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本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その2 


平成16年12月9日(木) <その1>


本坂越の道中は珍しく家内が一緒に歩いてくれると言ったので、これは素晴らしい事と喜んでスタートを切った。ところが、今週は予定が詰まり過ぎていること、今日のコースがあまり面白くなさそうだと言うことでパスすることとなり、せっかくの二人揃っての街道歩きが、早、2回目でキャンセルとなり、元の一人歩き(独歩)に戻ってしまった。そこで駅まで送ってもらい、一人でJR東海道本線の天竜川駅へと向かう。天竜川駅で態勢を整え、東海道安間の萱場(かやんば)にある本坂越、通称姫街道の追分へと向かう。お天気は晴れ、師走に入り、一昨日が12月7日で暦の上での『大雪』、山の雪が里でも降り出す頃。でも温かく、とても師走とは思えない陽気である。



安間へ

 天竜川駅の正面の道を、まっすぐ北に東海道へと進む。東海道との交差点の左向こう角には六所神社があり、ここで右に折れ東海道を安間へと向かう。右手に昔茅葺だったと思われる家、松並木、寺道の標識、浜松祭りの凧屋さん、再び松並木があり、浜松バイパスをくぐる。薬新町バス停、団地の前に一本松、そして安間川を渡ると道は二又に別れる。その分かれ道の角に東海道の標柱と一里塚跡の標柱とが立っている。右へ行くのが東海道。左へ行くと国道1号線に合流する。東海道を進み左の二筋目の道が、本坂越(姫街道)への道で、ここがその追分である。今回はこの安間の萱場の追分から本坂越の道を気賀方面、三方ヶ原の追分まで歩く。

東海道の松並木




安間から市野宿へ

「本坂越の基点」
この住宅に挟まれた、何の変哲も無い道が本坂越(姫街道)の基点となる道である。ここには本坂越或いは姫街道に関する何の説明も標識も無い。浜松ではこの道を本坂越の道と認知していないのだろうか。歩数計をリセットし時刻を確認する。10時05分、ここから北へ向かって第1歩を踏み出す。

本坂越の起点


「国道1号線を渡る」
天竜川駅から来て先ほど二又に別れたもう一方の道を信号で横断し、続いて国道1号線を左にある安新歩道橋で越える。交通量が多いだけに歩道橋を使うと安心(?)である。浜松バイパスから来て国道1号線に入る道が頭上を走っているので、それをくぐる。このバイパスからの道は何時も車で走っているので、こんな所を歩いてくぐるなんてことはめったに無い。

国道1号線を渡る


「了願公園」
歩き始めたらすぐ右手に公園があり、中には簡単な遊具と東屋、ゲートボールが出来る広場がある。これが了願公園。安間本家の始祖了願にちなんだ公園。安間家はこの辺りに屋敷を構えていた旧家である。

了願公園


「安間家から土地寄贈を記す碑」
公園の入り口入った所に、浜松市が公園を開園した由来を記した碑が置かれている。『この了願公園は始祖了願に因み浜松市安新町(旧浜名郡和田村安間新田)安間本家から土地のご寄付をいただき開園しました。平成8年3月吉日浜松市』とある。

安間家から土地寄贈を記す碑


「道標」
同じく右手、次の小道の角、住宅のブロック塀とドウダンツツジの生垣の間に、苔蒸した小さな道標がある。気をつけていないと見過ごしそうなもので、『右、笠井・秋葉山、左、市野・気賀・金指』と刻まれている

道標


「県道65号線との別れ」
やがて左から来た県道65号線浜松環状線、すなわち浜松バイパスから東名浜松インターへ行く道と斜めに交差する。歩いている本坂越の道は県道314号線中野市野線で、この交差点が柏木橋。交差点の左手には公園があり、V字のところにはコンビニがある。少し進んだ所に小さな橋があり、これが柏木橋である。

県道65号線との別れ


「半僧坊道の里程石」
左手の家並みが切れて田圃となる。刈り取りが終わり、ひこばえが伸びた冬の田圃が続く。次の下石田中の信号交差点を過ぎ、左手民家のマキの生垣の角に『五里廿六町』(およそ22.5キロ)と刻まれた『半僧坊道の里程石』がある。半僧坊とは浜松の北西、引佐郡引佐町奥山にある方広寺に祀られている半僧坊大権現のこと。お寺は建徳2年(1371)後醍醐天皇の皇子円明大師によって開かれた臨済宗方広寺派大本山、深奥山方広万寿禅寺と言い、東海屈指の名刹である。半僧坊には中国からの帰路、海難に遭った円明大師を助けたという半僧坊大権現が祀られており、厄除け諸願成就の祈祷所として参拝者を集めている。気賀辺りまではこの街道を辿ったものと思われる。

半僧坊の里程石


「長泉庵」
次の信号の先左手の駐車場の道路脇に常夜灯があり、奥にお堂が有るのが長泉庵。

長泉庵


「馬神、馬頭神供養塔」
お堂の脇に小さな供養碑があり、お花やお神酒が供えられている。この供養碑には馬神、馬頭神とあり、街道を行き来して倒れた馬の供養をしたもので、如何にも街道らしく、供えられているお花を見ると、地元の人達の温かな心が感じられる。

馬神、馬頭神供養塔


「八幡宮の森」
下石田北の信号交差点の右に八幡神社のこんもりとした鎮守の森が見える。この時期、街道を歩いていると民家の庭先や小さな畑に夏みかんが黄色く実り、山茶花の赤と白の花、枇杷の花、野菊の赤、ピンク、黄、白等とりどりの色、ナツツタの紅葉など初冬の色を楽しむ事が出来る。

八幡宮の森


「池田道の標柱と池田道」
次の押しボタン信号のある交差点から右(東)へ行く道が『池田道』で、交差点角にはその標柱がある。しかしこの標柱の塗装が剥げてほとんど読めない状態になっている。池田道は見付宿の西坂追分から一言坂、上新屋を通り、池田の渡しで天竜川を渡り、西進してここへ出て、市野宿に繋がった通称『池田近道』で有るが、天竜川からここまでの間に東名浜松インターが出来て、古い道筋は無くなっている。

池田道の道標と池田道


「安間川」
道は左に緩やかにカーブして間も無く安間川を渡る。橋の向こうは新興住宅地のようで新築の家が並んでいる。川辺にはハクセキレイのつがいが尾を振りながら餌をついばんでいる。

安間川




市野宿

本坂越には東から市野宿、気賀宿、三ケ日宿、嵩山宿の四つの宿場が有った。東海道の安間から市野宿を経て気賀宿へ至る道は、安間の一里塚を起点にして一里塚が設けられており、江戸時代初期には幕府公認の街道であった。しかし、東海道浜松宿から気賀宿への道が明和元年(1764)に幕府の道中奉行管轄となったことから市野宿が徐々に宿としての機能を失っていったと言われている。

「市野宿本陣跡」
安間川を渡り緩く右にカーブすると、今度は左に折れる。道幅が狭く、このような道の曲がりが有ると、如何にも宿場らしい雰囲気である。左に折れたところの右手が本陣の跡だと言われているが、今は何の痕跡も、解説や表示も無い。

市野宿本陣跡


「姫街道の標柱」
右手に『姫街道』の標柱が立っている。その周りはコニファーや葉牡丹、ビオラなどが小奇麗に植え込まれており、住民の心の優しさが伝わってくるようだ。

姫街道の標柱


「半僧坊道の里程石」
続いて右手に半僧坊道の里程石がある。標石には『奥山、半僧坊、五里十四町』(およそ21.2キロ)とあり、先ほどのが『五里廿六町』(およそ22.5キロ)だった。細かく表示されているのに感心する。

半僧坊の里程石


「元料理旅館」
左手に大きな二階建ての家がある。看板には料理旅館とあるが、今は営業していないようだ。かつての賑わいは無く、宴の後の寂しさだけが残っている。

元料理旅館


「石造りの蔵」
市野町の信号交差点を過ぎると、右手に大きな二階建ての石造りの蔵が目に入った。珍しいので、そこに居られた年配のご婦人に、声を掛けて見せて貰った。昔、繊維業をしていた時の蔵で、明治から大正の頃の建築。もう少し東に有ったものを5年前にここまで家曳きして移動した。今は住まいとして使われている。写真を撮らせて欲しいとお願いしたら、わざわざ洗濯物を取り込んで下さった。この集落はここ5、6年で家が建ち変わり、昔の面影がすっかり無くなってしまったとおっしゃっていた。

石造りの蔵


「桝形跡」
次の道が変則交差点、左斜めに進む道が昔の街道で、ここが桝形。先の蔵の家の方が詳しく教えて下さったので、迷うことなく無事に通過することが出来た。ありがとう。

桝形跡


「熊野神社」
右に折れると広い道になり、右手に熊野神社がある。

熊野神社


「シイノキ」
鳥居をくぐった所にシイの大木がある。境内にはこの他、本数は少ないがクスやイチョウの大木もある。

シイノキ


「馬頭観音と子安地蔵」
境内の奥に市野町南公会堂や市野南屋台蔵があり、東北の隅に馬頭観音と子安地蔵が祀られており、隣に小さなお社が有る。何の神様が祀られているかは分からなかった。

馬頭観音と子安観音


「鞘堂に入った常夜灯」
鳥居の左、道路に面した石垣の内に鞘堂に入った常夜灯がある。この地方では常夜灯を鞘堂で覆う風習があるらしい。またこの屋根の立派なこと。大きな鬼瓦や凝った懸魚で装飾されており、頭でっかちで潰されそう。これでは常夜灯の意味が無いのではないか?

鞘堂に入った常夜灯



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