ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ



本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その5 


平成17年3月8日(火) <その1>


いよいよ今回はこの街道の名前の元となった本坂峠を越える。この峠は遠州と三河の国境にあり、今も静岡県と愛知県の県境になっている。ここには椿の原生林があって、同じ歩くならこの時期にと思っていのが、丁度うまいタイミングとなってラッキーである。

3月5日の啓蟄が過ぎたのに、7日にはまたまた寒気がやってきて、九州、四国、中国から北陸、関東、東北、北海道と、全国どこもが雪、雪、雪。降らないのはこの東海地方だけ。暖冬だった暮れまでとは一変して、年が明けてからは雪の日が多い。ところが、今日は移動性高気圧が暖かい南風を運んできてポカポカ陽気、一気に春がやって来た。こんなお天気の日にじっと家に居るのは勿体無いという事で、家内と一緒、二人揃っての街道歩きとなった。しかしこのポカポカ陽気がスギの花粉を飛ばすことにもなり、今日は今年一番花粉の飛ぶ日との情報が出ている。さて、さて花粉症の我々にとっては如何となるやら。


三ヶ日宿 

「三ヶ日四辻」
バス、JR東海道線、天竜浜名湖鉄道を乗り継いで三ヶ日の駅に降りたのが9時54分。駅前でトイレを済ませ、街道歩きのスタイルに整えて、先ずコンビニへと向かう。今回も昼の頃にはお店や自動販売機が全く無い山の中。ここで手に入れておかなくては食いはぐれになってしまう。おにぎりとお茶と花粉対策のマスクとを購入し、三ヶ日四辻の今回のスタート地点へと向かう。
ここで歩数計をリセットし、西へ向かって本坂峠へと歩き出したのが10時5分。天気は快晴、風が温かい。

三ヶ日四辻


「三ヶ日に残る古い家並み」
左に本陣跡、右に脇本陣跡を見て進むと、右手にツシ二階の町屋がある。この三ヶ日には宿場時代の名残は全く残っていない。あえて探すならこの家くらい、でも案外新しい建築かも知れない。

三ヶ日に残る古い家並み




三ヶ日から本坂峠へ

「釣橋川橋」
町を通り抜けると釣橋川橋と宇利山川橋とを続いて渡る。右手から来た二つの流れがこの橋の左手で合流しており、その流れにはカモの仲間が数羽浮んでいる。今日は水ぬるむといった感じである。

釣橋川橋


「火の見櫓」
左手にある三ヶ日高校に沿って道なりに左へと曲り、そして右へと進む。やがて目の前に火の見櫓が現れる。鉄の骨組みは銀色に塗られ、上には風見の矢羽が風に揺れ、半鐘が架かっている。釣集落のものでレトロな感じが嬉しい。

火の見櫓


「秋葉山常夜灯」
続いて右手に、鞘堂に入った秋葉山の常夜灯がある。鞘堂の棟札には明治14年(1881)、常夜灯には大正5年(1916)建立の文字があるとか。

秋葉山常夜灯


「常夜灯」
左手から来た国道362号線と合流して、しばらく進むと右手に日比沢の集落センターがあり、手前に鞘堂に入った常夜灯がある。立派な鞘堂なのに入口の戸の修理が新建材を使って行われており、興醒めした。せっかく修理をするならばもう一歩の配慮が欲しかった。

常夜灯


「火の見櫓」
集落センターの前の駐車場の先に、火の見櫓がある。ここの櫓も釣集落のものと同様で、銀色に塗られ『昭和三十三年』の銘板が取り付けられていた。

火の見櫓


「華蔵寺」
その先、やはり右手に赤い山門のお寺、曹洞宗清浄山華蔵寺がある。もとは真言宗の寺であったが、戦国期に衰微したのを、金剛寺四世明岩修哲が再興、以来、曹洞宗金剛寺末寺となった。大日堂に安置する大日、阿弥陀、釈迦の三尊は25年ごとに数日間開帳されると言う。

華蔵寺


「板築駅跡」
お寺の向かい側、国道の左手、右にカーブをする所に解説板が立っている。プラスチックの白い面に黒のペンキで書かれているのだが、それが剥げてほとんど読めない状態になっている。ここは古代の駅『板築(ほうづき)駅』があった場所といわれる。承和の変(1842)で伊豆へ流罪となった橘逸勢(たちばなのはやなり)がその途中この駅で病死した。この駅の存在時期は平安時代の天長10年(833)から承和10年(843)までの11年間であった。

板築駅跡


「ミカン畑を行く」
緩いカーブを右に曲がるとそこから斜め右へ分かれて小高いミカン畑の中を行く。良く晴れて遠くまで見渡せて気持ちが良い。ミカン畑で剪定作業をしている人の掛けているラジオの音が大きく聞こえてくる。永六輔と遠藤泰子の「誰かとどこかで」、へ〜この番組未だやってるんだ! 懐かしい〜。でも、すぐに元の国道に戻る。

ミカン畑を行く


「ミカンのデザインの一里塚への標識」
国道の森川橋を渡ったら間も無く右に分かれ、緩い坂を上ってゆく。その坂の途中にミカンのデザインの一里塚への標識がある。やはりここは三ヶ日、ミカンの産地である。

ミカンのデザインの一里塚への標識


「本坂の一里塚」
およそ100m、左手に一里塚が有る。数本の木が植わり、前に『旧姫街道・一里塚』の大きな石碑が有り、左手には祠があって馬頭観音の石像が6体と小さな石塔がある。ここは江戸(日本橋)から72番目。右手にも塚らしいものがある。

本坂の一里塚


「国道へ」
塚の前で左に折れ、ミカン畑を通って坂を下り、再び国道に戻る。この道の脇には菜の花が咲いていた。日に照らされて黄色の花の色が一段と鮮やかである。

国道へ


「本坂関所跡」
国道を斜めに横切るようにして、今度は左へ分かれ本坂の集落へと入る。長閑な旧道らしい道となり、やがて右手に『本坂関所跡』の解説板が立っている。解説によると『戦国時代よりこの地に関所が置かれ、後藤氏が管掌していた。幕府は慶長5年(1600)新居関所と共に施設を整備した。後、元和5年(1619)後藤氏が紀州に移ってからは気賀近藤氏の管掌となり、さらに寛永元年(1624)気賀関所の設置に伴い廃止された』とある。

本坂関所跡


「橘逸勢神社」
関所跡から程無く右手、国道の向こう、大きな自然石の石積みの上に神社がある。急な階段の右手には『三筆橘逸勢卿史跡』の石柱が立っている。ここは橘逸勢の墓がある橘逸勢神社。橘逸勢は配所へ向かう途中、この板築駅で不帰の人となった。父逸勢の後を追って配所に向かっていた娘は、この駅まで来て父の死を知った。悲しんだ娘は尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み菩提を弔ったという。やがて逸勢の罪は許され、従四位下が追贈され、妙冲は亡父の遺骨と共に京へ帰ったといわれる。妙冲顕彰の旌孝碑や筆塚もある。

橘逸勢神社


「高札場の台座と秋葉灯篭」
元の街道に戻って少し行くと、右手に石積みの台座と鞘堂に入った秋葉灯篭がある。この石の台座は高札場のもの。本坂の集落の中心であるこの地に高札が架かっていたのだが、今はその台座だけが残っている。鞘堂に入っているのが秋葉山の常夜灯で、解説板によると『文化4年(1807)の建立』とある。

高札場の台座と秋葉灯篭


「姫街道標識とマンサクの花」
右手ミカン畑を背に1本のマンサクの木と木製の姫街道の標識が立っている。マンサクは今が丁度見頃である。

姫街道標識とマンサクの花


「のどかな街道筋」
街道は緩い上りとなって進む。南の日差しを受けて並ぶ本坂の集落は長閑で、気だるささえ感じられるようだ。

のどかな街道筋


「振り向けば視界一面ミカン畑」
街道の左手は裾野を引くように下り、広がって、見渡す限りミカン畑が続いている。極端に言うならば視界一面がミカン畑である。

振り向けば視界一面ミカン畑


「弘法堂」
坂を上り切ると国道に出る。国道を向かいに渡るとそこに『弘法堂』がある。木製の祠の前には幕が張られ、中に2体の石像が安置されている。そばの解説板には金銅製の弘法大師像もとあるが、これには気付かなかった。

弘法堂




本坂峠

「姫街道案内図」
弘法堂のそばに『姫街道案内図』があって、三ヶ日から本坂峠の間の地図に街道のルートが示され、付近の史跡が記入されている。峠へ向かう人のための案内板だ。

姫街道案内図


「国道から分かれ峠へ」
国道の右側を国道に沿いながら上って行く道が街道で、いよいよ本坂峠へと向かう。左下に見える国道脇の休憩小屋の屋根が富士山の形になっており『ふじのくに』と書かれている。この特徴ある建物は何度か見た覚えがある。道路の案内標識には直進方向が国道362号、新本坂トンネル(有料)、右が旧道と示されている。

国道から分かれ峠へ


「石畳道」
頭上はヒノキにいろいろな照葉樹が混じった森で、足元は石畳の道となった。その石畳、始めは古い荒れたものであったが、そのうちにコンクリートで固めた近代的?な石畳に変わった。日の射す所を見付けて初めての小休止をとる。時は11時30分。途中で貰ったデコポンを食べる。口の中が爽やかになり、さっぱりとして美味しい。家内の花粉症は相当酷いようだ。眼の周りが痒く、くしゃみも立て続けに出る。コンビニで買ったマスクも余り効果が無いようだ。既に昨日には症状が出ていたのに、こんな日に戸外へ出てしまった事を盛んに悔やんでいる。耳を澄ますとシジュウガラやコゲラの鳴き声が聞こえてきた。

石畳道


「旧道を横切る」
石畳の先に偽木の杭が何本か立っている。近付いてみたらそこは道路だった。旧本坂トンネルへ向かう旧道を横切る形になるのだ。石畳の道は旧道の先、さらに森の中へと続いている。その先上り勾配が急になる所は階段状の道になる。

旧道を横切る


「鏡岩」
左手に大きな岩が現れた。これが『鏡岩』。そばに立っている解説板によると『高さ4m、幅10mもある大きな平らな岩は、昔は光っていて旅の女性たちはこれを鏡にして身づくろいをしたという。岩質はチャートの断層である』と。同じ鏡岩でも東海道鈴鹿峠の鏡岩は、『山賊が山道を上る旅人を、鏡岩に写して待ち伏せしたといわれる』とあった。片や女性たち、片や山賊と鏡岩に向かう人物が異なり、さすがはこの街道、姫街道と呼ばれるだけあって優雅なものである。
この先はコナラ、アカマツ、シイなどが混じった森となりツバキも目立ってきた。下に大きな松ぼっくりが二つ落ちていた。ダイオウショウかチョウセンゴヨウか。

鏡岩


「椿の原生林の標識」
やたらとゴミが目立ってきたら、再び旧道を横切ることになった。どうしてこんな所にゴミを捨てて行くのだろうか? ここまで車で運んでくる手間を考えれば、指定日に指定されたゴミステーションへ出す方がよっぽど簡単なのに。馬鹿馬鹿しくて腹が立ってくる。道路を横切った先、旧道の車から良く見える位置に大きな丸い標識がある。標識には大きな赤い矢印と『椿の原生林』の赤い文字、それに両向き矢印の中に姫街道の文字がある。

椿の原生林の標識


「椿の原生林」
旧道を横切り更に上へと上って行くと、ツバキの原生林に入る。石畳にツバキの赤い花が散り敷いて、絵になる景色である。しかし、花が落ちている割には、見上げても花が目立たない。白いすべすべとした太い幹のものが並ぶ。ここの解説板には『この本坂峠沿い百数十メートルにわたって、広く椿の原生林が見られる。樹齢200年以上のものがあり1月〜3月にかけて美しい花が見られ、椿の花の隧道を踏みしめながら通行した昔が偲ばれる』とあった。花を求めて来たのであろうヒヨドリなどの小鳥達の声が賑やかである。

椿の原生林


「道を横切り階段で上る」
さらに1本砂利道を横切り、階段で上へと上る。この辺りから山道のようになってきた。足元には枯木や倒木が多く、上を見ると蔓がいっぱい絡んでいる。送電線の下を通り少しなだらかな道になった後少し上ると峠に出る。

道を横切り階段で上る


「本坂峠」
峠は街道と豊橋自然歩道との十字路にある。ここから北に向かうと坊ヶ峰から中山峠。南に向かうと石巻尾根へ行く。狭い所に『本坂峠』、『旧姫街道』、『領主茶屋場跡』、『本坂峠328M』の標識、『豊橋自然歩道』の案内図などがあり、上はヒノキの林で下にはアオキなどが繁って暗い感じである。この峠が今日の街道歩きの一つの目標。ここで区切りにしてお昼を食べようと思ったのだが、日が射さず吹き上げてくる風が強く、とても腰を下ろしているわけに行かない。そこで少し戻って南に開けたところで昼の休憩とする。ここは暖かくて気持ちが良い。こんな所で食べるおにぎりの味は格別である。
ふと下を見下ろすと真っ赤に変色したスギの木から煙のようなものが吹き出た。フワーと出て直ぐに風で飛ばされてしまった。これがスギ花粉の飛散の瞬間だ。テレビでは見たことが有るが自分の眼で見たのはこれが初めて。花粉症で悩まされている事を忘れて、その様子に感動してしまった。

本坂峠



ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ