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本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その3 


平成17年1月11日(火) <その2>




三方ヶ原追分から気賀宿まで

「姫街道の松並木」
ここから先の本坂越はこのルート1本である。追分から先へ進むと、街道の左手に松並木が現れ、今までと異なりうんと街道らしくなる。

「東名高速を渡る」
地図では直ぐに東名高速と斜めに交差するようになっているのだが、不思議とそれが見当たらない。そのはず、道路は平坦で、東名は下の掘割の中を走っており、橋で渡った格好になっている。

東名高速を渡る


「姫街道の松並木」
東名を過ぎてからも松並木は所々に残っている。その中に『姫街道の松並木』の標柱がある。

姫街道の松並木


「萩野原橋」
小さな流れを『萩野原橋』で渡る。橋の右手、前方には三方原神社の社叢が見える。この神社、浜松城内に祀られていた「東照宮」を、大正11年に三方原村へ迎えて村社となった。御祭神は家康で、二代将軍秀忠 三代将軍家光も合祀されている。その後三方原村が浜松市へ併合され村社は解消となり、昭和31年に三方原神社となった。この辺りで昼になった。適当なお店を見つけて昼食のため小休止する。

「遠州鉄道バスターミナル」
腹ごしらえが出来て、午後の部の街道歩きがスタートする。『遠鉄バスの姫街道バスターミナル』がある。

遠州鉄道バスターミナル


「気賀門跡」
すぐ先右手に『気賀門跡』の石柱と解説板が立っている。この先にその跡がある救貧院を創設した気賀林の三方ヶ原別邸の門跡で、門には三部屋ほどあり三方ヶ原開拓事務所に使われていたとある。

「三方原救貧院跡」
葵町交差点を渡った右手に有るのが『三方原救貧院跡』で石柱と解説板が立っている。解説によると『明治の初年は政情も不安であり、失業士族も多く、庶民の生活は恵まれず、どこの村にも生活困窮者が多く出た。気賀林は、こうした人達を救うため、明治10年、この場所に「三方原救貧院」を創設した。救貧院の建物は間口八間(14.4m)、奥行三間半(6.3m)木造平屋建、瓦葺きで、姫街道に面して建てられ、常時四家族ほどを収容し、米麦、味噌、醤油、薪炭等現物支給の方法で貧困者を救助した。明治16年、気賀林の没後は横田保に受けつがれ、明治35年ごろまで続けられた』。

三方原救貧院跡


「権七店」
街道の左手に標柱と解説板が有るのが『権七店』、解説には『三方ヶ原の追分からこの辺りまでは鬱蒼とした松並木が続き寂しい所だった。駄菓子や団子、お酒を売るこの店は、近隣の寄り合い所や馬方の休憩所ともなり賑わった』とのことが書かれている。

権七店


「松並木」
再び松並木、この辺りのものは未だ樹齢が若い。

「東大山一里塚」
左手の花川郵便局を過ぎると次の信号が『一里山南』。一里塚が近付いてきた。次の『一里山』信号を越えたところの左手にバス停があり、その前に祠があって赤い馬頭観音の幟が並んでいる。祠の後が塚になっていて何本かの木が植わっている。これが『東大山一里塚』の左(南)の塚。

東大山一里塚


「北側の塚」
街道の右手(北)にも塚があって木が植わり、解説板が立っている。ここの一里塚は両側の塚が残っている貴重なもの。日本橋から67里(約268q)目。

北側の塚


「富士見道」
奥大谷バス停近く、街道の左手に、文字がはげかかった『富士見道』の木柱が立っている。この道がどのような道なのは分からない。多分この辺りからは富士が良く見えたのだろう。しかし、今日の天気、予報では晴れとのことであったが、この辺りへ来て俄に雲行きが怪しくなってきた。北風が強く、時々時雨れて、白いものが混じっている。富士を眺められるような天気ではない。

「細江町に入る」
街道の左手、大谷ゴルフパークの前に細江町の標識。ここで浜松市から細江町に入る。

細江町に入る


「大谷橋」
大谷川に架かる大谷橋を渡る。橋から右手を望むと老人施設「浜松ゆうゆうの里」や聖隷三方ヶ原病院、聖隷クリストファー大学などの建物群が見える。

大谷橋


「曲がり松」
橋を渡ってしばらく歩くと左手にマツと大きな句碑と解説板がある。これが『曲がり松』と『松島十湖の句碑』。昔、樹齢500年を経た曲がりくねった竜のような松があり、曲がり松と呼ばれていた。そして、この場所は気賀の領主や街道を行く行列の送迎場所にもなっていた。句碑は俳人松島十湖が三年勤めた引佐麁玉群長を辞すに際し、ここまで見送りに来た群民と別れを惜しみ松奏離歌と題して詠んだ句が刻まれている。
     別るるはまた逢うはしよ月の友   十湖
そばに昭和天皇『御巡幸記念』の石碑もある。

曲がり松


「県道から分かれる」
街道左手に有る細江湖東簡易郵便局を過ぎ、湖東西バス停の先で県道はやや右に曲がる。街道はここで初めて県道から別れそのまま直進する。

「旧道らしい道」
道はやや細くなり左右にミカン畑が続く。やっと旧道らしくなってきた。

旧道らしい道


「六地蔵」
次の十字路の左先角に、石積み台座、瓦葺きの小屋があり、その中に6体の石の地蔵さんが赤い前掛けをして並んでいる。これが『六地蔵』で横の解説板には『このお地蔵さんは、裏の竹薮がむかし刑場でしたので、その霊をなぐさめるためにたてられたそうです。長い間風雨にさらされながら、旅人の安全を守ってきました。正徳二年(1711)建立』とある。

六地蔵


「道標と刑場跡」
六地蔵の脇にモダンな夢舞台東海道の道標、六地蔵が立っており、その背後は刑場跡と言われる竹薮である。そのように意識してみると、何処と無く不気味な感じがする。

「秋葉山常夜灯
ミカン畑の中の道をしばらく進むと分かれ道になり、その角に秋葉山の常夜灯が立っている。刻まれた文字から文化八年(1811)と読み取れた。ここで右手の道を進む。

秋葉山常夜灯


「千日堂」
間も無く左手の繁みの中に新築したての住宅の様な千日堂がある。道路わきに有る解説によると『呉石の近藤家下屋敷にあった観音像を寛文11年(1671)に移して祀り、また宝永年間(1704〜10)には千日講本尊として阿弥陀如来を祀り、千日念仏を行ったので千日堂と呼ばれるようになった』とある。

千日堂


「南無阿弥陀仏石碑」
千日堂の前に宝永四年(1707)の『南無阿弥陀仏』の石碑が立っている。

南無阿弥陀仏石碑


「シイの大木」
千日堂の脇にはシイの大木が立っている。樹齢は不明だが相当に古そうである。

「長坂改築記念碑」
次の分かれ道の間に『長坂改築記念』の碑が立っている。右を行くのが新しい道。左が旧道である。

「老ヶ谷の一里塚跡」
左の旧道に入ってすぐ左手に『老ヶ谷の一里塚跡』がある。一里塚の石柱と解説板、そばには大きなリュウゼツラン。ここの解説には一里塚とこの先の長坂にある服部小平太最期の地のことが書かれている。ここは江戸から68里目。

老ヶ谷の一里塚跡


「貯水タンク」
道はどんどん細くなり貯水タンクの右からは、道幅が1mくらい。人のみが通れる道となる。貯水タンクには『姫様道中』の文字と巨大なお姫様の絵が描かれている。

貯水タンク


「細い道」
貯水タンクの横から竹薮を抜け長坂を下る道になる。周りの様子から、一瞬、道を誤ったのではないかと不安になる。そんな道である。

「服部小平太最期の地」
繁みの中、落葉の散り敷いた坂道を下ると、右手に石碑と解説板があって、道が誤っていなかったことが分かりほっとする。解説板によると『信長の家臣服部小平太は桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った。信長亡き後、家康からその勲功によりこの地をもらった。しかしこの地はもとは今川領、恨みを持つ者もあり、小平太が単身巡視中に何者かに討たれた』とある。

服部小平太最期の地


「常夜灯の鞘堂」
坂を下り、先ほど分かれた長坂の新道を横切り更に下る。下の道へ出る直前の右手に、老朽化した常夜灯の鞘堂がある。全体に傾き、屋根瓦の一部も落ちている。中を覗いてみたら肝心の常夜灯が無い。

常夜灯の鞘堂


「宗安寺跡」
下の道に出るとそこには住宅が並んでいた。北に向かって行くと間も無く左手に、山側へと上る石段があり、そばに解説板が立っている。解説には『新谷の宗安寺、新谷は、江戸時代には落合の渡しの宿場でした。この新谷を見下ろす丘の上にあった宗安寺は、桶狭間の戦い(永禄3年1560)で今川義元を討ち取った服部小平太中安次が祀られた寺でした。明治時代の廃仏毀釈により、現在は石段と庭の一部、石仏が残っているだけとなりました』とある。やがてこの道は県道に出る。

宗安寺跡


「金山神社」
県道を横切るようにして田圃の中の道を行く。左には小高い丘がありそこに金山神社がある。この丘が刑部城の跡。小さな川を渡る。この先は都田川で昔は渡し場、舟で越えた。左へ川に沿って城跡を巻く様に進む。

「金襴の池」
道に出て再びその川を戻るように渡る。左手に『金襴の池』の解説板が立っている。『昔、この辺りには美しい金襴の蛇が住む大きな池があった。ここには刑部城があったが、家康に攻め滅ぼされ、城主の姫は敵兵にかかって恥をさらすのを嫌い、この池に入って金襴の蛇に姿を変えたと言う。池は埋め立てられて無くなった』

「刑部城趾」
この道が県道に出会う交差点のそばに『刑部城趾』の解説板がある。『この城は三方を都田川に囲まれた要害の地に築かれた。永禄11年(1568)12月、この地の人々が城柵を築いて立てこもり、家康軍と戦い敗れた。城址には犬走りや井戸などが残っている。姫街道の位置は現在とは異なり、この城の東側を通って落合川の渡し場へと通じていた』。今ぐるりと回ってきたのが正解だった。

刑部城趾


「都田川の落合橋」
信号交差点で県道に戻り、都田川の落合橋へと進む。この橋の右手(上流)で都田川と井伊谷川が合流しており、ここが落合にあたる。橋の手前の左手の柵に落合橋の解説板が取り付けられている。文字のところが剥げ落ちていてまともには読めないが、おおよそ判読すると『江戸時代落合川は気賀関所の要塞川であると共に江戸城の守りともなっていたため、常には橋を架けさせず渡船で渡った。川幅(31間、約56m)、今の橋は昭和51年完成で明治から4代目』。橋の上は風がとっても強く、帽子が飛ばされそうになる。下の川面にはカモやその仲間が沢山居て盛んに餌を探している。

都田川の落合橋



気賀宿

「気賀宿の落合橋」
都田川の落合橋を渡って気賀の宿に入る。渡ってすぐの信号交差点を左に行くと細江町役場や再建された気賀の関所がある。交差点の右手前には宝生地蔵。そのまま直進すると、小さな橋がありこれも『落合橋』。その先には天竜浜名湖鉄道(旧国鉄の二俣線)のガードがある。

気賀宿の落合橋


「気賀四つ角ポケットパーク」
天竜浜名湖鉄道のガードをくぐり、次の信号交差点が気賀四つ角で、左手に細江町のポケットパークがある。夢舞台東海道の気賀宿の道標や姫様道中、関所の絵などが飾られている。今日の街道歩き、本坂越<その3>はここで終わることとし、歩数計をリセットする。次回はここを起点として気賀宿から三ケ日宿までを歩くことにする。

気賀四つ角ポケットパーク


「気賀関所」
ポケットパークの向かいが関所の跡であるが、平成2年に再建された関所は天竜浜名湖鉄道気賀駅の向こう側、役場のそばにある。かつて見に来た事があるが写真を撮るために、もう一度訪ねることにする。新年早々の平日の午後、風のある寒い日、関所には人っ子一人居なくて寒々としている。入所料を払うべく案内所の窓をノックしたら係りの女性が出て来た。年中無休だそうだ。感心、感心。

気賀関所


「人形で再現」
東の冠木門をくぐって関所に入る。右手に本番所、その前に槍立や三ッ道具立があり、本番所には上の間、中の間、それぞれに人形が置かれ取調べの様子が再現されている。向かいには向番所、その奥に遠見番所がある。向番所には女改めの様子が再現され、奥には牢がある。遠見番所で上に登ると見晴らしが良かった。西の出口、町木戸門の右に姫様館があって駕籠や版画、宿札、手形などの資料が展示されている。

人形で再現




 今日のコースの前半は、国道や県道のバス通り歩きで、ちょっぴり詰まらなかったが、その中にあって犀ヶ崖は興味を引かれる見所であった。後半はバス通りとは言え松並木が多く残り、六地蔵からは鄙びた道になり、変化に富んで、街道歩きの楽しさを十分に味わうことが出来た。
 帰りは気賀から天竜浜名湖鉄道。午後のダイヤは1時間に1本の割り。それが2分の待ちで列車が来た。このタイミングの良さ、何だか大儲けをした気分。新所原までの僅かな区間ではあるが、車窓に映る湖やみかん山を眺めながら、奥浜名湖の小さな旅。疲れを癒す心地よい時間であった。

 今日のニュース、朝刊では「西武、持ち株会社設立へ、堤氏支配刷新狙う」。夕刊には「青色ダイオード訴訟和解、中村教授と日亜化学、対価は6億円」など。

     今日歩いた記録
     30,699歩(本坂越正味24,534歩)
     18.41q (本坂越正味14.72q) 
     1,419kcal (本坂越正味1,152kcal)

     今までの累計
      75,930歩(本坂越正味56,769歩)
      45.88q (本坂越正味34.05q)
      3,265kcal(本坂越正味2,464kcal)


ページ公開 平成17年1月21日
ページ改良 平成23年4月30日


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