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飯田街道独歩記

いいだかいどうひとりあるき



飯田街道ウォーク その3

 
平成18年6月7日(水) <その2>



石野から中金まで

「如意寺」
国道の右手に立派なお寺がある。峠の下りに見えていたのはこのお寺だったのか。真宗大谷派楽命山如意寺。豊田市教育委員会の解説によると『最初は満福寺と称し文永元年(1264)武蔵の国で創建、正中2年(1325)三河の国に移転、その頃に如意寺となる。慶長10年(1605)現在地に。絹本着色親鸞聖人絵伝(国指定)などの宝物がある。』

如意寺


「広昌院」
如意寺の先が石野出張所。国道の向かい(左手)に消防署があり、その左奥にお寺がある。山門には『金重山』『広昌院』『三河新四国十五番札所』『三河新四国十六番札所』の看板が掛かっている。
ここで12時30分、消防署の隣に喫茶店が有ったので、昼食をとることにした。

広昌院


「国道153号線と廃線跡」
昼食を済ませ再び街道歩きを始める。国号153号線を東へと向かう。道はほぼ直線で左から廃線跡の土手が近付いてくる。架線を吊っていた鉄柱は未だ残っている。

国道153号線と廃線跡


「香嵐渓まであと8.5q」
国道の左側に標識が立っている。『国道153号線のマークと30の文字』、『香嵐渓まで8.5q』『豊田市力石町日影』、あと8.5q、あと半分か。

「岩倉神社」
中金平古の信号左手、廃線を越した先に岩倉神社がある。石段を数段上ったところに石の鳥居、右に社標、ヒノキの大木。左には舞台があり、広場の先に社殿がある。

岩倉神社


「岩倉神社農村舞台」
なかなか立派な舞台だ。こんなのはめったに見られない。『豊田市有形民俗文化財・岩倉神社農村舞台』の札が掛かっている。横の解説には『文化5年(1808)の建立、間口8間、奥行5間、市内で一番大きい。舞台中央に直径18尺の回り舞台を備えているのが特徴。昭和30年代までは歌舞伎や芝居の興行が盛んに行われていた。平成12年に豊田市有形民俗文化財に指定、平成13年に大改修した』とあった。

岩倉神社農村舞台


「西中金廃駅跡」
国道に戻ってすぐ、左手に名鉄三河線西中金駅の廃屋とホーム、広場がある。かつてはここが終着駅で、人の賑わいが有ったと思われるが、今は人っ子一人居らず、錆びた手摺が哀れ。廃線とは寂しいものだ。

西中金廃駅跡




中金から追分まで

「旧道を行く」
この先から左に入ると細い道が国道と平行して続く。これは旧道らしいが電車道かも。兎に角国道よりは歩き易いので、この道を辿ることにする。車は通らず快適な道だ。左手に元は茅葺であったと思われる家が2軒並んでいる。途中の家並みの中に農機具店の看板があって『かじや』と書かれ、店の隣は鍛冶場があった。これこそ童謡にある『村のかじや』だ。

「中金寺」
街道の左手、少し入り上ったところにお寺がある。側にイチョウの大木があった。このお寺中金寺。

中金寺


「火の見櫓」
更に進むと左手にブランコと滑り台、広場が有ってその先に火の見櫓と消防小屋がある。ここには「豊田市消防団第18分団第4部」と書いてあった。

「馬頭観音」
この消防小屋の道路を隔てた反対側に、道路を背にし、田圃の方を向いて馬頭観音が立っている。

馬頭観音


「神社」
右手に中金小学校がある。道路脇にプールがあり、その先の校舎からは賑やかな子供達の声が聞こえる。やがて県道344号久木中金線を越えると『この先行き止まり』の標識が立っている。歩くには支障が無さそうなので先へ進むと左手に神社がある。名前が判らない、多分神明社と思われる。

神社


「行き止まり」
その先にもう一度『この先行き止まり』の標識が立っている。これ以上行き止まりの注意を無視して歩いて、後戻りする羽目になったら馬鹿らしいので、ここらで右の国道へ出る。

行き止まり


「古い家・瓦の人形」
国道に出たら直ぐ左に先の道から出て来る細い道があった。自転車が通るのがやっと程度で、やはり車は絶対ダメ。その先に左に入る道がある。これが豊田パブリックゴルフ場。これを過ぎると再び国道から離れ左へ分かれる道が有る。ここを行くと右手に古そうな家があり、その家の小屋根の端に童子が横長の表札を持っている。これ瓦で焼かれたもの。いろいろな飾り瓦を見る事が有るが、こんなのはちょっと珍しい。

「国道に出る」
この道は直ぐに国道に戻る。そこに標識が幾つか立っていて、その一つに『道路美化モデル地区、この付近は野口自治会の皆さんのボランティア活動により道路の美化が行われています。建設省名古屋国道工事事務所』とあった。どこもボランティアさん頑張っているんだ〜。それにしても未だ看板は建設省のまま。

「しゃくやく姫の塚」
国道の向こう側に何やら解説板らしいものが見える。国道を渡って行くと、国道と平行した細い真っ直ぐな道が延びており、その左手に屋根のついた解説板があり前にシャクヤクが植わっている。解説板には『しゃくやく姫の塚、時は1570年代、世はまさに戦国時代に入ったころのことである。足助城の一つに「黍生城」(きびゅうじょう)という城があった。(現在の足助町近岡) この城に女の子が生まれ、五月も半ばお城はしゃくやくが咲き乱れていたので、しゃくやく姫と名付けられた。姫はすくすくと成長し、日に日に美しくなり「綺麗なお姫様だ」と城下の人々の評判となった。しかしある日のこと甲斐(山梨県)の武田の軍勢が攻めてきた。城はたちまち猛火につつまれ姫は城を追われて、飯田街道を西へ、この野口に地まで逃れてきた。敵の追手はなおも厳しく女の足ではとてもかなわない「もはやこれまで」と畑の中の井戸に身を投げて最後を遂げてしまった。いつのころかこの井戸は埋められ塚となった。その後毎年5月になるとこの塚には見事なシャクヤクが咲き村人達は姫をいとしんでいる。しゃくやく保存会小池鉦松』とあった。

しゃくやく姫の塚


「黍生山への道案内板」
『しゃくやく姫の塚』の解説の裏(国道側)には黍生山への道の案内地図と黍生山の解説が書かれている。この細く真っ直ぐな道は地元では電車道と呼ばれているもので、昭和初期に知立から足助まで電車を走らせる計画が持ち上がり,そのために作ったものだが,電車は西中金まで敷かれた所でストップ。足助まで延長するどころか,先の看板にあったように猿投・西中金間も廃線となり今では廃線跡や、計画した道だけが残っている。時代は変わった。

黍生山への道案内板


「しゃくやく街道の看板」
電車道を行くと右手の山に大きな看板が掲げられている。『ふれあいの道、しゃくやく街道、協力※※』

「野口雨情歌碑・先祖ゆかりの地碑」
その先左手にまだ新しい立派な碑がある。台座に乗って円盤状の碑が二つ並んでおり、台座の左にはもう一つ高札状の碑がある。丸い右の碑には「童謡七つの子」の歌詞が、左の碑には野口雨情の写真と「童心清し」の書、「野口雨情の心情」とした短文がある。左の碑は「野口雨情先祖ゆかりの地」とあり、先祖はここ旧野口村(現野口町)出身の名家であったとか。

野口雨情の歌碑と先祖ゆかりの地碑


「野神社」
左手の国道の向こうに石の鳥居が見える。行ってみると社標には『郷社、式内、野神社』とあった。(地図には野口神社とある)小さいけれど歴史のある神社なのだ。

野神社


「増慶寺」
神社の先、同じ国道の左手に立派なお寺がある。野口山増慶寺で、蓮如上人・・・の石柱が立っている。

増慶寺


「中切町ポケットパーク上のお堂」
再び電車道に戻って先へと進むと、道路脇の右上に小さな広場がありベンチが置かれ花が植えられている。側に木製手づくりの看板があって『ポケットパーク、ふれあいウォーキングin中切町』とあり『協力者小池敏夫、平成15年11月』とあった。更にその上に大きなイチョウの木があり側にお堂があった。中を覗いてみたが何が祀られているかは判らなかった。

「神明社」
更に進むと右上に『村社神明神社』の社標があり、その上に1対の常夜灯と石の鳥居がある。

神明社


「火の見櫓と電車道」
この神社の前からは前方の視界が広がり、左からは電車道が真っ直ぐに先へと延び、右には集落と火の見櫓が見える。

火の見櫓と電車道


「広見神社」
電車道が終わり、国道へ出ると、一寸戻った国道の向かいに神社がある。『村社廣見神社』の社標と1対の常夜灯、石段で上ってゆくと高いところに社殿がある。国道に交通安全塔があり、そこの表示温度は30℃。

広見神社


「追分交差点と案内標識」
国道をしばらく行くと案内標識があり、そこから右へカーブしてその先に信号交差点がある。ここが追分。県道39号岡崎足助線との合流で、岡崎から来た「塩の道」がここで名古屋からの道と一緒になり足助へと向かう。

追分交差点





追分から足助まで

「追分から足助へ国道153号線を行く」
いよいよ足助が近くなってきた。ここからは何度も来ているので勝手を知った見慣れた道である。

「因超寺」
街道の左手の石垣の上に鐘撞き堂が見える。これは真宗大谷派七宝山因超寺。

因超寺


「神明社」
右に足助新橋が見える足助新橋北交差点の左先に神社がある。これは『村社神明社』

神明社


「足助大橋への分岐」
頭上に案内標識が出た。斜め右が国道で足助。街道はそのまま直進である。(念のため近くのお店のご主人に尋ねて確かめた)

「格子造りの家」
左手に格子造りの家がある。これを見るのも足助に近付いた証しかも。

「足助大橋と飯森山」
足助大橋のところまで来た。国道はここで右に曲がって巴川の巴大橋を渡る。橋の向こうには香嵐渓の山、飯盛山が見える。街道はこれを曲らずにそのまま直進し、川を右に見て進む。

足助大橋と飯盛山


「巴川右岸から足助の町」
川越しに足助の町が見える。この右手が足助八幡や足助支所の裏にあたる。右の川はこの先の落合で足助を流れてきた足助川と香嵐渓から流れてきた巴川とが合流する。

巴川右岸から足助の町


「馬頭観音など」
左の山でバイパス工事が行われている。どうしてあんなに高いところへ上ったのかと不思議なほど高いところでユンボが働いている。そこを通り越したら左手にお堂を中心にして祠や石碑などがある。このお堂に入っているのが馬頭観音。

馬頭観音など


「芭蕉句碑」
馬頭観音の左、少し上に芭蕉の句碑がある。
     馬おさへながむる雪の朝かな   芭蕉
側の解説によると『足助の俳人板倉塞馬が慶応3年(1867)に建立したもので、当時人馬の往来が盛んだったことを裏付ける句として選ばれた』とある。

芭蕉句碑


「馬頭観音」
お堂に入っているのが馬頭観音。解説には『大きな馬頭観音、中山道の脇街道(物資輸送をはじめ庶民の道)として栄えた伊奈街道は、中馬による塩の道でもありました。明治も終わりになって馬の背から馬車に変わると、このような立派な馬頭観音(三面八臂の典型的な坐像)が町の入口に馬車組合の人々によって建てられるようになりました』とある。

馬頭観音


「力士の墓?と馬頭観音」
大きな馬頭観音の右に墓石と並んで馬頭観音と刻んだ石仏が二体ある。墓石は上部に角力とあり、字は達筆過ぎて読めないが力士の墓らしい。

「牛馬接待水」
大きな馬頭観音の左下には横に長い水飲みがあり、それには『牛馬攝待水』とあった。

牛馬接待水


「巴橋と香嵐渓の待月橋」
右手に視界が広がり正面に国道の巴橋が、さらにその向こうに赤い橋、香嵐渓の待月橋が見える。

巴橋と香嵐渓の待月橋


「足助の町に入る」
道が二又に別れ右へ行くと落合橋。街道は直進して足助の町並みに入る。これからは見慣れた町並みになる。

足助の町に入る





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