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伊勢参宮街道独歩記

いせさんぐうかいどうひとりあるき



伊勢参宮街道ウォーク その3 

平成17年7月23日(土) <その1>


前回の伊勢参宮街道ウォーク<その2>で千里から上野、津、高茶屋までを歩いたのが5月28日だったので、それから2ヶ月が瞬く間に過ぎてしまった。JRの安い切符、青空フリーパスを使おうということから、出掛けるのが土、日、休日に限られ、その間の北海道旅行を含む色々な行事予定やお天気との相談もあって、結果として今日まで延びてしまった。7月18日には梅雨が明け、その後梅雨明け十日の猛暑が続いているが、今日は終日曇りで気温も28度くらいとの天気予報。暦では今日が大暑、でも、夏場の街道歩きには絶好のコンディションと思われる。

名古屋8時14分の「特急ワイドビュー南紀1号」で津まで乗車。津から鈍行に乗り換えて高茶屋まで、9時48分に高茶屋駅着。しかし津での乗り換えに37分の待ちは時間は何とも勿体無い。



高茶屋から雲出へ


「JR高茶屋踏切」
高茶屋駅で歩く態勢を整え、歩数計をリセットし、街道に向けて出発する。街道に出るとすぐに国道165号線をくぐり、JR紀勢本線の高茶屋踏切を渡る。この高茶屋は上り下りの立場のあった所で、津と雲津の中間、昔はここから富士も見えたと言う。

JR高茶屋踏切


「蔵」
広々とした中を行き、池田、殿木の集落を抜ける。途中に黒い羽目板の蔵があり街道らしい雰囲気が出てきた。

蔵




雲出宿

「明治天皇島貫御小休所跡碑」
雲出島貫町に入ると左手に背の高い『明治天皇島貫御小休所跡』の石碑がある。ここが昔の本陣跡である。しかし、今の集落の様子では、ここが雲出宿の中心部であったことなど想像もつかない。

明治天皇島貫御小休所跡


「道標」
左手に道標があり上の部分の表面が欠けていて『道』とだけ読める。これはきっと香良洲道の道標に違いない。

道標


「常夜灯」
雲出川に突き当たる。ここで昔は板橋を渡ったのだが、今は少し上流に真新しい雲出橋が架かっている。そこまで堤防の上を行く。とっても暑い。赤トンボが群れている。橋の北詰は公園のように整備されており、そこに常夜灯が立っている。これは天保5年(1834)建立のもので、渡し場にあったものがここへ移されたものと思われる。

常夜灯


「伊勢街道の説明」
ここには結城神社から市場庄までの地図と写真が入った伊勢街道の説明板がある。

伊勢街道の説明




雲出から市場庄へ

「雲出川南詰の常夜灯」
長い橋を渡る。川の水を見ながら橋を渡っていると水に浸かりたい気分になってくる。橋を渡った南詰にも常夜灯とその解説板がある。寛政12年(1800)建立で伊勢街道西小野江の渡しにあったもので、腰山市左衛門など寄進者の名前が刻まれている。ここは、その昔、南朝と北朝の境で、橋はなく小野古江(おののふるえ)の渡しと呼ばれ、船で往来していた。傍らに『小野古江渡趾』の真新しい石碑がある。

雲出川南詰めの常夜灯


「雲出川堤防から街道を望む」
雲出橋から堤防上を下流へ少し下ると、街道が南へ真っ直ぐに延びているのが見える。大きな川を渡るたびにこのような景色を見るので、いろんな所が頭の中でごちゃ混ぜになりそう。

雲出川堤防から街道を望む


「松浦武四郎誕生地碑」
歩き出して間も無く左手に、切妻平屋建てで妻入りの黒っぽい屋敷がある。家の前に標石が立っていて『三雲村指定史跡、松浦武四郎誕生地、付属品・著書』とある。

松浦武四郎誕生地碑


「松浦武四郎生家」
松浦武四郎は、江戸時代、幕末から明治時代の探検家で、蝦夷地を探査し「北海道」の名付け親として知られる。ここ伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)で生れた。択捉島や樺太まで行ったというから只ただ頭が下がる。私の街道歩きとは比べようも無い。先週の北海道旅行でオロロンライン、国道232号線の道の駅「小平鰊番所」立ち寄ったら、向かいの鰊文化歴史公園にこの松浦武四郎の像が立っていた。

松浦武四郎生家


「肥留の常夜灯」
肥留町の右手、小さな用水路の脇に常夜灯がある。台座の石に江戸、乾物問屋中と彫られている。

肥留の常夜灯


「月本追分の道標」
中林町に来ると右手に大きな道標と常夜灯が立っている。ここは昔、月本と呼ばれ、伊賀越え奈良街道の追分である。この道標はこの街道最大のもので、正面に『右いかこ江なら道』、右横には『右さんぐうみち』、左横には『月本おひわけ』とある。

月本追分の道標


「月本追分の常夜灯」
街道を挟んだ向かいには背の高い明治3年建立の常夜灯と、『月本追分』の解説板がある。この追分は役人が常駐した立場であった。

月本追分の常夜灯


「民家」
街道沿いには軒に雨除けの幕板を付けた平入りの民家がある。

民家


「さんぐう道道標」
街道が少し左にカーブする所に『左さんぐう道』の道標と『太一』と彫られた灯籠。そして『山神松』と読める石橋の親柱のようなものが置かれている。これも『山神』なのだろう。

さんぐう道道標


「小津の常夜灯と道標」
左の方に三雲中学校を見て過ぎると、その先左に伊勢神宮式の常夜灯があり、その足元に香良洲道の道標がある。

小津の常夜灯と道標


「三渡川の三渡橋」
クラシックなコンクリートの橋、三渡川の三渡橋を渡る。昔は涙川と言って六軒茶屋の入口だったところ。

三渡川の三渡橋


「道標」
橋を渡った右手に大きな道標が立っている。川を背にして見ると、正面に『いがこえ追分』下に小さく『六けん茶や』、右に『やまとめぐりかうや道』、左に『右いせみち・六軒茶屋』とある。ここも月本の追分と同じように伊賀越えの道だった。

道標


「常夜灯」
橋を渡った左手、道標の向かいには常夜灯がある。

常夜灯


「格子戸の家」
街道には古い格子造りの家が目立ってくる。この家は一・二階とも格子がはまり、一階は入口の格子戸の左右が出格子で、片方は細く細かく、もう一方は太く粗い格子になっている。部屋への光の入れ方を格子の粗さで微妙に調節している。

格子戸の家




市場庄

「妻入りの家」
市場庄に入ると妻入りの堂々とした構えの家が目に入ってくる。

妻入りの家


「屋号」
それぞれの家に昔の屋号が掲げられている。ここのお宅には『屋号、大清(だいせき)、三雲市場庄』とあった。他には天満屋、藤音、ふろ屋、くすりや、ランプ屋、かご兵、蛸路屋、仙台屋などがある。

屋号


「蔵と木戸と平入りの母屋が並んだ家」
街道に沿って蔵と木戸と平入りの母屋が並んでいるところがあり、妻入りの家とはまた違った味がある。

蔵と木戸と平入りの母屋が並んだ家


「市場庄の家並み」
妻入りの家にはせいがい庇の下に幕板(ここでは『かえぎ』と呼ぶ)ある。これが平入りの家の幕板と連なっており、屋根は凸凹でも庇の幕板の連なりで、この町独特の連続感がある。何時までも残しておきたい日本の景色である。

市場庄の家並み


「いちのや」
町の中心部、右手に『いちのや』の看板が架かるのが宇野家別宅で、大正3年の建築。町が借り受け『格子戸の会』が無料お休み処としている。覗いてみたら、冷たいお茶の接待を受けた、感謝、感激である。ありがとう。

いちのや


「忘井之道道標」
街道の左手、蔵の軒下に道標がある。『忘井之道』とあり、ここを左に入って少し行くと『忘井』がある。

忘井之道道標


「忘井」
石組みの上に小さな屋根が架かっている。右そばに『三雲村指定史跡、忘井』の標石、奥に小さな石の祠が、右手に解説板がある。左には自然石が置かれ、それには『忘井』と題して『別れ行都のかたの恋しきに、いとむすびみん忘井の水、斎宮甲斐』と彫ってある。解説によると、『この和歌は斎宮群行に侍した官女甲斐の詠です。上世、天皇のご即位毎に伊勢神宮の斎の宮即ち斎王となる皇女が派遣されその行列を斎宮群行と言いました。天仁元年(1108)の卜定により天永元年(1110)9月に群行が催されました。侍女甲斐は55代の斎王旬子内親王に従って壱志の駅家の頓宮(曾原茶屋付近)に一泊しました。そして忘井を通過の際、都を離れはるばる伊勢の地に来て望郷の念やみがたく涙とともにこの歌を詠みました。』とある。

忘井


「近鉄山田線をくぐる」
忘井の先にレトロな市場庄公会堂があり、妻入りの家並みを抜けると近鉄山田線の下をくぐる。

近鉄山田線をくぐる




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