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本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その3 


平成17年1月11日(火) <その1>


暮れも押し詰まった12月26日、スマトラ島沖で大地震が発生した。マグニチュード9.0と言う過去4番目に強いもので、インド洋沿岸からアフリカに至る広い範囲で巨大津波が起こり、古今未曾有の大災害となった。今日現在犠牲者は16万人を越え、20万人になるとも言われている。地球の歴史から見れば何ら不思議ではない活動の一つとは言え、地球の形や地軸の傾き、一日の長さが変わるほどのもので、人間社会にとっては経験した事の無い大事件である。日頃奢り高ぶっている人間が、如何に小さな物であるかを思い知らされ、自然に対しては何時も謙虚でなくてはならないとつくづく思う。


浜松宿

 見付から、安間から、浜松から、三つある本坂越え(姫街道)の取っ付きのうち、今日は浜松からのルートを歩く。今回も家内はパス、またもや一人での街道歩きである。暮れまでは温かだったが、年が明けてからは寒くなり、季節はちゃんと廻っており、今日は風がとっても冷たい日だ。
 JRで浜松へ。浜松駅前からは広小路通りを北進、板屋町交差点で東海道に突き当たる。ここで左折して東海道を行く。遠鉄のガードをくぐる。このガードの下は新川で、昔は太鼓橋だったと言う万年橋が架かっている。ビオラ田町のあるところが秋葉街道、戦前は青銅の大鳥居が有ったが、昭和17年に解体され供出されたと言う。連尺町の交差点が東海道と本坂越の追分。右手には浜松城大手門跡、左手には高札場跡や本陣跡がある。城跡は市役所のある右方向、宿場の道はここで左に曲がる。ここから直進するのが本坂越で、今は国道152号線である。



浜松宿から犀ヶ崖

「本坂越の起点、連尺町交差点」
この交差点は浜松宿の中心地、右手が浜松城で、宿の道はここで左に曲がる。曲がった所に高札場、その先に三つの本陣が有った。本坂越はここを起点に直進し、城を廻るように西を回って北に進む。
東海道ウォークでこの浜松宿を歩いたのは平成9年8月11日、以来、東海道、中山道、甲州街道、美濃路を完歩して、今回は本坂越に挑戦中。「よく一人で歩けるね〜」と言われるが、その答えは何時も「好きだから〜、楽しいから〜」。

本坂越の起点、連尺町交差点


「国道152号線、紺屋町」
連尺町から西へと向かう道は国道152号線、紺屋町辺りは名前が示すように宿の町屋が並んでいたところ。

国道152号線、紺屋町


「正福寺」
右手に有るのが半僧坊浜松別院の正福寺(臨済宗方広寺派)、浜松七福神の福禄寿天を祀る。道路際に大きな石の五重の塔がある。

正福寺


「法雲寺」
左手に有るのが日蓮宗のお寺の法雲寺、浜松駅前にあったものが、都市開発事業によってここへ移転してきたとか。どうりで何もかもが出来立てのピカピカ。

「ひくま坂」
この辺りから高町まで上り坂になる。これを『ひくま坂』と呼ぶが、左にある大手の結婚式場の前には「幸せ坂」の石柱が立っている。古い地名も商魂に負け、時代と共に変わって行くのか。この先右手家並みの向こうに浜松開誠館(中学・高校)の校舎が聳えている。

ひくま坂


「高町交差点」
高町の交差点で右に曲がり、ここから国道257号線となる。交差点脇には「姫街道(本坂通り)」の標識が立っている。この先の道は緩やかに下って行く。この辺り昔は武家屋敷が有ったところ。

「公園前交番北交差点」
右手から来た道と合流する。V字型のところが緑地になっていて「鹿谷緑地」の標柱が立っている。この交差点は公園前交番北、昔はこの辺りに名残(古い町名)の番所が有ったと言う。

公園前交番北交差点


「秋葉山常夜灯」
道は合流して更に北へと向かう。この辺り高台で右は崖で落ちている。鹿谷郵便局前の交差点を過ぎると、右手の銀行駐車場前に秋葉山の常夜灯がある。文久2年(1862)とあるのが読み取れる。

秋葉山常夜灯


「三社神社」
暫らく商店の並ぶ繁華な道を進むと左手に石の鳥居の三社神社がある。由緒によると創建は坂上田村麻呂の勅を受けた延暦14年(795)で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)と誉田別命(ほんだわけのみこと)の三神が御祭神。この街道から神社の北を通っている道が浜名湖東岸の庄内に行く庄内道で、ここがその追分、名残の追分である。

三社神社


「犀ヶ崖のある交差点」
大きな交差点の右向こう、木立の見えるところが「三方ヶ原古戦場の犀ヶ崖」。街道はこの交差点から僅かの区間だけ国道から左に分かれ、再び国道と合流する。

犀ヶ崖のある交差点


「犀ヶ崖公園」
奥にある犀ヶ崖を取り込んで史跡公園が整備されている。そんなに広くない範囲に宗円堂、本多肥後守忠真碑、三方ヶ原古戦場犀ヶ崖碑、大島寥太句碑、常夜灯などがある。

犀ヶ崖公園


「霊場の石柱」
宗円堂が観音霊場、弘法霊場の一つとなっている事を示している。

「本多肥後守忠真顕彰碑」
公園の右奥にある大きな碑がこの顕彰碑で、横の解説板に詳しく書かれている。それによると『本多忠真は徳川草創期の四天王の一人、本多忠勝の叔父。三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出て、息子の菊丸に家康を守るように言い残し、刀一本で敵中に切り込み討ち死にした』とある。

本多肥後守忠真顕彰碑


「ねずみ小僧次郎吉の墓」
本多忠真顕彰碑の右に9体の石仏や墓石が並んでおり、その中の一つに『ねずみ小僧次郎吉の墓』と書かれた木の看板が立っている。本当かなと思ってねずみ小僧について調べてみた。本名は町田次郎吉で江戸後期[寛政9年(1797)〜天保3年(1832)]の大泥棒。鳶人足から博徒になり身をもちくずして盗みを働いた。生涯に侵入した屋敷は99軒、被害総額3120両。身軽なことからねずみ小僧と呼ばれ、武家屋敷などを荒らしたので町方では義賊とも呼ばれ人気者となった。最期は市中引き回しのうえ江戸最大級の刑場・小塚原刑場で磔にされ、獄門に処された。その後、首は墨田区両国の回向院に、胴体は荒川区南千住の回向院に埋葬され、今もここに墓があり、歌舞伎役者などの他、金運を求める人や受験生のお参りが絶えないとか。この他愛知県の藤岡町、蒲郡市、各務原市などにも墓があり、埼玉県新川町にも墓があったと言われており、全国にもまだまだ有りそう。

ねずみ小僧次郎吉の墓


「史跡・犀ヶ崖」
この辺りは徳川と武田が戦った三方ヶ原の合戦のあった古戦場で、この崖が県の史跡に指定されている。解説によると『犀ヶ崖と呼ばれる範囲ははっきりしないが、この付近から下流約450mの間に、急な崖が連続している。この付近では幅約30m、両岸とも深さ10数mの崖をなす。元亀3年(1572)12月22日、徳川家康は三方ヶ原において武田信玄に一戦を挑んで敗れ、浜松城に逃げ帰ったが、その夜犀ヶ崖付近で徳川方が、地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられる。崖上の宗円堂にはこの戦による両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるため、毎年遠州大念仏が行われる』とあった。崖はお堂の奥の偽木の柵越しに覗き込めるようになっている。

史跡・犀ヶ崖


「宗円堂」
公園の中心にあるお堂で、解説によると『宗円堂はもと青雲寺と言い、宗源院の末寺。犀ヶ崖の際にあって大念仏を行っていたことから、念仏堂とも呼ばれていた。宗円とは遠州大念仏を伝えたと言われる浄土宗の僧の名で、そのため1930年頃から宗円堂と呼ばれるようになり、1935年には遠州大念仏団の本部となった。また1983年4月に主として遠州大念仏に関する資料を展示する犀ヶ崖資料館となった』とあった。今日は成人の日の翌日で残念ながら資料館はお休み。

宗円堂


「三方ヶ原古戦場犀ヶ崖碑」
道路際に『史跡・犀ヶ崖』の石柱がありその奥に大きな『三方ヶ原古戦場犀ヶ崖』の碑がある。

三方ヶ原古戦場犀ヶ崖碑


「大島寥太句碑と常夜灯」
公園の北側には大きな句碑と常夜灯がある。句は江戸中・後期の俳人大島寥太[享保3年(1718)〜天明7年(1787)]のもの。彼は幕府の御用縫物師の後、俳諧に入り200余部の俳書を編み、3千余人の門人を有したという。
     岩角に兜くたけて椿かな   寥太
常夜灯については、そこに刻まれている文字を詳しく見てくるのを忘れてしまった。

大島寥太句碑と常夜灯


「一等水準点」
国道の向かい側にバス停があり、そこには数本のマツと大きな石碑と道標があり、そばに一等水準点があった。これはちょっと珍しい。

「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」
夏目次郎左衛門吉信は三方原の戦いで敗走中の家康の身代わりとなり、「われこそは家康なり」と言って、犀ヶ崖付近で武田勢の前に立ちはだかり討ち死にした人物。旌忠碑とは忠を誉める碑。

夏目次郎左衛門吉信旌忠碑


「奥山半僧坊大権現の里程標」
碑面の『奥山半僧坊大権現』の下に『五里』とある。

奥山半僧坊大権現の里程標



犀ヶ崖から三方ヶ原追分

「ルーテル教会」
犀ヶ崖で見るものたっぷり見た後は、国道257号線のバス道を北に向かってただひたすらに歩く。やがて右手に日本福音ルーテル教会、浜松教会があり、その前に一本のマツがある。これは街道名残の松なのだろうか?

ルーテル教会


「静岡大学浜松キャンパス」
左手に真新しい看板で『国立大学法人静岡大学』。これは平成16年4月1日からの行革の一環で、国立大学が国立大学法人になったため看板も新しくなった。ここには工学部や情報学部などがある。

「銭取バス停」
静大を過ぎ、和知山郵便局を過ぎ、和合町交差点の左手前には自動車学校。その先に銭取のバス停がある。家康に関係する面白い地名の一つ。

銭取バス停


「銭取まんじゅう跡」
すぐ先の左手に『銭取まんじゅう跡』の標柱がある。面白そうなので調べてみた。
三方原合戦で、家康が敗れた時の話。家康は浜松城さして逃げ出した。ところが、途中で腹が減って歩く力も無くなり、ふと傍らを見ると、道端の茶店でばあさんが小豆餅を売っている。家康は声を掛けるが早いか、口の中へ。ばあさんは驚いて、「一つ、三文じゃ」家康はおかまいなく、また口にほおばった。するとその時武田勢の声、家康は慌てて逃げ出した。ばあさんはビックリ、「ただ食いは許さん」と後を追い掛けて、家康に食って掛かると、家康は大急ぎで銭を払ったと言う。この時、小豆餅を食べた所が「小豆餅」、銭を払った所が「銭取」として、今も町名や地名になって残っている。

銭取まんじゅう跡


「段子川橋」
左手にスーパーユニー、右手に浜松幸郵便局を過ごすと、細い流れを渡る。その橋が『段子川橋』。

「姫街道標識」
街道の左手には航空自衛隊の浜松基地が有る。基地の用地として確保された土地に木が植えられており、そのためこの辺りは緑が多く目に付く。そこに『姫街道(本坂通り)』の標識が立っている。絶えずジェット機の轟音がする。

「小豆餅銭取本舗」
左浜松西インターへ行く道のある葵東一丁目の交差点、右手前には浜松葵郵便局がある。ここを過ぎると、右手に葵の紋とばあさんが家康を追っかけている絵のあるお店がある。これが『小豆餅銭取本舗』。この東側一体が小豆餅と言う町名である。

小豆餅銭取本舗


「権現様跡」
左に北図書館、北部市民サービスセンターの案内を見て進むと、前方の道路上に大きな案内標識が見えてきた。三方ヶ原の追分はもうすぐである。その交差点の手前、右手に『権現様跡』の標柱と解説板がある。解説によると『昔、ここには権現様と呼ばれるお宮があった。明治の初めこの地に入植した徳川の幕臣たちが徳川家康を祭神として祀ったもの。昭和45年交番、消防派出所が建設されるに伴い、ご神体は葵東照宮へ、社殿、鳥居、手洗い鉢は萩の原神社へ遷され祀られている』とある。

権現様跡


「現代の道標」
権現様跡の左に『夢舞台東海道』の現代の道標が立っている。ここは追分、左気賀宿、右浜松宿。

「追分の交差点」
安間から来た姫街道(本坂越)と浜松から来た姫街道(本坂越)とがここで合流し、気賀へと向かう。そのため、昔は追分三辻と呼ばれた。しかし今は浜松から来た姫街道(本坂越)国道257号線はここからそのまま直進し、街道はここから左へ折れ、安間から来た姫街道(本坂越)県道261号磐田細江線の続きとなって進む。そのため今の交差点はX字となっている。

追分交差点


「奥山半僧坊大権現の里程標と道標」
交差点先のV字のところに『奥山半僧坊大権現の里程標』があり、ここには『二里五丁』と彫られている。その前に小さな黒い五角形の道標がある。慶応4年の建立で『右みやこだ、中かなさし、左きが』とある。

奥山半僧坊の里程標と道標



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