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伊勢参宮街道独歩記
いせさんぐうかいどうひとりあるき
伊勢参宮街道ウォーク その2
平成17年5月28日(土) <その1>
何と言っても今が一年中で一番過ごし易い季節、お天気も安定していて家に居るのが勿体無い。朝、目が覚めて、布団の中で急に出掛ける事を決めた。
駅まで送って貰って、今日の街道歩きが始まる。JR東海道本線を乗り継いで名古屋へ。名古屋からは8時14分の「特急ワイドビュー南紀1号」で津まで乗車。津から近鉄で千里まで逆戻りして9時30分に千里駅着。ちょっと贅沢な街道歩きだが、ケチって次の「快速みえ2号」にすると歩き出すのが11時近くになってしまう。この1時間半の差は大変大きい。
千里から上野へ
「巡礼道の追分」
先回のゴール地点であった近鉄千里駅前で、帽子にサングラス、デジカメと地図を手に、ナップサックを背負って街道歩きのスタイルに整える。歩数計をリセットして、いざ出発。少し戻って巡礼道との追分を確認しておく。千里駅の手前で街道が二手に分かれる。街道からそのまま直進するのが巡礼道。浜街道とも海街道とも呼ばれ、参宮街道よりも古い道と言われている。街道はここから斜め右に進み、千里駅の手前で踏切を渡る。
「近鉄千里駅」
左手に今降りた近鉄の千里駅、小さな駅だがちゃんと駅員さんが居る。この辺りの伊勢鉄道やJR紀勢本線の駅は無人が多く、列車の車掌がホームで降車する客の切符を回収している。ここで近鉄名古屋本線の踏切を渡る。結構頻繁に遮断機が降り、目の前を特急電車が凄いスピードで通り過ぎて行く。
「国道23号を渡り再び旧道に入る」
続いて千里駅前交差点で国道23号線を渡る。国道から一筋先がT字路で、ここで街道は左に折れ、電車や国道と並行するように進む。たちまち街道の雰囲気になる。細く延びる街道に妻の面を向けて並ぶ町屋の様子が印象的である。
「田中川の大橋」
右手に立派な瓦屋根を乗せた地蔵堂がある。ゆとりが有るのか、信仰心が篤いのか随分立派なお堂である。すぐに田中川の大橋を渡る。橋の上が車で渋滞しているが、幸い、橋の右手に歩行者専用の橋が架かっていたので安心して渡る事が出来た。
上野宿
「軒に幕板のある町屋」
橋を渡ると左右に街道らしい町屋が目に付いてくる。左手にはツシ二階、黒の漆喰壁に太い格子が入った小さな窓、軒の庇には雨よけの幕板、一階は格子がはまっている。右手には平入りの家と妻入りの家とが並んでいる。この様に歩く所によって家の様子や町並みの様子が少しずつ違っており、それを見ながら歩くのは街道歩きの醍醐味である。
「上野神社」
右手の上野小学校を過ぎた辺りに上野神社が有る。『常夜灯』と彫られた背の高い石柱の上に蛍光灯。奥に大きな『上野神社』の石碑、常夜灯、石の鳥居と続き、参道が奥へと延びている。この神社は国司北畠氏の祈願所として創建され、祭神は八幡大神。永禄年間(1558〜70)に織田信長が太刀や鎧を奉納したとか。続いて右手に『金光山』と『最勝寺』の石柱、奥に緩い石段が上へと続いている。真宗高田派の金光山最勝寺。
「弘法の井戸」
左手に一見何の変哲もない小屋がある。中を覗くと手前に蓋をされた井戸があり、奥に大師堂がある。これが弘法の井戸と呼ばれるもので、大師が錫杖で指したところを掘ったら水が出たとか。
「上野城跡」
右手に白い標柱があり『上野城跡、河芸町教育委員会』とある。右手に有る小高い丘が本城山でそこに上野城があった。標柱の側面には『元亀元年(1570)織田信包が築城・・・』の解説が書かれている。同じ上野でも伊賀上野ではなく伊勢上野である。
「道路元標跡」
左手に『道路元標跡』の細長い石柱ある。道路元標が有るということは、ここが或る時期、街の中心であった事を物語っている。多分この辺りが上野宿の中心で、近くに本陣や問屋、高札場などが有ったと思われる。しばらく右手の視界が広がり水田の向こうに伊勢鉄道のコンクリートの高架の線路が見える。次いで右手には『真宗高田派満流寺』、さらにその先に『臨済宗妙心寺派光勝寺』がある。
「中瀬の町並み」
平行していた街道が左の国道23号線と斜めに交差する。国道を渡った所に交番があり、その先で国道から左へ分かれ中瀬へと進む。間も無く地蔵堂が二つ続く。どちらもきちんとお堂に入っている。この辺りはお地蔵様を大切にするのか、むき出しで雨露に曝されているのが無い。この辺りの町並みは家の妻の部分が街道に面し、三角のノコギリ歯のように整然と並んで独特の景色を作り出している。
上野から津へ
「ぢ神参道」
今度は右の国道23号線と合流する。ここが中瀬の交差点で、ここから右(西)へ国道306号線が分かれる。この交差点の左に石柱があり『ぢ神参道』、その横に看板が有り『痔神大明神』とある。自分は幸せな事に未だここへお参りする必要は無いが、すがりたい人も多いに違いない。
「国道から分かれる」
国道に合流して間も無く、河芸町から津市に入る。しばらく国道を行くが、右手の見晴らしが良く、ここでも畑や水田のはるか向こう伊勢鉄道の高架が見える。やがて上小川のバス停近くで国道から右へ分かれる。
「街道筋の町並み」
この辺りは栗真小川町、ここにも家の妻が街道に面して並ぶ三角のノコギリ歯の町並みがある。
「レトロな小川町集会所」
集落の中心部の左手に木造平屋のレトロな建物がある。大きな表札に小川町集会所とあった。
「近鉄の踏切を渡る」
小川の集落を抜けると再び近鉄の踏切がある。警報機が鳴り、遮断機が降りて電車が来た。これが高田本山第7踏切。
「逆川神社」
踏切を渡ってすぐ左に有るのが『逆川神社』で“さかかわ”と読む。神社の由緒によると創建は人皇第67代後一条院帝の御代、祭神は伊邪那美命と豊玉毘賣命、大国主命。この辺り川が逆の方向に流れているのでこの名があるとか。また『しもやけの宮』としても知られ、弁天池の水を土用の丑の日に汲んで手足につけると“しもやけ”や“下の病”に効くとの言い伝えが残る。
「街道筋の町屋」
左に保育園、右に小学校を過ごすと栗真中山町、二階が低く黒の漆喰壁、軒の庇の下にしっかりとした幕板がついた町屋がある。
「巡礼道の追分」
今度は国道を左へ斜めに横断するのだが何本かの道路が集まっていて分かり難い。この交差点は栗真中山町。交差点の先から斜め左へと進むとやがて左からの道と合流する。この道が千里で分かれた巡礼道。この追分に大きなマツと常夜灯、碑、道標がある。常夜灯の解説によると『これは矢倉型で高さ4.2m、天保10年(1839)巳亥正月武州若槻木綿問屋中と刻まれている』。道標には『右白塚豊津道、左上野白子神戸四日市道』とある。
「常夜灯」
右にコンクリートのお堂に入った地蔵堂があり、次いで左、フェンスに囲まれた中に常夜灯がある。この解説によると『この常夜灯は荒い彫りの山燈籠、高さ2.8m』、正面には『両宮常夜灯』、左面には『五穀成就』、裏面には『嘉永四年(1839)辛亥孟夏津領』。常夜灯の後方には三重大学のキャンパスが広がる。
「大学前の国道23号線」
大学前で国道と合流する。左手には三重大学医学部や付属病院が続く。
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