ホームへ 表紙へ 目次へ 戻る 次へ 掲示板へ
伊勢参宮街道独歩記
いせさんぐうかいどうひとりあるき
伊勢参宮街道ウォーク その2
平成17年5月28日(日) <その2>
津宿
「江戸橋」
国道の志登茂川に架かる新江戸橋の手前で右に曲がると一部木製の赤く塗られた古風な江戸橋がある。江戸からの入口ということや、江戸へ向かう藩主の見送りもここまでだったのでこの名がある。これを渡って津の街へ入る。
「江戸橋常夜灯と道標」
橋を渡った所が伊勢別街道の追分で常夜灯と道標が立っている。京からの伊勢参りは東海道の鈴鹿を越え、関の追分から伊勢別街道に入ってここへ出てきた。この常夜灯は解説によると『安永6年(1777)嶋田氏個人の寄進によるもので、市内最古のもの。春日型で高さ5.4m』。道標には『左高田本山道』とある。高田本山とはここから北へおよそ2.5キロにある真宗高田派本山専修寺のこと。
「宿の旧家」
追分のT字路で左に曲がる。『津は七十二町、工商軒を並べ繁花富饒の地』といわれた所。早速左手に立派な屋敷、黒板塀に黒の漆喰壁、門の内からマツの木、家の軒には雨除けの幕板、どのような家柄なのかは分からないのが残念だが、宿の旧家に違いない。右手に有るのが真宗高田派の恵光山深西寺。この街道沿いには真宗高田派のお寺が多い。これは近くに高田本山が有るからか。
「阿部家」
上浜町の右手に卯建の上がった商家がある。軒先に掲げられた解説によると『津市指定文化財の阿部家住宅で味噌・醤油の醸造元。典型的な大店の商家建築として市内で唯一のもの。18世紀後半、江戸時代後期の建築であると推定される』とあった。また解説の中で軒先の雨除けのことを『おおだれ』呼ばれていた。
「善徳寺」
津駅を右手に見て駅前通りを横断し、間も無く右手に山門と鐘楼、奥に本堂が見える『福寿山善徳寺』がある。ここも真宗高田派。400年前の創建で宝暦と明治に二度の火災に遭い、今の建物は明治末のものとか。
「格子造りの町屋」
県庁前の広い通りの右手前角に大きな二階建ての町屋がある。切妻平入りの格子造りで、二階には出格子と黒漆喰壁に虫籠窓、袖壁がある。軒には幕板の“おおだれ”が下がり、一階は格子と格子戸で、由緒のある家に違いないが詳細は不明。大変な努力で保存されていると思われるが、一言の解説が有ればより嬉しかった・・・。
「四天王寺」
県庁前の道を横断し、街道の一筋右に『四天王寺』がある。解説によると『塔世山四天王寺で曹洞宗の中本山。推古天皇の勅願で、聖徳太子の建立と伝えられている。度々の兵乱や戦火で焼失と再興を繰り返したが、元和5年(1619)に津城に入国した藤堂高虎が改築、二代目藩主高次が寛永14年(1637)に寺領を寄進したことにより、寺勢を取戻した。現在の本堂は、太平洋戦争で焼失後、再建されたもの。境内には、信長生母、藤堂高虎夫人をはじめとした武将や学者、文人たちの墓や芭蕉文塚ほか、文学碑など貴重な文化財が多く残っている』。
参拝していたらお坊さんが声を掛けてきた「四天王寺巡拝の方ですか? 朱印は要りますか?」これから車で出掛けようとされているところだった。山門の右、前の道路から少し入った所に『芭蕉の文塚』がある。『元文2年に津の俳人菊池二日坊が翁を偲んで建てたもので、塚の形態をとった県下で一番古いもの。裏には芭蕉の略歴と由来が記されている』。
「塔世橋」
四天王寺を出ると川に突き当たる。左に折れて国道の『塔世橋』で安濃川を渡る。
「観音寺」
塔世橋を渡って国道23号線の広い道を南に進む。二つ目の信号万町を過ぎて、初めての横断歩道橋の有るところで左に折れる。一筋目で右に折れ、広い道を信号の無い所で横断し、その先一筋目で左を見ると観音寺の赤い門が見えた。この左、右、左の道順に自信が無かったので赤い門が見えてホッとした。ホッとしたところで昼になったので近くの店で昼食をとる。
食事を済ませ再び街道歩きを開始し、観音寺に寄る。仁王門、本堂、五重塔はどれも赤く、まだ新しい。解説には『ここは「津の観音さん」として親しまれている恵日山観音寺・真言宗の古刹で 日本3観音の一つ。本尊は阿漕浦の漁夫の網にかかったといわれる聖観世音菩薩で、奈良時代初め和銅2年(709)の開山以来、全国の人々から海上安全、五穀豊穣、所願成就の観音様として深く信仰を集めている。将軍足利義教が三重塔を建立し、豊臣秀吉が出陣の際に祈願を怠らなかったのが、津の観音寺で、津藩主藤堂高虎や徳川家康の側室清雲院お夏の方は、特に津観音に縁が深いと言われている』等とある。
「アーケード」
仁王門の先は大門商店街のアーケードが延びている。この観音様が城下町津の「守り仏」で、大門町という寺内町を形成していた。その名残が町名としても残っている。
「道標」
アーケードに入って間も無く右手前角、ケーキ屋さんの前に大きな道標がある。『すぐこうのあみだ』とあるのはこの観音の近くにあった国府の阿弥陀堂のことで、先の戦災で失われてしまった。写真の左の面には『さんぐうみち』が彫られている。アーケードを出たところで旧町名を示す碑が立っているのを見掛けた。『旧町名・地頭領町』何処の町も住居表示の変更で、歴史のある旧町名が失われ、例えば『中央1丁目』や『みどりヶ丘』なんて馬鹿げた名前になり、味も素っ気も無い。このように旧町名とその説明が有ると歴史を感じながら歩く事が出来るので、大変有り難い。
「観音橋」
デパートの裏、その専用の駐車場が集まる中を抜けると正面に赤い橋がある。これが岩田川に架かる観音橋で自転車と歩行者専用。橋の親柱には擬宝珠が乗っている。橋を渡ったら右手の国道に出て南へと進む。左手の病院の先に真新しい構えのお寺がある。『浄土宗岩田山浄安寺』。門のところにクルクル回す法輪があった。このお寺の裏の辺りが市営球場。更にその先が阿漕浦。
「閻魔堂」
岩田の信号交差点から左斜め先へと進む道が参宮街道。区画整理された碁盤の目を斜めに進む感じ。程無く『旧町名・立会町』標石があり、道が間違っていなかったと安心する。広い道を一つ渡り、先でやや右に曲がって広い道に出る。その交差点の左手、道端に赤い幟が10本ばかりはためいて、そこにお堂がある。立て看板に大きな紙に手書きした解説が無造作に貼られている。『閻魔堂は正式には真教寺(しんきょうじ)と言い、天台宗比叡山延暦寺の末寺。勢州安濃郡津の南の入口にあり、悪霊などの進入を防ぎ津城下町を守護するために建てられたもの。堂中央にある閻魔王像は天和2年(1682)の作で、高さ約2m。閻魔堂の周辺は「えんま前」と呼ばれ、旅人、人足、馬などの休息場で、18世紀後半には神戸屋という蕎麦屋があり、他に茶店が出来て賑わった』とある。
「市杵島姫神社」
閻魔堂の右隣には『市杵島姫神社』がある。この神社、『昔は庚申塚であった。市杵島姫命は北畠氏一族の守護神で北畠氏滅亡まで多気の城内に鎮座していた。親房公、顕家公、顕能公と大変崇敬心厚く、その心は代々家臣に至るまで受け継がれ、その後この地の産土神様になった。万物の生命を司る水の神、音楽芸能、子孫繁栄の神様として崇敬され付近の人々が「弁財(べざい)さん」「弁財さん」と親しみをもって呼んでいたので、下弁財町、上弁財町の町名がついた。境内には樹齢が400年とも500年ともいわれる大きなイチョウの御神木がある。この神社には、市指定文化財となっている湯立釜(ゆたてがま)がある』。ちょっと引用が長かったかな?

津から雲出へ
「阿漕町から八幡町の町並み」
エンマ堂前から街道は南へと下る。早速、街道らしい町屋が現れた。二階建て切妻平入りで、二階はガラス窓や格子、虫籠など色々有るが、壁は黒漆喰。小屋根の付け根は漆喰で瓦が固められている。軒庇の下には“おおだれ”の幕板、一、二階共に袖壁が付いており、一階は格子と格子戸。これが数軒並んだ光景は実に素晴らしい。いつまで残しておきた町並みである。右手に酢の醸造元がある。街道から奥へと連なる醸造蔵の黒い板壁が古い町並みをより一層引き立たせている。
「薬師堂」
街道の左手に瓦の乗った黒板塀に囲まれた一角があり、中から数本のマツの木が覗いている。中から賑やかな声が聞こえてきた。門の奥にお堂があり、その中に大勢の女性達、お参りの日なのか、何かの集会なのか、賑やかな女性に囲まれてお薬師さんも満足に違いない。この薬師堂の手前の四つ角が安濃郡と一志郡の境であった。
「八幡神社入口」
左手に頭の文字の縣社がセメントで埋められた明治28年(1895)建立の『八幡神社』の石柱があり、ここは裏参道の入口にあたる。神社はここから200mくらい先にで、寛永9年(1632)、2代藩主藤堂高次が垂水の山から現在の地に移し、同時に藩祖高虎の霊を祀ったもの。古くから祭礼があり、それが今の「津まつり」となり、その中の「唐人踊り」は有名。
「お寺とお堂と町屋」
左手にお寺とお堂と町屋とが並んでいる。お寺は天台真盛宗松原寺でお堂は地蔵堂。ここの地蔵は弘法大師の作だとか。このお寺には代々藩主の位牌が祀られている。
「明治天皇御小休所跡の碑のある旧家」
左手に大きな古い町屋があり、その横のブロック塀から『史跡』と読める石柱が頭を出している。塀の菱形の穴から覗いてみたら『史跡明治天皇垂水御小休所跡』とあった。明治天皇が休まれた所といえば当時の本陣クラスで、それなりの家柄だったに違いない。このような発見をすると街道歩きがますます楽しくなってくる。
「典型的な町屋」
左手に小さいながら、この辺りの町屋の特徴を詰め込んだような家がある。切妻平入り、低い二階に小さな窓が一つ、それに太い横格子がはまっている。一部剥げ落ちているが黒い漆喰壁。小屋根の付け根は白い漆喰で瓦を押さえ、軒下には“おおだれ”。一階は格子と出格子に格子戸。民族資料館に居るような気がした。
「成就寺と清水不動参詣道」
街道が右に曲がり、小さな流れを渡る。その流れの手前で左に行く細い道が香良洲(からす)街道で、ここがその追分。天照大御神の妹神・稚日女尊(わかひるめのみこと)祀った香良洲神社への道である。残念ながら追分らしい写真が撮れなかった。続いて右手向かいの結婚式場を見ながら、垂水南の信号交差点で国道を渡り、その先のJR藤枝踏切を越える。踏切の先は細い道となり、やがて右手から来た道・古伊勢街道と合流し左へと曲がる。ここは道が狭いので信号で交互通行をしている。こんな光景はめったにお目に掛からない。垂水地区に入り次の四つ角の右、石段を上った所にお寺がある。『真言宗醍醐派成就院』で、昔は立派なお寺であったが織田信長の伊勢進攻で兵火に遭い寺勢が衰えたという。ここには市文化財の木造大日如来坐像がある。この寺の横に『清水不動参詣道コレヨリ三丁』の背の高い看板表示が立っており、この先にある清水不動院への案内。足元に小さな道標があり、これは安永2年(1733)の建立で『大日如来出現所香水道是従四丁』とある。
「須賀神社」
JRの線路の右手、少し高い所を平行して進む。街道沿いには例のノコギリ状三角屋根が並んだ風景が現れる。街道の右手に『須賀神社』の石柱と奥に常夜灯と石の鳥居があり、その先は石段で上へと登ってゆく。このお宮は垂水村の産土神。
「式内加良比之神社碑と銅の灯籠」
右手に明治2年(1869)建立の『式内加良比之神社』の石柱とその後ろに青銅の灯籠が立っている。これはちょっと珍しい。ここから200m程先に有る神社で。『倭姫が天照大御神を奉戴しての遍歴の際、ここに神殿を設けたが、水利が不便だったので樋で水を通したことから片樋宮と称した。4年後に大御神の神託があり他所に遷座したが、宮跡に御倉板擧神、伊豆能賣神の二柱をお祭りして、加良比乃神社と称した』とか。
「立派な門のある屋敷」
街道の左手、左に立派な門を構え、右には妻を街道に面した切妻妻入りの大きな家が有る。小屋根の軒下には例の幕板“おおだれ”が付いている。門の扉の鏡はケヤキの一枚板、きっと由緒のある家に違いない。相川に架かるコンクリート製の相川橋を渡る。この辺りからは左の見晴らしがきくところが有り、遠くに造船所のドックが見え隠れする。
「稱念寺常夜灯」
街道が天神川の天神橋を渡るとすぐ右に『浄土宗称念寺』、前に常夜灯が建っている。この辺りには街道の面影を残す家並みが続いている。この常夜灯には『十社の森、常夜燈』と刻まれており、大正の末期まで当番で灯明をあげていたとか。右手に屋根が瓦葺き外壁がトタン張りのお堂がある。何が祀られているのかは定かでない。近くで聞くと『六阿彌堂』とか。
「高茶屋神社」
右手に大きな『高茶屋神社』の石柱(社号標)、右横に腰の低い石塀で囲まれて背の高い常夜灯がある。文久3年(1863)の建立で、『十三社、常夜燈』と刻まれた春日型。その奥に石の鳥居がる。昔、この神社は『十社の森』と称され、神宮へ参詣する勅旨の休息所があったという。
「国道165号線の陸橋」
狭い街道の行く手を塞ぐかのようにガードが見えてくる。鉄橋部分には赤い大きな字で『事故多し注意!!』とある。これが国道165号線の陸橋で、街道とJR紀勢本線とを跨いでいる。すぐ左手に『JR紀勢本線高茶屋駅』がある。今の時間が15時丁度。時間的にも、体力的にも、もう少し歩けそうなのだが、ここ高茶屋駅なら15時7分の列車があり、次の六軒駅なら15時52分となる。この区間距離JRの営業キロで5.7キロ、頑張って歩けば何とかなるかも知れないが、万一これに送れると次は1時間後の16時53分まで無い。そんな事で無理をせず、続きは次回の楽しみに、今日の街道歩きを高茶屋の国道165号線のガードまでとする。街道から少し戻るように高茶屋の駅へ、街道歩きスタイルを解いて、顔を洗ったら、列車が来た。

先週は見送りに「中部国際空港・セントレア」へ。今週は「愛・地球博」に行ってとお出掛けの機会が続いた。そんな後での街道歩き、近代的で便利さを追求した空港や、時代を先取りする技術を競っている万博、それに比べると、この街道歩きは何と次元が違う事か! でも一日歩いて心が洗われるような気がして、体の中に溜まった不要なものが消えた気もする。この街道歩きは自分の心や身体にとって良い薬になっているのだ。
今日のニュース、朝刊では「旧日本兵生存情報、政府事実確認急ぐ」。夕刊には「イラク拘束斉藤さん死亡の情報、サイトに映像・声明」。
今日歩いた記録
31,210歩(伊勢参宮街道正味28,315歩)
18.71q (伊勢参宮街道正味16.98q)
1,352kcal(伊勢参宮街道正味1,235cal)
累計
69,958歩(伊勢参宮街道正味61,160歩)
41.94km (伊勢参宮街道正味36.68km)
3,094kcal(伊勢参宮街道正味2,723kcal)
ページ公開 平成17年6月13日
ページ改良 平成23年4月30日
ホームへ 表紙へ 目次へ 戻る 次へ 掲示板へ
|