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美濃路七次独歩記

みのじななつぎひとりあるき



美濃路ウォーク その1 


5月24日(月) <その1>


家内にJRの最寄駅まで送ってもらって、久し振りの街道歩きに出発。JR東海道本線の電車で豊橋へ、豊橋からは名鉄電車に乗り換え8時32分の特急で神宮前まで。9時12分に神宮前着。熱田の森を右手に見ながら宮の渡し跡へと向かう。美濃路は道標のある東海道との追分からがスタートであるが、折角のこと、宮の渡し跡まで行って、そこからのスタートとした方が美濃路歩きのスターにふさわしい。宮の渡しは東海道歩きで平成9年6月1日(日)に、また『平成七里の渡し』のイベントで平成13年4月29日(日)に来ている。今日はここから美濃路を垂井へ向けてのスタートである。お天気は最高、でも紫外線には要注意。



宮

美濃路の追分 宮 【みや】

所在地 愛知県名古屋市熱田区
最寄り駅 名鉄名古屋本線神宮前駅
名古屋へ 1里18町(6.0km)

本陣2、 脇本陣1、 旅籠248、 問屋場1
総人口10,342、 家数2,924

「宮の渡しの時の鐘」
神宮前から県道225号線を南に進み国道247号線と交差する内田橋で、横断歩道橋を使ってその先へと渡ると、右手に宮の渡し公園が広がる。ここで堀川と新堀川とが合流し南の伊勢湾へ、そして桑名へと向かう水路が広がっている。渡し跡には桟橋があり、常夜灯と時の鐘の鐘楼が復元され、側に七里の渡しの石碑が立っている。

宮の渡しの時の鐘


「宮の渡しの常夜灯」
この常夜灯は七里の渡しの船着場にあって航行する船の貴重な目標になっていたもので、寛永2年(1625)に建てられ、現在のものは昭和30年(1955)に復元された。

「七里の渡しの碑」
七里の渡しは木曽三川の湿地帯を避けて、桑名まで海上七里のルートを行くもので、その船着場には舟番所や御浜御殿などが有って、関所のような役割をしていた。宮からは北に迂回して陸路を行く佐屋道を通り、佐屋から川舟三里で行くルートも有った。

七里の渡しの碑


「丹羽家」
七里の渡し跡に2軒の古い建物が残っている。その一つが丹羽家住宅で、幕末の頃には脇本陣格であった旅籠屋伊勢久跡。正面の破風付玄関がその格式の高さを示している。

丹羽家


「熱田荘」
もう一つが熱田荘、木造、二階建て、切妻作り、桟瓦葺き、平入り、正面庇付き。明治29年(1896)建築の「料亭魚半」跡であるが、近世の町屋の形式をよく残していると言う。どちらも名古屋市の有形文化財に指定されている。

「宮の宿の町並み」
前に渡し場跡があり、2軒の古い建物が並ぶ様は、スケールは小さいが渡し場の昔の情景を想像するのには十分である。

「宝勝院」
七里の渡し跡から出発。道を北東にとる。すぐ左に立派なコンクリート造りのお寺があり、浄土宗蓬寿山宝勝院と言う。このお寺では承応3年(1654)頃から明治24年(1891)までの間、熱田湊の常夜灯の管理をしていたと言う。

「ほうろく地蔵」
国道247号線を歩道橋で渡る。国道で分断された道の続きを行く。右から東海道が来てここで合流する。左手東海道の突き当たりに有るのが「ほうろく地蔵」。

「道標」
合流点の右手前角に道標と解説板が立っている。ここが東海道と美濃路の追分である。
道標には以下のように彫られている。
     東面に   北  さやつしま道
             同  みのち
     南面に   寛政庚戌年 (注1790年の建立)
     西面に   東  江戸かいとう
             北  なこやきそ道
     北面に   南  京いせ七里の渡し
             是より北あつた御本社貮丁道

北に向かって「美濃路」を進む。

道標


「蔵福寺」
ついで国道1号線を歩道橋で渡る。道の続きの左手に立派な本堂と庫裏を持った蔵福寺がある。ここの社務所裏には昔時を告げていた鐘が保存されている。



宮から名古屋へ

「熱田神宮」
正面に熱田神宮の正門、折角だから美濃路の道中安全を祈願して行くことにする。鳥居をくぐり玉砂利の神域に入る。鬱蒼と森が繁りシジュウガラの囀りが聞こえる。(でも、一番多く聞こえたのはカラスの声)右手に大きな佐久間灯篭、左に手水舎があり、その北側に大楠が聳えている。市内で4番目の大楠で、神宮で最も有名な大木とか。

「熱田神宮拝殿」
大きな千木と鰹木を乗せた拝殿から、草薙の神剣と熱田大神が祀られた本殿に向かって道中の安全を祈る。そこへ観光バスが着いたのか団体の参拝客がどっと現れてきた。

熱田神宮拝殿


「信長塀」
拝殿の手前には信長塀がある。永禄3年(1560)織田信長が桶狭間出陣の時、この宮に必勝祈願をして見事大勝し、そのお礼にと奉納した築地塀(ついじべい)で、土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもの。兵庫西宮(にしのみや)神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀と共に日本三大土塀の一つ。

「献酒」
手水舎の奥に愛知県内の酒蔵から奉納された薦被りが綺麗に陳列されている。夫々にデザインを凝らしたものが百樽近く並んでいると実に美しい。日本的な美である。お酒の味は想像するだけにして、いよいよ街道へと出る。

献酒


「伏見通」
神宮の西門から出るとそこが国道19号線、片側5車線で中央にクスノキの植わった分離帯がある。とてつもなく道幅が広い。道幅が広いのが名古屋の自慢。歩道橋で向いへと渡る。

「白鳥御陵」
白鳥小学校の先、左への道路入口角に石柱が立っている。この先に「白鳥御陵」がある。白鳥御陵は日本武尊のお墓と言われており、日本武尊が熊祖征伐の後、伊吹山の側で病に倒れ、魂が白い鳥となって熱田神宮の側に舞い降り、その場所が白鳥御陵になったと言う。

白鳥御陵


「誓願寺の頼朝公誕生地碑」
白鳥御陵に続いて左手に誓願寺の立派な紋章入りの御門とその脇に標石がある。久安3年(1147)この地にあった熱田大宮司の館で源頼朝が誕生したと言われる。奥に産湯の井戸もある。頼朝の活躍は知っていても名古屋の生まれとは知らなかった。

誓願寺の頼朝公誕生地碑


「熱田神宮第二神門跡碑」
旗屋町歩道橋手前の歩道に「熱田神宮第二神門址」と刻まれた石柱がある。ここには昔二の鳥居があて、熱田詣の土産である藤団子や宮団扇を売る店が並んでいたと言う。

「断夫山古墳」
左手に熱田神宮公園があり、その中に断夫山古墳やグラウンドと熱田球場がある。この古墳は東海地方最大の前方後円墳で全長151m、5世紀後半から6世紀前半の築造。以前にもここで写真を撮ろうとしたが相手が大き過ぎてどうにも絵にならない。そこで今回は公園の案内図を写してそれに代える。

「金山神社」
右手にNTTのタワーを見ながら進むと次の交差点が新尾頭、交差点を右に行った左手、少し奥まった所に石の鳥居の金山神社がある。金山神社は、承和年間(834〜848)に熱田神宮の鍛冶職・尾崎善光が自分の屋敷内に金山彦神を勧請したのが起源で、刀剣、斧、鉄鐸などを鋳造していたことから「尾張鍛冶発祥の地」と言われ、金山の地名はここから来た。

金山神社


「ホテルグランコート名古屋」
右手に高く聳えるのが金山総合駅にあるホテルグランコート名古屋。ここにはアメリカのボストン美術館の姉妹館である名古屋ボストン美術館がある。

「佐屋道道標」
金山駅前の金山新橋交差点左手前角に佐屋道の道標が立っている。この道標は文政4年(1821)の建立で、次のように刻まれている。
     東 「右なこや木曽海道」
     南 「左さや海道つしま道」
     西 「右宮海道 左なこや道」
     北 「文政四年巳年六月 佐屋旅籠屋中」

ここから北へのびる道が「美濃路」、西へのびる道が「佐屋路」となる。

佐屋道道標


JRと名鉄を越える」
金山駅を過ぎると道はJR中央本線と名鉄を越える。

「古渡町のお米屋さん」
さらに進み古渡町交差点まで来ると、交差点の右手前に町家がある。低い二階の格子造りで両側に立派な卯建が上がっている。左は空き地で右は大きなビル。そんな中にぽつんとこの家があり、看板や店の前の様子からするとお米屋さんで、今も営業している。何とも不思議な光景。

古渡町のお米屋さん


「東別院」
この交差点は山王通と交差しその上には名古屋高速都心環状線が走っている。歩道橋で向かいに渡り、交差点を右に行くと左手に東別院がある。大きな山門をくぐると、正面にはまた一段と大きな本堂がある。正式には東本願寺名古屋別院、真宗大谷派で本山は東本願寺。元禄3年(1690)に本願寺16世一如上人によって開創され、今の山門・本堂は昭和43年に再建されたコンクリート造りである。

東別院


「古渡城跡碑」
東別院の境内西側には古渡城跡の碑がある。織田信長が天文15年(1546)13歳で元服したのがこの城で、城の規模は東西140m、南北100mで、周囲に2重の堀を巡らしていたが、天文17年廃城になったと言われている。



名古屋

美濃路第1宿 名古屋 【なごや】

所在地 愛知県名古屋市中区丸の内
最寄り駅 名古屋市営地下鉄桜通線丸の内駅
清洲へ  2里(7.8q)

御三家名古屋城下のため、本陣も宿場も助郷制度も持たない特殊な宿場であった。しかし人馬の往来など城下町は繁華で、本町の問屋場には伝馬100匹が置かれ飛脚会所も設置、旅籠屋も多かった。

「橘町大木戸跡」
古渡町交差点から国道19号線伏見通を北へ進むと、すぐに伏見通から右へ分かれて本町通となる。この通りは名古屋では細い部類の道であるが、両側にはちゃんと幅の広い歩道を持っている。この辺りには城下治安のため3箇所に設けられた大木戸のうちの一つである橘町の大木戸があった所で、城下と外との境界で、番小屋が設けられ、夜には大木戸が閉められた。

橘町大木戸跡


「三階建ての家」
本町通に入って間も無く左手に木造三階建ての家がある。隣の袖壁を持った酒屋さんと並んで良い雰囲気、これから先の美濃路に何か有りそうと期待を持たせてくれる。

三階建ての家


「なまこ壁の蔵」
本町通から右に入る道の左に、腰はなまこ壁、上は黒い漆喰壁の蔵が見えた。

「栄国寺」
本町通から右手奥に栄国寺がある。この寺には切支丹遺蹟博物館や切支丹燈籠がある。この栄国寺付近はもと千本松原と言われ、刑場のあった場所である。寛文4年(1664)、ここで切支丹宗徒200余人が処刑された。尾張藩主徳川光友は、この刑場を土器野(西春日井郡新川町)に移し、その跡に堂を建立して清涼庵としたのがこの寺の始まりである。

栄国寺


「仏壇屋が並ぶ本町通」
ここは門前町、東西両別院や大須観音、万松寺などが有ってのこと。何時からそうなったかは定かでないが、本町通の入口から大須の交差点まで、大きなビルから小さな町屋、アーケード街に連なるお店もみんな仏壇、仏具の店。名古屋人の仏壇に込める思い入れが分かるような気がする。

「西別院」
門前町の交差点を過ぎた左手奥に西本願寺名古屋別院、通称西別院がある。東とは違って規模は小さくパゴダのイメージのモダンな建物である。

「大須商店街」
次の大須交差点の先にはアーチがあってそこに大きな大須の文字。横切る道路が大須通、アーチから先は大須の商店街。門前町通となる。この大須一体は浅草と秋葉原と巣鴨とを一緒にして混ぜたような所。演芸場があったり、パソコンショップがあったり、ういろうのお店があったり、若者から年寄り、外人までいろんな人が集まる。この通り沿いにテレビでお馴染みの「コ*兵」がある。

大須商店街


「大須観音」
仁王門通を左に行くと右手に有るのが大須観音、正式には北野山真福寺宝生院と言い、京都智積院の末寺であるが別格本山という寺格を持っている。ここの境内では骨董市とか色々な催しが行われる。美濃路に戻って通りの東側には織田信雄が父信長の菩提のために建てた総見寺があり、また信長が父信秀の葬儀を営んだ織田家ゆかりの寺である万松寺もある。

大須観音


「若宮八幡」
次の大きな交差点が通称100メートル道路の若宮大通で、この上を名古屋高速2号東山線が通っている。これを歩道橋で渡ると右手先に繁みがあり大きな石の鳥居の若宮八幡がある。文武天皇(697〜707)の頃に那古野庄今市場に創建、慶長15年(1610)徳川家康が名古屋城築城に際し現在地に移し尾張名古屋の総鎮守とした。5月の祭りには神輿や山車が出る。

「広小路通交差点」
若宮大通を過ぎるとビジネス街になる。広小路から錦にかけてUFJ銀行本店あり、この他銀行、証券、保険など見慣れた大手企業の看板が並ぶ。

「札の辻跡」
桜通の1本手前、伝馬町通本町の交差点が札の辻跡。この辺りが昔の名古屋宿の中心地であった。交差点の東南角には高札場があった。

札の辻跡


「札の辻のモニュメント」
交差点の北西角にステンレス製のモニュメントが有る。これには尾張名所図絵の札の辻の場面と伝馬会所・札の辻の説明がある。説明によると、慶長18年(1613)本町通伝馬町筋の交差点に荷物の運搬に必要な人馬を継ぎ立てる伝馬会所が設けられ、また寛文5年(1665)には名古屋と江戸の間の書状物品の定期輸送を行うため、飛脚会所も設置された。正保元年(1644)には、法度・掟書などを記した高札を掲げる高札場も交差点の東南角に設けられたとある。

札の辻のモニュメント




名古屋から枇杷島へ

「伏見通交差点、先に名古屋駅ツインタワー」
札の辻で左折して伝馬町通を行く。真正面に名古屋駅のJRセントラルタワーズの2本のビルが見える。一筋目が長者町でこの辺りは繊維問屋街、荷物収集のトラックの出入りが激しい。程無く伏見通に突き当たり、横断する事が出来ない。そこで右手日銀名古屋支店の前の桜通伏見交差点の歩道橋を渡り、再び伝馬町通を行く。

伏見通交差点、先に名古屋駅ツインタワー


「堀川の伝馬橋」
すぐに堀川に架かる伝馬橋。この橋は高欄に擬宝珠付きの板橋で、長さ11間5尺、幅3尺、橋杭は3本立で、2組だったと伝えられている。

「堀川と桜橋」
堀川は慶長15年(1610)名古屋城築城と同時に開削されたもので、徳川家康が物資輸送のため福島正則に命じ、城の西から熱田まで約7kmを掘らせた運河である。最近堀川の水を綺麗にしようとの機運が高まっている。橋からの眺めると隣の桜橋はアーチ型の石橋のようなデザインである。橋を渡ってすぐに右折し、細い一方通行の道を行く。

堀川と桜橋



「美濃路に残る町屋」
桜通を渡り、堀川から一筋目の道が美濃路で、細い道に変わり、那古野地区に入る。堀川と平行して歩く。早速左手に古い町屋が目に入った。切妻平入り、瓦葺き二階建て、下は格子造りで二階は黒漆喰で軒下まで塗られている。その先にも5軒ほどの町屋が軒を連ねている。最近保存の手を加えられたようで、黒い古色で綺麗に塗られている。

美濃路に残る町屋


「伊藤邸」
この先左手には伊藤家の邸宅がある。伊藤家は慶長19年(1614)に移住した清須越町人で、松坂屋の伊藤次郎左衛門家と区別するために、堀川沿いにあったことから川伊藤家と呼ばれた。伊藤家は堀川の水運を利用した御用達商人で、米穀問屋をも営んだ。木造瓦葺きの住宅と4棟の土蔵も残っている。主屋は享保年間(1716〜36)のものと伝えられている。邸宅は元禄時代から3期に渡って建てられたものと言われ、近世豪商邸宅の成立発展の順序をよく示した代表的商家建築である。4棟ある土蔵は塗籠工法による江戸時代最も発達した防火建築の実例と言われ、この住宅と土蔵は昭和62年に県指定文化財に指定された。

伊藤邸



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