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飯田街道独歩記

いいだかいどうひとりあるき



飯田街道ウォーク その3

平成18年6月7日(水)<その3>
 



足助

「お堂」
新町にある中橋から来た道との十字路の右先にお堂がある。軒には吊り灯篭が幾つか下がり、前には木の常夜灯がある。何度か見ているのにここには何が祀られているのか判らない。その隣の白壁黒い腰板の蔵は新町の郷倉。

お堂


「普光寺」
この十字路を左山側に上って行くとお寺がある。門前の解説によると『郷土の俳人板倉塞馬(1788〜1867)の菩提寺です。塞馬は寺子屋の師匠のほかに、この地に炭焼を普及した人として崇められ、境内に句碑と共に「加茂黒炭の祖」としての顕彰碑もあります。雨ののちよい月夜かな桜かな』とあり、『やすらぎの小道』の写真入のコース案内も立っている。

普光寺


「風外虎餅の店」
この町独特の妻入りの店。白い塗籠壁が目を引く。

風外虎餅の店


「マンリン書店」
白壁の土蔵の中の本屋さん。ここは町の中心のような存在で、何時もここを起点に自分の居る場所を確かめている。こだわった本が揃えてあり、奥の蔵のギャラリーで珈琲を頂くのが楽しみ。この『マンリン』という名前は、ここのお店の屋号が萬屋で、当主は代々林右衛門を名のったことから、マンリンという名がつけられたとか。

マンリン書店


「宗恩寺への道・マンリン小路」
隣の路地が『マンリン小路』でこの上の宗恩寺への道標が立っている。左右に4棟の蔵が並び、白と黒のコントラストが美しく、この道が足助のお気に入りのスポットである。

宗恩寺への道・マンリン小路


「手づくりからくりの展示」
マンリン小路を上ったら細い道に突き当たるこれを右に進むと左手に手作りのからくりなどの作品が展示されている。趣味ではまっているのかな?

手づくりからくりの展示


「宗恩寺からの足助の町」
更にもう一つ上の道に宗恩寺がある。門前の解説板によると『中馬の町並みを見下ろす高台に位置するこのお寺は、足助八景の一つ「宗恩寺の晩鐘」として綺麗な音色を街中に響きわたらせています』とある。この鐘楼からは足助の町並みが綺麗に見える。

宗恩寺からの足助の町


「足助陣屋跡の看板」
宗恩寺から山沿いを東に進むと愛知県足助事務所があり、そこに『足助陣屋』の解説板ある。それによると『江戸時代ここに足助陣屋があった。足助陣屋は天和元年(1681)本多淡路守忠周が陸奥国白河5,000石の知行地を三河国加茂郡に移され陣屋をここに置いたのがはじまりです。・・・なお足助町役場が昭和33年までここにあった。』とある。

足助陣屋の看板


「慶安寺」
更にその先左手には曹洞宗のお寺宝中山慶安寺がある。ここの解説板には『境内に当地方ではめずらしい、立派な弥勒菩薩の石像がある。また門前付近には奈良町時代の須恵器が出土し、田町遺跡として知られている。』とある。

慶安寺


「弥勒菩薩石像」
寺宝の弥勒菩薩石像、台座に宝暦7年(1757)に造立された事などが刻まれている。

弥勒菩薩石像


「お釜稲荷の鳥居」
慶安寺から下って宿場の道に戻る。先に進むと左手に赤い大きな鳥居が見える。この四つ角の左手前にはJAあいち豊田足助支店がある。

お釜稲荷の鳥居


「お釜稲荷」
この鳥居をくぐって山の方へと上ったすぐ先、カーブの右手にお稲荷さんがある。右の道路際の鳥居をくぐって階段を上るともう一つ鳥居があって、お社がある。側の解説には『お釜稲荷、足助領主本多家(天和元年=1681〜)の守護神であった御陣屋稲荷を昭和30年にお釜稲荷としてここにまつりました。伝説によれば平八老人の一升釜一と炊きでどれだけ多くの人でも用が足せたといいます。祠を祀る釜は直径2Mでこの大きさの釜は大へん珍しいといわれております。(本殿はこの奥五百M)』とあり、中を覗いてみると大きな釜が横倒しに置かれ、その中に祠が祀られている。

お釜稲荷


「塩問屋たばこ屋」
そろそろバスの時間かと真弓橋を渡って国道に出て田町のバス停に行く。現在時刻午後3時54分、バスの時間を見たら3時48分発のが出たところ。あ〜残念!後1時間の待ち。それならと再び宿場の町並みに戻り、足助八幡まで行くことにする。
鳥居に所まで戻る。ここから東が新田町。西が田町銀座。田町銀座を西へと向かう。左手に妻入りで二階が塗籠連子窓の家がある。解説板に『たばこ屋、江戸末期から明治にかけて塩問屋として知られているたばこ屋です。ここで塩ふみし、「足助なおし」と改められ、信州へ馬の背で送られたので、今でも庭から塩がふき晴雨がわかるということです。なお屋号が示すように塩の他にも雑貨なども売られていました。』とある。いろいろな産地から送られてきた塩は荷姿、品質、大きさがバラバラだったので、運び易く品質も均一にするため梱包のし直しをした。俵から出し、混ぜ、新しい俵に入れ、踏み固め、焼印する。7貫目に統一された足助ブランドを「足助なおし」と言った。

塩問屋たばこ屋


「猪料理井筒亀」
左手に大きな合掌つくりのような建物が猪料理の店。さすが足助、山里だと感じさせる。

猪料理井筒亀


「猪の皮」
そのお店の駐車場の塀に大きな猪の皮が何枚か干してある?

猪の皮


「足助橋から見た川沿いの家」
突き当たりの道を左に曲り、続いてそれを右に(鍵の手に)曲がると本町。そのまま直進すると足助橋。この橋の上から川上を見ると左手に川から石垣が積まれ、その上に民家が並んでいる。その一軒一軒から川へ降りる階段が付けられている。これは足助独特の景色。

足助橋から見た川沿いの家


「加藤家・加茂一揆柱の傷のある家」
本町に入ってすぐ右に有るのが和菓子の店『かえで』の看板の加藤家、お店の先の建物の入口に解説板がある。『加藤家、三河最大といわれる加茂一揆(天保7年=1836)は松平に端を発し、近郷の参加村数二四七、一万三千人が異常物価高に抗議した住民運動です。造り酒屋であった白木屋は一揆側にとって足助の目玉で、柱に鉈で切りつけた跡が残っています。いくつもの酒樽が破られ、酒が川のように流れ出たということです。』

加藤家・加茂一揆柱の傷のある家


「元旅籠三嶋屋」
その並びに有るのが元旅籠の三嶋屋。平入りの二階建て。解説板には『旅籠三嶋屋、元は呉服屋でしたが若干の改造で明治に旅籠に変わりました。変哲とも思える気風で開戸、格子、障子戸等に足助の古き良さを守り継ぐ足助人の何かがしのばれます』

元旅籠・三嶋屋


「平入りの商家・田口家」
更にその先に切妻平入り二階建て、階下は格子作り、二階は塗籠連子格子の家。解説には『平入りの商家、足助の商家は、妻入り型もありますが、田口家は平入りです。本町界隈は軒先の下がった平入り商家が多く、裏には蔵が連棟し豪商の町並みでした。』とある。

平入りの商家・田口家


「お堂」
その先右手に玉垣があって、中に灯籠などがあり奥にお堂がある。入口に般若心経が張られているが何が祀られているか判らない。地蔵堂か?

お堂


「道標」
新町の十字路で左に折れ、中橋を渡って二筋目をもう一度左に曲ると、その先左手に入る小道の先に道標が立っている。この解説には『弘化三年(一八四六)の道標、伊奈街道は塩の道であるとともに善光寺へ詣でる善男善女の道でもありました。ここから遠州街道(鳳来寺道)が分かれておりました。町内のあちこちにこのような道しるべが残されております』

道標


「宿屋・玉田屋」
道を戻って、角の新しく出来た『塩の道づれ屋』を過ぎた西町の右手に古い建物の旅館がある。ここの解説板には『旅籠玉田屋、宿屋は町の出入り口に多かったようです。現在西町で残っているのはこの一軒で、往時をしのぶことができます。』

宿屋・玉田屋


「常夜灯」
先に進むと道に突き当たり左に折れると国道に出る。この信号が香嵐渓。交差点の北東角に常夜灯が立っている。この常夜灯を囲む小さな広場の壁に色々な解説板ある。その一つに『(前略)この常夜灯は、火災防止の神として知られる秋葉山大権現(静岡県)を信仰する秋葉講の人々が、寛政11年(1799)に建立したものである。長い間に場所は変わったが、当初は本町地蔵堂境内に建てられたともいわれている。足助の町は安永4年(1775)に大火があったが、約25年後にこのように立派な常夜灯を建立したのである。』

常夜灯


「香嵐渓」
国道の橋が巴川に架かる巴橋。ここから上流一帯が紅葉の名所の香嵐渓である。『香嵐渓のもみじは、寛永年間(1624〜44)香積寺11世の参英和尚が境内から参道にかけて楓と杉を植えたのがはじまりである。その後大正末年に飯盛山や川岸に植樹をしており、巴の清流とあいまって四季折々の味わいを見せている。・・・』

香嵐渓


「足助神社」
橋を渡ると右に足助支所があり、その先に木立があり、手前に足助神社が、その先に足助八幡がある。手前の足助神社の解説板には『足助神社、元弘の変(元弘元年=1331)に、後醍醐天皇に味方して、笠置山(京都府)篭城軍三千人の総大将となった足助次郎重範公をまつっている。重範は飯盛山城を本城とした足助氏の惣領で、弓の名手として名高く、笠置で強弓を以って奮戦する様子が「太平記」に名文で書かれている。落城の際、捕らわれて、翌年京都六条河原で斬首されたが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀るようになった。』

足助神社


「足助八幡宮」
隣の足助八幡は足助神社に比べるとたいそう立派な社殿などが揃っている。ここの解説板には『足助八幡宮、天武天皇白鳳2年(673)創建と伝える古い神社で神宮寺のあった名残の鐘楼もあり多くの文化財を保存している。八幡神社本殿は国指定重文、桧皮葺三間社流造。慶長13年(1612)に奉納された鉄砲を描いた珍しい古絵馬(扁額)がある。』

足助八幡宮


「十王堂」
八幡宮の向かい、国道の信号交差点東南角に十王堂がある。解説には『十王寺、寛永年間に鈴木正三和尚が創建した寺である。正三は足助則定城主忠兵衛重次の長男、家康の旗本として仕え大阪夏の陣で戦功をあげた武将。その後出家して仮名草子本を書き近世文学の基となった郷土の誉れ。本堂の阿弥陀如来立像は別名「またたき如来」と呼ばれ伝説がある。』

十王堂


一番上(かみ)の新田町までは行かなかったが、足助の町並みを往復してきた。ここは古さを保ちながら今も暮らしが続いている、町が生きているのが魅力である。方々に解説板があり今回はこれを丁寧に見てきたので、足助の町への理解が更に深まったような気になった。足助に入って歩数計をリセットするのを忘れ、十王堂の前の香嵐渓バス停で気が付いた。そのため街道正味歩数が少し多くなった。


今回の街道歩きは、久々に満足の行く街道歩きであった。梅雨前の晴れ間で光は明るく、かと言って未だ暑くもない。木々の緑が鮮やかで、草花も色とりどりに咲き、これ等を目にして小鳥のさえずりを聞きながら歩くのは最高の気分であった。道中には見所が多く、ただ距離を稼ぐと言った所が無かったのが幸いだった。

ここまでは何とか来る事が出来た。問題はこれから先である。通常の路線バスが無くなり、頼りになるのは、それぞれの地区にある住民サービス用のコミュニティーバスしかない。これも朝、昼、晩程度の少ない本数。これ等を利用してどの様なプランが組めるか大いに頭を悩ますところだ。

帰りは香嵐渓から16時51分発の名鉄バスを利用して東岡崎へ、東岡崎からは名鉄を使って帰路についた。

今日のニュースは「ニッポン放送株、LD公表当日売り抜け、村上ファンド大半2日で」。「秋田・小1事件、『自宅から1人で運んだ』畠山容疑者、遺棄の詳細供述」



     今日歩いた記録
     36,007歩(飯田街道正味32,328歩)
     21.59q (飯田街道正味19.39q)
     1,507kcal(飯田街道正味1,419kcal)

     今日までの累計
     96,190歩(飯田街道正味83,907歩)
     57.69q (飯田街道正味50.33q)
     4,085kcal(飯田街道正味3,647kcal)

ページ公開 平成18年6月19日
ページ改良 平成23年5月1日



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