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伊勢参宮街道独歩記

いせさんぐうかいどうひとりあるき


伊勢参宮街道ウォーク その1 

平成17年5月3日(火) <その2>



神戸宿から白子宿へ

「矢椅神社」
間も無く大きな道路県道8号線と交差する。この県道は左に行くと鈴鹿市役所や市民会館があり、その先は103号で四日市に向かう。右に行くと検察庁や簡易裁判所、およそ1キロ先で国道23号線に合流する。この辺りは鈴鹿市の繁華なところ。丁度昼の時間になったので手頃な所を探して昼食をとる。
昼を済ませ落ち着いた所で午後の部のスタート。県道を渡り先へと進むと左手に矢椅神社これも式内社で、祭神は建速須佐之男神。

矢椅神社


「伊勢鉄道をくぐる」
伊勢鉄道の古ぼけたコンクリート製の高架橋をくぐる。この鉄道は四日市と津を結ぶ第三セクター。JRの普通で行くと四日市から関西本線で亀山へ、亀山から紀勢本線で津へと向かうが、この鉄道を使うと四日市から津へ早く行くことが出来る。三角形の二辺の和は他の一辺より大きい。

伊勢鉄道をくぐる


「宇気比神社と八幡社」
鉄道をくぐったすぐ左手にあるのが『宇気比神社』『八幡社』。

宇気比神社と八幡社


「山神」
神社の前の大きな道から南に向かって街道に入ると、すぐ左手に石の灯籠と鳥居が有って小さな『山神』が祀られている。そのすぐ先、右手に同じように石の灯籠と鳥居が有って、『山神』が祀られている。山神とは読んで字の如く山の神様で、一般には、春になると田んぼに出て「田の神」となり、秋の収穫が終わると山へ帰り「山の神」に戻るとされている。この辺り古くからの農村地帯であったのだろう。

山神


「神社」
しばらく田の中を行き、小さな金沢川を渡ると国道23号線に突き当たる。肥田町交差点で、ここには横断歩道が無い。少し左に行って国道をくぐって向かいへ渡る。国道で分断された街道の続きを行き、小さな流れを島橋で渡る。間も無く右手に神社がある。どこにも神社の名前が無い。何神社か分からないので近くに居た年配の男性に尋ねたら「この先にある彌都加伎神社を分社してこの集落で祀っている」とか、親切にも自宅から街道の資料を持ち出して色々説明をして下さった。ありがとう。この神社の中にも同じスタイルの灯籠と鳥居と『山神』がある。

神社


「道標」
およそ数百メートルで道は突き当たりとなり、その先はお寺になる。街道はここで右に曲がる。その曲がり角に『右さんぐう道』と刻まれた文化4年(1807)建立の先の丸い石の道標がある。

道標


「道標」
道標で右に折れ、続いて左に折れて、しばらく進むと街道が国道23号線に接近する。そこに『左さんぐう』と刻まれた柱状の道標がある。この道標は元治2年(1865)の建立である。

道標


「彌都加伎神社」
道標で左に折れ、しばらく行くと道路の交差する先に『延喜式内社彌都加伎神社』の石柱と常夜灯、石の鳥居がある。その先に有る本殿はコンクリート造り、千木と鰹木が乗っている。祭神は大土御祖神などで、土に携わる職業の人達や、糀に関係する職業の人達の崇敬を集めているとか。

彌都加伎神社


「大きな猿ぼぼ」
本殿の前に大きな幟が2本立ちそれに綱が張られ大きな猿ぼぼ(高山で売られている魔除け)のようなものが何体もくくり付けられていた。これは一寸珍しい光景。どの様な習慣や由緒が有るのだろうか。

大きな猿ぼぼ


「彌都加伎神社石碑」
鳥居の有る交差点を南に進む。次の道の角に『式内彌都加伎神社』の丸い石の道標が立っている。街道の左手に、今度は木製の灯籠と赤い木の鳥居で『山神』が祀られている。

彌都加伎神社石碑


「フジクラの工場」
何本かの道を横切ったら綺麗な道になり左に大きな工場が現れた。道路際は木や草花で綺麗に整備されツツジの類でフジクラと刈り込まれている。

フジクラの工場


「近鉄名古屋本線踏切」
工場が過ぎると比較的新しそうな住宅街に入り、それを抜けるとやがて電車の音が聞こえてきて近鉄名古屋本線の踏切を渡る。


近鉄名古屋本線踏切


白子宿

「六體地蔵」
踏切を渡ってすぐに『六體地蔵菩薩』の石碑が立つ地蔵堂がある。ここが小笠原藩の北の端であったので北の端地蔵と呼ばれた。漁師の網にかかって海からあがったとの言い伝えがあり、ご神体は6角柱になっていて、それぞれの面に仏像が六体彫刻されていると言う。

六體地蔵


「江島若宮八幡神社」
地蔵堂からおよそ300メートルで広い道に出る。その道の左手にクロマツが繁った所があり『江島若宮八幡神社』の背の高い石柱と石の鳥居、狛犬があり、奥に社殿が見える。祭神は仁徳天皇、応神天皇、神功皇后。神社には白子などの廻船問屋の旦那衆たちが、航海の安全を祈願して奉納した絵馬が保存されており、古いものは承応元年(1652年)のものもある。120余面のうち71面の絵馬が三重県の「民俗資料文化財」に指定されている。また江戸時代にこの付近が白子港だったことから参道入り口に文化3年(1806)建立の大常夜燈が立っている

江島若宮八幡神社


「白子の商家」
神社から元の街道に戻って先へと進む。この町には格子造り、黒漆喰壁の家が多く残っており、中でも目立つのが左手、庭に大きな松の木ある伊達家で典型的な白子の商家の建物。裏には白壁の大きな土蔵がある。豪農で明治時代には干鰯商など商いも盛んに行っていたと言う。

白子の商家


「元旅籠野嶋屋」
右手には二階の低い格子造りの家があり、ここが元旅籠の野嶋屋で二階の戸袋に鏝絵(こてえ)がある。鏝絵とは江戸時代から明治にかけて発達した漆喰による壁の装飾で鏝細工とも言われている。ここの図柄は波に浮かぶ鼓の絵で鼓ヶ浦の伝説にちなんだもの。下の段は白ウサギが跳ねている。
当時、旅籠は江島と白子にあり、松屋・小さど屋・野島屋・左保屋・大さど屋・藤屋・金治・二国屋・鶴屋・肴屋・紺屋・白子屋等の十数軒の旅籠があったと言われている。

元旅籠野嶋屋


「元回船問屋の家」
左手の大きな屋敷が元回船問屋の河合家。母屋の裏には米倉があり敷地が海まで続いていたと言う。
白子の江島、白子、寺家の各町内には染め型紙を商う問屋や廻船問屋,伊勢木綿を出荷する問屋,干鰯問屋,両替商などが建ち並び物資流通の一大拠点の町を形成していた。町の中には『高札場跡』や『旧河芸郡役所跡』などの標石や解説板も立っている。

元回船問屋の家


「白子港」
宿の道から左手へ路地を抜けて行くと海岸通りに出る。この先は白子港で、港には小さな漁船が沢山繋がれており、防波堤の先には伊勢湾が広がっている。久々に見る海の景色。伊勢木綿や海産物を積んだ千石船の出船、入船で賑わっていた当時の様子を思い浮かべた。この港の一角に『大黒屋光太夫出港記念碑』がある。白子港は鎖国の世にロシアを見て近代の夜明けを呼吸した海の男・大黒屋光太夫が船出した地である。

白子港


「久留眞神社」
元の道に戻り水路を越えて行くと右手に太い木の鳥居の神社がある。『縣社久留眞神社』とある。祭神は大己貴尊、須世理姫命、漢織姫命。由緒によると『当初伊勢の森(御殿町)に鎮座していたが、寛永11年(1634)現在地に遷座。古くは「福徳天皇社」と呼んでいたが、当地方を栗真荘と呼ぶことと福徳の神を祀る故をもって文政4年(1821)「福徳之宮久留眞神社」と改称。第21代雄略天皇の御代に伊勢の国に漢織姫を迎え紡績などの技術を伝授され、その功績を称えて漢織姫命を合祀した』。この神社の周辺には紀州藩の屋敷や代官所などがあった。

久留眞神社


「唯信寺」
久留眞神社の周辺も街道らしい雰囲気が残っている。『真宗高田派山中山唯信寺』の前を通り道なりに右に曲がると街道に突き当たる。

唯信寺


「白子参宮街道道標
街道の角に有名な『白子参宮街道道標』がある。『左指差し、神戸四日市道』『右指差し、さんぐう道』と頭に指差しの絵が入っている。この角の大きな屋敷が鈴鹿墨の和田製墨店。この付近の道は曲がり角が多いため、参宮の往来に道を迷わないよう、ここの当主が代々この道標を立ててきた。この鈴鹿墨は9世紀に鈴鹿の山の松脂を使って始まり、江戸時代徳川紀州藩の保護の下白子地区を中心に発達した。今は国の伝統的工芸品の指定を受け全国生産の30%を占めると言われている。

白子参宮街道道標


「格子造りの家」
街道を進むと何軒か格子造りの家がある。この辺りから寺家に入る。寺家は伊勢形紙生産の中心地で、それらしい看板の揚がった家も見える。伊勢形紙とは着物の柄や文様を着物の生地に染めるのに用いるもので、江戸時代になると白子地区を中心に、徳川紀州藩の保護の下に独占企業として、染形紙製作の振興が行われた。形紙商人は「紀州御用、伊勢形紙」と染め抜かれた堤灯、鑑札を持ち、全国各地を行商し、「伊勢形紙の白子」の名を広めたと言う。

格子造りの家


「子安観音」
釜屋橋を渡って次の道を右に曲がると、正面に大きな赤い仁王門と右に三重塔の上半分が見える。これが『真言宗白子山観音寺』通称子安観音。子授け・安産祈願の寺。寺の縁起では、白子浦の海中より鼓の音が聞こえたので網を入れたところ、鼓にのって白衣観音が現れ、堂をつくり安置したとある。元禄16年(1703)の建立、仁王門は元禄文化の典型で県の文化財である。参道には寛文6年(1666)の銅燈籠が立ち、左手石柵の中の観音の化生として芽生えたという不断桜(国の天然記念物)がある。

子安観音


「不断桜」
解説によると『この桜は里桜の一種で四季を通じて葉が絶えず、開花期も春秋冬に及ぶのが特徴。永禄10年(1567)連歌師紹巴が富士見紀行で「白子山観音寺に不断桜とて名木あり」と記し、・・・この桜の虫食葉の巧妙な自然の文様に着目して伊勢形紙が創られた』とあった。

不断桜


「道標」
子安観音を出て街道を進む。ここでは右に左に、そしてまた右に左にと狭い道を何度か曲折する。その角に道標が立つ。始めのがブロック塀を背にして立っており『右さんぐう道、左くわんおん道』、角が鉄板で補強されている。

道標


「道標」
次のはやや小さく『右くわんおん道、左さんぐう道』とある。
白子の宿を出て次の上野宿へと向かう。その行程は1里半(約5.9キロ)。


道標





白子宿から上野宿へ

「鼓ヶ浦の道標」
寺家のくねくね道を通り過ぎ水路に出た。それに架かる『蓬莱橋』の左袂に丸い『鼓ヶ浦』の碑と『右いせみち』の道標が立っている。この水路は橋の下流で堀切川と合流し、その更に下流には水門が見える。この先の海が鼓ヶ浦の海水浴場である。

鼓ヶ浦の道標


「堀切川沿いに近鉄を渡る」
水路の蓬莱橋を渡って堀切川の左岸を上流に向かって進む。その先に近鉄名古屋本線の磯山7号踏切があり、これを渡る。次いで国道23号に出会うがこれは地下道でくぐり向かいへ渡る。国道の橋で堀切川を渡り、今度は右岸を上流へと進む。

堀切川沿いに近鉄を渡る


「軒下に幕板のある家」
一筋目で左へ折れ、川から分かれ国道と並行するように、磯山町の長閑な街道を行く。右手には『村社八幡神社』や『真宗高田派光磯山専照寺』がある。町並みの所々に古い家がある。格子造りのツシ二階、黒漆喰壁、一階の軒下に幕板が下がっている家がある。

軒下に幕板のある家


「近鉄を渡る」
やがて国道と合流し中ノ川橋を渡る。橋から左、下流方向を眺めると近鉄名古屋本線の鉄橋があり、その先は海へと繋がっているようだ。橋を渡って間も無く国道は近鉄の線路に近付き、街道は国道から左に分かれ踏切を渡る。


「千里の町並み」
今度は線路の左、海側の道を行く。家の妻が街道に沿っていて、どこと無く伊勢らしい雰囲気が漂ってきた。そのうちに千里の駅に着いた。街道はここで線路を渡り、国道を横切って上野へと向かうのだが、今日の行程は電車の便の都合の良いこの千里駅で区切りとする。


千里の町並み



ゴールデンウィークの真っ最中、暇人はわざわざこんな日に出掛けなくても良いのだが、青空フリー切符は土日休日しか売ってくれない。また街道歩きには良いお天気が絶対の条件で、そんな事から今日の街道歩きとなった。お陰でこれ以上の日は望めそうも無いくらいの良いお天気だった。
7年ぶりの日永の追分では先の思い出が昨日のように蘇ってきた。歩を進めるに従い少しずつ伊勢路らしくなり、白子では海や漁港も見え、最近歩いた美濃路や姫街道とはまた違った風土が感じられ、この先の楽しみが増すばかりである。

今日のニュースは「JR宝塚線脱線事故、2運転士同乗、救助せず。『動転』出勤し乗務」。「県警のヘリ墜落5人死亡、静岡の住宅街、アパート壊し炎上」。


     今日歩いた記録
     38,748歩(伊勢参宮街道正味32,845歩)
     23.23q (伊勢参宮街道正味19.70q)
     1,742kcal(伊勢参宮街道正味1,488kcal)

ページ公開 平成17年5月21日
ページ改良 平成23年4月30日


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