ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ



美濃路七次独歩記

みのじななつぎひとりあるき


美濃路ウォーク その2


5月24日に美濃路ウォークをスタートした。歩いてみて思った。近い所にも、意外と良い所があるものだ。歩いた所が尾張と言う3英傑が出た地であり、特に信長の足跡が数多く残っている。それらの歴史から続く独特の風土が、街道歩きをより一層楽しいものにしてくれた。中でも屋根神様は庶民の知恵から出た祈りであり、今も暮らしの中に生き続けており、これ等のある風景を見ながら歩くのは実に楽しいものだった。さて今回の<その2>ではどんな楽しみが待っていてくれるのだろうか。

6月17日(木) <その1>


家内にJRの最寄り駅まで送ってもらって豊橋へ、豊橋からは名鉄電車に乗り換え9時02分の特急で金山へ。金山で普通に乗り換え10時過ぎに須ヶ口に到着。街道歩きのスタイルに整え、歩数計をリセットし、先回の続きである須ヶ口の信号交差点を10時10分に出発。このところ梅雨の中休みで良い天気、日差しが強くサングラスを着用する。


枇杷島から清洲へ

「須ヶ口付近の民家」
美濃路の須ヶ口の交差点から清洲へと向けて歩き始める。二階の低い格子造りの家や二階が高く窓に欄干が付いた家、またツシと呼ばれる屋根裏部屋のある家などいろいろな民家の様子を見て楽しみながら歩く。

「軒神様」
この町並みで軒神様を見付けた。今までは小屋根の上に乗っていたので屋根神様であったが、これは軒下に掛けられているので軒神様と言うべきか。

軒神様


「須ヶ口一里塚跡」
名鉄津島線の踏切を渡り、一筋目の左手に『美濃路一里塚の跡』の碑と解説板が立っている。この辺りに用水があって、その橋の両側に塚があり老榎が植わっていた。その後の用水の改修で跡形もなくなり、平成7年(1995)新川町制50年で碑が建てられたとある。ここは宮の宿を立って三つ目の一里塚。

須ヶ口一里塚跡


「新川町の民家」
二階が低く、階下には縁台のある古い民家がある。

新川町の民家


「外町一里塚道標」
お寺、浄土宗大雄山正覚寺の門前に大きな自然石の道標がある。昭和20年(1945)頃、先の一里塚のあった所の用水を改修した時に見付かったもので碑面には次のように彫られている。
          きたみのかいとう
          南無阿弥陀仏
          是より
          西つしまかい道


外町一里塚道標


「曲げ輪っぱ屋さんの店」
街道で見付けた曲げ輪っぱのお店。二階には出格子と欄干、階下は格子とガラス戸に上げ店(ばったり)が有りなかなか味がある建物。

曲げ輪っぱ屋さんの店


「面白い看板」
このお店の看板が曲げ輪っぱを使ったもので、面白い。神具一式、工芸品とある。

「新川町の町並み」
この先、緩やかにカーブしながら街道が続く。道の両側に格子造りの民家が続き、風情がある。

新川町の町並み


「ばったりのある民家」
丸の内で道が鍵状に曲がり広い道に出る。この鍵の中央部分に2軒の古い格子造りの民家が並び、その内の1軒は上げ店(ばったり)が付いている。

ばったりのある民家


「日吉神社」
これから先は、昔は松並木であったと言われている所。名鉄名古屋本線のガードをくぐり、その先で道は二手に分かれる。直進する細い方の道が美濃路、すぐ右手に日吉神社の石柱がある。右手石柱のある道を行くと清洲山王宮日吉神社がある。宝亀2年(771)の始まりで清洲城下の氏神、家康や秀吉、松坂屋の始祖にまつわる話が残っていると言う。

「長者橋近くの豪邸」
五条川の長者橋へ行く信号交差点の右に古い豪邸がある。河邑邸で地元では「大河邑邸(おかむらてい)」と呼ばれ、蔵元とか。ここから長者橋を通って新清洲駅までの道のほとんどをこの家が寄進した。この建物がこの辺りの美濃路の建物の中で一番素晴らしいものと言われている。

長者橋近くの豪邸


「袖壁のある民家」
隣には二階が黒の漆喰壁で袖壁のある家がある。

袖壁のある民家


「五条川の五条橋」
道が五条川に接近してきてやがて左に五条橋となる。この橋は室町時代から架かっており、慶長15年(1610)の清洲越しで城と共に名古屋へ移るまでは「御城橋」の役目をしていた。清洲越しの後、清洲が宿駅として復活すると橋も架けられ往来も激しくなった。現在の橋は、清洲越し前の擬宝珠の親柱と銘文をそのまま復元したもの。

五条川の五条橋


「利家とまつの解説」
五条橋の畔に『清洲の利家とまつ』の解説板があり、長文の解説が書かれている。NKH大河ドラマの影響か。



清洲

美濃路第2宿 清洲 【きよす】

所在地 愛知県西春日井郡清洲町
最寄り駅 名鉄名古屋本線新清洲駅
稲葉へ  1里18町(5.9q)

美濃路2番目の宿場。はじめ、一場桑名町に置かれていたが、寛文8年(1668)火災に遭い、現在の地に移された。本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋21軒、家数521軒、人口2545人、宿並長約2333mを誇っていた。本陣(現在林良彦邸)は濃尾大地震でからくも倒壊を免れた門のみが保存されている。

「清洲古城跡道標」
五条橋を渡った右手、川の縁にこの道標が立っている。
          清洲古城趾是より弐丁

「清涼寺」
橋を渡って宿に入ると、左手に洪福山清涼禅寺。曹洞宗の寺で庶民信仰の寺。鐘楼を兼ねた山門は立派で、正徳2年(1712)以来この鐘で宿内に時を告げていたと言う。この辺りは宿の中心で、鍵型の曲がり角には高札が立ち、札の辻と呼ばれていた。津島への分岐を示す指差し道標が最近まで残っていたと言う。

清涼寺


「林医院」
寺の前で右へ直角に折れる。左手ライオンズマンション清洲のあたりが「脇本陣」、次の道の先に「問屋場」、その隣のキヨス林医院が「本陣」、問屋場の向かいが「脇本陣」である。

「美濃路清洲宿本陣跡」
林医院の隣には本陣の門が残されている。前には明治天皇御休憩所跡の碑が立っている。側の解説板によると、『清洲宿は、はじめ一場桑名町に置かれたが、寛文8年(1668)火災に遭い、ここに移された。以来この本陣は、将軍上洛、大名参勤、勅使や朝鮮・琉球使節、お茶壷の参府、時には大象の下向などの宿泊所となり、美濃路のなかでも豪壮な建物であった。明治10年(1878)明治天皇一行も小休した。明治24年(1891)の濃尾地震で建物が倒壊、火災に遭い、わずかに免れたこの正門のみが、縮小して再建され、唯一清洲宿本陣の名残となっている』とある。

美濃路清洲宿本陣跡


「問屋場跡」
林医院の手前に2軒の家があり、この辺りが問屋場だった所。

「宿内の民家」
宿の中には二階が低い格子造りの家や二階が塗籠の家など数件があり、当時の様子を伝えている。

宿内の民家


「右大臣織田信長公古城跡碑」
新幹線とJR東海道線のガードをくぐったところで街道をそれ、右に線路沿いに戻る形で行くと清洲城跡で、幾つかの碑が立っている。

「清洲城」
城跡から五条川に架かる大手橋の先に、再建された清洲城が見える。かつての織田信長の居城であったが、慶長15年(1610)徳川家康により、都が名古屋に移ったため、清洲城は無くなり、清洲町の町制100周年記念事業として復元された

清洲城


「清洲城の沿革」
古城跡には城の沿革を詳しく記した解説板が立っている。



清洲から稲葉へ

「一場南の町並み」
元の街道に戻って更に東名阪自動車道をくぐる。ここからは一本道で暫らく進むと、一場南で道は左へ、続いて右へと緩く曲がる。この辺りが元和(1615〜1624)から寛文(1661〜1673)の約50年間、神明町に移るまで清洲宿の中心だったところ。今も街道らしい町並みが残っている。

一場南の町並み


「本成寺」
間も無く左手に真宗大谷派林光山本成寺。

「光遠寺」
右手には日蓮宗清林山光遠寺。

「総見院」
暫らく歩いた左手、街道から一筋入った所に臨済宗妙心寺派の興聖山総見院がある。

総見院


「鐘楼脇の合歓の花」
山門を入った右手の鐘楼の脇に合歓の木があって、淡いピンクの花を咲かせていた。思わず芭蕉の句が浮んだ。
          象潟や雨に西施がねぶの花

「信長の菩提寺総見院解説」
この寺は織田信雄が父信長の菩提寺として総見寺を建てたのが始まりで、清洲越しの後、正保元年(1644)に総見寺第3代和尚の隠居所を兼ねて尾張藩祖徳川義直が清洲の旧地に総見院として建てさせたもの。寺には信長、信雄、義直の位牌や信長、義直の墓碑を祭る。また、本能寺の変直後に信雄が探し当てたと言う信長着用の焼兜が保存されている。

「亀翁寺」
街道の右手には曹洞宗白峰山亀翁寺がある。表の看板には十三参りの寺とある。十三参りという言葉を久しく聞いた事が無かったので、懐かしさが込み上げてきた。

「亀翁寺の解説」
この寺は後小松天皇(1382〜1412)の頃の創建で、南北朝時代の特色を持つ重要文化財の木造虚空蔵菩薩像がある。

「北一場の民家」
街道沿いに古いタイプの民家がある。

北一場の民家


「北一場美濃路公園」
街道が緩く右にカーブした所の左手に北市場美濃路公園があり、背丈を越える大きな公園碑と『美濃路の由来』の解説板が立っている。

「役所橋」
公園を過ぎて間も無く、右へ入る小道の先に小さなコンクリートの橋があり右の親柱に『*所橋』と読める。これは『役所橋』で、この先の畑の中に清洲代官所跡がある。

役所橋


「長光寺」
左手にお寺があり、入口の左に大きな石柱に臨済宗妙心寺派興化山長光寺とある。応保元年(1161)の創建で、明応8年(1499)に臨済宗に改め現寺号になった。地蔵堂(六角堂)に安置されている地蔵菩薩立像は鉄仏とは思えない美しさを示すとあり、建物、仏像共に重要文化財。

長光寺


「四ツ家追分道標」
入口の右手には四隅を鉄のアングルで補強された四ツ家追分道標がある。文政2年(1819)の建立で碑面には
          右ぎふ道
          左京都道


四ツ家追分道標


「四ツ家の町並み」
この辺りにも古い町屋が残っており、格子造りの家、袖壁のある家などがある。その中に酒の量販店『酒のビ*グ』の京屋伊助の酒蔵がある。

「盤桓子誕生地碑」
県道に突き当たり左折する。その突き当たりに丹羽盤桓子誕生地碑がある。

「四ツ家追分碑」
JR東海道本線の踏み切りの手前右側に岐阜街道との分岐である四ツ家の追分が有り、『四ツ家追分』の碑が立っている。踏み切りのすぐ手前には一里塚が有ったと言われ、探してみたが今は何の痕跡も無い。

四ツ家追分碑


「七曲り縄手の白い夾竹桃」
踏み切りを渡ると、これから暫らくは七曲り縄手と呼ばれる所を歩く。見るべきものは何も無い。左手に大里小、大里中、右のグランドパレスの先で右に曲がる。井之口団地からは左斜め先へと進む。楽しみは道端や家々の庭などに咲いている花を眺めるくらい。

「福田川」
用水のような福田川を渡る。ただ黙々と歩くのみ。街道歩きでの我慢のしどころである。

「長束正家邸跡」
名鉄の線路が近付いてきたところで、街道から一筋右にそれると、玉石垣で積まれたところに幾つかの碑が立っている。その中の一つが『長束正家邸跡』で、他は愛国、殉国などの文字が刻まれたもの。長束正家は秀吉の五奉行の一人。ここの地名は長束町。

長束正家邸跡


「長屋門のある家」
稲沢団地や稲沢市民会館を左に見て進む。次の信号交差点で左に曲がる。右に長屋門のある家がある。

「国府宮一ノ鳥居」
ヤマダ電機を右に見て名鉄名古屋本線の踏み切りに至る。踏み切りの手前、右側に『尾張惣社国府宮一ノ鳥居』の大きな石柱が立ち、一対の常夜灯、石の鳥居、献灯が続きその先に石の太鼓橋が見える。ここが2月の寒い時期に行われる裸祭りで有名な国府宮である。

国府宮一ノ鳥居


「大江川の曙橋」
踏み切りを渡って更に直進、高御堂団地のところから右斜めへと進むと大江川の曙橋。橋を渡った所が6差路で、その先で県道を斜めに横切る。この県道沿いにファミレスがあり、やっと昼食にありつく。午後1時30分。食事の前に先ずアイスコーヒー、汗した身体をキューと冷やしてくれた。

「稲葉の一里塚跡」
住宅地を斜めに横切る格好で進む。この辺りに稲葉の一里塚跡が有るはずだが、今は痕跡も何も無い。先日放送されたCBCのテレビ番組の中で、地元の人がここに木の標識が立っていたと、テレビクルーに指差していた道端のウチワサボテンを発見。ここが一里塚跡なのだ。

稲葉の一里塚跡



ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ