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本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その1 


平成16年11月9日(火) <その1>


今回は珍しく家内が一緒に歩いてくれると言ったので、二人そろっての街道歩きとなる。さて、どんな道中になるやら、お楽しみである。いつもなら駅まで送ってもらうところだが、今回はそれが出来ないのでバスで行く。JR東海道本線の電車で9時58分磐田着。駅で態勢を整え、見付宿の本坂越、通称姫街道の追分へと向かう。お天気は最高、10月中旬の温かさとかで歩き出したら暑くなってきた。



見付の追分から池田の渡しへ(池田近道)


「見付宿西の木戸跡」
10時丁度に磐田駅前の通りを真北へ進み見付宿へと向かう。この道は駅前あたりでは「ジュビロード」と呼ぶ。さすがはJリーグ・ジュビロ磐田のフランチャイズ。東海道は直ぐ先、左手の本多屋食堂の角で左、すなわち西へと曲がって浜松へと向かう。駅前からの道をそのまま直進すると、その道はやがて「天平通り」と呼ぶようになり、左手に市役所、遠江国分寺跡、右手には府八幡、その境内の一角に聖武天皇(701〜56)と桜井王の問答歌が刻まれている万葉歌碑がある。得意になって家内に説明をするのだが、この道は先(平成9年8月9日)の東海道ウォークで既に歩いているので未だ記憶に新しい。国道1号線を越えると見付宿の西の木戸跡になり、道の両側にモニュメントが立っている。

見付宿西の木戸跡


「本坂越え入口」
次の信号交差点で東海道・見付宿の道は右、すなわち東へと曲がり本陣跡などのある宿の中心へと向かう。この東へ向かう宿の通りを「宿場通り」と呼ぶ。この西坂町交差点で逆に左へ向かうのが本坂越で、ここがその追分である。

「これより姫街道の看板」
本坂越の入口に木製の看板が立っており、これには「遠州見付宿、これより姫街道、三州御油宿まで」とある。脇のプランターにはニチニチソウが綺麗に咲いている。ここからが今回の本坂越ウォークのスタートとなるので、歩数計をリセットする。

これより姫街道の看板


「古い蔵」
追分の交差点から本坂越に向かってすぐ左手に背の高い土蔵がある。白い漆喰の一部は剥がれ落ち土色が見えているが、どっしりとして存在感があり、本坂越の入口にふさわしい。

「河原橋」
間も無く加茂川の河原橋を渡る。その先は道幅が狭まり街道らしい雰囲気になる。

河原橋


「常夜灯」
すぐに道がYの字に分かれる。その分かれ道には秋葉山の常夜灯が立っている。火袋には電灯が入っていて昼間でも灯っている。常夜灯の後にはコスモスが数本心細げに咲いている。

常夜灯


「中部一二九部隊址」
Y字路の右手、狭い方の道を行く。ここからは急な上り坂となり、短い区間だが喘ぎあえぎ上る。Y字の左の道と合流して平坦となる。右手に広い公園がある。「かぶと塚公園」と言い、入った所に『中部一二九部隊址』の門柱状の記念碑などがある。周りのケヤキが色付き、ドウダンツツジが紅葉を始めている。秋が深まってゆく感じがする。

「兜塚」
この公園は旧静岡大学農学部跡に作られたもので、中に兜塚古墳がある。その他体育館、ソフトボール場、テニスコート、弓道場、陸上競技場と親水公園などがある。

兜塚


「兜塚古墳の解説」
解説などによると、兜塚古墳は古墳時代中期 (1,550年前)に造られた直径80m、高さ8mの円墳で、円墳では県内で最大の大きさ、戦時中ここに対空陣地が作られ、その時中心部から変形三神三獣鏡や玉類、直刀などが出土したとある。

「秋葉堂」
公園を出ると国道1号線と合流して先へと進む。公園の先が磐田警察署、町の割には立派な建物が並ぶ。これなら市民も安心できるかな? 信号を越して次の横断歩道橋の所で、国道と別れ右に進む。程無く右手に『秋葉山』、『常夜灯』と透かし彫りのある祠がある。

秋葉堂


「一言坂」
この先で道は二又に分かれる。左の道をとって坂を下る。

一言坂


「一言坂の戦跡碑」
坂を下り終えたところで左に行くとすぐ国道に出る。国道の際に『東海道と歴史の道』の案内板と『一言坂の戦跡』の銘板をはめ込まれた石柱がる。

「東海道と歴史の道・一言坂案内」
ここ一言坂と周辺の東海道の案内が書かれている。

一言坂の戦跡碑と歴史の道の解説


「東海道と歴史の道・一言坂の戦跡解説」
坂から下った所に戻ると、ここにも『東海道と歴史の道』の案内板がある。ここの解説には『一言坂の戦跡』として、この一言坂付近にて元亀3年(1572)、三方原の前哨戦となる武田軍と徳川軍の戦があったことが記され、『姫街道』の説明では、東海道が見附宿から中泉代官所の方へ南下し、さらに豊田町森下付近から池田の渡船まで北上する遠回りの道であったため、見附宿からまっすぐ西に出て一言坂を通り、池田渡船場まで斜めに直線に行けるこの道が「池田近道」とも呼ばれて、多くの旅人に利用されたと記されている。

「倒れた池田近道の標識」
坂下の合流点のすぐ先に、今度は右後方へと分かれる獣道のような細い道が有り、その横に『池田近道(姫街道)』の標識が倒れている。標識には地図が描かれていたので、それを信じて進むことにする。でも、この先は藪の中へ入って行くような道である。家内は「今年は熊がよく出るので、ここで熊に襲われるかも知れない」と、手近にあった棒切れを振り回しながら歩き出した。

倒れた池田近道の標識


「橋を渡ってグランド横へ」
ところが藪の中を歩いたのはほんの僅かで、すぐに田圃の脇に出た。家内は「熊が出なくて良かった〜」と棒切れを捨てた。小さな橋を渡って、道路を横断するとその先は立派なグランドがある。その脇を通り、四角の田圃を斜め対角線状に横切る格好の道を進む。

「池田近道の残存部」
信号交差点に出た。その道を渡って細い水路を越え、再び斜め右に進む。この辺りが昔の『池田の近道』の残存部と言わるところだが、何の変哲も無い住宅地である。庭先に大きく育った香草ローズマリーがあったので、枝先を摘まむと何とも言えない芳香がした。一筋目で左折、丁字路を突き当たるので左に回り一筋目を先へと進む。

「知恩斎一言観音」
右に自然石に刻まれた知恩斎の碑があった。奥に山門とお堂が見える。道はこのお寺を迂回してきた事になる。ここの山門は一言村の代官所の門を移築したものと言われ、山門の左に観音堂と形の良い松が一本植わっている。

知恩斎一言観音


「一言観音」
この観音様は一言観音、一生に一度だけ願いを叶えてくれるそうで、武田信玄(1521〜73)に敗れた徳川家康(1542〜1616)も戦勝の一言を願ったと言われている。境内には石蕗の黄色い花が咲いてる。この先は広い、広い田園風景。先ほどから上空を2機のジェット練習機が旋回している。この辺りは浜松の航空自衛隊の基地に近い。

「弥藤太島バス停」
町営バス・ユーバスの停留所。100円で乗れるバスにしては何とも立派なバス停のポストである。

「弥藤観音(いぼとり観音)」
ここから左に入ると弥藤観音と言う「いぼとり観音」が有るので寄ってみた。お堂の中に優しい姿で鎮座されている。高さは78cm、幅は43cm、台の高さが35cmの如意輪観音で、150年程前に廃寺になった観福寺のもの。近状の人があげるのか綺麗な花が供えられている。祠の左手には大きな2基の墓碑があった。

弥藤観音(いぼとり観音)


「長屋門」
元の街道に戻る途中に長屋門がある。小ぶりでは有るが姿・形が良く、綺麗に保たれている。

長屋門


「枯れた蓮田」
近くには蓮田があって、干上がった田にハスが立ち枯れている。家内はそのハスの枯れた花芯を手芸に使いたいと、目を輝かせている。

「池田近道標識」
やがて大きな通りに出た。そこは国道1号線磐田バイパスの森岡IC、手前右には消防署。バイパスをくぐって、次の信号で西へと渡る。交差点の北西角にはガラス造形と金属造形の融合という全国でも珍しい文化施設「新造形創造館」がある。その横に北へ向かう小道が有りその脇に『池田近道(姫街道)』の標識が立っている。この近くにも蓮田があった。

池田近道道標


「秋葉御神灯」
標識から入ってすぐに道は左斜めへと曲がる。この辺りは上新屋(かみあらや)。左手に石柱がありその上に金属製のランプが乗せられている。石柱には『秋葉御神燈』『磐田郡井通村上新屋區』とあり、もう一面には建立年号があるのだが日差しの関係で読み取れなかった。上のランプには電球が入っており、夜には灯るようになっている。

「上新屋ポケットパーク」
御神灯のすぐ先、左手に上新屋のポケットパークがある。タイル舗装された床面に『藤と香りの道マップ』の大きな地図が貼られている。昭和63年に豊田町は「香りのまちづくり」を宣言して、「香りの公園」、「香りの博物館」や「藤と香りの道」をオープンし、四季折々の季節の香りでこころを癒すように40種、5千本の樹木を植えたという。

上新屋ポケットパーク


「ポケットパークの標識」
モニュメントを兼ねた案内標識があり、それには物語と挿絵があり、順に廻ると物語が分かるようになっている。ここは『第四場』とあったが残念ながら詳細を読んでこなかった。ここならきっと『熊野』の話に違いない。

「藤と香りの道」標識
道を西へと進み小さな流れの池田川を越えると、そこにも「藤と香りの道」の標識がある。ここで、この標識が示す池田の渡しの方角の北へと折れて、池田川沿いを行く。突然大きな音でサイレンが鳴り出した。12時の知らせである。

「妙法寺」
先の丁字路で左折し、信号を越えた一筋目で右折する。この辺りは池田の集落。間も無く右手に大きな門構えの寺、曹洞宗の妙法寺がある。

「姫街道跡の標柱」
妙法寺のところから左へ入る道があり、その脇に『姫街道跡』と墨書された大きな標柱が立っている。

姫街道跡標柱


「池田の渡しの道標」
道の正面、駐車場の所に案内標識があり、左矢印方向が池田の渡し、門前市通り。直進矢印方向が芸能館とある。門前とは、もちろん行興寺の門前のことである。

「行興寺」
矢印に従って道を左に折れる。道路の舗装が綺麗になり街路灯も綺麗なのが並んでいる。右手のお寺が長藤と謡曲『熊野』で知られた行興寺である。門前には大きな石柱に『天然記念物熊野乃長藤』とある。

行興寺


「行興寺の記」
門前に立てられたお寺の記には『当寺は、今より八百年の昔、延久元年の創建にて、謡曲で有名な熊野御前の旧跡であります・・・』とある。延久元年は1069年。平安時代中期。

「熊野の長フジ解説」
同じく長藤の解説によると、国指定天然記念物が1本、県指定が5本。どちらも樹齢は不詳であるが老木で巨木。花房が1m以上に伸び美しい紫色の花を付ける。熊野御前が植えたとの伝承がある。

「藤棚とお寺」
ここの境内、今は人影が無いが、藤の花の時期には見物の客でいっぱいになる。家内と一緒に見に来た事がある。藤棚の下の床机で小休止喉を潤し、トイレを拝借する。

藤棚とお寺


「熊野と母の墓」
本堂の左手にお堂があり、奥には熊野(左)とその母(右)のお墓である宝篋印塔が並んでいる。
熊野の話は次のような話である。熊野は池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生れ、その美しさゆえ治承4年(1180)遠江守であった平宗盛(平清盛の息子)(1147〜85)の寵愛を受け、都に上った。その後、郷里の母が病気との知らせを受けるが、帰ることが許されず、傷心している熊野の心を慰めようと、宗盛は清水寺の花見に連れて行く。熊野は清水寺の満開の桜を見て、「いかにせむ都の春も惜しけれど なれし東の花や散るらん」の一首を宗盛に捧る。この歌に心打たれた宗盛は、熊野に郷里へ帰ることを許した。熊野は懸命に母の看病をするが、その甲斐もなく母は亡くなる。また、宗盛も源平の戦いに敗れて亡くなってしまった。一人残された熊野は尼となるが、33歳の若さでこの世を去った。

熊野と母の墓


「天然記念物の長フジ」
これは県指定のもの。5本が絡み合った幹の太さには驚かされる。

「常夜灯」
お寺を出て天竜川へと向かうと、右手に背の高い玉石積みの台座に乗った常夜灯がある。

常夜灯


「池田の渡し歴史風景館」
常夜灯の向かい、道の左手に「池田の渡し歴史風景館」がある。平屋の小さな施設で入館無料。

「展示されている紙人形」
中のショーケースには紙人形で池田の渡しの様子を再現してある。手漕ぎの舟を操る船頭や、船の中で身を寄せる旅人達が面白い。壁面には浮世絵版画の「見付の天竜川舟渡し」が貼られている。

「池田橋の跡」
もう一本天竜川寄りの道の右手に「池田橋の跡」の碑がある。今ここには橋は無いが、明治16年に幅9尺(2.7m)、長さ425間(765m)の橋が架けられ、渡り賃を取っていたと言う。昭和8年6月30日の国道1号線天竜川鉄橋が竣工するまで現役として利用され続けていた。

池田橋の跡


「池田の渡しの記録」
天竜川の土手下には解説板があり、渡船についての古文書の写しと解説が書かれている。

「渡し付近の天竜川を望む」
土手に上がって渡し付近の天竜川を眺めてみた。今は水量が少ないが、昔はここを舟で渡った。旅人達や船頭の動きを想像すると、「舟が出るぞ〜」との声が聞こえてきそう。

渡し付近の天竜川を望む



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