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本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その4 


平成17年1月28日(金) <その2>




引佐峠から三ヶ日宿まで

「引佐峠の入口」
岩根の集落で小さな流れの岩根川を渡り道なりに進む。次に出合った道を右に行くと、やがて左に姫街道の標識があり、引佐峠の入口がある。ミカン畑の間を左に上ってゆく石畳道である。昔は岩根沢に架かる土橋を渡るとそこが引佐峠の始まりであった。

引佐峠の入口


「石畳の上り坂」
綺麗に整備された石畳の道で坂を上ってゆく。歩き易く作られているが、しかし石畳の道が綺麗過ぎる。こんな事を言うのはちょっと贅沢で、不謹慎かな?

石畳の上り坂


「お地蔵様」
曲りくねりながら上ると、やがて左手の大きな岩の上に毛糸で編んだ赤い帽子と前掛けのお地蔵さんが立っている。何時の頃からか難所の峠に立って、行き交う旅人の安全を願い、行き倒れた人の供養をし続けているのだ。

お地蔵様


「石畳道」
さらに石畳道は続く。この辺りはシイ、カシ、ツバキなどの照葉樹の林の中を通っている。足元にはカシのドングリが沢山落ちている。藪にはメジロやエナガの姿が見える。

石畳道


「姫岩」
林を抜けたら右手に大きな平たい岩が見えた。これが『姫岩』である。そばには傘状の屋根を持った休憩用の施設と解説板がある。昔、ここは「平石御休憩所」といわれ、姫街道を通行する大名や姫様に、近藤家の家臣が出向いて湯茶の接待をした所。また、この岩は12畳敷ほどの広さがあり、「平石」と呼ばれていたが、いつのまにかに「姫岩」とも呼ばれるようになった。この上に座ると良いことが起こると言われている。
我々もここでお昼の休憩とした。良いことが起こって欲しいと岩の上に座ったら、せっかくの浜名湖の良い景色が見えない。南の方の伸びた木を伐れば良いのだが・・・。

姫岩


「上り坂」
この上で舗装の道と合流し石畳は無くなる。はじめは道の両側がミカン畑で、何度か分かれ道があるが、姫街道の標識に従って迷わずに進むことが出来る。そのうちに照葉樹林と変わり、道幅も狭くなり峠への上りが続く。

上り坂


「浜名湖の眺望」
上りの途中、左手、眼下に浜名湖が見えた。遠くまで見えて実に気持ちが良い。今日のような街道歩きは天気が良く、道が良く、眺めが良くの三拍子が揃って全く疲れを感じさせない。

浜名湖の眺望


「峠への階段」
いつの間にか再び石畳道となり坂を上ってゆく。最後は石畳道から一直線に上へと延びる階段に変わった。

峠への階段


「道路を横切る」
階段を上りきるとそこには舗装道路がありそれを横断する。手前に駐車場、向かいに休憩施設とトイレがある。ここの道路標識には7号支線農道と姫街道と書かれていた。しばらく休んでいると同世代のご夫婦が峠を下ってこられた。今日初めての出会いである。ここからも浜名湖が見える。

道路を横切る


「引佐峠」
石畳道の急坂を上ると峠に着いた。太い大きな偽木の標柱に『引佐峠、姫街道』と有り、案内標識や解説板、休憩用のベンチなどがある。案内板によると、この峠は細江町と三ヶ日町の境にあり海抜200m。姫街道では本坂峠に次ぐ難所であり、また景勝の地でもあるという。昔は峠にも茶屋場があったらしい。

引佐峠


「象鳴き坂」
峠からの下りは急坂である。石畳が敷かれてはいるが、足を挫かないように注意して下る。峠まで上ってくる時にはこんな急坂は無かった。何度か曲がりくねったら左手に『象鳴き坂』の解説板がある。1729年(享保14年)広南国より献上の象が将軍お目見えのため、京都から江戸へ下る途次、船で渡る今切(浜名湖)をさけて姫街道を通った。象は引佐峠の急な坂道で悲鳴をあげたので、村人はここを「象鳴き坂」と付けた。当時の書物によると象は牡であったとか。ここでは雄も牝も関係なく悲鳴を上げるに違いない。

像鳴き坂


「石投げ岩」
それからしばらく坂を下ると、左手に大きな岩と解説板がある。これが『石投げ岩』。解説によると『引佐峠を登り下りする旅人がこの岩に石を投げて旅の無事を占い祈った』とある。それではと自分も石を投げて岩の上に乗せた。これでこの先の道中は安全である。

石投げ岩


「石畳道の工事中」
さらに坂を下る。足元の石畳が綺麗になってきた。そのうちに両側に工事の杭などが見えてきた。続いて工事の人達、今、石畳道を作っている最中だったのだ。平たい石を並べコンクリートを流している。道普請は有難いけれど、ちょっと綺麗過ぎて風情が無い。

「見渡す限りのミカン山」
山の麓へ下りてきた。この辺り、向かいの山も、前方も見渡す限りミカン山である。今は一部を除いて収穫済みであるが、枝もたわわに実っていた頃はさぞ壮観で有っただろうと想像する。

見渡す限りのミカン山


「大谷の一里塚跡」
平坦地へ下りたところ、左手に田圃を背にして『旧姫街道、一里塚址』の碑と解説板がある。江戸から70里目の『大谷の一里塚跡』、今は道の左右どちらにも当時を偲ばせるものは何も残っていない。

大谷の一里塚


「カラスの大群」
突然空が騒がしくなった。見上げるとカラスの大群、それも今までに見た事も無い夥しい数のカラスである。驚いて一瞬首がすくみ、カメラを向ける余裕も無かった。我に返ってカメラを向けた頃には、その殆んどが左のミカン山に姿を消していた。どれくらい居たのだろうか、少なくとも千羽単位の数であったと思われる。古い映画だがヒチコックの『鳥』を思い出した。この近くに大規模な養鶏場があり、それと関係しているのかもしれない。

「大谷の茶屋跡」
右手民家の脇の垣根の中に『茶屋跡』の看板があった。これは余程注意して見ていないと見過ごしてしまう。身分の高い人が通行する時にはこの茶屋で接待をし、一般の旅人もここで休んだり草鞋を買ったりした。

大谷の茶屋跡


「六部様」
街道の左手に水準点が有り、その脇の『六部様』の看板に矢印がある。矢印に導かれて少し上の繁みに入ると、大きな木の根方に積み石の祠があり、中に石仏が祀られている。そばに解説板がある。それによると、『六部様(修行僧円心の墓)、明和4年(1767)12月29日、大谷村と都筑村との村境で生き倒れになった六部の忠道円心を祀ったところである。背負っていた厨子と中の仏像は、大谷の高栖寺に子授け観音として祀られている』とある。六部とは厨子を背負い、鐘を叩きながら銭を貰い歩く僧のことで、中山道の垂井から関が原へ向かう途中にもこれと同じような六部地蔵が祀られていた。

六部様


「大谷代官屋敷」
やがて広い道に合流し、都筑大谷川の大谷橋を渡る。まもなく右手に門構えの屋敷があり、そばに『大谷代官屋敷』の案内板がある。ここは、江戸にいる領主大谷近藤家に代わって事実上領内を支配した大野家の屋敷で現在も子孫が居住しておられる。土地の人は大野家を“お代官さま”と呼んだ。ここから右手先に旗本近藤家陣屋跡」があるのだが、寄らずに先へと進む。

大谷代官屋敷跡


「安形伊賀屋敷跡」
右手一筋先に『安形伊賀屋敷跡』の剥げかかった解説板がある。戦国末、佐久城主浜名氏の重臣安形伊賀守正道の居住した地である。・・・その後は読めない。

「滋眼寺庚申堂」
この先で道が二又に分かれる。右へと曲がって行く方が街道である。少し行った先、右手奥に『滋眼寺庚申堂』がある。曹洞宗金剛寺の末寺で、本尊に青面金剛童子を祀るので通称庚申堂といわれる。現在無住。その庚申堂は明治初年火災にあい全焼した後、佐久米海岸にあった阿弥陀堂を購入移築したものといわれ、内陣・外陣・向拝のある、古い建築様式をもっている。また、その格天井には、渡辺崋山の高弟福田半香、郷土の画家石川晶斎や長坂廬水、縣宗林などの描いた、華麗な花鳥画が描かれている。12年ごとの未年(ひつじどし)に開帳される。

慈眼寺庚申堂


「東名高速道路で分断された姫街道」
やがて街道は東名高速道路に突き当たる。この辺りは東名の三ケ日インター。そこの足元に『東名高速道路で分断された姫街道』の壊れた看板が転がっており、昭和44年開通の東名高速道路によって姫街道は右図のように分断された、とある。

「東名の壁」
東名は防音壁と金網のフェンスによって遮られている。右へと壁に沿って進み、次の道で左に折れて東名の下をくぐり南側に出る。案内に沿ってしばらくミカン畑の中を行く。ミカン畑の脇道から出て来たお婆さんが道を教えてくれて、手にしていたミカンを一つずつ呉れた。ありがとう。お婆さんの頬が見事に光っていたのが印象的だった。

「東名脇を行く」
道は右へと曲がりながら進み、再び東名をくぐり北側に出る。そこからは東名に沿って進む。道の横は金網のフェンスだけなので高速で走る車が見え、一直線に遥か先まで見通しがきく。

東名脇を行く


「大里峠」
その途中、足元に『大里(おおり)峠』の解説板が転がっていた。それには『江戸時代から小さな難所といわれていたこの峠は、雨天には道路が川となって「わる坂」といわれた』とある。それにしてもこの辺りの看板は転がったり無くなったりしている。材質がプラスチックのせいだからか。

大里峠


「東名を渡る」
およそ1kmばかり東名の脇を歩いて、今度は歩道の橋で渡る。橋を渡ると街道は西へ、東名は北西へと離れてゆく。広い田園地帯に出た。遠くに三ケ日の市街地や更に向こうには浜名湖も見える。やがて宇志川を渡る。

「宇志の茶屋跡」
整備された農地を行き、横一直線に伸びた道を横切り、その先の集落の中へと入ってゆく。道は狭く家々が建て込んでいるように感じる。左手のミカン畑の脇に『茶屋跡』の解説板がある。内容は大谷に有ったのと同じである。解説板の下に『※※墓地・竹茂の墓』の看板が取り付けられていたが、何の事かは分からない。

宇志の茶屋跡


「高札場跡」
その数メートル先に今度は『高札場跡』の解説板が立っている。『ここは宇志の高札場跡である。宇志村で人々が一番集まる場所であったのであろう。江戸時代から存在したが、制札を特に高く掲げていたので高札場といわれた』



三ヶ日宿

「火の見櫓と三ケ日の一里塚」
左からの道と合流し、左から、右からの幾つかの道と出会いながら市街地の中を行く。行く手に火の見櫓が見えてきた。その辺りが三ケ日の一里塚跡である。

火の見櫓と三ヶ日の一里塚


「一里塚跡碑」
Y字路の付け根、街道の左手に火の見櫓があって、その足元の繁みの中に『姫街道・一里塚跡』の大きな石碑がある。ここは江戸から71里目で、このY字路を左に進むのが街道。三ケ日宿はこの一里塚から始まる。

一里塚跡碑


「元旅籠千鳥屋」
宿に入ってすぐ右手、何軒か並ぶ家の中の一軒が、かつて千鳥屋と言われた旅籠であったとされるが、何処にもその面影は無く、どの家がそうなのかは定かでない。

元旅籠千鳥屋


「夢舞台東海道の道標」
右手三ケ日郵便局の前に『夢舞台・東海道』の道標が有り、『姫街道・三ケ日宿、右気賀宿、左嵩山宿』とある。

「三ケ日宿問屋場跡」
次の信号交差点の手前右手に『三ケ日宿問屋場跡』があり、解説板が立っている。それには『三ケ日は本坂峠西の嵩山に対する東麓の集落で、江戸時代姫街道の重要な宿場として栄えた。従って本陣、問屋等宿場の諸機関が完備されていた。問屋石川家は幕末・明治の画家石川晶斎の生家である』とある。しかし、三ヶ日宿の問屋場は、決まった場所ではなく、重要な通行がある時に百姓家を問屋場にして、村役人が詰め業務を取り扱ったといわれている。その村役人が石川家であって、同家が問屋場を代行していたことになる。

三ヶ日宿問屋場跡


「脇本陣跡」
次の三ケ日四辻(姫街道と宇利道の交差点)信号交差点の右手先の黒い重厚な家構えが石川脇本陣跡である。石川脇本陣は公式に許可されたものでなく、本陣が満員の時に脇本陣的役割を果たしていたという。今は階下で子供英会話教室が開かれ、賑やかな声が聞こえている。

脇本陣跡


「脇本陣跡横の路地」
脇本陣跡横の路地には、奥へと古い蔵などが連なり当時の面影が色濃く残っている。

「本陣跡」
脇本陣の向かいの医院の前に『本陣跡』の解説板が立っている。『ここに姫街道三ケ日宿の本陣「小池家」があった。本陣とは大名等貴人の宿泊する施設で、門、玄関、上段の室等がある最も上級の宿屋である。江戸末期測量のために本陣に泊った伊能忠敬は「家作よし酒造をなす」と日記に記している』とあった。
今日の街道歩きはここまでとし、この先は次回のお楽しみにする。時刻は14時55分、歩数計をリセットし、三ケ日の駅へと向かう。

本陣跡




天竜浜名湖鉄道三ケ日駅に着いたら少し時間の余裕があったので、三ケ日みかんを買って帰ろうと近くにあるJAに行った。だが、しかし、そこには、そんな売り場は無く、くたびれ儲け。15時19分発の列車(といっても1両だけ)で新所原へと帰路についた。
今日、日中は雲一つ無く春のような陽気で、朝着込んできた上着を、歩くに従って次々に脱いで行き、考えられないような薄着で道中を歩いた。適度なアップダウンが有り、眺めも最高、知らず知らずにこんな距離を歩いていたと家内はビックリ。歩くことについての大きな自信がついた様だ。しかし帰りの列車や電車待ちのホームでは次第に寒くなってきて、一枚ずつ羽織っていったら帰宅する時には元の通りになっていた。やはり未だ寒中である。

今日のニュース、朝刊では「三菱自動車再建計画、国内販売10万台下げ」。夕刊では「失業率大幅改善4.4%、12月、6年ぶり低水準」。

       今日歩いた記録
       29,657歩(本坂越正味23,809歩)
       14.75q (本坂越正味9.85q)
       1,207kcal(本坂越正味970kcal)

       今までの累計
       105,587歩(本坂越正味80,605歩)
       63.67q (本坂越正味48.34q)
       4,472kcal(本坂越正味3,434kcal)

ページ公開 成17年2月11日
  ページ改良 平成23年4月30日


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