗に見えた。そんなに寒くない。今日は近江路の山間部から平野部へと入る。どんな街道歩きが楽しめるのか期待が大きく膨らむ。

今朝の新聞トップニュースは「国連査察団イラク協力『不十分』安保理に追加報告」。アメリカの強硬姿勢にフランス等の戦争回避努力がどこまで通じるのだろうか。





     柏原


    中山道第六十宿 柏原宿


     所在地 滋賀県坂田郡山東町
     最寄駅 JR東海道本線柏原駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠22、総人口1,468、家数344
     醒ヶ井へ 1里半(5.9q)


「柏原宿脇本陣跡」
JR柏原駅からの道を来て右に曲がって宿の通りに出る。右手郵便局の手前に『脇本陣跡』の看板が立っている。当時は建坪73坪(約241u)の屋敷であったが、今は何の痕跡も残っていない。

柏原宿脇本陣跡

「旅籠屋跡」
郵便局の向い、宿場の通りの左手には『旅籠屋跡』の看板が有り格子造りの家がある。この辺りには大小の旅籠が並んでいた。今のこの時間人通りは無い。

「問屋場跡の宿解説板」
郵便局の先に『柏原宿』の解説板とその下に柏原宿復元図がある。解説板の左脇に『問屋場跡』の看板が立っている。

問屋場跡の宿解説板

「本陣跡」
右手ガレージの脇に『本陣跡』の解説板がある。これでは当時の様子を想像するのが難しい。

本陣跡


「常夜灯と高札場跡」
市場川の橋の手前右手に常夜灯と『高札場跡』の解説板が立っている。この常夜灯は秋葉山と刻まれ安永6年(1777)の建立。

常夜灯と高札場跡

「伊吹堂」
伊吹艾(もぐさ)の伊吹堂亀屋左京のお店。今日は表の間でご夫婦が商品の箱詰め作業をされていた。記念に買い求めたくてもお灸では・・・で諦めた。後には本家伊吹艾の衝立と頭の大きな福助人形が座っていた。

伊吹堂

「伊吹堂の看板」
貫禄のあるこの看板、日本の景色といったところ。

伊吹堂の看板

「日枝神社」
右手の日枝神社、社叢の杉の木の葉が真っ赤に染まり、花粉飛散の準備が出来ている。

「銀行跡」
この古い建物が旧柏原銀行の建物。柏原銀行は明治中期から昭和初期まで営業していて、今の滋賀銀行の先駆けとなった。

銀行跡

「薬師道道標」
宿の左に立つのが明星輪寺への道標で『従是明星山薬師道』とあり享保2年(1717)の建立。

「郷宿」
左手に立っている立派な建物が郷宿と呼ばれ、脇本陣と旅籠との間の役目を負っていて、公用の庄屋クラスの宿泊に利用された。この後藤家はその歴史を知る貴重な存在とか。立派なものだ。

郷宿






柏原から醒ヶ井へ


「一里塚跡」
中井橋、丸山橋を渡って宿を出る。左手に川沿い桜並木の下に『一里塚跡』の解説板が立っている。塚は両側とも失われてしまっている。川の両岸の桜、春は綺麗だろうな〜。

一里塚跡

「松並木と北畠具行墓入口」
少しばかりの松並木があって、右手に『北畠具行墓』の看板がある。具行は後醍醐天皇暗殺計画で活躍した公家で、後に捕まりこの地で処刑された人物。この先に宝篋印塔ある。

「薬師道道標」
長沢の集落に入るとすぐ左手に道標がある。これも明星輪寺への道で『屋く志へ乃』と読み取れる。これも享保2年(1717)の建立とか。

薬師道道標

「小川関跡」
集落の西で道は二手に分かれる。その分かれ道に『小川関跡』の標石と解説板がある。ここは中世の関所が有った所。

小川関跡

「梓関跡の解説板と墓跡黒谷遺跡」
右の杉林へと入って行き坂を上る。これが粉河坂。湿った杉落ち葉の道を歩いて元の道に合う。国道21号に合流する所左手に『梓関跡』の解説板と『墓跡黒谷遺跡』の標石と『中山道』の碑がある。

「八幡神社」
梓の集落を過ぎ国道の右手川沿いの道をしばらく歩く。桜並木、松並木があり、川の向こうは杉林で葉が真っ赤になっており花粉症で悩む人はこれからはとても歩けた道ではない。やがて国道に合流するが、工事中で片側交互通行の大渋滞、それを横目に見て歩き、左に分かれると一色の集落で右手に八幡神社がある。

「一色一里塚跡」
今度は名神高速沿いに歩く。左手名神高速のフェンスの際に真新しい『中山道一里塚』の碑と解説がある。この塚には榎が3本づつ植わっていたとある。

一色一里塚跡






     醒ヶ井


    中山道第六十一宿 醒ヶ井宿


     所在地 滋賀県坂田郡米原町
     最寄駅 JR東海道本線醒ヶ井駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠11、総人口539、家数138
     番場へ 1里(3.9q)


「加茂神社」
左手に名神高速、右手に国道、その間の狭間を行く。道が左にカーブした先に突然といった感じで加茂神社が見える。この宿の産土神。左手の名神高速の崖に張り付いた様で、街道からは見上げる形になる。ここが東の宿の入口である。

加茂神社


「居醒の清水」
神社の下から湧き出ているのが『居醒の清水』。古事記や日本書紀に『日本武尊が東国からの帰途伊吹山の荒ぶる神を退治しようと山に入ったが、山の神に惑わされ正気を失って下山、泉の水を飲んで正気に戻った。そこでこの泉を居醒泉(いさめがい)と名付けた』とある。左に『居醒』の碑がある。

居醒めの清水

「日本武尊腰掛石と鞍掛石」
湧き出た泉が神社の前では池となり、その先は地蔵川となって宿の左手を流れる。醒ヶ井には『三名水四名石』があり、三名水は『居醒の清水』『十王水』『西行水』、四名石は『蟹石』『腰掛石』『鞍掛石』『影向石』で居醒めの清水の湧き出し口に蟹石が、神社の右手に腰掛石と鞍掛石が流れの中にある。影向石は埋まってしまったと言う。流れには梅花藻が繁りハリヨが生息する。

日本武尊腰掛石と鞍掛石

「延命地蔵尊」
流れの向こう、神社の右隣に有るのが延命地蔵堂で、昔は川の中に有ったのでこの地蔵のことを尻冷やし地蔵と呼ぶ。流れには水車が回っている。

「本陣跡」
流れの向こう、地蔵堂の先に本陣跡。本陣は江龍家で建坪は178坪(約587u)有ったと言う。今は料理旅館樋口山となっている。

本陣跡


「本陣跡から宿場を望む」
本陣の前から宿場の西を望む。左手には地蔵川が流れ、街道寄りの岸は桜並木、醒ヶ井ならではの宿場風景である。右手には土屋家脇本陣があった。

本陣跡から宿場を望む

「復元された問屋場」
流れの向こう、本陣跡に続いて復元された問屋場跡がある。資料館になっており有料なのに管理人は居らず切符はどこだか離れた場所へ買いに行かねばならない。コインボックスを置いておけば良いのに。

復元された問屋場

「ヤマキ醤油」
宿の右手に数軒古い建物が並んでいる。その一つで二階が白い塗籠壁で下は格子の家がヤマキ醤油の店、店先に甘酒ありますの張り紙、もうすぐ雛祭りなのだ。

ヤマキ醤油


「多々美屋旅籠跡」
玄関に大きな石灯籠が有って二階に欄干のある家が旅籠跡。

多々美屋旅籠跡

「明治天皇御駐輦跡」
右手立派な門構え、その前に『明治天皇御駐輦跡』の碑が立っているのが元宿役人の家。この先右手に『天然記念物御葉付銀杏』の了徳寺がある。

明治天皇御駐輦跡

「十王水」
左手川の中に『十王』と刻まれた石灯篭が立っている。その奥から水路となって流れ込んでいるのが十王水。近くに十王堂があったのでこの地名が残っている。

十王水


「西行水と泡子塚」
地蔵川は醒ヶ井大橋と言う小さな橋をくぐって宿の右手へ流れてゆく。この橋の袂に高札場があった。道は橋の先で二手に分かれ左が旧道。その先左手奥に西行水と泡子塚がある。岩の上に仁安3年(1168)の五輪塔があり西行にまつわる伝説がある。

西行水と泡子塚

「宿出口の道標」
家並が途切れた右手に道標があり『中山道醒ヶ井宿、番場宿へ一里』とある。ここで宿を出る。

宿出口の道標





醒ヶ井から番場へ


「松尾寺道標」
交差点の左手前に松尾寺への道標が立っている。『近江西国第十三番霊場松尾寺従是南廿町』とある。

「六軒茶屋跡」
間も無く右手に『六軒茶屋跡』の木柱標識がある。昔はここに六軒の茶屋があった所。

六軒茶屋跡

「いっぷく場」
国道に合流し丹生川を渡り右に分かれ河南、樋口の集落を行く。街道の左手に『いっぷく場』と言う看板を吊るした家がある。昔の街道もこんな様子だったのか。この辺りでは妻入りの家が目に付く。

「久礼の一里塚跡」
国道を横切り、学校を左に見ながら進むと広い道に突き当たる。右に行くと国道へ出るが、左にとり北陸自動車道をくぐる。くぐった先に『中山道一里塚の跡』碑と解説板がある。これが久礼の一里塚、江戸へ117里、京へ19里。

久礼の一里塚跡






     番場


    中山道第六十二宿 番場宿


     所在地 滋賀県坂田郡米原町
     最寄駅 JR東海道本線米原駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠10、総人口808、家数178
     鳥居本へ 1里1町(4.0q)


「東番場に入る」
名神高速を左に見ながら行き、途切れていた家並が左右に連なるようになるとそこは東番場。左手に手作りの『東番場』の看板が目に入る。

東番場に入る

「中山道番場宿」
次の交差点の右手前はポケットパークになっていて『中山道番場宿』の大きな碑と昔の宿場の絵図がある。

中山道番場宿


「汽車、汽船道道標」
碑のある道を右に行くと米原駅。交差点の右向こう角にも『米原汽車汽船道』の道標や『蓮華寺、青龍の滝』の案内板が立っている。

「明治天皇番場御小休所碑」
交差点からすぐ右手、玄関先に『明治天皇番場御小休所』の大きな碑の立っている家が高尾家脇本陣跡。

「番場宿の街並」
脇本陣跡から宿中心部を望む。右手脇本陣の向こうに北村家本陣跡や問屋場が有ったと言われるが、今では想像する手掛かりも無い。

番場宿の街並


「蓮華寺入口」
宿の中ほど左手に蓮華寺への入口がある。左に『史跡蓮華寺』、右に『境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓』の背の高い石柱、『瞼の母番場忠太郎地蔵尊・南北朝の古戦場』の看板も立っている。浄土宗八葉山蓮華寺で聖徳太子の創建と伝わる古い寺、長谷川伸の戯曲『瞼の母』の主人公番場の忠太郎の地蔵がある。

蓮花寺入口

「鎌刃城へ3キロの看板」
東番場から西番場に入るところに『鎌刃城跡へ3キロ』の看板が立っている。

「北野神社」
西番場の中ほど右手に北野神社がある。この先家並が途絶えると共に左手から名神高速が寄ってくる。

「小磨針峠へ」
名神高速の横を登ってゆく道が遥か先の小磨針峠まで続くのを見通すことができる。

小磨針峠へ


「番場宿を振り返る」
西番場の西の外れに『中山道番場』の碑がある。





番場から鳥居本へ


「小磨針峠」
名神高速の横を登って行き、やがて上り線、下り線の順にトンネルに入るその上が小磨針峠。今日は穏やかなお天気でここまで登って来たら汗が出てきた。小休止してセーターを脱ぐ。トンネルから出た名神高速に沿ってしばらく下る。

「道標」
道が右にカーブした所に道標が立っている。右に行くと『磨針峠彦根』、直進すると『中山、鳥居本』。旧道は右にとり、磨針峠へと向かう。

道標

「磨針峠望湖堂碑」
磨針の集落を抜け峠の上に出た。ここから階段で左に上がると峠の茶屋や琵琶湖を眺める望湖堂が有るのだが工事中、クレーン車などが居たので寄らずに下る。途中で一度だけちらりと琵琶湖が見えた。峠を下りきって国道に出る。その角に『舊中山道磨針峠望湖堂』の大きな碑が立っている。

磨針峠望湖堂碑

「おいでやす彦根市へ」
国道で矢倉川の橋を渡り再び左手に別れる。その左手にモニュメントがある。3本の石柱の上に商人、旅人、虚無僧の像があり、石柱には『おいでやす彦根市へ』とある。

おいでやす彦根市へ


「松並木」
モニュメントの先に古い松数本と新しい松を植えた松並木がある。看板には『彦根八景中山道の松並木』とある。昔はここに見事な松並木があった。





     鳥居本


    中山道第六十三宿 鳥居本宿


     所在地 滋賀県彦根市
     最寄駅 近江鉄道本線鳥居本駅
     本陣1、脇本陣2、旅籠35、総人口1,448、家数293
     高宮へ 1里半(5.9q)


「古い家」
鳥居本に入ると途端に古い家が目に飛び込んできた。二階は低く塗籠と袖壁、一階は格子造り。

「宿の家並」
道幅の狭い宿場らしい街並が現れ、感激して胸がわくわくする。これが街道歩きの醍醐味。

宿の家並

「明治天皇鳥居本御小休所碑」
宿の道が左に曲がる角のところ右手に門構えの大きな家、その門の前に『明治天皇鳥居本御小休所』の碑が立っている。この旧家が赤球神教丸の有川薬局で和宮もここで休んでいる。

明治天皇鳥居本御小休所碑

「赤球神教丸」
赤球神教丸は鳥居本の特産で下痢腹痛の妙薬、創業万治元年(1658)でこの店の賑わいは『近江名所図絵』に描かれている。建物は宝暦年間(1751〜64)、今も変わらず営業している。

赤球神教丸


「合羽の看板」
神教丸の角を曲がって間も無く右手に合羽の形の看板が下がった家がある。看板には『本家合羽所・木綿屋・嘉右衛門』とある。道中合羽は鳥居本のもう一つの特産で文化・文政年間(1804〜30)には15件の店が有った。

合羽の看板


「合羽屋さんの店」
二階は低い白の塗籠一階は連子格子の宿場独特の建物。この様式の家が他にも沢山残っている。

合羽屋さんの家

「合羽の看板」
斜め向いにも合羽の看板が下がった家がある。こちらは最近新築されたのか、それとも改装されたのか真新しい感じである。古いものが無くなってゆく中で、古い姿で再生されるのは嬉しい事だ。

「本陣跡」
左のフェンスに『中山道鳥居本宿本陣跡』と書かれた木札が取り付けられている。ここが寺村家本陣の跡。屋敷の建坪は137坪(約452u)で門構え、白砂の前庭、奥には広い庭園、土蔵が有ったと言う。

本陣跡

「宿の中心部」
右へ入る道の正面には近江鉄道鳥居本の駅。本陣の向い道の右手前角に脇本陣。左手本陣の先には問屋を兼ねた脇本陣があり、右手道の向こう角に高札場があった。

宿の中心部


「手作りの看板」
十字路の先右手に手造りの看板がある。合板に黄色で塗りつぶし。緑で道を、赤で町名と現在の施設(駐在所とか郵便局)、黒で本陣とか屋号、合羽などと書いて昔の宿場の街並を再現してある。大いに参考になる。これによると合羽の店が9軒記されている。

手作りの看板

「塗籠に袖壁」
これが宿場だ〜!と叫びたくなるような風景。

「典型的な町屋」

このような町屋が何軒も残っているとは何て素晴らしいこと。感激の連続である。

典型的な町屋

「専宗寺」
宿の右手に聖徳太子の旧跡と言われる専宗寺がある。

「彦根道道標」
宿の西の外れで右に曲がる道がある。これが彦根道で、朝鮮通信使が通った脇往還、朝鮮人街道とも呼ばれる道。その角に道標が立っている。『左中山道京いせ、右彦根道』文政10年(1827)の建立。

彦根道道標






鳥居本から高宮へ


「八幡神社」
鳥居本の宿を出るとしばらく田園地帯を行く。次の小野の集落を過ぎると右手に『八幡神社』の石柱と常夜灯がある。これが八幡神社の入口。そこに『この道路は小野町町民以外の出入りを禁止、小野町区長』の看板がある。『私有地につき・・・』なら見たこと有るが、これは珍しい。

「小野小町塚」
左の名神高速と右の新幹線が寄ってきて狭くなった所の左手に朽ちかけた祠があり中に石仏と小野小町塚の木柱がある。小野は古くからの宿名であるが小町との関係は不明。道はこれ以上進めなくなって新幹線をくぐって右手に抜ける。

小野小町塚

「俳人五老井森川許六遺路の碑」
最近開発された住宅地を行く。霊園入口にこの標石が立っている。許六は彦根藩士で芭蕉の高弟でここに庵を築き、その井戸と句碑がある。

「床山八幡宮」
右手に床山八幡宮の鳥居があり脇に『芭蕉昼寝塚、祇川白髪塚』の標石がある。境内の左奥に句碑と解説板がある。

床山八幡宮

「昼寝塚」
昼寝塚には
       ひるがほにひるねせうものとこのやま   芭蕉


昼寝塚

「白髪塚」
白髪塚には
       恥じながら残す白髪や秋の川     祇川居士

「五百らかん碑」
彦根インターのバイパスをくぐる手前右手に『天寧寺五百らかん七丁餘』の石碑と右に『はらみち』の碑がある。

「多賀大社への道標と常夜灯」
やがて左手、国道306号線との交差点手前に常夜灯と5本に石碑がある。多賀大社への東参道近道のしるべとして建立したとある。

多賀大社への道標と常夜灯

「大堀山」
左手の小高い丘が大堀山で、壬申の乱で戦場となった東山道の鳥籠山(とこのやま)ではないかと言われている。

「中山道旧跡床の山」
芹川を大堀橋で渡ると右手の丘が旭森公園で、道路脇フェンスの外に碑が立っている。正面には『中山道旧跡』、左の面には『ひるがおに昼ねせうもの床の山、芭蕉』とある。この丘も鳥籠山と言われている。

中山道旧跡床の山

「多賀道道標」
川を渡ってすぐ左に入る道も多賀大社への道で手前角に道標が立っている。『是より多賀みち』

「石清水八幡と扇塚」
旭森公園の先右手、山の中腹に石清水八幡宮があり、そこへ上がる石段の右手に扇塚がある。彦根藩は能楽が盛んで、九世喜多流宗家が彦根を去るに際して扇を埋めた跡とされている。

石清水八幡と扇塚

「古い家」
大堀の集落を抜け田園地帯をただひたすらに歩く。街道の所々で古い造りの家が目に付くようになってくる。

「古い家」
二階が塗籠、下が格子作りの典型的な町屋。

古い家





     高宮


    中山道第六十四宿 高宮宿


     所在地 滋賀県彦根市
     最寄駅 近江鉄道本線高宮駅
     本陣1、脇本陣2、旅籠23、総人口3,560、家数835
     愛知川へ 2里(7.9q)


「高宮宿碑と常夜灯」
近江鉄道の踏み切りの手前右手に背の高い常夜灯と『中山道高宮宿』の大きな碑がある。

高宮宿碑と常夜灯

「地蔵堂」
踏切を渡って初めての交差点、右向こう角に有るのが大北地蔵。地蔵は普通石造りであるが、この地蔵は木彫で彩色されているとか。眼病にご利益があるらしい。

「古い家」
宿に入ると早速このような古いつくりの家が目に入る。

古い家

「高宮宿の町並」

道は少し左にカーブして、その両側には宿場らしい家々が続く。

高宮宿の町並み

「高宮神社」
右手に高宮神社。昔は山王権現と称し鎌倉末期の創建とか。縁結び、夫婦和合、開運厄除けの神様。

「布惣跡」
神社の前にある古い建物が高宮布(近江上布)の『問屋布惣跡』。近隣で織られた麻布を集め全国へ販売した。

布惣跡


「古い家並」
宿の中心部、宿場らしい家々が続く。

古い家並

「宿を横切る小川」
宿を横切る小川の両岸は石積みの上に黒板塀が続き日本らしい情緒がある。

「提灯屋さん」
宿の中ほどにある提灯屋さん。色々な提灯が店先に並べられていて面白い。

提灯屋さん

「多賀大社の一の鳥居」
左手に多賀大社表参道の大きな石の一の鳥居。高さ11m柱間8m、寛永12年(1635)の建立。右には道標と常夜灯も立っている。

多賀大社の一の鳥居


「宿中心部の家並」
鳥居の前から宿を振り返って見る。宿場らしい味がある。

「芭蕉紙子塚碑」
小さな川を渡ってすぐ右手立派な屋敷の門前に『俳聖芭蕉翁旧跡紙子塚』の標石と解説板がある。貞享元年(1684)冬、この小林家に泊った芭蕉が、自分が横になっている姿を描き、句を詠んだ。
       たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子

芭蕉紙子塚碑

「芭蕉の泊った旧家」
小林家では後、庭に塚を作り古い紙子を収め『紙子塚』と名付けた。

芭蕉の泊った旧家


「脇本陣跡」
右手数軒先『脇本陣跡』の解説板が掛かった家が上町小林家脇本陣で建坪が71坪(約235u)で横に高札場があった。

脇本陣跡

「円照寺」
宿の中央右手にあるのが円照寺。門前に『明治天皇行在所聖跡』の大きな碑が立っている。

「本陣跡」
円照寺の向いに表門だけ残っているのが本町小林家本陣の跡。総坪数448坪(約1,480u)、建坪123坪(約406u)あったと言う。

本陣跡


「無賃橋と無賃地蔵」
本陣から西へやや上り気味の道を行く。宿の外れが犬上川の高宮橋。橋の右手前に『無賃橋』の碑と『無賃地蔵』がある。

無賃橋と無賃地蔵

「無賃地蔵」
昭和52年の橋改修の際に橋脚下から2体の地蔵が発掘され、最初の橋の礎になっていた地蔵として堂を建立、無賃地蔵と名付けられた。

「無賃橋」
天保の初め彦根藩はこの地の富豪らに費用を広く一般から集めて橋を架けさせた。天保3年(1832)に完成し、この橋では渡り賃を取らなかったので『無賃橋』と呼ばれた。

無賃橋


「宿を振り返る」
今日の行程はこの橋までとし、近江鉄道高宮駅へと宿を引き返す。もう一つの脇本陣、本町塩谷家脇本陣は本陣の6軒南に有ったと言うから、多分この辺りか。

「芭蕉句碑」
高宮神社そばの宿場の道に芭蕉の句碑がある。
       をりをりに伊吹も見てや冬籠     芭蕉

芭蕉句碑





今回はお天気に恵まれ本当に快適な一日であった。風も無く穏やかで柏原を出て間も無くウインドブレーカーを脱ぎ、小磨針峠では汗が出てきて毛糸のセーターまで脱いでしまった。
柏原、醒ヶ井、番場、鳥居本、高宮と夫々に趣の異なる宿場の味が有って、期待通りの収穫。次は写真や記録を纏める楽しみへと続く。
『ウォークその6』で家内と薮原から宮ノ越、福島へと歩いたときと同様に、今回も昼のタイミングに食事を取れるところが無くひもじい目をした。食事に有り付けるか否かはガイドブックや地図では知る事が出来ない。油断は禁物である。
高宮の宿場から南東へおよそ10分で近江鉄道高宮の駅。ここは多賀線の終点で本線への乗換駅となっている。16時18分の電車で2駅目の彦根へ。彦根で東海道本線の16時34分米原行き。乗り換えて米原始発16時58分新快速豊橋駅行きに乗車する。豊橋18時53分着、19時07分の浜松行きに乗換え19時12分二川着。青空フリーパスの有効区間二川から米原をフルに使った事になる。

       37,423歩
       柏原から高宮      19.7q


ページ公開 平成15年3月22日
ページ改良 平成22年11月6日
 写真追加 平成23年1月10日


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