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所在地 愛知県豊橋市 最寄駅 JR東海道線二川駅 東海道第33宿 本陣1、 脇本陣1、 旅籠38、 問屋場2 総人口1,468、 家数318 吉田へ 1里半2丁 |
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一里山 境川を渡って三河の国、愛知県豊橋市に入る。国道が海岸縁から来たバイパスと合流して間も無く、右手にこんもりとした繁みがある。これが細谷の一里塚跡。 右に湖西連峰左に天伯台地、広大な畑地の中を国道が貫き、歩いても歩いても景色が変わらない。高速で走る大型トラックの脇を只我慢して黙々と歩くのみ。これが約1里続く。 |
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一里塚跡から二川宿を望む 右手に新幹線の土手が近付き、神鋼電機の所で国道から右折しガードをくぐる。梅田川の筋違橋を渡り東海道線の踏切を渡って、線路沿いを左折すると二川の宿。 間も無く右手に一里塚跡の標石、手前に東見附があった。道幅は狭く落着いた家並みが続く。 |
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二川八幡神社 宿に入ってすぐ右手に石の鳥居の八幡神社。永仁3年(1295)鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮から勧請したと伝えられる二川村の氏神。 毎年8月15日に湯立神事の祭礼が行われる。 |
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東駒屋 東の枡形の右手にある時代を感じさせる見事な格子作りの建物が、安政3年(1856)創業の東駒屋、本駒屋、西駒屋、田村家一統のたまり醤油屋。 東駒屋は今もこの地方特産の赤味噌を作っている。 |
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二川宿本陣 宿の中程左手に堂々と本陣が構えている。東海道で本陣が残っているのは草津と二川だけ。文化4年(1807)紅林家の後を継いで馬場家が勤めてきたもの。 馬場家から寄付された本陣建築を復元・修理して平成3年に「豊橋市二川宿本陣資料館」として開館し、内部が公開されている。 本陣の向かい東寄りには脇本陣跡、遺構は無く解説板がある。 |
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枡形にある高札場跡 本陣の周りの民家には、昔の屋号を書いた木札が掲げられ、当時の様子を偲ぶことが出来る。 西の枡形の左手には、高札場跡と道路元標の標柱と灯明台がある。 各地への里程はここから測った。 |
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西問屋場跡 宿の右手に標柱。荷物の運搬や馬の手配などを行ったところ。 馬や人足で賑わった所も今はひっそりとして、想像だけがふくらんでゆく。 この先左手に郷倉跡、立場茶屋跡があって、道幅が急に広くなる所が宿の出口。 二川駅前に「是より岩屋江八丁」弘化4年(1847)の道標。 その先左に「右東海道豊橋一里半、伊良胡阿志両神社道」の道標。 火打坂の信号で、直進して右の松明峠と左の岩屋山の間の火打坂を上るのが東海道。左折すると岩屋観音への道、参拝して山の南を通って行くルートもあった。 |
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岩屋観音 山の麓に観音堂があり、石窟の周辺に石仏群。岩山の頂上には青銅の観音像が立っている。 天平2年(730)行基が千手観音像を刻んで岩穴に安置したのが起源と言われ、江戸時代には街道を行き交う人々から多くの信仰を集め、ことに備前岡山藩主池田綱政はこの観音を崇敬し多くの寄進をした。 山上に立つ聖観音は、吉田大橋の架け替え工事を担当した江戸下谷の大工がこの観音の霊夢により難工事を完成、その恩返しで明和2年(1765)下谷講中が立てたもの。今のは2代目。 |
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飯村の二軒茶屋 火打坂を上りきると山を巻くように左折、坂を下ってくると1本の松が街道の上に伸びている。これが自己紹介のページにある私を街道歩きに誘った飯村の一本松。 ここからが飯村(いむれ、夕暮、飯蚫とも書いた)、吉田藩領に入り、立場が有った。今も茶屋の地名が残り、JRバスの停留所の名前にも二軒茶屋。 所々に古い民家が残る街道らしい風景。 |
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飯村の一里塚 殿田橋スーパーヤマナカの前で国道と合流する。その三角地に飯村の一里塚跡、標柱が立っている。 江戸日本橋より73里。 ここからは街中の国道を行く。味気なく面白くない。 山中橋で右手に石巻山が遠望出来る。これは江戸の時代と変わっていない。 瓦町(今も豊橋は三州瓦の産地)を過ぎ新町から吉田の宿にに入る。 |
新居から飯村までが初めての東海道歩き、 何処まで歩くかのプランも無くもう少し、もう少しの結果で、ご褒美に足の裏に大きな豆をもらってしまった。 今日の歩数 31,556歩 |