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伊賀街道独歩記

いがかいどうひとりあるき



伊賀街道ウォーク その2

平成19年4月29日(日)<その2> 



汁付から平松宿まで

「弁天堂」
汁付の三重交通バスの車庫の背後、小高い所に赤く塗られた弁天堂がある。お堂の前には桜が咲いていた。

弁天堂


「高良城橋」
前方に橋が見えてきた。これが高良城橋(こおろぎばし)、頭上の案内標識には『直進国道163号上野21km、左青山高原、風力発電施設』とある。橋の向こうには風車の乗った2本の丸太状の看板があり、大きい方には『ようこそおおやまだへ大山田観光協会』小さい方には『温泉と風力発電のある村大山田』とある。しかしこの大山田村は平成16年11月1日に1市3町2村が合併して伊賀市となった。

高良城橋


「山の神」
左の山裾に石の鳥居があり、それに『山の神』の額が掛かっている。これは立派だ。普通山の神と言えばせいぜい40〜50cmの卵形の自然石に山の神と彫られたものが祀られているだけだ。以前伊勢参宮街道の神戸宿から白子宿へ行く間の2箇所で山の神の前に鳥居が有るのを見た事があるがこんなに立派なものではなかった。

山の神


「上阿波の民家」
街道には長野宿で見たのと同じ様な切妻平入りツシ2階の大きな民家がある。2階の壁はここも黒い壁だ。

上阿波の民家


「観音堂」
右手に上阿波の構造改善センターを過ごし、元町のバス停を過ぎた左手、少し高くなったところにお寺がある。本堂の右脇に古い道標、その右に未だ新しい石の観音堂の由来、本堂の左手前に小さな祠と宝匡院塔と手水鉢が有る。道標は街道から移されたもので慶応3年(1867)の年号が、手水鉢には正徳4年(1713)の年号がある。

観音堂


「観音堂の由来」
観音堂の由来には『この観音堂は馬谷山慈眼寺と称し永和3年(1322)に上阿波町佐印ヶ原(現在地)に真言宗の寺として建てられた。本尊は十一面観音で弘法大師の作と伝えられる。またこの寺の鎮護の社として愛宕社が建てられ火之迦具土神が祀られている。明治維新の神仏分離により寺号を廃して観音堂と呼ばれる様になった。本尊を祀る厨子は文政元年(1818)に改修、本堂は昭和二十二年に(1947)に再建されたものである。境内の南の石段を登ると愛宕社がある。社前の石灯籠は慶長二十年(1615)に造立され村内に現存する灯籠の中で最も古い。・・・』とある。

「蔵」
左手に蔵を取り込んで納屋を作ったような複雑な作りの建物がある。街道にはいろいろな民家があって、それらを見ながら歩くのが楽しみだ。

蔵


「別府橋」
やがて街道は国道から右に分かれ小さな川を別府橋で渡る。この川が服部川、徳川家康に仕え、皇居の門にその名を残す伊賀の郷士服部半蔵、その服部から来た名前なのだろうか。

別府橋


「田園地帯を行く」
橋を渡るとやがて国道に平行した真っ直ぐな道になる。右は水田で今は田に水が入れられている。左は畑地だ。右の山には別府城跡が左の山には安岡氏城跡がある。天正7年(1579)9月織田信雄と伊賀土豪連合軍との激戦のあったところ。

田園地帯を行く


「島の川の厨田橋」
右から流れてきた島の川の細流を厨田橋で渡り、左に折れて今度は服部川を渡る。すると国道に合流する。そこへ右から県道668号大山田加太停車場線も合流するので、ちょとややこしい。厨田橋の向こうには八重桜が6〜7本あって綺麗に咲いている。その下に車を停めて休憩している人が居た。





平松宿

「お堂の石仏」
国道を100メートルも行くと、街道は右に分かれる。その道の分岐の所に祠があって石仏が祀られている。紅白の幕が張られ今も篤く信仰されているようだ。背後に御札が張ってあって、その御札の中央に大きく『千願不動慈悲菩薩千手観音尊』とあったが、この石仏は合掌していて千手は無い。

お堂の石仏


「宿の街並み」
ここから右へと行くと平松の宿、しばらく田畑が有るがやがて街道は左へ直角に曲る。そこから宿の家並みが続く。切妻平入りツシ二階で格子の残る家がある。二階には虫籠窓、壁が黒壁の家や、白壁の家もある。落ち着いて長閑な風景だ。

宿の街並み


「常夜灯と道路元標」
宿の右手中程に公民館があり、前の広場の左奥に常夜灯がある。これには慶応2年(1866)の年号が刻まれている。その前には木製で背の高い『道路原標』があり津からの距離が書かれている。

常夜灯と道路元標


「旅籠いたや」
その先左手に、大きな妻入り二階建ての旅籠『いたや』の建物がある。一階は格子で二階はガラス窓で欄干がある。妻入りなので伊勢風の建て方だ。今は使われていない。

旅籠いたや


「軒の飾瓦」
小屋根の上には飾り瓦があって、左から『御宿いたや』、『犬』、『七福神』、『松』、『大橋』、『亀』などがあり、軒瓦には『板』とある。

軒の飾瓦


「平松宿場まち案内図」
宿の出口近くに『平松宿場まち案内図』があり平松宿の沿革と平松宿家並み図、現在の住宅図が描かれている。沿革によると元は上阿波に伊賀八宿の中でも最も重要な『上阿波宿(元町宿)』があったが、元禄7年(1694)から3回の大火があり、元禄9年に藤堂藩から宿場を平松に移転するよう命じられ、翌10年(1697)に平松宿の普請が完成し、今に残る宿場の原型が出来た。しかし明治32年(1899)の関西鉄道(現JR関西線)の開通で衰退の一途を辿ることとなった。

平松宿場まち案内図


「阿波大仏道標」
宿場の道から右に分かれる道が有りその向こう側に大きな自然石の『阿波大仏道標』がある。

阿波大仏道標


「伊賀街道の標識」
その道を右に見て過ごし、国道に合流する手前の右手に木製の『伊賀街道』の標識がある。

伊賀街道標識





平松宿から平田宿へ 

「造り酒屋」
交差点を過ぎて国道に出たら間も無く右手に、店と蔵と屋敷の門のある造り酒屋のような建物がある。店が閉まっているので確かかどうだかは分からない。街道筋の宿場にはたいてい一つや二つ、元庄屋だったとかの造り酒屋があるものだ。ここにそれがあっても不思議ではない。

造り酒屋


「国道から分かれる」
やがて街道は阿波郵便局の手前で、国道から左に分かれる。

国道から分かれる


「ふるさと猿野景観マップ」
およそ500メートルで再び国道に戻る。国道に会う手前左手に瓦屋根が乗った立派な『ふるさと猿野景観マップ』がある。この辺りの地名は「猿野」と書いて「ましの」と読む。このマップには街道筋のことは出ていない。国道を横断して服部川沿いを行く。国道を渡るとき、右手(東)の方向を見ると新大仏寺への看板が見える。

「崩れかけた茅葺屋根」
服部川を右に見ながら進むと、左手に藁屋根が崩れかけた民家がある。今は誰も住んでいないようだ。茅葺屋根は旅人の目には風情があるように見えるが、住む人には維持管理が大変で、何れはこのようになってしまうのも止むを得ない話である。

崩れかけた茅葺屋根


「東海自然歩道の道標」
次の橋のたもとに東海自然歩道の木製の道標がある。『(西)笠取山6.2Kを経て青山高原8.5K、(北)新阿波大仏寺1.0K、田代池6.1K、霊山8.5K』

東海自然歩道道標


「石仏」
左手石積みの上、畑の脇に石仏が有り、前の花筒にサカキが供えられている。石仏表面に刻まれた文字は判読出来ない。

石仏


「祠と丸石」
やはり左手石積みの上、屋敷の敷地の一部に祠が有り、その前にまん丸な石が置かれている。直径20〜30センチで、夜泣き石ほどは大きくない。これ天然の丸石なのだろうか?

祠と丸石


「大橋と東海自然歩道の案内板」
左の国道に合流して、その先の服部川の大橋を渡る。大橋の手前、国道の右側に東海自然歩道の木製の道標と案内板がある。丁度そこへ伊賀上野、産業会館前行きの三重交通バスが通り過ぎて行った。次の、1時間後のこのバスに乗ることになる。これからは、どこまで歩くかバスの時間を見計らっての調節が必要だ。

大橋と東海自然歩道の案内板


「芭蕉の句碑と道中祈願塔」
国道の左手、服部川畔に芭蕉句碑と道中祈願塔と解説板がある。
この芭蕉句碑には
     からかさに 押しわけみたる 柳かな     はせを
とあり、長い解説を要約すると『この句は元禄7年(1694)に作られたもので、芭蕉が大仏の辺りで柳を見たとの伝承があり、地元の有識者が須原大橋の川端の柳の景に風雅を感じ、大坂の花屋主人の書を得て、ここに碑を建立した』とあり、道中祈願塔については『「右 京 なら 大坂道」と彫られ、正面には「南無阿弥陀仏」と深く彫られている。台石には「往来安全 嘉永二年」と在銘がある』と書かれている。

芭蕉の句碑と道中祈願塔


「オオサンショウウオの解説板」
国道の大橋で服部川を渡り、すぐ左に分かれ川沿いに進む。次の槇野橋で左へ渡った所に『オオサンショウウオの解説板』がある。世界最大の両生類、特別天然記念物のオオサンショウウオがこの川に生息しているとある。

オオサンショウウオの解説板


「山の神3体」
その解説板の先の道端に『山ノ神』3体祀られている。そばの竹薮のところで集落の人が数人で騒いでいる。何かと訳を聴いたら「親子連れの猿がタケノコを食べるので、追い払っている」のだと。

山の神3体


「石仏と五輪塔」
街道に戻って進むと左手に祠が有って中に石仏が祀られている。祠の右手に自然石に彫られた『右なら道』の道標と、その後に背の高い『郷社延喜式内阿波神社』の社標がある。

石仏と五輪塔


「大きな農家」
再び国道に合流して、しばらくは服部川沿いに進む。寺坂橋、正覚寺のバス停を過ぎた辺りの左川向こうに大きな農家の屋敷がある。日本瓦と白壁、黒い腰板のコントラストが綺麗で、そのスケールは公共施設かと思うくらいである。

大きな農家


「髭題目」
やがて川は左手へ大きく蛇行する。昔の国道は川に沿って蛇行していたが今は通行止めになっている。ここには採石場があって石が掘り尽くされたからか平成12年に下阿波バイパスとして開通している。このバイパスを通り過ぎた所の右手斜面に円錐形の自然石に髭題目などが刻まれている。それには『南無妙法蓮華経、山神権現、経力龍王、大石霊神』とあった。

髭題目


「川北バス停」
もう一度川が蛇行して直線に戻る。そこから再び川沿いを行く。間も無くバスの時間が近付いてきた。次の広瀬橋の畔にある『川北バス停』が15時30分になっている。今回はそこまで行ってバスに乗ることにする。これに乗り遅れると次は1時間後にしかない。バス停に着いたらバス時刻の3分前であった。

川北バス停





三重交通川北バス停で今日の行程を終える。ここからバスに揺られ終点は上野産業会館前。この辺り赤や黄や青の忍者姿の子供達がいる。さすが伊賀だ。今日はNINJYAのイベントがあったとか。

帰りは伊賀上野からJR関西本線を使う方法と、上野市駅から近鉄電車を使う方法とがある。どちらにしようかと迷ったが、近鉄にして特急を使うことにした。近鉄伊賀線、近鉄大阪線特急、近鉄名古屋線特急に乗り換え名古屋へ。名古屋で近鉄のホームからJRへ旨く抜ける方法に初めて気付きここで時間短縮、想定外だった新快速に乗れ、えらい得をした気分で車中の人となる。

今日のニュース、朝刊の3面に「安倍首相、アメリカ訪問に続き、中東5カ国歴訪。最初の訪問地のサウジアラビヤ入り」。社会面には「関東地方で大荒れ、突風でテント倒れ21人ケガ、大手町で30.8メートルの風観測」。


ページ公開 平成19年5月11日
ページ改良 平成23年5月1日



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