![]() |
所在地 神奈川県川崎市川崎区 最寄駅 JR川崎駅 東海道第2宿 本陣2、 脇本陣0、 旅籠72、 問屋場1 総人口2,433、 家数541 神奈川へ 2里半 |
![]() |
六郷橋 多摩川は六郷川とも呼ばれ、ここに架かる橋を六郷橋と言う。 これを渡ると川崎の宿。 昔は瀬田、矢作、吉田とともに東海道の四大橋の一つであったが、元禄の頃橋が流された。 川崎宿田中本陣の当主、田中休愚が船渡しを幕府に願い出て、宿の財政を救済した。 |
![]() |
六郷橋欄干の飾り 渡し舟と波を表したブロンズのモニュメントが欄干に乗っている。 川崎宿の船着場は下流50メートル。ここを上がった所に茶屋・万年屋が有って、奈良茶飯を食べさせたことで有名。 万年横丁を左に行くと川崎大師。18丁の大師道があった。今は京急大師線が掘割の下を走り、それを渡って橋の取り付け部分を右へくぐると川崎の宿に入る。 |
![]() |
川崎宿 川崎市本町、ここからは道路が整備され旧東海道の標識があちこちに立てられている。しかし昔を偲ばせるものは何も無く、解説板がそれを示すのみ。 あえて言うならばビルや商店街の中を縫うように進む街道の道筋と道幅がそれとなく昔を感じさせる。 クリスマス飾りの残骸と正月飾りが混ざったお店の前に、若者たちのグループが群れている。師走も押し詰まった。 |
![]() |
田中本陣跡 宿に入ってすぐ右手、本町1丁目にある。 当主田中休愚は川崎宿の復興に活躍、多摩川の治水にも手腕を発揮し、「民間省要十七巻」を著した経済学者であり、土木家としても秀でた人と言われる。 |
![]() |
芭蕉句碑 京急八丁畷駅手前右手、線路をバックに句碑がある。 麦の穂を たよりにつかむ 別れかな はせを 元禄7年(1694)郷里の伊賀へ向かう途中、見送りの弟子達と川崎の茶店で別れを惜しんだときの句。 |
![]() |
八丁畷の由来と人骨 京急八丁畷駅横の踏切を渡ると、ホーム階段下にこの説明板がある。 このあたり8丁(870メートル)の間、道が田畑の中を真っ直ぐに伸びていたので、この地を八丁畷と呼ぶようになった。 この地では江戸の頃から最近に至るまで多くの人骨が出土した。飢饉や災害での死者を宿の外れに埋められたもの。供養碑が建てられている。 |
![]() |
市場村の一里塚 鶴見川を渡る手前右手、市場西町にお稲荷さんが有り、その中に武州橘樹郡市場村一里塚の碑がある。 日本橋から5里目。 |
![]() |
鶴見川橋 最近橋の歩道部分が完成し、取り付け道路も工事中。 これを渡ってすぐの所に旧東海道鶴見橋の木柱や鶴見橋関門旧跡の碑があるのだが、工事で一時取り外し中。 |
![]() |
生麦事件の碑 鶴見の橋から京急鶴見駅をくぐるまでは市街地、その先は旧道の名残のある道が続く。 生麦4丁目まではやたらと魚屋が目に付く。かつては漁師町であったとか。 さらに進むと左手に麒麟麦酒の大きな工場、そして2丁目で国道15号線と合流。 すぐ左手に事件碑がある。 |
![]() |
旧蹟碑 文久2年(1862)薩摩藩士・島津久光候の行列の前を横切った英人リチャードソン等3人を藩士が殺傷し、国際紛争になった事件。 この時の被害者を弔うために明治26年に建てられたもの。 この日は先客に何処かの史談会のグループ数十人が居り、その一団が去るまでしばらくの撮影待ちとなった。 |
今日の行程はここまで。午後4時近くになると薄暗くなってきた。 この先国道15線をしばらく進み、JR京浜東北線新子安駅から今夜の宿都内のホテルへと向かう。 16階の大浴場で今日の疲れを洗い流す。 街は迎春準備で賑やか。明日も良い天気。 今日の歩数 44,304歩 |