ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ



美濃路七次独歩記

みのじななつぎひとりあるき



美濃路ウォーク その5 


8月12日に美濃路ウォーク<その4>を歩いてからは、ずっと2004アテネオリンピックの話で持ちきりだった。谷亮子の金メタルを先頭に柔道、水泳、体操、アーチェリー、自転車、ヨット、マラソン、ハンマー投げ、レスリング、ソフトボール、野球、シンクロと金、銀、銅のメタルラッシュ。久々に明るいニュースが続いた。

8月27日(金) <その1>


JR東海道本線8時10分発の電車で豊橋へ、ここの気温が28℃、前回よりはちょっと涼しい。10時17分大垣着。大垣駅前からバスで船町港跡へ、水門川に架かる高橋の「奥の細道結びの地」で歩数計をリセットする。美濃路のゴールである垂井の追分に向かってスタートしたのが10時40分。まだ午前中であるのに、日差しが強く、残暑が厳しい。


大垣から垂井へ

「水門川の高橋」
船町港跡のバス停から少し戻って、水門川に架かる高橋を今日の出発点とし、ここで歩数計をリセットする。

水門川の高橋


「芭蕉と木因像」
ここには芭蕉が木因と分かれ伊勢へと向かって旅立つ姿の像がある。自分も同じように垂井へ向け、美濃路最後の旅立ちである。

芭蕉と木因像


「船町の民家」
垂井へ向かうバス通りは県道31号大垣垂井線で、この通りの南側、船町港跡バス停付近には古い町屋が多く残っている。二階が低く格子造りで袖壁を持っていたり、黒い腰壁に覆われた大きな二階建ての蔵があったり、両側に卯建のある家があったりで、これ等を見ながら歩くのは、まさに街道歩きの醍醐味である。

船町の民家


「愛宕神社」
大きな交差点を地下道でくぐって横断した先、左手工業高口バス停前に愛宕神社がある。境内には玉の井山車と恵比須山車の二つの標柱が立っている。ここから大垣まつりの山車が出るのだろうか。

「芭蕉・木因遺跡」
左手に標石が2本と解説板が立っているのが『芭蕉・木因遺跡』で、標石は『史跡芭蕉木因遺跡』『當境内芭蕉翁碑』である。

芭蕉・木因遺跡


「芭蕉・木因遺跡の解説」
解説には『俳聖松尾芭蕉の美濃来遊四回は、俳友谷木因が大垣にいたためである。木因は名を正保、九太夫と称し、木因はその号である。船町の船問屋の家に生まれ北村季吟の門に入って俳諧を学んだ。芭蕉とは同門で交わりが深く、大垣俳人の先駆をなし、多くの門弟を芭蕉門下に入れた。元禄7年(1694)芭蕉が大阪で病没すると木因はこれを深く悼み、船町正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。木因の死後、芭蕉・木因の因縁をしのび、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした。』とある。

「碑や塚群」
左に入ると右に正覚寺の建物、左の庭に多くの碑や塚、墓石などがある。丸い碑の右にある自然石の碑に路通の筆で『芭蕉翁・元禄七戌年十月十二日』と刻まれている。芭蕉没後百日目の追善法要として立てた追悼碑である。

碑や塚群


「木因の墓」
これ等の碑群の左に『木因墓』と刻まれた墓石がある。

「水神社」
この遺跡から道路を隔てた向かいに『水神社』がある。大垣はかつて揖斐川、水門川、杭瀬川などの河川を利用した舟運が盛んで水の町と言われた。この神社はこれ等のことと深く関係しているに違いない。

「近鉄養老線の踏切」
芭蕉・木因遺跡を後に一路西へと向かい、近鉄養老線を踏切で渡る。

近鉄養老線の踏切


「杭瀬川沿いの民家」
右手に西小学校、左手に杭瀬川郵便局を過ごし、山王用水を渡ったところで左に折れる。古い町並みが現れ、道は直ぐに右に折れる。この辺りには袖壁を持った家などがあり、やがて緩く左にカーブして杭瀬川の土手沿いを行く。左手には大きな古い家があり、保存の為か背の高いフェンスに囲われている。

杭瀬川沿いの民家


「秋葉神社」
右手に秋葉神社の大きな石柱があり、奥に石の鳥居と神社の建物がある。

「旧塩田橋」
街道は右に曲がり橋を渡る。これが杭瀬川にかかる旧塩田橋で、今の県道は先の山王用水に続いて真っ直ぐに塩田橋で杭瀬川を渡っている。橋の近くの土手では釣り人がのんびりと釣り糸を垂れていた。

旧塩田橋


「塩田の常夜灯」
橋の向こう岸の左手には大きな常夜灯がある。これが塩田の常夜灯。銅版葺きで木製、彫刻があしらわれている豪華なもの。このような常夜灯を見るのは初めてである。

塩田の常夜灯


「常夜灯の解説」
解説によると『この常夜燈は、高さ約4.3mの銅板葺(当初は茅葺であった)で、明治13年(1880)8月に杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識、そして伊勢両宮への献燈として塩田港の両岸に建立された。』と書かれている。

「塩田の民家」
解説の続きに『当時は杭瀬川の水運がこの地方の物資輸送に重要な役割を果しており、特に赤坂港と桑名港との間の船の航行が盛んであった。その中継港として塩田港は、常に20〜30隻の舟が停泊し、船頭相手の銭湯、米屋、雑貨屋等の店が軒を並べ大変賑やかであった。』とあり、その名残と思われる町屋が何軒か残っている。

塩田の民家


「長源寺」
塩田橋を渡って左には古い町屋が1軒ある。街道は右へと進む。袖壁を持った二階建ての家が数軒並び、道は左にカーブする。その右手にお寺があり、その門には鯱鉾の瓦が乗っている。門前の石柱には『偏照山功徳院長源教寺・蒼立空海師』とある。

「秋葉神社」
道なりに右に曲がった所の左手に秋葉神社がある。社殿の白木が未だ新しい。

「法永寺」
その先左に有るのが『醫王山法永寺』

「お寺の建物」
お寺の門に続いてお寺の建物、複雑な建て方がしてある。

「谷汲山常夜灯」
先に歩いてきた県道31号大垣垂井線を直角に横断し県道の北側へと移る。その先一筋目が旧道でここから左に折れ西へと向かうのだが、ここの右手に杭瀬川の土手があり、その上に常夜灯が立っている。下の道からは見上げる格好になる。これが谷汲山の常夜灯。その右には静星陸閘という大きな水門がある。これで洪水を防ぐのか?

谷汲山常夜灯


「久徳の一里塚」
旧道を西に向かって進むとやがて左手に、塚の上に大きな榎のある一里塚が現れる。これが久徳の一里塚、富田の一里塚と共に美濃路に残る貴重なもの。しかし残念ながら北側の塚は失われ、南側の塚だけが残っている。壮年の男性が塚の掃除をされていた。このような人たちの努力で塚は守られているのだ。有り難いことである。

久徳の一里塚


「一里塚の解説」
解説によると『・・・この一里塚は、東海道と中山道を結ぶ美濃路に構築されてもので、南側だけであるが榎が残るなど、ほぼ原型に近く貴重な史跡である』と記されている。

「瓊瓊杵神社」
右手、一里塚の向かいに有るのが瓊瓊杵神社。あまりお目にかからない神社なので、帰ってから調べてみた。古事記では邇邇芸命(ににぎのみこと)、日本書紀では瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と書かれている。瓊瓊杵尊は天照大神(あまてらすおおみかみ)の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)と高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)との間に生まれた天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)のことで、日向の高千穂の峰に降った神様。「ほのににぎ」は稲穂が豊かに実ると言う意味で、穀物の神様として崇められているという。ここに何時から祀られているのかは分からないが、作物の豊作を願って祀られたものと思われる。

瓊瓊杵神社


「白髭神社」
瓊瓊杵神社から街道は西へと進む。右手に静里小学校、続いて太平洋工業の大きな工場の前を行く。ところがこの先は排水路で行き止まり。戻るのも馬鹿らしいので左の整地碑の裏から県道に出る。排水路の馬渡橋を渡り、ここから暫らくは美濃路が消えているので仕方なく県道を行く。大垣自校のところから右に入り一筋目が復活した美濃路。復活して間も無く左手に白髭神社がある。白髭神社の祭神は猿田彦命で延命長寿白鬚の神として広く信仰を集め、また航海・交通の安全を司る神としても崇められている。

白髭神社


「神社近くの民家」
神社のそばには門構えの家や大きな民家がある。表札の横には氏子総代の札が掛かっていた。

「大谷川の大谷橋」
街道は大谷川に阻まれて左の県道に合流する。この大谷川に架かる大谷川橋を渡って直ぐ県道と別れ右に曲がる。只今時刻は12時45分、県道に居る間に昼食の店を探さないと店が無くなり食いはぐれる羽目になる。幸い少し先に寿司屋があったのでそこに寄る事にする。

大谷川の大谷橋


「林松院」
午後の部をスタート。県道から右に分かれ大谷川に沿うように北に向かって進む。左手にあるお寺が『深道山林松院』『新四国八十八ヶ所霊場』の石柱が立っている。

「立源寺」
続いて左手、奥に入った所に有るのが『南京山立源寺』

「南宮社道標」
続いて左へ入る道の脇に2基の道標が有る。手前背の低い道標には『従是南南宮社近道』とあり、後の背の高い道標は2行に刻まれており、右には右矢印の下に『垂井・京都』、左には左矢印の下に『大垣・岐阜』とありその下に大きく『道』と刻まれている。道標に時々矢印や、指の形が刻まれているのがあるが、これも珍しい部類に入る。

南宮社道標


「龍松禅寺」
北に向かった街道が左に曲がったところの左手奥にお寺があり、入口に2基の石柱が立っている。右のものには『曹洞宗二十九番瑞雲山龍松禅寺』とあり、左のものには『北面延命地蔵尊』とある。

「角の民家」
街道がくねくねと曲尺手に曲がる。その曲がり角に何だか由緒のありそうな門構えの屋敷がある。由緒がありそうと勝手に思うだけで、何も分からないのが残念。

角の民家


「慈應寺」
角の屋敷から北へ向かって行く左手にお寺があり、門の左に文化財の解説板と大きな『大神宮の常夜灯』が有る。このお寺は『金梁山慈應寺』と言う。

慈應寺


「慈應寺文化財の解説」
このお寺に平安中期の作とされる木造薬師如来坐像と、江戸初期の作とされる木造十一面観音立像が保存されている。これ等は明治維新に廃寺となった寺にあったものだとか。わずかの区間にこれだけのお寺が並んでいる。大垣の外れと言うのにどうしてなのか、不思議である。

「八幡神社」
街道は田圃の中を進み、国道21号線の下をくぐり、直ぐに左に曲がり、国道の脇を西に向かう。程無く右手に八幡神社がある。大きな石柱には『村社八幡神社』とあり、村社の部分をセメントで埋めた跡が残っている。

「国道21号を行く」
そのうちに街道は国道に合流する。この先暫らくは美濃路が消滅しており、仕方なく国道を行く。

国道21号を行く


「狸のお守り」
右手に大きな信楽焼きの狸が2体立っており、奥の高い所には小さな祠があり、看板に『狸さんのお守り』とある。狸を祀る宗教のようだ。

狸のお守り


「新興宗教?」
続いて右手に大きな建物があり、奉納の幟が立っている。入口には大きな石に『大道教福乃宮大教殿』と彫られている。先の狸と関係があるのかな?


ホームへ  表紙へ  目次へ  戻る  次へ  掲示板へ