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所在地 神奈川県平塚市 最寄駅 JR東海道線平塚駅 東海道第7宿 本陣1、 脇本陣1、 旅籠54、 問屋場2 総人口2,114、 家数443 大磯へ 27丁 |
平成11年(1999)2月14日(日) 小田原の朝、今日も良い天気、絶好の街道歩き日和。 早々にホテルをチェックアウトし、近くの食堂で朝食をとる。 ストーブの上のヤカンからは白い湯気が立ち、少し冷え込んでいる。 東海道線で平塚へと戻る。 バレンタインデーの日曜日、早朝の駅前やアーケードの商店街には未だ人影も無く、 ところどころのお店がシャッターを上げ開店の準備をしている。 |
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平塚見附之趾碑 平塚駅をスタート、商店街の一画にある紅谷町公園にある怪談番町皿屋敷の主人公お菊の墓に参ってから東海道に出る。 繁華街を抜けて間もなく、平塚市民センターの前に見附跡の碑と解説板。 ここが江戸口でこれから先が平塚宿。 |
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平塚宿脇本陣跡の碑 宿の右手に石碑。 続いて右手に平塚宿高札場の蹟の碑。 |
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平塚宿本陣旧蹟碑 宿の右手、銀行の前に旧蹟碑。元神奈川相互銀行平塚支店で、その銀行頭取の筆になる。 平塚宿はこの本陣が一つで、代々加藤七郎兵衛と称した。 |
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平塚宿問屋場跡 宿の右手に石碑と解説板。 ここが西組問屋場跡、左手南側には宿東組問屋場があった。 |
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平塚の塚 問屋場跡の角を北に入ると、突き当たりが要法寺。その西隣が春日神社。その右手に石垣を巡らした塚がある。これが平塚の地名の由来となった平塚の塚。 桓武天皇の曾孫平真砂子が一族と共に東国へ向かう途中に、天安元年(857)ここで亡くなり、埋葬された塚と言われる。真砂子は坂東平氏の始祖と言われる人である。 只今、塚周辺環境整備事業で造園工事中、近くから見ることが出来なかった。 |
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花水橋と高麗山 相模川を渡ってすぐに別れた国道1号バイパスと再び合流する地点に東海道平塚宿の大きな石碑。『従是東東海道平塚宿』 この辺りが上方見附跡。 宿を出てすぐ花水川に架かる花水橋。その向こうにはこんもりとした高麗山。 廣重の「平塚・縄手道」に描かれている。 |
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茅葺屋根の民家 高来神社入口手前、東海道に面して立つ茅葺屋根の民家。 今時こんな貴重な家がこんな所に残っているとは、大いに感動する。 |
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高来神社 東海道の右手、高麗山の麓にある神社。(たかく神社、こま山と読む) 高来神社、高麗山のどちらも天智天皇7年(668)唐・新羅連合軍に滅ぼされた高句麗に由来する。 国を追われた高句麗の王族と従者の一部が渡来し、日本各地に居住した。大磯には王族の一人若光に率いられた有力な集団が上陸。高麗山の麓に住み付近の開墾に尽力したと言われている。 |
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虎御前の化粧井戸 国道と別れて静かな下りの化粧坂(けわいざか)に入る。 左手民家のごく近くに虎御前の化粧の井戸がある。 虎御前は仇討ちで有名な「曽我物語」の曽我十郎の恋人。大磯化粧坂の山下長者の娘で白拍子。詩歌管弦に長じ17歳にしてこの坂で舞を演じ頼朝に認められた。 十郎亡き後わずか19歳で尼となり菩提を弔って諸国を巡ったと言われている。 |
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化粧坂の松並木 国道と別れてからJR東海道線を越え大磯へ向かうおよそ1キロの間、松並木が続き昔の東海道を思わせる素晴らしい眺め。 途中誰かの手作りの一里塚跡と書かれた板が木の上に掲げられていた。 壹里塚跡 江戸日本橋より 壹拾七里 66.760q この坂は大磯八景の一つで「化粧坂の夜雨」と言われる。 雨の夜は静けかりけり化粧坂 松の雫の音ばかりして 義之 |