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本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その1 


平成16年11月9日(火) <その2>




池田の渡しから安間の追分へ

「古さを感じさせる建物」
今は、この池田の渡しでは対岸へと渡ることが出来ない。国道1号線の新天竜川橋か古い方の天竜川橋のどちらかで渡ることになる。土手から降りて川沿いの道を下流の方向へと向かう。左手の2階屋が目に付いた。外装は全てトタンが張られ赤いペンキで塗られているが、袖壁があって昔は味のある建物だったに違いない。

「天白神社」
左手、堤防下に石の鳥居のある神社がある。社殿は白いコンクリートで味も素っ気も無い。

天白神社


「天白神社の由緒」
このお宮は天白神社、孝謙天皇の御代(749〜758)の創建、祭神は猿田彦命、池田村の鎮守で、祭礼の喧嘩相撲が有名で、その風習が今は祭典の式相撲となって伝わっているとある。

「夢舞台東海道道標」
神社の境内に静岡県の東海道統一道標「夢舞台・東海道」が立っている。ここは豊田町・池田渡船場、左浜松宿、右見付宿。

夢舞台東海道道標


「道標」
社殿の左横に自然石のずんぐりとした道標がある。碑面には『右、池田橋・笠井・半僧坊道』とある。池田橋の名があるので明治以降のもの。

道標


「レトロな火の見櫓」
神社のそばでレトロな火の見櫓を見付けた。火の見櫓そのものが見掛けなくなっているのに、このようなお洒落なデザインのものは非常に珍しい。神戸の異人館のそばへ持って行っても決して見劣りはしないだろう。

レトロな火の見櫓


「天竜川渡船場跡碑」
堤防下には立派な『天竜川渡船場跡』の碑がある。石積みの上に大きな碑が乗った堂々たるもの。これを下から見上げるのでなおさら大きく見える。池田の渡船場は三ヶ所あって水量が増すと上の渡船場が使われ、一般にはこの碑のある所の下の渡船場が使われた。上の渡船場は「池田橋跡」の碑の有る所、中の渡船場は「天白神社」の所と言う。
そのうちに国道へ出た。新しい道は新天竜川橋へと頭上を行く。その向こうに古い道が天竜川橋へと向かっている。さて対岸へと渡るのにどのようにするか思案のしどころ。でも先にお昼にしようと近くの食堂へ入る。時計は1時を指している。



天竜川渡船場跡碑



天竜川を渡る

「天竜川橋を望む」
満腹になって食堂を出た。さて、これから橋を渡るのだが、この橋2本共歩道が付いていない。東海道で歩いた時(平成9年8月9日)は交通量の少ない古い方の橋を渡った。でも渡ってみると車は途切れることなく、バスやトラックの大型車がほとんどで、渡り終えるまでは生きた心地がせず、その時間の長く感じたこと。今考えてもぞっとする。今回は家内との二人連れ、余計に心配である。とにかく、今回も古い方の橋をと考えて、橋へと向かった。橋の手前に長森バス停がある。時刻表を見たら10分待ちでバスが来る。ラッキー! これならバスに乗って橋を渡ろう! 次の中ノ町までの1区間、一人120円。安全に渡ることが出来た。もし、30分の待ちだったら歩いて渡っていたかもしれない。
中ノ町でバスを降り、戻るようにして天竜川右岸(浜松側)の堤防へと上がる。ここから天竜川を眺めた。今バスで渡った古い橋のトラスが長々と続いている。危ない目をせずに渡れた事に感謝、感謝。

浜松側から天竜川橋を望む


「玉座迹の碑・明治大帝御聖跡標石」
東海道の天竜川の渡しは舟渡しで、古くには天中の渡しと言い、ここも上之乗船場、中之乗船場、下之乗船場とが有って、通常は下之乗船場が使われた。大天竜と小天竜の二つの流れを渡ってこの辺りに上陸した。堤防脇に玉石積みの台座があり、その上に『玉座迹』の碑が乗っている。左手前に『明治大帝御聖跡』の石柱がある。

玉座迹の碑・明治大帝御聖跡標石



「船橋之跡碑」
下流側に、続いて『船橋之跡碑』、 明治元年の天皇行幸にあたって船橋が架けられたところ。78艘の舟が並べられたと言う。玉座迹やこの船橋之跡はいずれも明治天皇の行幸に関するもの。

「天竜川木橋跡と船橋跡の標柱」
さらに続いて、今度は木製の標柱、明治時代には船橋や木橋が架けられた。架けては流されての暴れ天竜との戦いがしばらく続いたと言う。碑や標柱があれこれ立てられているが、何れもここが浜松側への上陸地点であったことを示している。

天竜川木橋跡と船橋跡の標柱


「六所神社」
堤防の下にあるのが六所神社がある。

六所神社



「六所神社の由緒」
建治2年(1276)に尾張の国中野郷より勧請とあり、祭神は底津、中津、上津綿津見神の三神と底、中、上筒之男命の三神で、海神や航海の守護神が祭られている。この渡しの安全を祈願したのだろう。

「旧東海道の標柱」
神社の外には旧東海道の標柱が立っており、ここから西へと東海道が延びている。これから先はしばらく東海道を進み、安間の萱場で二つ目の本坂越ルートへと入ることになる。先ほど歩いてきた見付からのルートで、池田の渡しを渡った先は、この安間からのルートの市野宿の手前で合流する。だが、この区間は東名浜松ICなどが出来てほとんど消滅してしまっている。

旧東海道の標柱



「天竜川橋記功碑」
ここ中野町の浅野茂平が私費を投じ本格的な船橋を架橋し明治7年(1874)に完成させた。その功績をたたえる碑。亀甲形空船を横に置き板を並べ櫓で固定する舟橋で、それに普通の板橋を組み合わせたもと言われている。

「松林寺」
右手のお寺が松林寺、境内には徳川家光(1604〜51)が浜松城主に命じて建立させた薬師堂がある。

「萱場高札場跡」
松林寺の向かいに標柱が立っており『かやんば高札場跡』とある。

かやんば高札場跡



「金原明善の生家」
右手黒板塀に松の木が見えてくる。これが金原明善(1832〜1923)の生家。向かいに明善記念館があり、天竜翁と言われ天竜川の治水や、植林、その他多くの事業に私財を投じ社会に尽くした明治から大正期の実業家、明善の遺品や関係資料が展示されている。家内と二人、説明を見て「昔の人は偉かったね〜」と感心する。

金原明善の生家



「本坂越、安間起点」
右手、白いコンクリート塀とブロック塀に挟まれ、進入禁止の細い道が本坂越の道。ここから東海道と別れ北へと向かうのが二つ目の本坂越のルートである。今回の本坂越(姫街道)ウォーク<その1>はここで終わりとし、次回はここから市野宿を通り三方ヶ原の追分を目指す事とする。歩数計の記録をとりリセットする。

本坂越・安間起点



「旧東海道標柱」
帰りはJRの天竜川駅からとし、ここから駅へと向かう。国道1号線と分かれた道がこの旧道と合流する所に『旧東海道』のコンクリート製偽木の標柱が立っている。

「安間一里塚跡の標柱」
合流点の手前、右手のフェンスの中に『一里塚跡』の標柱が立っている。これが安間の一里塚の跡。

安間一里塚跡の標柱



「安間橋」
合流した道を進み、安間川の安間橋を渡る。


安間橋


本坂越安間の起点まで来た所で本日の行程を終える。ここからJR東海道本線天竜川駅へと向かったのだが、直ぐそこと勝手に思っていたのが、どっこい、結構あった。天竜川駅から15時11分の電車で帰路に着いた。今回は初めての「本坂越ウォーク」、その中の「池田近道」のコースを歩いた。ほどほどの距離であったのでゆとりを持って歩くことが出来た。また、好天に恵まれ、道中でいろんな秋を感じられたことも良かった。家内の手には何時摘んだのか花や小枝などが大事に握られていた。

今日のニュースは「イラクのファルージャへ米軍が総攻撃」。「新潟県中越地震、脱線した新幹線を明日からクレーンで撤去へ」。「ダイエー球団ソフトバンクへ売却」など。

     今日歩いた記録
     24,615歩(本坂越正味16,429歩)
     14.75q (本坂越正味9.85q)
     987kcal(本坂越正味657kcal)

ページ公開 平成16年11月20日
ページ改良 平成23年4月30日



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