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伊勢参宮街道独歩記

いせさんぐうかいどうひとりあるき



伊勢参宮街道ウォーク その1 

平成17年5月3日(火) <その1>


今回は一人での街道歩き。JR特別快速で名古屋へ。名古屋からは関西本線で南四日市まで。名古屋での乗り換え時間がたったの2分。一寸無理かと思ったら発車のベルを鳴らして待っていてくれた。ラッキー!有難う、これで次の電車まで40分の待ち時間がゼロで済んだ。気分良く車中の人となってしばらく田植えなど車窓の景色を楽しんだ。
 四日市を発車して次の南四日市で降りる準備をしていたら、車掌のアナウンスは「次はかわらだ〜、次は河原田〜」。「アレ!南四日市は停まらない!」とたんに頭の中が真っ白、瞬時に河原田から日永の追分へ戻る方法を考え始めた。確かバスは有ったと思うが・・・その頻度が分からない。半ば諦めていたら「失礼しました、次はみなみよっかいち〜、南四日市〜」。ああ良かったと胸を撫で下ろすと共に思わず「馬鹿!」と声が出そうになった。



日永の追分から神戸へ


「日永の追分」
南四日市の駅に降り立ち、小用を済ませ、帽子にカメラ、地図を手に街道歩きのスタイルを整えていざ出発。四日市工高の横を通って国道1号線へ。日永5丁目交差点から国道を南へ進むと間も無く追分を示す案内標識が現れる。追分1丁目の歩道橋をくぐると右手先に繁みが見えてくる。ここが東海道と伊勢参宮街道との追分。道路の分岐に三角地帯が有り、そこには神宮遥拝鳥居や道標などがある。東海道を行く旅人はここから伊勢神宮を拝んで右手へ分かれ石薬師、庄野、亀山から鈴鹿峠へと向い、伊勢への旅人はここを直進する。この辺りは間の宿でこの鳥居を中心に旅籠や茶店が並んでいたという。今もそれらしき建物が残っている。現在は京へは国道1号線、伊勢へは県道103号線四日市鈴鹿線が通じ車の往来が激しい。前回はここの桜が咲いていたが、今日はツツジが咲いている。

日永の追分


「道標」
この追分には『右京大坂道、左いせ参宮道』と深々と彫られた大きな道標と『ひだりさんぐう道』と彫られた屋根つき灯籠型道標とが並んでいる。遥拝鳥居は久居の商人渡辺六郎兵衛が安永3年(1774)に寄進したもの。また、ここには屋根つきの手水鉢(井戸)が有って、若い夫婦がポリタンクを持って水を汲みに来ていた。名水なのか柱には飲料適の水質検査の紙が貼られていた。ここで歩数計をリセットして伊勢へと向かう。神戸の宿までは1里9町(約4.9キロ)。

道標


「陸橋をくぐる」
追分から南へと県道を進む。これが伊勢参宮街道。やがて陸橋が横たわりこの県道を跨いでいる。左方向海寄りにある国道23号線から別れ国道1号線に繋がる道である。

陸橋をくぐる


「県道103号線から分かれる」
陸橋をくぐりしばらく国道を行く。この辺りの国道筋には工場や会社が集まり、左前方には塩浜のコンビナートが見え隠れする。およそ1キロばかりで街道は斜め右へと分かれる。

県道103号線から分かれる


「河原田橋」
高圧線の下をくぐり右に木材市場のある所の左手には、大きな『表忠碑』と言うのが立っており碑面には大山巖筆とあった。この辺りの地名が一里山で、この近くに一里塚が有ったものと思われる。このまま進むと内部川の土手に出る。昔はここを渡ったが、今は少し下流の県道103号線に出て河原田橋で渡る。

河原田橋


「土手から旧道を眺める」
橋を渡ったら土手を少し遡る。初めての道が街道で、土手の下で小さな橋(又兵衛橋)を渡りその先は真っ直ぐに延びている。又兵衛橋とは何だか由来が有りそうな名前だ。

土手から旧道を眺める


「祝日に日の丸を掲げた家」
この辺りが河原田の集落。街道沿いには格子造りの家が目に付くようになる。家の軒先に日の丸を掲げた家があった。そう言えば今日は5月3日の憲法記念日である。我々の子供の頃にはどこの家でも祝祭日には国旗を掲げたものだ。しかし、今では全く見掛けなくなってしまっただけに、このような光景にお目に掛かると嬉しくなってくる。

祝日に日の丸を掲げた家


「里程標」
間も無く左手に背の高い里程標が立っている。こちらの面には『距、名古屋市、十五里十一町、守山町、十七里十五町』反対の面に『距、宇治山田市、十七里四町、久居市、八里十二町』とある。

里程標


「河原田神社」
左手の河原田小学校を過ぎてしばらく行くと、右手に石の鳥居が有り参道が延びている。先に常夜灯、その先に石段があって、その上に『河原田神社』の石柱、社殿はまだその先にある。祭神は天照大神や大国主神などで、明治42年(1909)に三つのお宮が合祀され村社河原田神社になったとか。この辺り桜の名所。お参りはせず先を急ぐ。

河原田神社


「街道の家並み」
この辺りにも格子造りの家がある。

街道の町並み


「手作りの標識」
四日市農芸高校の下辺り、右手の家には手作りで『旧、伊勢街道、今宿』と書かれた小さな木の看板が下げてあった。このような看板は作り手の優しさが伝わってきて、街道歩きの者にとっては嬉しいものだ。

手作りの標識


「県道を斜めに横断」
やがて元の県道に合流して、それを斜めに横断する。県道に出る手前に『お料理、仕出し、宴会場』の店があってそこには世界一?大きな常夜灯がある。確かにその大きさには驚かされる。交差点そばの県道沿いに『臨済宗妙心寺派善誓寺』があり、山門の鬼瓦にはシャチホコの様なものが乗っている。この辺りで四日市市から鈴鹿市に入る。

県道を斜めに横断


JR関西線河原田踏切」
国道を斜めに横断したら、続いてJR関西本線の河原田踏切を渡る。踏み切りの向こうに見える土手は伊勢鉄道。先程たった1両、マッチ箱のような列車が走って行った。

JR関西本線河原田踏切


「高岡神社」
踏み切りを渡り線路を右に見ながら進むと、先に横断した県道がJRを跨ぎ、左を流れる鈴鹿川を鈴鹿橋で渡ってゆく。街道はその県道の下に貫かれた小さなトンネルをくぐる。トンネルを出たところの右手に『延喜式内高岡神社』の石柱が立っている。右に入る道の踏み切りの手前に木の鳥居があり、踏み切りの先のこんもりとした繁みの中に神社がある。祭神は高おかの神

高岡神社


「高岡橋」
神社には寄らずその先へと進むと、鈴鹿川の堤防上に出て青く塗装された高岡橋に至る。

高岡橋


「土手の常夜灯」
高岡橋を渡ったら、堤防上の道を右手に、川の上流方向へと向かう。空が晴れてとっても気持ちが良い。土手の法面に常夜灯がある。石の階段が立掛けられており、火を灯していたことが分かる。文化4年(1807)丁卯正月の建立とある。

土手の常夜灯


「高岡の家並み」
常夜灯から戻るように土手を下りると、そこから南へと街道が続いている。高岡の集落を抜ける。家並みが途切れると両側が田圃になり、一気に視界が広がる。既に田植えが終わり水を湛えた田圃に白い飛行機雲が映っている。

高岡の家並み


「常夜灯」
田圃が途切れ新しい住宅が現れる。その右手に常夜灯がある。建立の年号は読み取ることが出来なかった。ここから右に行くと観音寺、子安地蔵がある。晴れた空で雲雀が盛んに囀っていた。


常夜灯





神戸宿

「神戸の見付跡」
常夜灯を過ぎると家々が立ち並んだ地区に入る。街道が少し屈曲した所を過ぎると右手に『神戸の見付跡』の解説板が目に入った。良く見ると解説板の後が土塁と石垣で、街道の左手にも同じものがある。これが神戸宿の入口に有った見付の跡で、解説板には『ここには町の治安を守るために番人がいて、夜間遅くには木戸を閉じて通行を禁じたといわれる』とある。

神戸の見付跡


「阿自賀神社標石」
向かいの土塁のそばに『式内阿自賀神社』の標石が立っている。この街道を歩くと式内社が多く目に入る。これは神社跡で祭神は品陀和氣命。

阿自賀神社標石


「宿の家並み」
見付から南が昔の常磐町で神戸宿19軒の旅籠の内14軒が軒を並べていた。さらに8軒が茶屋女を置く事が許され、華やかな遊郭としての一面も持っていたと言う。ここからは昔の宿場町の面影の残る街並みに入ってくる。本陣の建物こそ残ってはいないが、昔の旅籠屋だった建物がそのまま残り、今でも旅館として営業を続けている。右手の旅館もその一つ、加美亭の看板を掲げた家は切妻二階建てで平入り、1階は格子、二階は手摺欄干が付いている。

宿の家並み


「格子や袖壁のある家」
平屋やツシ二階、格子に黒の漆喰壁、袖壁の家が所々に残っていて落ち着いた町並みを作っている。

格子や袖壁のある家


「近鉄鈴鹿線踏切」
近鉄鈴鹿線の踏切を渡る。踏切から見るとすぐ左に鈴鹿市駅ある。

近鉄鈴鹿線の踏切


「六郷川の大橋」
踏み切りを渡ったところにも袖壁、二階の低い家がある。六郷川の大橋を渡ると右手には神戸小学校。

六郷川の大橋


「道路元標と里程標」
宿の道がY字路で二手に分かれる。ここが「神戸の札の辻」と言われる場所で、その角に格子造りの旅館「あぶい」があり、その脇に小さな道路元標と背の高い里程標が立っている。里程標には『距 津市元標五里三十四町』とあった。

道路元標と里程標


「市街地再開発中」
札の辻から左にとって進むと、あれ、れ、れ、れっ!町が無い。地図上ではこの辺りが宿の中心と楽しみにしてきた所が、市街地再開発で家並みが取り壊され道路となるべき広い用地が延びているだけ。

市街地再開発中


「神社脇の古い家並み」
がっかりして歩いてゆくと、既に整備された道路と交差、その右手前方に古い建物が見えた。何だか救われたような気がした。その先には神社がある。

神社の脇の古い家並み


「神館飯野高市神社」
この道路は神社側が残されて開発されたようだ。この神社は『神館飯野高市(コウダチイイノタカイチ神社』と言う長い名前。神戸町の総社で、神社の由緒によると祭神は天照大御神ほかで、倭姫命が天照大神の神霊を鎮め祭る所を求め倭国笠縫村より伊勢の国五十鈴川の川上に至られたときに立ち寄られた所とか。神社の隣が『臨済宗天沢山龍光寺』で神戸氏の菩提寺。ここには種田山頭火の『分け入っても分け入っても青い山』の句碑がある。

神館飯野高市神社


「神戸別院」
宿の道に戻り、進むと左手に『真宗高田派神戸別院』、ここには『明治天皇神戸行在所』の碑が幾つも立っている。右手には『真宗高田派願行寺』、ここの門前には『市指定文化財・絵画』の解説板があり『絹本着色・光明本尊』が紹介されている。ここは寺院の多い町で「鈴鹿13カ寺」と言われ、この宿場の道沿いにも多くが立ち並んでいる。

神戸別院


「六郷川の幸橋と常夜灯」
宿の道は右から来た道とT字型に交わり左へと向かう。その先の右手に『真宗大谷派浄願寺』がある。
再び六郷川になり、ここに架かるのは幸橋。その先左に背の高い常夜灯が見える。平屋の家の屋根の上に見えるので相当な高さである。常夜灯の向かいには大きな病院がある。

六郷橋の幸橋と常夜灯


「背の高い常夜灯」
正面から見るととてつもなく背が高い。台座の周囲に石の柵があり、その中に3層に積まれた石の台座が乗る。その上に5段の切石積があり、さらにその上に常夜灯が乗っている。3層に積まれた石の台座の正面の部分に再建の由来などが記されていた。それによるとこの状態に再建されたのは昭和3年(1928)とあった。
神戸の宿の出口の見付が何処に有ったのか分からないが、次の白子までは1里半(約5.9キロ)の道のり。

背の高い常夜灯



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