赤坂 所在地   愛知県宝飯郡音羽町
最寄駅   名鉄名古屋本線名電赤坂駅

東海道第36宿
本陣3、 脇本陣1、 旅籠62、 問屋場1
総人口1,298、 家数316

藤川へ   2里9丁




関川神社
関川神社
松並木を抜けるともうそこは赤坂の宿。東海道で最も宿間距離が短い所。

宿に入ってすぐ左手に関川神社。境内に芭蕉の句碑がある。
     
夏の月御油よりいでて赤坂や     芭蕉
御油・赤坂の距離が短いことを夏の夜に見立てて詠んでいる。

左手長福寺の入口から浄泉寺入口辺りが宿の中心で本陣、脇本陣、問屋場が軒を連ねていた。        
尾崎屋
尾崎屋
宿の右手、2階の連子格子に「東海道五十三次赤坂宿・曲物民芸品製造卸問屋」と書かれた軒行灯が吊るされた曲げ輪製品の店。

建物から中の商品まで、全てなつかしーいと感じさせられる。
浄泉寺の蘇鉄
浄泉寺の蘇鉄
宿の左手少し奥まった所に寺があり、その境内に廣重の「赤坂・旅舎招婦ノ図」のモデルになったと言われている蘇鉄がある。

元は向かいの旅籠清須屋の庭に有ったものが移されたとか。
旅籠大橋屋
旅籠大橋屋
宿の左手に江戸時代から続いている旅籠の大橋屋。建物は正徳5年(1715)頃の建築で明治の初め頃まで「伊右ヱ門鯉屋」として旅籠・女郎置屋を営んでいた。

芭蕉も泊まった旅籠。今も当時そのままのスタイルで泊まることが出来る。

「御油や赤坂吉田がなくば何のよしみで江戸通い」と俗謡に謡われるほど吉田、御油、赤坂には飯盛女(女郎)が多かった。
赤坂の高札
高札場跡
左手に標柱と解説板。正徳元卯年(1710)の創設とある。

宿を出て右手に杉森八幡。音羽中を過ぎると家もまばらになる。
一里塚跡
一里塚跡
静かな街道をしばらく行くと左手に八王子神社。
ここを過ぎて間も無く道端の畦に一里塚の標柱。

蒲郡と東名音羽蒲郡インターを結ぶオレンジロードをくぐると、長沢の集落。
右手に国道が近付いてくる。

唯心寺橋を渡り関屋の信号で国道1号線と合流する。
右の山手に東名高速、その下を名鉄名古屋本線、並んで国道1号線。

本宿までの上り坂、国道の端をテクテクと歩く、歩くのが嫌になってしまいそう。
ある意味での難所かもしれない。
本宿
本宿
名鉄を高架にし、国道の拡幅が行われ見違えるようになった。
東海道ルネッサンスとかで立派な道標が立っている。
     
右国道一号
     左東海道

ここを左にとる。赤坂の宿は以前ここに有った。西三河と東三河の境。
近藤勇の首塚
法蔵寺・近藤勇の首塚
二村山法蔵時、大宝元年(701)行基の開基。

門前には家康幼少の時手習いの草紙を掛けた御草紙掛けの松、中に手習いの硯水。日本武尊ゆかりの賀勝水。家康の先祖松平一族の墓がある。

目に付くのが近藤勇の首塚。江戸で処刑され京都で曝された首を同士が盗んでここに葬った。
本宿の一里塚
本宿の一里塚
旧東海道本宿駅前に真新しい石柱、
     
東海道一里塚跡
     本宿史跡保存会

この先国道と合流するまで小規模ながら松並木が残っている。

国道に合流し、藤川宿の入口まで再び国道の端のテクテク歩き。
山中八幡
山中八幡
やがて左手に見える赤い鳥居が山中八幡、舞木八幡とも言う家康ゆかりのお宮。
文武3年(699)山中光重が宇佐から迎えて創祀。

この山腹にある鳩ヶ窟。永禄6年(1563)の一向一揆の折、家康が難を逃れてここに隠れていたところ。この穴から2羽の白鳩が飛び出て、囲んでいた一揆が疑いを解いて立ち去り、家康は助かった。




今回の行程は赤坂を出た所の一里塚まで。ここまでは東海道の中でも最も昔の姿を残している所。
存分に街道歩きの楽しさを味わう事が出来た。
帰りは名鉄の名電長沢から鈍行と急行に乗り継いで帰路に着いた。

今日の歩数 21,349歩




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