二日目 7月27日(金)



6時起床。曇り空、そんなに暑くない。天気予報は曇りで最高気温30度くらい。一時の猛暑とかなり違う。大助かり。7時ホテルにて朝食。7時30分チェックアウト。7時49分熊谷発JR高崎線で深谷へ。昨日の終了地点の田所町の桝形、西の常夜燈から本庄へと向かう。





深谷から本庄へ


「深谷まつりのお囃子」
桝形の田所町の屋台では朝から子供達が賑やかにお囃子演奏中。

「萱場の街並み」
桝形で宿を出ると萱場の町、街道筋の家々には祭り提灯が飾られてお祭りムードが一杯。

萱場町の街並

「滝宮神社」
街道が国道と交差するところの右手、木立の中に石の鳥居のある滝宮神社。その先で国道に戻る。昔はこの辺りから『日光山、中禅寺見ゆる』と言われた。

「古い民家」
岡部町岡部に入る。右手に古い民家、左手には『関東一の漬物名産地』の看板が立っている。

「源勝院」
右手に曹洞宗至鳳山源勝院。明治天皇御休憩所ともなった寺で、岡部藩主安部家の菩提寺。この辺りでミンミンゼミの声しきり。

                 源勝院

「岡部神社」
岡部北交差点の右手に岡部神社。左に行くと高島秋帆幽閉の地がある。

「普済寺入口」
普済寺交差点の右に曹洞宗普済寺入口の看板と幾つかの碑が立っている。

                 普済寺入口

「普済寺入口」
街道から右へ入った左手に岡部六弥太舊跡の碑と庚申塔などが並んでいる。

「普済寺」
曹洞宗玉龍山普済寺。岡部六弥太忠澄が栄朝禅師を開山とし建立した。寺の後方に岡部六弥太の墓がある。この岡部六弥太忠澄は、一の谷の合戦で落ちてゆく平忠度を呼び止めて討ち取った武将で、戦後敵ではあったが文武両道に優れた忠度をいたんでここに供養塔を立てた。

普済寺

「島護産泰神社」
普済寺を過ぎるとしばらくして国道から右に分かれ、岡の集落に入る。右手に安産の神様頭護産泰神社がある。

「火の見櫓」
右に火の見櫓を見ながら静かな街道を行く。相当高い櫓の上には半鐘は無く四方へ向いてスピーカーが取り付けられている。

「史跡・百庚申」
二又に分かれる道の左を進み、すぐに右へ折れる。木立の中の豊見坂を下る途中の左手に、万延元年庚申歳(1860)建立と言うおびただしい数の庚申塔が立っている。

史跡・百庚申

「小山川の滝岡橋」
坂を下って深谷バイパスを渡り、小山川の滝岡橋を渡る。

「小山川分流土手下の自転車道路を行く」
堀田の集落を過ぎると小山川の分流土手下の自転車歩行者専用の道を行く。車から解放されてのんびりと歩く。

「八幡神社」
県道に合流し牧西の集落に入る。藤田小学校バス停の左手に八幡神社。狛犬の奥には瓦の乗った鳥居がある。ここには本庄市指定の文化財金鑽神楽が伝えられている。これに使われる神楽面は正徳年間(1711〜16)のものとか。

                 八幡神社

「法珠寺」
向かいに宝珠寺

「石神・石仏群」
傍示堂集落の右手に塞神、石地蔵、馬頭観音など十数体の石神や石仏が並んでいる。この先国道に出るまでに一里塚跡が有る筈であるが、元小山川の河川工事と道路の工事中で確認出来ず。諏訪町交差点で国道と交差し御堂坂を上がり、日の出、東台を過ぎると本庄の宿に入る。





      本庄


    中山道第十宿 本庄宿


      所在地 埼玉県本庄市中央

      最寄駅 JR高崎線本庄駅
      本陣2、脇本陣2、旅籠70、総人口4,554、家数1,212
      新町へ 2里(7.9q)


「本庄の街並」
東台で宿に入り、やや上り坂を本庄、中央へと進む。通りは商店街になる。駅入口交差点を右折すると市役所とその奥に本庄城跡。

「田村本陣跡」
中央1丁目右手にある埼玉県信用金庫辺りが田村本陣の跡。その跡となるものは何も無い。またこの宿には東西の道の真中に東の市神と西の市神というのが祀られていたと言う。

田村本陣跡

「本陣の門」
信用金庫左横の道を少し奥に入った所にある本庄市立歴史民俗資料館の敷地に、本陣の門だけが復元されている。

本陣の門

「旧本庄警察署」
明治16年(1883)に本庄警察署として建てられた洋風建築は、埼玉県の文化財に指定され、歴史民俗資料館として使われている。

「金鑚神社」
中央3丁目右奥に安養院。その先金鑽神社(かなさなじんじゃ)に沿って千代田3丁目を右折し、すぐまた左折して新町宿へと向かう。宿はこの神社まで。金鑽神社は児玉郡神川町にある本社の遥宮として中世に創建され、今の本殿は享保9年(1724)の建立。本庄宿の鎮守となり11月には神輿や山車が出る祭礼がある。





本庄から新町へ


「浅間山古墳」
住宅地の中をひたすら歩く。小島を過ぎ、神保原に入ると左手畑の向こう、小さな茂みに赤い鳥居が見える。これが浅間山古墳。

「泪橋跡碑」
古墳の斜め向かい、右手に泪橋跡と由来を記した碑がある。徳川の世、この街道筋の住民は傳馬と言う苦役を課せられ、大名等の通行の折には農繁、酷寒を問わずかり出された。この橋で家族を偲び身のはかなさを嘆いて涙したという。本庄で昼食を取り損ねたら旧道には食堂が全く無い。やっとの思いで中華食堂を見付け、冷やし中華を食べる。生気を取り戻す。

泪橋跡碑

「庚申塔」
路傍にこのような庚申塔が方々で目に付く。この辺りは神保原、昔は石神と言った所で立場だった。右手には赤城山が見えるところ。

「庚申塔群」
やがて道に突き当たり右折する。左へ行くと神保原駅。右折したらすぐに旧中山道交差点で国道17号を横断する。左手に庚申塔や石神、石仏が集められている。

「八幡神社」
左手に金久保の八幡神社。

                 八幡神社

「史跡金窪館阯入口」
神社の先で右に入る道が伊香保道。角に金窪館址入口の標石。およそ300m先に新田義貞築城の金窪城跡がある。

「陽雲寺」
左手に崇栄山陽雲寺。天文9年(1540)創建、武田信玄婦人が晩年仏門に入ってここに住んだ所で、夫人の墓がある。

「民家」
右手に古い民家が残っている。

「一里塚跡」
勅使河原に入ると右手白い土蔵の前に祠が有り、横に一里塚碑がある。

                 一里塚跡

「神流川の神流川橋」
一里塚の先で国道に合流し神流川(かんながわ)に至る。この川武蔵国と上野国の国境、流れがしばしば変わり道筋が判り難いため、両岸に目印として見通し灯篭と呼ばれている常夜燈が設けられた。今は橋のたもとにミニチュアが復元されている。

神流川の神流川橋

「神流川古戦場跡」
橋を渡った右手、自衛隊の敷地角に神流川古戦場跡碑と解説板。天正10年(1582)本能寺の変を知った織田方の滝川一益と小田原北条方北条氏邦がこの神流川原で戦った。





      新町


      中山道第十一宿 新町宿


      所在地 群馬県多野郡新町
      最寄駅 JR高崎線新町駅
      本陣2、脇本陣1、旅籠43、総人口1,437、家数407
      倉賀野へ 1里半(5.9q)


「中山道新町宿の常夜燈」
古戦場を過ぎ、国道から左に分かれると新町の宿。分岐する所に常夜燈と中山道新町宿の標石が立つ。

「常夜燈」
これが昭和53年(1978)に復元された見通し灯篭。元の常夜灯は文化12年(1815)に作られたもので、今のは高崎市大八木の諏訪神社にある。

常夜灯

「八坂神社」
宿に入ってすぐ右手に土蔵造りの小さな祠の八坂神社がある。昔は柳の大木が有ってそばに柳茶屋と呼ばれる茶屋が有った。今はどちらも無い。横の翁塚は芭蕉の句碑。
      傘におしわけ見たる柳かな      芭蕉

「諏訪神社」
八坂神社の先250mの右手には諏訪神社。中の鳥居は元禄15年(1702)の建立。浄瑠璃竹本百合大夫の辞世の句碑と言うのがある。

「高札場跡」
郵便局の角を右へ曲がると日光街道、左へ曲がると藤岡道。先へ進んで200m。右手の住宅の敷地内に御高札場跡の標柱。落合新宿、笛木新宿の境とある。

                 高札場跡

「酒屋さん」
右手の酒屋さん、お酒の看板が郷愁を感じさせる。

「明治天皇新町行在所石柱と建物」
右手に行在所公園が有りその奥に明治11年(1879)北陸巡行の際に明治天皇が泊られた事を示す石柱と泊まられた建物が保存されている。

新町行在所

「新町宿中心部」
新町宿の中心部、新町駅入口交差点。左へ行くと新町駅。角の群馬銀行の前に旅籠屋高瀬屋跡碑が有り、その先左に寶勝寺、本陣跡がある。

「史跡旅籠高瀬屋跡」
小林一茶が文化7年(1810)5月11日に高瀬屋に泊まった。その際見通し灯篭の建設費を無理やり寄付させられたと言う。夜更けに提灯を持って寄付取りに来た男を蛍になぞらえて詠んだ句が
        手枕や小言いうても来る蛍


                 史跡旅籠高瀬屋跡

「寶勝寺」
左手。

「中山道新町宿小林本陣跡標柱」
左手ブロック塀の前に白い標柱が立っているだけ。この向かいやや手前に久保本陣が有ったのだがこちらは何の印も無い。

中山道新町宿小林本陣跡標柱





新町から倉賀野へ


「温井川弁天橋」
町の出口に橋有りと言われた温井川に架かる弁天橋。

「弁天堂の芭蕉句碑」
橋の手前左下に赤い鳥居の弁財天がある。その境内に安政2年(1855)建立の芭蕉句碑立つ。
      むすぶよりはや歯にひびくしみずかな     芭蕉
昔はここに清水が湧き出して旅人の喉を潤したと言う。

                弁天堂の芭蕉句碑

「日本スリーデーマーチ発祥の地碑」
橋の手前右、公園の様に整備されたところに碑と解説板等がある。最近盛んになっているウォーキングのスリーデーマーチはこんな所が発祥の地だったとは。

「関越自動車道をくぐる」
弁天橋を渡り二又に分かれた道の右手を行く。やがて関越自動車道をくぐる。

「烏川土手、高崎伊勢崎サイクリングロード」
烏川の土手に出て、高崎伊勢崎サイクリングロードを歩く。右土手下は烏川スポーツ広場、野球場、サッカー場が何面もある。

「柳瀬橋を渡ると倉賀野宿」
土手は幾ら歩いても景色が変わらない。はるか向こうに柳瀬橋が見える。これを右に渡るとその先は倉賀野宿。

柳瀬橋を渡ると倉賀野宿

「烏川の柳瀬橋」
昔はこの橋の下流250mの所で舟渡しが行なわれていた。橋を渡ると群馬県高崎市に入る。

                 柳瀬橋

「上流倉賀野方面を望む」
柳瀬橋から左手を見る。手前が国道17号線の新柳瀬橋、その向こうがJR高崎線。

JR高崎線を越える」
橋を渡り岩鼻町交差点で左折、正面奥に観音寺が見える。その裏手には岩鼻陣屋跡がある。 国道17号線を横断し、次いで高崎線の上を越える。この先で同様に下り線をも越える。





      倉賀野


    中山道第十二宿 倉賀野宿


      所在地 群馬県高崎市倉賀野町

      最寄駅 JR高崎線倉賀野
      本陣1、脇本陣2、旅籠32、総人口2,032、家数297
      高崎へ 1里19町(6.0q)


「日光例幣使街道追分」
右からの日光例幣使街道と合流、ここがその追分。追分には阿弥陀堂、文化11年(1814)建立の常夜燈と古い道標とがある。日光例幣使街道とは徳川家康の命日の4月18日に行われる日光東照宮祭礼に朝廷から派遣される勅使が通る道。

日光例幣使街道追分

「景観賞2001年大山邸」
街道の左手に門構えに黒塀のお宅は堂々とした日本建築で、門の脇に景観賞の碑がある。なるほどと納得。この辺りが下の木戸だった。

                 大山邸

「倉賀野町道路元標」
街道脇の右手足元に小さな石の倉賀野町道路元標がある。

「倉賀野宿中心部」
倉賀野宿の中心部を望む。前方左の赤い看板のスーパー丸幸辺りが本陣跡。

「中山道倉賀野宿本陣跡碑」
左手道路脇、スーパー丸幸駐車場に本陣跡碑がある。これは勅使河原本陣の跡。

中山道倉賀野宿本陣跡碑

「中山道倉賀野宿中町御傳馬人足継立場跡碑」
駅入口交差点の左手、倉賀野仲町山車倉の前に長い名前の碑がある。





倉賀野宿の中央、倉賀野駅入口で予定どおり本日の行程を終わる。15時30分。
連日の猛暑で熱中症による死者が出ており、今度の企画は場合によっては、途中で歩くのを断念せざるを得ないかもと考えた。しかし出発の日、関東地方で久々の大夕立、交通が乱れる程。そのお陰で昨日今日と曇りがちで気温も30℃くらい。帽子に長袖シャツの紫外線対策スタイルで歩くことが出来た。本当にラッキー。でも熊谷堤と烏川沿いのサイクリングロードを歩いている時は、万一の雷を考えると生きた心地がしなかった。

15時55分倉賀野発JR高崎線上野行きに乗車、上野着17時45分。18時45分東京発新幹線「ひかり169号」岡山行きに乗車、豊橋着20時27分。20時40分豊橋駅発JRバスに乗車。21時10分帰宅。当初の見込みよりおよそ1時間早く帰ることが出来た。

今日の新聞の見出しには『小泉首相靖国参拝田中外相の申入れ拒否』とある。

     49,049歩
     深谷〜倉賀野   24.4q


ページ公開 平成14年12月5日
ページ改良 平成22年10月31日
写真追加 平成22年11月9日




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