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飯田街道独歩記

いいだかいどうひとりあるき



飯田街道ウォーク その1

平成18年4月1日(土)<その2>



塩付通から八事へ

「塩付通沿いの家」
この交差点を曲ったところに木造二階建ての長屋か、二階の窓に手摺欄干の付いた家が並ぶ。

塩付通沿いの家


「再びSHOPPING STREET 飯田街道」
すぐ先に再びSHOPPING STREET 飯田街道」の看板が道を跨いで架かっている。

再びSHOPPING STREET 飯田街道


「レトロなお酒の看板」
レトロなお酒の看板が上った酒屋さんがある。「清酒・千代菊」、「☆サッポロビール」、「清酒・大関」、「清酒・月桂冠」など。

レトロなお酒の看板


「ツシ二階の家」
川名本町辺り、右手に幅の狭いツシ二階の家がある。その前を、岡持を持ち前掛けをした人が下駄を履いて歩いている。まるで昭和の時代に逆戻りしたみたい。

ツシ二階の家


「稱名寺」
左手にある川名郵便局の向かいに真宗大谷派川名山稱名寺がある。平成元年に再建されたお寺で、阿弥陀如来が安置されている。昔、門前に村人が疫病の退散を願って、13体のお地蔵さんを安置した。その内の1体が住職の夢枕に立ち、境内に入ることを懇願したので、1体は境内に納められたが、他のお地蔵さんは何時となく、誰かに持ち去られてしまったと言う。

稱名寺


「街道時代の名残の家」
こちらは広い間口の大きな二階家、階下は格子がはまり、二階は背の低い窓がある。街道時代の名残を感じさせる。

街道時代名残の家


「お店の脇の馬頭観音」
右手の八百屋さんのお店の脇に小さな馬頭観音の祠が有り、側に「奉納馬頭観世音菩薩」の幟が立っている。この観音さまは、当地で馬車による運送業をしていた服部文五郎が、明治42年に同業者7〜8人と共同でここに安置し、馬の健康と輸送の安全を祈願したもの。光背には「川名組・馬道中」と刻字がある。

お店の脇の馬頭観音


「川原神社」
道が左にカーブしたところ左手に、突然と言った感じで川原神社が現れる。大神宮の常夜灯が有り、その後に背の高い社標「懸社式内川原神社」、そして石の鳥居。左手には赤い屋根の弁天さん参拝所がある。式内社で日神(ひのかみ)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)、罔象女命(みずはめのみこと)の三神を祀る。境内にバスが止まっていて社殿の前で結婚式の記念写真を撮っていた。鎮火の神として知られているとか。境内の池に祀られている弁天さんが「川名弁天」の名で良く知られているらしい。

川原神社


「昭和警察署向かいの三体石仏」
街道を右にそれると山王通りに出る。通りの向かいに昭和警察署。通りのこちら側に三体の石仏がある。瓦屋根の覆い屋に入っており、真新しいお花が供えられている。昔、この道の向かい側の「川名南城跡」に北向きに立っており、この近くに熱田神宮への「宮参り道」が通っていた。奥のお地蔵さんに「天明五乙巳四月廿四日」1785)・「左あつた道」と刻まれ、道案内の道標であったことがわかる。左側の如意輪観音には「西国坂東秩父百ヶ所」、右側の石仏には「四国八十八ヶ所」と刻まれており、大師像か。この道が拡幅された昭和の初めにここに移されたと言う。

昭和警察署向かいの三体石仏


「昭和警察署横にある古い屋敷」
山王通りの向かい側、昭和警察署の右手に、上が白の漆喰で下が黒い腰板の塀で囲まれた屋敷がある。全体が平屋のようで蔵のみが背が高く飛び出ている。こんな所にこのような屋敷が有るのが一寸不思議な気がした。

昭和警察署横に有る古い屋敷


「昔茅葺屋根だった家」
街道に戻って先に進むと、左手に昔は茅葺屋根だった家がある。今はその形にトタンで葺かれている。

昔茅葺屋根だった家


「山崎川の川名大橋」
やがて山崎川の川名大橋に至る。コンクリートに丸い鉄棒が串刺しされたような欄干である。

山崎川の川名大橋


「山中交差点」
橋を渡って二つ目の信号交差点が山中で、先に若宮大通りで別れた国道と再び合流する。

山中交差点


「香積院の看板と香積院大門の石柱」
南から南東に向けて歩く。左手に入る道の脇に「香積院」の大きな看板があり、側に「香積院大門」の背の高い石柱が立っている。香積院はこの奥にあり味岡山香積院、元禄の頃、貞享4年(1687年)名古屋城下、久屋町の町人味岡次郎四郎によって建立された寺で、龍門とよばれる円形の開口部をもつ門に特色があり、境内には市指定の保存樹木「やまもも」の大木がある。

香積院の看板と香積院大門の石柱


「杁中の飯田街道標識」
賑やかになってきた所が杁中で、この真下に地下鉄鶴舞線の杁中の駅がある。この歩道に「飯田街道」の標識がある。この辺り学生の姿目立つ。南山短大、南山高・中(男子部・女子部)、中京大付中京高など。杁中の「杁」は“土手の下に樋を埋め、池水を通した場所”を意味し、昔、この辺りに大きな溜め池があり、ちょうど杁の中ほどにあったところから、この地名が付いた。周辺には、大型マンションを始め、大学、高校、病院を控え、とにかく人通りの多い。

杁中の飯田街道標識


「隼人池公園」
右手に隼人池公園があり池が広がる。桜が咲き始めたようで小さな子連れでお花見を楽しんでいる人がいる。ここは桜の名所として親しまれ、ボートも浮かぶ。中央に浮見堂があり、周囲に遊歩道も整備されている。その名は、もとは農業用灌漑池として、犬山城主の成瀬隼人正によって造られたことによるもの。

隼人池公園


「光真寺」
池の向かい、街道の左手に、上へ上る長い石段とその横に高い石垣が見える。石段の脇に「南無不載薬師如来」の石柱が立つ。この光真寺は薬師さんが本尊で、昔、農夫が山賊に襲われた時、お守りが斬られて農夫は助かったことから、「不載薬師」とも呼ばれている

光真寺


「宝珠院」
街道を右に入ると隼人池に続いて宝珠院がある。天正年間(1573〜1591)に清州に創建された寺だが、清洲越しで白川町を経て戦時疎開し、今の地に移転してきた。このお寺の周辺は、昔は湿地帯で「イヌナシ」の群落が有ったところ。今、境内に残っている2本は、県と市の天然記念物に指定されている。

宝珠院


「桜誓願寺」
街道の左ファミレスの手前を左に入って直ぐ左に誓願寺がある。浄土宗法喜山誓願寺で元亀3年(1572)信長の頃、清洲に建立され、慶長年間(1596〜1614)に名古屋城下の白川町に移り、戦災に遭いこの地に再建された。開祖が比叡山の桜を境内に植え、桜とともに歴代繁栄したので、桜誓願寺と呼ばれており、みがわり地蔵も安置されている

桜誓願寺


「興正寺」
やがて左一帯に木の深い繁みが見える。これが八事の興正寺。真言宗高野派準別格本山で、元禄時代の貞享3年(1686)から二代藩主徳川光友の後援を得て、順次建立されたもの。境内は東山と西山に分かれており、東山を遍照院と言い西山を普門院と言う。山頂には総本尊大日如来が安置されている。これは藩主光友が母の供養のために、元禄10年(1697)城下の仏師水野氏に鋳造させたもので、高さ3.6mもあり、名古屋三大仏中最大のもの。また、文化5年(1808)には五重の塔が建立され、今は国の重要文化財に指定されている。江戸時代から参詣者が多く、このお寺に行くことを「山行き」と言って、名古屋近郊の最大の行楽地となっていたとか。今も5日・13日が縁日で賑う。

興正寺


「萱葺きの門」
街道の右手に茅葺の門がある。明治初期には八事は名古屋の行楽地として知られ、別荘が次々と建てられた。そのひとつを名古屋財界の有力者が買取り「八勝館」と称し名古屋の迎賓館として利用されてきたという。今はビルやマンションの谷間になっているが、渋い萱葺きの門は風格を感じさせ、往時の「行楽の八事」を偲ばせる。

茅葺の門


「八事交差点」
間も無く八事交差点。この下に地下鉄鶴舞線と名城線の八事駅がある。この交差点から放射状に道路が延びる。左(北)へ行くのが山手グリーンロードで、その直ぐ左に中京大が有る。左斜めに行くのが飯田街道・国道153号線。交差点の右手前には大型のスーパーがある。

八事交差点


「八事八つの坂の街」
交差点のあちこちに「八事八つの坂の街」の石標が有る。放射状に伸びる道にそれぞれ坂の名前が付けられている。左へ行くグリーンロードが山手坂、飯田街道が石屋坂、時計回りに塩釜坂、音聞坂、天道坂、雲雀坂、ここまで歩いてきた道が参道坂、参道坂と山手坂を繋ぐ道が大学坂

八事八つの坂の街




八事から赤池へ

「浄久寺」
八事から飯田街道国道153号線を西に進むと左手に名城大学薬学部がある。その先左、北側の高台にあるのが曹洞宗の寺宗源山浄久寺。永禄11年(1586)清洲で創建、清洲越しで名古屋に移り、大正時代にこの地に移築された。石段の右手に西川流家元『西川鯉翁之碑』がある。さらにこの奥には広大な八事霊園が広がる。

浄久寺


「植田川の植田橋」
浄久寺を過ぎると道は大きく右に曲がり更に左に曲る。その左手に名城大学が有り、その先に地下鉄塩釜口の駅が有る。この辺りで遅めとなった昼食を取る。
再び歩き出すとやがて植田川の植田橋を渡る。

植田川の植田橋


「植田八幡社」
橋を渡って次の交差点が植田西、ここで国道は左(北)に曲るが、街道は県道56号線となって直進する。二筋目を入った所に植田八幡社が有る。祭神は応神天皇。創建不詳。天正8年(1580)植田城主横地権蔵秀住の家臣室賀久太夫によって修造された。境内には、大正天皇が皇太子のとき明治41年に陸軍大演習を観覧された折、愛馬「藤園」に御乗馬になった跡の記念碑が建っている。なお、神社境内にあった古墳は、約1500年前の古墳時代中期ものものである。その古墳は、昭和49年に八幡宮が大改修された際、後円の下部のみ残し大部分が削りとられて原形をとどめていないが、その大きさは、前方部の長さ40m、後円部の高さ6m、全長80mもある大きな前方後円墳であったといわれている。

植田八幡社


「馬頭観音」
植田八幡社の前に祠に入った馬頭観音が有る。側に赤い『馬頭観世音菩薩』の幟がはためいていた。

馬頭観音


「天白川の天白橋」
再び街道に戻って先へと進むと左手にスポーツセンターが有る。これを過ぎるとやがて天白川の天白橋となる。
川の土手が緑道になっており桜並木が有る。この桜、今は五分から七分咲きと言ったところ。

天白川の天白橋


「原の道標」
天白川を渡った次の大きな交差点が平針西口で、ここは飯田街道と宮・伊勢へ続く道の分岐点となっている。ここから右(西)へ戻るように進む道が県道221号線で宮の渡し場へと続いている。左へ行く広い道が県道56号線の名古屋岡崎線。直進するのが飯田街道・県道58号線の名古屋豊田線である。
この交差点の右手前に金属製の格子の祠に入ったお地蔵さんがある。四角の石柱で正面にはお地蔵さんが彫られ、他の面は「右 なごや 」、「 左 いせ」の道標になっている。


原の道標


「平針の家」
ここからは県道58号線で平針の町に入って行く。この平針は慶長17年(1612)徳川家康の命により、三州岡崎から名古屋城への近道として造られた平針街道の要衝で、街道開通に際して人馬の継場(つなぎば)が必要であったことから、郷の島にあった16軒の農家に移転を命じ、街道ぞいに移り住まわせ、「平針宿」が誕生した。その後、足助や熱田への街道と交わる交通の要衝として発展し、本陣、脇本陣も設けられ、宿場として大いに賑わったと言う。殆んどその面影は無いが、街道時代を思わせる家がわずかに残る。

平針の家


「杉玉の架かる家」
左手には家の前に甕が並べられ軒に杉玉が下がった家が有る。かつては酒を造っていたのか、今はその気配はない。

杉玉の架かる家


「平針で左に曲る」
地名表示の無い信号交差点で左に曲る。正面には「鮮魚うなぎ」の看板の掛かったお店があり、このまま直進するのが平針街道で、この先で県道56号線と合流し岡崎へと向かう。この先右手には慈眼寺や秋葉山神社、さらに針名神社などがある。

平針で左に曲る


「日進市に入る」
左に曲った直ぐ先が平針交差点で、県道56号線と交差する。ここを過ぎると名古屋市から日進市に入る。狭い道だが交通量は多い。

日進市に入る


「地下鉄赤池駅への標識」
頭上に赤池駅の案内標識が出た。

地下鉄赤池駅への標識


「蔵」
赤池駅への分岐の交差点の手前に左手に蔵がある。よくメンテされているようで壁が白い。この辺りでは唯一街道らしい雰囲気を味あわせてくれる。

蔵


「地下鉄赤池駅」
今日の街道歩きはこの分岐までとして、街道からそれて赤池駅へ向かう。この駅は名古屋市営地下鉄鶴舞線と名鉄豊田線とが繋がる駅で、相互乗り入れにより地下鉄と名鉄で豊田市から犬山まで行く事が出来る。

地下鉄赤池駅



今回の街道歩きは、飯田街道と言う名前を追っての歩きで、この道中、全くと言って良いほど街道の名残が残っていない。街道沿いはマンションばかり、文教地区でもあることから大学が多く、学生の街でもある。今日は4月1日の年度始めであり、マンションの前では引越し作業が行われており、不動産屋の店先で大学生の親子連れを多く見掛けた。自分にもそんな経験が何度もあり、今気ままに歩いている身分を有り難く思った。

街道歩きとしては何ら感動出来るものは無かったが、お花がとっても綺麗だった。ジンチョウゲ、ハナモモ、サクラ、モクレン、ハナノキ、ツバキ、ユキヤナギ、レンギョウ、タンポポ、スイセン、パンジー、ビオラ、サクラソウ、など、など。これらの花を見ながらの街道歩きで、存分に春を楽しむ事が出来た。

帰りは地下鉄を利用して名古屋へ戻り、名古屋からはJR東海道線15時42分の浜松行き新快速に乗車した。

今日のニュースは「民主前原執行部が総退陣・小澤氏軸に代表選び」。

     今日歩いた記録
     30,871歩(飯田街道正味26,350歩)
     18.46q (飯田街道正味15.81q)
     1,318kcal(飯田街道正味1131kcal)

ページ公開 平成18年4月30日
ページ改良 平成23年5月1日



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