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本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その4 


平成17年1月28日(金) <その1>

先回歩いた浜松宿から気賀宿までのコースは、前半が町場のバス道歩きでつまらない所が多かったが、後半の三方ヶ原の追分からは松並木があったり、旧道らしくなったりで、変化に富み面白くなってきた。今日の気賀宿から三ケ日宿までのコースは、その殆んどがバス道を外れた旧道歩きで、浜名湖を見ながらのアップダウン。本坂越で一、二を争う眺めの良い所が有るという。大いに楽しみである。


今回は家内と一緒の道中、こんなにお天気の良い日はじっと家に居るのが勿体無いという事で、二人揃っての街道歩きとなった。新所原からは天竜浜名湖鉄道を利用する。家内は初めての乗車という事で、物珍しく、この小さなディーゼルカーの可愛さが気に入ったようだ。


気賀宿

「赤池様公園」
10時丁度、気賀の駅前で服装を整え、トイレも済ませて、いざ出発。駅前通を北に向かい小さな堀の手前で右へ曲がる。この堀は要害掘りと呼ばれる気賀の関所の防備の堀で、この堀とそれに架かる橋、そして今歩いている道は綺麗に整備されている。堀に沿って東に進み、気賀四つ角交差点に出る手前で左手へ堀を渡ると、その左手に赤池様公園がある。壁面にはめ込まれた由来によると明応7年(1498)の大地震により新居町にあった角避比古神社(つのさくひこ)のお宮が流され、翌年、ご神体がお福面と一緒にここへ流れ着いた。はじめは赤池の北90m程のところに仮屋を建て祀っていたが、永正7年(1510)に細江神社にお宮を移し牛頭天王として祀るようになったとある。

赤池様公園


「気賀関所址」
広い通りへ出たところが気賀四つ角の交差点。ここが今日のスタート地点で、歩数計をリセットする。この交差点の西北角の駐車場の一角に『史跡気賀関趾』の碑と立派な解説板ある。気賀の関所は気賀宿の東の入口にあり、慶長6年(1601)徳川家康により東海道本坂通りの交通取締りのために創建されたという。この辺りに本番所、向かいに向番所と遠見番所があった。近くのお店のショーウィンドーにお雛様の吊るし飾りが飾られており、家内は興味津々、目を輝かせて見ている。

気賀関所跡


「気賀関所本番所の屋根」
宿場の通りの直ぐ右手、細い路地を入ったところに本番所の建物の一部が残っている。でも、それがなかなか見付からない。それもそのはず、路地の奥の民家の二階部分に『気賀関所跡』の看板に赤い矢印がある。近くにあった鉄の階段を上ってみたら古そうな屋根が見えた。これが『細江町指定建造物・気賀関屋』で昔は茅葺、後に柿葺になり、現在は瓦葺で、『切妻破風作り、狐格子が良く見られる』との説明があった。

気賀関所本番所の屋根


「気賀近藤陣屋遺木江戸椎」
宿の道を行き次の信号で右に入ると、奥に偽木の柵で囲まれた中に数本の木が見える。その解説によると、この付近は気賀の領主で関所も治めていた旗本近藤家の屋敷があった所、この椎はその庭に有ったもの。この椎の実が大きく毎年幕府へ献上したので“江戸椎”と呼ばれるようになったとある。

気賀近藤陣屋遺木江戸椎


「陣屋庭園」
江戸椎の左、駐車場の先に庭園と珍しい茅葺の二階家が見える。これが陣屋の庭園と言われている。

陣屋庭園


「犬くぐり道」
庭園を回るように北、西へと細い道を行くと、細江神社に突き当たる。さらに神社に沿って行くと、神社の裏の山手に木の柵と簡単な門が有って、“むしろ”が下がっている。これが再現された『犬くぐり道とむしろ』である。当時この町の人でも通行手形が必要で大変不便であった。そこで抜け道が作られ、犬が通る道として黙認された。“犬くぐり”は正明寺の境内にあって、むしろを垂らした門があり、犬ならばくぐることが出来るけれども、人は立ったままでは通ることが出来ないので、むしろの下をくぐって通ったという。

犬くぐり道とむしろ


「天台烏薬群落地」
犬くぐりの先の杉木立の中にこの看板がある。静岡県指定の天然記念物で、天台烏薬はクスノキ科の常緑低木。江戸後期に領主の近藤氏が薬用植物として紀州新宮からこの地に移植したもの。

「東林寺」
その先に大きな構えの東林寺がある。瑞光山東林寺で臨済宗方広寺派のお寺、740年行基菩薩により開創されたとか。

東林寺


「歴史民族資料館」
南に下ると姫街道歴史民族資料館。藺(いぐさ)の栽培資料、漁業資料、姫街道、関所資料などが展示され、資料館横には旧山瀬家の産屋というのが移築されている。資料館展示の古い酒徳利を見て、家内は名古屋の骨董祭で買ったものと見比べ、値踏みをしている。

歴史民族資料館


「細江神社」
資料館の前から細江神社の境内に入る。この細江神社は、明応7年(1498)の地震により角避比古神社の神体が赤池に流れ着き、これを祀ったことにはじまると伝承され、地震の厄除けとして有名。

細江神社


「藺草神社」
細江神社の本殿の右隣に藺草神社がある。宝永4年(1707)の津波による塩害で稲が取れなくなり、時の領主が豊後の国より塩に強い藺(いぐさ)を取り寄せ領内の田に植えさせた。それがこの辺り一帯の名産物となり、その領主の徳を称えて祀られたのがこの神社。

「椎の木と蝙蝠と大蛇伝説」
境内に椎の大木があり、それには大蛇と大蝙蝠の戦いの伝説がある。

椎の木と蝙蝠と大蛇伝説


「気賀宿の中心部」
神社から鳥居をくぐって宿場の道、本坂越(姫街道)に出た。関所の跡から宿の道を離れ右の山手をぐるっと廻ってきたことになる。
ここでお昼の心配、今日のコースは地図で見るとお店が有りそうなのはスタートの気賀とゴールの三ケ日だけ。気賀に居る間に買っておかないと食いはぐれる羽目になる。そこで何かが買えそうなコンビニを探すのだが全く見当たらない。地元の人に尋ねたら気賀の四つ角から南に行って、鉄道をくぐった先の信号の角にあるとの答え。仕方なくそこまで引き返しおにぎりと飲み物をゲットする。これで安心。気賀の宿の中でおよそ1時間うろうろした。元の気賀の四つ角から再度スタートすることとなった。

「気賀宿本陣中村家跡」
宿の道、国道362号線を進み、左手の気賀駅から来た道と出会う気賀駅北の信号交差点辺りからが宿の中心地で、右手一筋先、NTT前に本陣跡の解説、少し先に碑が立っている。それによると気賀は天正15年(1587)本田作左衛門によって宿と定められ、東海道本坂通(姫街道)では最も重要な宿場となり、本陣は中村家が務めた。中村家は代々与大夫を名乗り本陣として栄えたとある。

気賀宿本陣中村家跡


「本陣前公園」
本陣跡の向かい、宿の道の左手に本陣前公園がある。その前に姫街道の看板が立っている。

本陣前公園


「正明寺」
宿の道から右手へ坂を上った先に正明寺がある。池松山正明寺、ここも臨済宗方広寺派で江戸時代には本陣中村家の菩提寺として栄えた。

正明寺


「昔の家並み」
この先の左手に宿場時代の面影を残す町屋が数軒ある。もっと多く軒を連ねているように想像していただけに一寸がっかりである。これらが新しい家に建て変わるのも時間の問題であろう。

昔の家並み


「秋葉灯籠と桝形」
西町の外れの左手に秋葉灯篭がある。地元の若者が願主となり安政4年(1857)に40両の大金を集めて建てたもの。また、このあたりが桝形で宿の西の出口であった。一対のL字型の石垣の上に土を盛り矢来を組み門が設けられていた。その石垣の一部が今も残っている。ここで気賀宿に別れを告げ引佐峠を越え三ケ日宿へと向かう。

秋葉灯籠と桝形





気賀宿から引佐峠

「獄門畷」
この先左手には「堀川城将志最期之地」と刻まれた獄門畷供養碑がある。永禄12年(1569)に徳川家康が堀川城(ここから南へ600メートル)を攻落し、堀川城関係者をここで処刑した。その首を小川に沿った土手に晒したので「ごくもんなわて」と呼ばれるようになった。

獄門畷


「全得寺入口」
間も無く道はY字の分かれ道になる。左へ行くのが国道362号線で、本坂越の姫街道は右へと進む。右へと分かれて直ぐ右の山手に「気賀領主近藤家の下屋敷跡」や「近藤家の墓」、「六地蔵」、「姫地蔵」があるのだが、気賀宿で時間を掛け過ぎたので、寄り道はせず先を急ぐ。やがて右へと急坂で上る道が有り、その上にお寺の屋根が見える。知足山全得寺、ここも臨済宗方広寺派で、堀川城の戦いで家康に攻められ討ち死にした竹田十郎が出生地足利から請じて建てた寺。この戦いの折に焼失したが、その後に復興し今日に至っている。

全得寺入口


「諏訪神社と常夜灯鞘堂」
続いて右手、石の鳥居があり石段が山の上へ延び、さらにその上に石の鳥居が見えるのが諏訪神社。街道からその道に入って直ぐ右手に常夜灯の鞘堂がある。この鞘堂にも立派な屋根瓦が乗っている。

諏訪神社と常夜灯鞘堂


「巡礼碑」
鞘堂の反対側に有るのが巡礼碑で、『奉巡礼西国四国秩父坂東』とあり文政4年(1821)の建立。

巡礼碑


「呉石學校跡と二ノ宮尊徳像」
右手、長楽寺への道の右手前角に公園があり、街道脇に『呉石學校跡』の碑と二ノ宮尊徳の石像がある。奥には藺草栽培についての解説板があり、トイレと休憩所の施設がある。ここで小休止しながら考えたが、学校と尊徳と藺草栽培の三つの関係が分からなかった。素晴らしい陽気で、家内は着込んできた上着を一枚脱いだ。長楽寺は真言宗の寺、光岩山長楽寺のことで遠州三名園の一つ、小堀遠州作の回遊式庭園があり「満点星(どうだん)の庭」で有名。かつて家内と見に行ったことがある。

呉石学校跡と二ノ宮尊徳像


「金地院への道標」
呉石學校跡を出て直ぐにミカンの無人スタンドが有った。さすがミカンの産地、大きな袋に入ったのが何とたったの100円也。これは安いと道中の水分補給用に1袋を買い求める。葭本川の小深田橋を渡ると街道はY字形に分かれる。その分かれ道に「是ヨリ、金地院道、5丁」と刻まれた道標がある。金地院は定光山金地院、臨済宗妙心寺派の寺で、創建は建武年間(1334〜1337)、後醍醐天皇の皇子宗良親王の妃、駿河姫を祀っている。

金地院への道標


「道祖神」
ゆるやかな坂を上ると右への分かれ道があり、その右手先に『道祖神』がある。そばに金地院、医王寺の小さな看板があり、右への道を行くと金地院。

道祖神


「二ノ宮神社」
道が切り通しのようになった所の左手に二ノ宮神社の看板があり、繁みの奥に神社がある。祭神は宗良親王(後醍醐天皇の皇子)の妃の駿河姫。延元3年(1338)、親王は京都に上ろうと井伊谷を出陣。親王を見送るためこの地まで来た駿河姫は病となり急逝してしまった。親王の御座所のあった場所に埋葬し、姫の持っていた鏡を祀って二宮神社とした。街道から少し入った所に『蛇に注意』の看板があってドキッとした。こんな寒い時期に蛇なんて居るわけがないのに。

二宮神社


「吾跡川楊(あとがわやなぎ)」
二宮神社からは下り坂となり橋を渡ると『吾跡川楊、150M』の標識がある。ここから左に折れて国道を横断し川沿いに行った先に万葉歌碑があるという。これは万葉集の巻7、雑歌の一二九三で
       霰降り遠江の吾跡川楊刈りつともまたも生ふとふ吾跡川楊
である。ここへは立ち寄らずに先を急ぐ。

吾跡川楊


「山村修理の墓」
吾跡川の橋を渡ってからは上り坂になる。何本かの道を横切り突き当たった所を右に曲がり、やがてその道から左の山手へ入る。右後方は遠くまで見渡せ、今日は快晴で雲も無く気持ちが良い。右に左にと道がくねった先、右手に照葉樹に囲まれた一角があり、その中に墓と碑と解説板がある。永禄12年(1569)3月27日、家康に攻められ堀川城が落城、捕虜700人が処刑された。城将山村修理はここまで退いたが、燃え盛る城に向かって手を合わせ切腹したといわれる。

山村修理の墓


「山田の一里塚跡」
少し上った所、右手、見晴らしの良い所に『一里塚』の標石と解説板がある。ここは細江町気賀字山田で江戸から69里目。解説に有名な江戸川柳が紹介されている。
      くたびれたやつが見つける一里塚   俳風柳多留
東海道を歩いた時、石薬師の一里塚の解説板にもこの川柳が紹介されていた。

山田の一里塚跡


「小引佐へ向けてのアップダウン」
この辺りは浜名湖の北岸の丘陵地帯、南向き斜面を横切るように進む。回りはミカン畑で緩やかなアップダウンが続く。実に気持ちの良い街道歩きである。

小引佐へ向けてのアップダウン


「ダイダラボッチの足跡」
坂を下って左からの道と合流し、民家のある所まで来た。白いガードレールの右手に水草がいっぱい浮んだ小さな池がある。これが巨人伝説の池『ダイダラボッチの足跡』である。ダイダラポッチは琵琶湖を掘った土を運んで富士山を造ったという伝説の巨人で、この北にある尉ヶ峰(じょうがみね)に腰を掛けて弁当を食べたとき、ご飯の中に入っていた小石を浜名湖に捨てたら、礫島(つぶてじま)が出来たともいう。ダイダラボッチで海苔のコマーシャルを思い出した。

ダイダラボッチの足跡


「道祖神と馬頭観音」
先ほど合流した道が再び右の分かれるところに、コンクリートで固められた台座に乗った道祖神がある。そばには姫街道の道しるべも立っている。

道祖神と馬頭観音


「清水みのるの文学碑」
しばらくミカンや照葉樹のある道を進むと、やがて左からの道と合流し、右手、大きな赤い石に黒御影石がはめ込まれた文学碑がある。
           姫街道
                    清水みのる
         尋ねようもない
         幾歳月の流れの中で
         姫街道は
         今も静かに息づいている

清水みのる(1903〜1979)、本名清水実は詩人で、浜名郡伊佐見村の生まれ。浜松中学を経て立教大学英文科を卒業。「かえり船」「月がとっても青いから」「森の水車」など多くの詩があり、著書には「日本のオモチャの歌」、「日本流行歌全集」、詩集「わが浜名湖」など。日本作詞大賞、紫綬褒章などを受章している。

清水みのるの文学碑


「小引佐の地蔵や石仏」
先ほど出会った道と左に別れ、やや下り坂になり、この先からが石畳道となる。その分かれ道に『小引佐』の解説板、姫街道の道しるべ、お地蔵様や石仏がある。

小引佐の地蔵や石仏


「小引佐より浜名湖を望む」
ここ小引佐は姫街道の中でも引佐細江(浜名湖の入江)の景勝の地といわれる所。ミカン畑の向こうの山裾に民家が有り、可愛い鉄道が走り、その先には浜名湖がある。遠くには東名高速の浜名湖橋も見える。この見晴らしの良い所に腰を下ろし、無人スタンドで買ったミカンを食べながらしばらく小休止。暦では大寒の最中で、来週にはこの冬一番の寒波が来ると言われているが、今日はポカポカ陽気。春のような日差しで、座っている足元が暑いくらい。セーターを脱いでザックに入れる。

小引佐より浜名湖を望む


「石畳道」
これからしばらくは石畳道となる。両側はミカン畑の垣根に植えられたマキの木が続き、シイ、カシ、ツバキなどの照葉樹林の中を行くこともある。

石畳道


「薬師堂」
坂を下って少し開けた所に出た。ここが岩根の集落である。この右手に薬師堂と常夜灯、それの解説板がある。この辻堂は本尊薬師如来の台座裏の銘文から天保6年(1835)の再建といわれ、宝形造り。前半分が板張りの外陣で、旅人の休憩場所になっていた。後の半分が内陣で、薬師如来像が安置されている。横の秋葉山常夜燈は文化2年(1805)の建立。



薬師堂



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