ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ



本坂越(姫街道)独歩記

ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき


本坂越(姫街道)ウォーク その2 

平成16年12月9日(木) <その2>



市野宿から三方ヶ原の追分まで

「八丁なわて」
熊野神社から先は、ほぼ西へと真っ直ぐな道、県道261号が続く。道端には黄やピンクの野菊が咲き、刈り取った後の田圃には数十羽のスズメが群れている。この道沿いには田圃と大型の施設がある。左手の天王介護老人保健施設や、与進北小南の信号を過ぎると左手に市野ゴルフ倶楽部、右手には県立浜松技術専門学校(浜松テクノカレッジ)がある。

八丁なわて


「担庵江川先生の像」
浜松テクノカレッジの西南隅、道路から見えるところにちょん髷姿の胸像があった。興味を引かれたので見てみたら『坦庵江川先生の像』とあり台座には小さな文字の漢文でぎっしりと書かれたものが嵌め込まれていた。そこでは読めなかったので帰ってから調べてみた。
江川太郎左衛門英龍1801〜55(享和1〜安政2)、字は九淵、号を坦庵。江戸後期の西洋流兵学者・民政家。江川家は鎌倉時代以来の伊豆国韮山の名家で、伊豆国代官を世襲。高島秋帆に入門、砲術を学び江戸でこれを教授、門下には佐久間象山ら26藩1千人を数えた。世界情勢に通じ広い視野で活躍した幕府開明派官僚の一人、科学者、技術者としても有名。

坦庵江川先生の像


「長福寺」
街道は右へと大きくカーブする。曲った先、右手に長福寺がある。正式には黄檗宗曽我山長福寺。門前右手には数体のお地蔵さんがあり、みんな毛糸の赤い帽子を被っている。左奥には円形の墓石で、長福寺二代目の北堂和尚の墓。木綿の栽培を普及させた人物とか。

長福寺


「小池の一里塚」
長福寺の斜め向かい、街道の左手に小池の一里塚跡。碑と解説板がある。碑には『史跡、一里塚、江戸より六十五里』とあり、この辺りを小池村一里山集落と呼んだとある。

小池の一里塚


「大養院前の常夜灯の鞘堂」
小池町の信号を過ぎ、次の信号で道は二手に分かれる。右へ行くのが県道で、左へ行くのが街道である。県道から分かれてすぐの右手に禅寺があり、その門前に常夜灯の鞘堂がある。ここのは先の熊野神社のものと比べ更に装飾が複雑になる。先のは屋根が切妻であったが、ここのは入母屋で棟には鯱が乗っている。

大養院前の常夜灯の鞘堂


「大養禅寺」
禅寺は臨川山大養禅寺と言い、門には『浜名湖新四国第三十一番札所観音霊場』とある。いろんな所にいろんな四国霊場があるものだ。

大養禅寺


「水路で遊ぶマガモ」
この先、県道の自動車学校前踏切へと行くのだが、街道はこの辺りは消滅しているらしい。そこで、この先の水路の江原橋を渡り、水路沿いを行く事とする。水路にはマガモが十数羽群れて泳いでいた。のどかな風景である。

水路で遊ぶマガモ


「遠鉄、自動車学校前駅」
水路が県道に出会うところが大橋。ここから再び県道を行く。右手は遠鉄の自動車学校、建物と練習コースがある。左手には大きなアパートがあり、下が遠鉄の自動車学校前駅で待合所や券売機が並んでいる。踏み切りの左が駅のホーム、そこへ新浜松行きの赤い電車が来た。

遠鉄、自動車学校前駅


「二俣街道」
次の信号のある交差点から右(北)へ行く道に『二俣街道』の道路標識が立っている。遠州二俣には二俣城があって、松井三代(貞宗、宗信、宗恒)が城主を務めたが、1568年徳川家康によって占領された。後に徳川家康の長男信康が、織田信長の命によって切腹させられた場所としても知られる。

「頭の部分が無くなった道標」
街道の左手に頭の部分が無くなった道標がある。秋葉街道の道標か、それとも半僧坊への里程標なのか?

「旧秋葉街道標柱」
二俣街道の次の道の角に標柱が立っていて、『姫街道』ともう一方の面に『旧秋葉街道』と書かれている。秋葉街道は言わずと知れた火の神様、秋葉神社の参拝に使った信仰の道である。

旧秋葉街道標柱


「馬乗り場跡」
先へと進む。国道152号線馬込大橋北の信号交差点、右向かいには大きな『JAとぴあ浜松』の建物。交差点を横断し次の押しボタン信号の先左手に『馬乗り場跡』の標柱が立っている。馬乗り場とは何なのか分からない。この先の宇藤坂とそれに続く三方ヶ原への上りに、この辺りから馬を利用したのかと勝手な想像をする。

「姫街道標識」
続いて『姫街道⇔』の標柱、文字の下に両方に矢じりのある印が書かれている。この道が姫街道に間違いないよと言っているみたい。

「半僧坊道の里程標」
橋の手前、左手に半僧坊道の里程標がある。これで三つ目。ここのには『四里十九町』(およそ17.8キロ)とあり、前には小さなお地蔵さんが並べて置かれている。

半僧坊道の里程標


「五枚橋」
馬込川を渡るのが五枚橋。昔は少し下流を木橋で渡った。その木が5枚だったからか。箱根への上りに、箱根温泉道から別れて早川を渡ったのが三枚橋。東海道を歩いた時のことが懐かしく思い出された。

五枚橋


「宇藤坂」
五枚橋を渡ったら県道から左に別れ、住宅地の中の上り坂を進む。道の先に左にカーブしてきた県道を目指し階段がついている。

宇藤坂


「県道を横切り更に上る」
これを上がると県道を横切り、真っ直ぐに上へと急な坂道が伸びている。これが宇藤坂。

県道を横切り更に上る


「蔵のある街道風景」
坂を上り切る手前右手に黒い羽目板の蔵がある。久々に街道らしい風景に出会い心が躍る。

蔵のある街道風景


「旧姫街道標柱」
右手に『旧姫街道』の標柱がある。この辺り間隔が短く標柱が立てられている。歩く者にとっては有り難いことである。

「常夜灯の鞘堂」
右手欠下平公会堂の横には常夜燈の鞘堂。ここの鞘堂の屋根は比較的シンプルである。

常夜灯の鞘堂


「最古の道標」
前方に広い通りがあり、右手へ坂を上ってゆくのが見える。その道との合流点の手前、右手に、『最古の道標』の標柱と右横に古い石の道標がある。最古とは何で最古なのか? 道標の面には何と書かれているのか? その場ではよく読み取れなので帰って調べてみた。道標の表には「右、きが、かなさし。左、庄内道」と刻まれ、裏には「天保三年之建」(1832)と刻まれており、姫街道で最古の道標であることが分かった。
前方の道との合流が五叉路になっており、信号には豊隆団地五叉路とある。ここで右折し坂を上って行く。この上りは道幅の広い立派な道ではあるがかなりきつい。自転車のご婦人達はみんな押して上っている。右手にホームセンターや老人福祉センター萩原荘、信号の先左手には大きなタイヤショップやドラッグストアが続く。
左の方から物凄い音を響かせてジェット機が飛び立ってきた。今日の道中歩いている間、頭上をジェット機が飛び交っていたが、こんな所から上がってきたのだ。そういえば浜松には航空自衛隊の基地があるのだ。

最古の道標


「一里塚橋バス停」
坂を上り切った所に遠鉄バスのバス停が有った。そこの名前には『一里塚橋』とある。追分の一里塚が近付いてきたのだ。

「一里塚橋」
一里塚橋の大きな信号交差点の手前に、小さな水路を渡る橋があり、左手に小さな『一里塚橋』の銘板がある。気を付けていないと見過ごしてしまいそう。

一里塚橋


「追分の一里塚」
その信号を渡ると左手に家の屋根越しにマツが見えてきた。これが追分の一里塚で、塚にはマツが数本植わっており『一里塚』の標石と解説板が立っている。今までもそうであったが、このような写真に撮りたい場所はたいていゴミ出しステーションになっている。人家の前や商店の前では迷惑になるので、結局ここへ置かれることになる。理解は出来るが残念な事である。

追分の一里塚


「間も無く追分」
県道の両側が賑やかになってきて食事の出来るお店が選べるようになった。昼もとっくに過ぎているのでここで昼食をとることにする。
お店を出て再び歩き出したら、前方に国道257号線と交差する案内標識が見えてきた。この交差点が三方ヶ原の追分で、今日のゴールと決めた地点である。

「元追分交差点と松並木」
三方ヶ原の追分の交差点まで来た。今日はここまで。次回はここからこの先に見えている松並木の道を気賀の宿を目指して歩く事になる。

元追分交差点と松並木


「奥山半僧坊大権現の石碑」
この交差点は斜めに交差しており、そのVになったところに奥山半僧坊大権現の石碑が立っていた。ここで歩数計をリセットする。時刻は午後2時丁度である。



 今日のコースは安間と気賀との間、およそ4里の道中の半分で終わる。一人で歩くにしては短い距離ではあるが、日脚の短い時であり、中途半端に終わるより区切りの良い所で終わった方がとの考えで決めた。アップダウンが無い町場の歩きで、変化に乏しく感動も少なかったが、それだけに次への期待と楽しみが膨らむ。追分から遠鉄バスで浜松駅前まで戻り、JR東海道線で帰路についた。

今日のニュースは「遺骨めぐみさんと別人」。「イラク派遣延長午後に閣議決定」など。

     今日歩いた記録
     20,616歩(本坂越正味15,806歩)
     12.72q (本坂越正味9.48q)
     859kcal (本坂越正味655kcal)

     今までの累計
      45,231歩(本坂越正味32,235歩)
      27.47q (本坂越正味19.33q)
      1,846kcal(本坂越正味1,312kcal)

ページ公開 平成16年12月20日
ページ改良 平成23年4月30日


ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ