ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ


美濃路七次独歩記

みのじななつぎひとりあるき



美濃路ウォーク その1


5月24日(月) <その2>




四間道(しけみち)(名古屋市四間道町並み保存地区)

「四間道の浅間神社」
美濃路を伊藤家の在る所まで行ったが、一旦戻って一筋西の四間道という町並み保存地区を行く。浅間神社から北に向かうとそれらしい町並みが始まる。この辺り那古野1丁目、神社の側にある四間道の町並み保存の説明に詳しく書かれている。
名古屋城の築城に伴い、それまでの中心地であった清洲から町全体を移転させた。これを「清洲越し」と言う。ここは、その清洲越し商人によって出来た町並みであったが、元禄13年(1700)に大火があり、名古屋城下1600軒余りを焼失した。その後、防火の目的や商業活動のため道幅を4間(約7メートル)に広げた。また、道の東側を土蔵造りとして防火壁の役割を持たせ、南北に多数の土蔵が軒を連ねていた。この道幅が四間道の由来となっている。戦争で焼失することもなく、堀川から荷を揚げた石畳や、屋根神様、子守地蔵など下町の情緒を今も都心に残している。伊藤家の土蔵は美濃路からでは見ることが出来ないが、四間道からでは数軒連なっている土蔵を見ることが出来る。名古屋市により、昭和61年6月10日、歴史的な街並みを守るため、「町並み保存地区」に指定された。

「四間道の町屋」
道の左手には古い町屋が6,7軒並んでいる。低い二階建てで中には最近になって補修されたのか格子に古色が塗られ白壁とのコントラストが鮮やかで、綺麗過ぎるものもある。

四間道の町屋


「四間道の蔵」
道の右手には蔵がある。石積みの土台の上に建ち、平入りの瓦葺き、腰部は黒い板張りで、上部は白壁になったものが多い。側に寄ると見上げる高さで、これが数棟連なって建っているのでその眺めは壮観である。

四間道の蔵


「屋根神様のある家」
途中で左へ路地を入ると、右手に屋根神様を祀った家がある。ここの屋根神様のお社は立派である。家の出格子には説明板が掛けられている。この奥に子守地蔵がある。

屋根神様のある家


「路地から見た蔵」
路地から表通りの蔵を見る。路地の両脇は町屋の側面の黒い板壁でその間から蔵の白い壁が光に映えて実に美しい。ここならではの光景と自写自賛(自画自賛)。デジカメは撮ったところですぐに出来栄えが分かるので良い。

路地から見た蔵


「四間道の蔵」
この辺りが伊藤家の蔵かと思われる。この先には石造りの蔵や壁面を黒いトタンで覆った蔵などが有る。

四間道の蔵


「四間道の路地」
道に面して何軒かの古い町屋がある。どれも低い二階建ての平入り瓦葺きで一階は格子造り、二階の窓には太い格子がはめられ壁の部分は白壁であったり、黒壁であったりする。道から何本かの路地が左へと入っており、その両側には同じような町屋が向かい合って並び、植木鉢が並べてあったり、洗濯物が干してあったりして、生活臭があり、町の体温が感じられるようだ。



再び枇杷島へ

「堀川の五条橋」
四間道から京町通で堀川に架かる五条橋へと進む。この橋は石の欄干に青銅の擬宝珠。清洲越しで移された橋で、当時の橋の擬宝珠は今名古屋城内にあるらしい。大名を含め旅人は先ほどの伝馬橋を利用したが、朝鮮通信使はこの五条橋を通ったと言う。

「五条川の解説と屋根神様」
五条川の橋の畔に解説板があり屋根神様が祀られている。この屋根神様は何処かの家を改築する際に下ろされたものに違いない。何時までも昔のように屋根の上にあって欲しいものだ。ここで昼時になったので円頓寺商店街の中にあるお店で昼食を取る。

五条川の解説と屋根神様


「美濃路沿いの蔵」
食事を終え午後1時20分再び美濃路に戻り、午後の部をスタートする。右手には壁を黒いトタンで覆った蔵が平入りと妻入りに並んでおり、その先は平入りが続く。間も無く外堀通と交差する。右手には景雲橋。この上は名古屋高速都心環状線が走っている。ここを信号で渡り先へと進む。

「延命地蔵尊」
目の前にインテリア商社のサンゲツの建物が現れ、この建物の手前で左に曲がる。幅下公園に突き当たるので右に迂回するように進むと延命地蔵尊がある。右に大きな石のお地蔵さまが祀られ、左には小さなお地蔵さまが30体余り並んでいる。前を通って次の道を右折し国道22号線に出る。歩道橋で国道を越え続きの道を行く。

延命地蔵尊


「富士浅間神社」
丁字路に突き当たるので左折し、西へと向かう。一筋目を左に行くと富士浅間神社がある。この辺りの地名が浅間町。

「江川の一里塚跡の看板」
美濃路に戻ってすぐ、左の金網フェンスに一里塚跡の看板。熱田の宿から二つ目、今は何も残っていない。美濃路まちづくり推進協議会の作。

江川の一里塚跡の看板


「樽屋町の大木戸跡の看板」
県道63号名古屋江南線を信号で渡り、その一筋目先の右手、空き地のフェンスに大木戸跡の看板。先に通ってきた橘町(中区)の大木戸と、ここ樽屋町(西区)と、もう一つは赤塚(東区)に有ったと言う。

「海福寺」
木戸跡の一筋左には海福寺がある。

「白山神社」
次の広い道の押切北交差点を信号で渡る。交差点の向こう左には西区役所がある。美濃路を進むと右手に白山神社がある。この辺りは立場であった。昔は神社の西側を笈瀬川が流れていて、そこに権現橋という橋があった。今は川も橋も無いが、かつての橋の欄干が白山神社の垣根の一部として使われている。

白山神社


「美濃路の信長の看板」
白山神社の側に美濃路の信長の看板、それによると信長は那古野城で生まれ、少年の頃はこの辺りを駆け回っていた。清洲城に移ったあと1560年、今川義元を迎え撃つため、若き日の豊臣秀吉を引き連れて桶狭間の戦いに出陣、この白山神社で戦勝祈願し、凱旋したのはこの街道であったと言う。

「押切付近道幅が狭くなる」
押切北の交差点から先は更に道幅が狭くなり、旧街道らしい道幅となる。

「街道沿いの町屋」
左手には二階建ての同じ造りの町屋が数軒並び、その中の一軒に「手焼きおかきや」の吊り看板、街道らしい雰囲気が出てきた。

街道沿いの町屋


「八坂神社」
右手には平家によって建立されたと言う八坂神社、長寿延命と豊作祈願の祭礼・八坂神社大祭(提灯祭り)が行われる。背後は東芝の名古屋工場。次に横断する国道22号線の信号が八坂町。



枇杷島

「尾州殿茶屋跡の看板」
国道を越えると名古屋市西区枇杷島。かつてこの場所に尾州殿茶屋があり、尾張藩と関係のある要人が通る際の接待所であった。名古屋には宿場としての本陣や旅籠はなく、熱田と清洲の中程に疲れを癒すための施設を設けたと言う。

「屋根神様のある家」
右手の家には屋根神様が上がっている。前に明かりが灯るようになっていて、覆い屋の扉が閉まっている。この家をはじめに、名鉄をくぐるまでに後2軒ある。覆い屋の扉が新しく白木のもの、銅板葺きの屋根のお社のもの。

屋根神様のある家


「浅草屋源蔵・宮大工の店跡の看板」
左手、駐車場になっている空き地のフェンスに看板、名古屋城築城の際、江戸から呼び寄せられた職人が、この辺りに住み着いた。浅草屋を屋号とする店はこの界隈に3軒あった。ここに建っていた店は切妻平入り造り木製格子を付け尾張地方の町屋の特徴をよく残していたが、2001年に取り壊されたとある。残念。この辺りは職人の街であった。

「八幡神社」
右手にあるのが八幡神社。

「清音寺」
神社の隣には悲恋物語が伝わる清音寺がある。源平争乱の時代、都から流されて来た時の太政大臣藤原師長(もろなが)と土地の土豪の娘、槐(かい)との恋物語で、京に戻る師長との別れを悲しみ、池に身を投じた槐と師長形見の白菊の琵琶とを葬り菩提を弔ったのがこの寺で、枇杷島の地名はこの話から来ている。

清音寺


「旧枇杷島橋跡」
名鉄名古屋本線のガードをくぐると、真正面に旧枇杷島橋跡がある。橋の欄干、常夜灯、美濃路の標石、解説板が立っている。庄内川に橋が架けられたのは元和8年(1622)で、東西に二つの橋が架かり、大橋は長さ72間、小橋は27間で、杭、桁、梁、高欄その他に至るまで全て桧材が使われ、美しい橋であったとある。

旧枇杷島橋跡


「枇杷島橋から名鉄鉄橋を望む」
旧道から県道67号名古屋祖父江線に出て、昭和31年に架橋された庄内川の枇杷島橋を渡る。左手にはJR東海道本線と新幹線、右手には名鉄名古屋本線の鉄橋が並行する。橋を渡ると名古屋市から西春日井郡西枇杷島町となる。ここは平成12年9月 東海豪雨で大きな被害を出した。

「橋詰神社」
橋を渡った所に五叉路があり、その右手にあるのが橋詰神社。天照大神と須佐之之命が祀られ、棟札によれば、創建は承応3年(1654)。昭和10年(1935)に県道が敷設され、境内が半分になってしまったと言う。鎮座350年祭の看板が立ち、祭りが近いのか大きな幟が2本立っている。

橋詰神社


「市場のモニュメント」
五叉路を斜め左に行くのが美濃路で、その左手に大根を担いだ男の像がある。台座には、「尾張名所図会起こしにしび夢だいこん」とある。江戸時代初期、枇杷島橋が架かるのと同時に、徳川家康の命により、市兵衛と九左衛門によって青物市場が開かれた。38軒の青物問屋が軒を連ね、尾張内外から多くの荷が集まり、やがて日本三大市場の一つとなったと言う。その市場を記念したもの。

市場のモニュメント


「美濃路の道標」
モニュメントの後に美濃路の道標が立っている。文政10年(1827)に旧枇杷島橋の小橋のたもとに立てられたもの。旧枇杷島橋は、名古屋五口の一つ「枇杷島口」にあたり、小橋を渡ったところで西に美濃路、北に岩倉街道が伸び、両街道の分岐点だった。四辺の各面には、
     東 にしは、つしまてんのうきよす宿みち
     西 ひがしは、とうかいどうなごや道
     南 文政十年丁亥七月吉日
     北 いわくら道


美濃路の道標


「六軒神社」
JR東海道本線と新幹線のガードをくぐって先へと進む。右手に六軒神社、お祭りが近いのか幟や御神燈の提灯が下がっている。この神社の祭神は須佐之之命で、創建は明暦2年(1656)とか。

「西六軒町紅塵車屋台蔵」
右手奥まった所に白い建物の屋台蔵、毎年6月に行われる尾張西枇杷島祭りに出る西六軒町紅塵車のもの。この山車は享和2年(1802年)に作られたもので町指定の文化財、からくり人形が三国志演義にもとづく舞を演じる。

六軒町紅塵車屋台蔵


「美濃路街づくりの看板が掛かった町屋」
左手にこざっぱりとした町屋がある。一階の格子には美濃路の看板と幾つかの看板が掛かっている。街づくりの拠点になっている家のようだ。

「問屋記念館」
この先右手の奥まったところに問屋記念館がある。下小田井の市の創始者の一人といわれる山田九左衛門家の住居を、平成4年(1992)に、移築復元したもの。山田家は、野口家とともに、日本三大市場の一つである「下小田井の市」を支えた中心的な存在で、明治の初期に建てられ、美濃路を形成してきた町家のなかでも江戸時代の青物問屋の様式を伝える建物と言われている。しかし、残念ながら今日は月曜日で休館日、中を見ることが出来ない。

問屋記念館


「枇杷島の町並み」
この辺りから古い町屋が点々と残り、街道らしい町並みとなる。低い二階建て、切妻瓦葺き、平入り格子造り、二階は漆喰で塗られていたり、太い格子の窓だったりして、街道を行くのが楽しくなってくる。

枇杷島の町並み


「松原神社」
右手に松原神社、ここもお祭りの準備中。祭神は須佐之之命で、創建は寛文8年(1668)。

「駐車場に残った屋根神様」
右手の家の駐車場、隣の家に寄り添うように鉄のポールが立っており、その上に、何とあの屋根神様が乗っているではないか。まるでバスケットのゴールポストのよう。家を建て替えたときに、神様を下に下ろすのは恐れ多いと考えたのだろう。神様を思う心が伝わってくる。

「木造三階建て」
右手に周りより一段と高く聳えるのが、木造三階建ての家。明治24年(1891)に建てられたもの、外装は新しくなっているが、昔は格子造りであったと言う。1995年第1回西枇杷島町まちづくり文化賞受賞とある。

木造三階建て


「大きな古い町屋」
右手にスケールの大きな旧家がある。母屋はこの辺りの町屋と同じ造りであるが、玄関部分は平屋であり、屋根の上に通りに面して屋根の乗った塀のようなものが上がっている。これはちょっと珍しい。建築の素人にはこれが何と呼ばれ、どういう物だかが分からない。何方かご教示を頂きたい。

大きな古い町屋


「かんしょ」
町通りから細い路地を作って通路としたものをこの地方では「かんしょ」と言い、美濃路沿いには、まだ多くの「かんしょ」が残されている。



枇杷島から清洲へ

「新川町の町並み」
街道に青いアーチが架かってここから新川町。アーチの手前左にも旧家がある。間口の広い切妻平入り二階建て、一階は格子で二階の壁は黒漆喰で塗られている。この先にも古い町屋が所々に残っている。中には一階の格子に街道を覗くための小さな出格子が付いているものもある。立派な屋根神様の上がった家もある。

新川町の町並み


「瑞正寺」
寺の手前を右に曲ると土器野の刑場跡で、今朝通ってきた本町通の栄国寺付近にあったものが寛文5年(1665)にここへ移った。幕末までの200余年、多くの罪人がこの刑場で露と消えた。交差点の先、右手には瑞正寺がある。境内には高さ4mほどの「南無妙法蓮華経」と記した大宝塔がある。処刑された罪人の菩提を弔うために建立されたもので、当時ここには、罪人を突いた槍を洗ったという「槍洗い池」があった。この池を「南無妙法蓮華経」の七文字の題目を記した小石で埋めて、宝塔を建てたと言われている。

瑞正寺


「新川橋」
新川に架かる新川橋を渡る。架け替えられたのかまだ新しい。ここは津島街道(上街道)の分岐点で、甚目寺、美和、勝幡(しょばた)を経て津島に至り、甚目寺や津島神社への参詣道として賑わった。

「新川開削本陣跡の看板」
橋を渡った所にこの看板、天明4年(1784)この場所に本陣を置いて尾張藩の大治水事業・新川開削工事が始まった、とある。庄内川の度重なる氾濫で苦しんだ挙句新川開削に着手、藩と沿川の村々総力を挙げての取組だったとある。

「今川塚」
須ヶ口交差点手前、左手の民家に「今川塚」の説明板がある。永禄3年(1560)、織田信長は4万の大軍を率いる今川義元を桶狭間で奇襲し、わずか3千の兵でうち破った。義元の首級と義元愛用の刀、宗三左文字と脇差を掲げ、熱田から清洲まで美濃路を凱旋した。信長はこの地に、敵将今川義元の首をさらし、その菩提を弔うため、義元塚を築き、衆僧に千部経を読ませ、大卒塔婆を立てたと言われている。石碑は正覚寺三誉上人が建てた供養碑と言う。今川塚はこの民家の駐車場奥の庭に立っている。



時間はちょっと早めであるが須ヶ口交差点で本日の行程を終える。名鉄須ヶ口駅の建物にある珈琲屋でアイスコーヒーを飲んで小休止とする。さっぱりとして汗が引いた。今回の街道歩きの余韻を味わいながら、今朝からの歩いてきたコースを振り返る。本町通や四間道、枇杷島には思いのほか古い町屋が残っていて、期待以上のものだった。満足、満足である。15時45分須ヶ口駅から名鉄急行で新名古屋へ、ここで豊橋行き特急に乗り換え、16時19分発、座席指定のμチケットを取って帰路に付く。

今朝のニュースは小泉首相再訪朝67%が「評価」、14歳柳楽さん男優賞・カンヌ史上最年少。

今日歩いた記録

     36,004歩(美濃路正味29,499歩)
     21.59q (美濃路正味17.69q)
     1,538kcal(美濃路正味1,260kcal)



ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ