二日目 8月27日(月)


6時15分起床。昨夜少し雨が降った様で路面が濡れている。7時ホテルをチェックアウト。高崎駅ターミナルビルにて朝食、サンドイッチとコーヒー。7時51分高崎発信越本線横川行で西松井田まで。駅の前の道を中山道へ、妙義山は上の方に雲がかかってなかなか全貌を現さない。8時20分昨日打ち上げた西松井田駅入口交差点から坂本へ向かって出発する。

今朝の新聞のトップニュースには『参院高祖派選挙違反事件近畿郵政局長逮捕』が大きく報じられている。






松井田から坂本へ


「西松井田駅入口交差点から妙義山を望む」
8時18分JR信越本線西松井田駅に降り立つ。道は昨夜の雨で濡れているが、雨は降っていない。駅前、といっても全く何も無い、から真っ直ぐ北へおよそ500mで中山道西松井田駅入口交差点。振り返ると妙義の岩峰の連なるのが見える。

「補陀寺」
交差点を出発してすぐ右手に補陀寺。山門には『関左法窟』の額、関東一の道場の意味とか。境内には松井田城主だった大導寺政繁の墓がある。

「一里塚跡」
街道は補陀寺の先で国道と分かれ、左の信越本線に近付いて行く。途中左手、住宅の敷地の笹竹の茂みの中に新堀漆原一里山の解説板、江戸より32里。

                 一里塚跡

「左展望」
しばらく線路沿いを歩く。左はJR信越本線、碓氷川、上信越自動車道その向こうに妙義山塊が見える。

左展望

「五料村高札場跡」
信越本線の踏切を渡り、国道を横切り上信越自動車道をくぐると五料の集落に入る。右手に白い看板で『安中藩板倉伊豫守領分五料村高札場跡』とある。

「史跡五料茶屋本陣お東」
高札場跡を右に入り、線路を越えると史跡五料の茶屋本陣が二つある。中嶋家は名主を務めた家柄で、地元では本家を『お西』分家を『お東』と呼ぶ。どちらも文化4年(1807)頃の建築。

                 史跡五料茶屋本陣お東

「史跡五料茶屋本陣お西」
どちらも上段の間を備えており明治天皇巡幸の際にはお西で小休止された。今はどちらも公開されており見学することが出来る。

史跡五料茶屋本陣お西

「史跡五料の茶屋本陣の標柱と告知板」
街道と茶屋本陣との間に鉄道が敷かれたため、ここだけが時代の流れから取り残された。

「石碑群」
茶屋本陣を後にし、信越本線の踏切を渡り、梨子の木の立場へと丸山坂の上りにかかる。右手に大小幾つかの石碑が集められている。

「茶釜石と夜泣き地蔵」
左手には夜泣き地蔵と茶釜石がある。落ちた地蔵の首を馬方が他所へ持ち去り捨てた為、夜になると「五料恋しや」と泣くので土地の人が五料へ届け胴の上に安置したと言う。手前の大きな石が茶釜石。小さな石でこの大石を叩くと金の音がする。確かに金属音で残響もある。一寸不思議な石。

「碓氷神社」
急坂を下り線路に突き当たり、しばらく線路沿いを行くと、踏切の先右手に赤い鳥居の碓氷神社がある。

                 碓氷神社

「百合若大臣の足跡」
高墓踏切を渡り国道を横断、坂を下って右折する。国道と合流し中木川の小山沢橋を渡り、再び分かれた所の右手に石と解説板。百合若大臣とは幸若舞や説教節に出てくる伝説上の人物で江戸時代には庶民の馴染みが深かった。

「横川の町並み」
国道に合流し線路に沿ってしばらく歩いた後、下横川信号で踏切を渡り、今度は線路の右手を歩く。右手の崖が少し開けると横川の集落に入る。

「横川駅と峠の釜飯・おぎのや」
集落の中ほど左手に横川駅。かの有名な峠の釜飯の『おぎのや』がある。釜飯を食べるには時間が早過ぎる。持って歩くには邪魔になるので買わずに通過する。

横川駅と峠の釜飯・おぎのや

「横川の茶屋本陣」
横川駅を過ぎて間も無く右手に群馬県指定史跡横川の茶屋本陣の標柱。その奥に古い住宅があり、ここには上段の間が残っている。

横川の茶屋本陣

「諏訪神社」
右手奥に諏訪神社。その先左手にももう一軒の茶屋本陣だった家がある。

「碓氷関所東門跡」
右手石垣の上に復元された碓氷(横川)の関所の東門。箱根と共に四大関所の一つと言われた。上には資料館があり、建物跡は更に上。

碓氷関所東門跡

「鉄道文化村」
関所を過ぎると線路を渡る。これは横川駅までで廃線となった信越本線の跡。左手には鉄道文化村として当時活躍した車両が展示されている。これらの車両を見ると昔横川の駅で機関車の付け替えが行われ長い時間停車していた事が思い出される。

                 鉄道文化村


「アブトの道」
右手の線路には砂利が敷かれ、アブトの道として歩行者専用の道として開放されている。





      坂本


    中山道第十七宿 坂本宿


      所在地 群馬県碓氷郡松井田町坂本
      最寄駅 JR信越本線松井田駅
      本陣2、脇本陣2、旅籠40、総人口732、家数162
      軽井沢へ 2里半16町27間(11.6q)


「坂本宿下の入口」
霧積川を渡り薬師坂をS字状の急坂で上る。上り切って国道と合流、上信越自動車道をくぐると一直線で坂本宿へ向かう。やがて大きな中山道坂本宿の標柱があり、木戸に入る。

「坂本小学校発祥の地碑」
左手、煙出しが二つついた大きな建物が旅籠小竹屋で、小竹家の前に坂本小学校発祥の地碑が立っている。

「脇本陣みよがや」
左手門構えの家が脇本陣みよがや。

「永井脇本陣」
右手白壁門構えが永井家脇本陣。

永井脇本陣

「酒屋脇本陣」
右手、永井脇本陣の隣が酒屋脇本陣。坂本公民館として使われている。

「旅籠かぎや」
右手、連子格子に出梁作り二階には『かぎや』の庵看板。昔の旅籠屋の様子そのままである。

旅籠かぎや

「木戸跡の橋供養碑」
西の木戸跡に文政5年(1822)の橋供養碑と常夜燈の石碑がある。用水に架けられた橋の供養の碑と、常夜燈があったことを示す石碑。

「芭蕉句碑」
八幡宮入口に芭蕉の句碑。寛政2年(1790)秋建立。
      飛登津脱いてう志路に於比奴衣かへ   芭蕉翁
      (ひとつ脱いでうしろにおいぬ衣がえ)
   

「西の出口より坂本宿を望む」
真っ直ぐな宿の道が印象的。後には妙義の岩塊が見える。

西の出口より坂本宿を望む

「八幡宮」
宿の終わりの右手、赤い鳥居とその奥に石段の八幡宮。鳥居脇には道祖神や石祠がある。






坂本から軽井沢へ


「草叢を行く」
八幡宮の先で国道は右へカーブ。街道は真っ直ぐに伸びる草叢の道を行き、坂を鉄はしごで登り国道に出る。

「国道18号を横断」
国道を横断すると中山道口バス停で、そこにはモダンな東屋(あずまや)、『日本の道百選旧中山道』の標柱と地図解説板がある。ここからは街道に沿って『安政遠足』の標識が各所に有るので道に迷う心配はない。

国道18号を横断

「山道に入る」
いきなり松の木坂を登る。かなりきつい。以後全て山道である。

「板状石理」
見事な板状石理の岩に出る。ここで道が大きく曲がる。壁曲と言う。

「大日尊碑」
壁曲のすぐ脇右手に大日尊の石碑や南無阿弥陀仏の石塔などがある。

                 大日尊碑

「のぞきより坂本宿を望む」
難所と言われる刎石(はねいし)坂を登り、三枚石を過ぎると、左手に坂本宿が一望のもとに見渡せる『のぞき』に着く。ここで一休みする。手前の木や草が繁って思うところから撮れない。

のぞきより坂本宿を望む

「馬頭観世音碑」
左に馬頭観世音碑や風穴がある。風穴はいかにも火山地帯と言う独特の地形。

「弘法の井戸」
右手の脇に弘法大師が掘り当てたと言う弘法の井戸がある。

「刎石茶屋跡」
街道の先少し広くなった所、右手が刎石の立場茶屋跡。ここに4軒の茶屋が有った。今でもその石垣等の跡が残っている。名物砂糖餅が売られ茶屋本陣もあった。

「堀切」
馬頭観音が安置された仏岩を過ぎると、左右が深い谷になる。ここは豊臣の小田原攻めの時、大道寺駿河守政繁がこの坂を掘りきって北国勢を防いだ所。

「一里塚跡」
左手に一里塚跡。

                一里塚跡

「座頭ころがし」
あまりの急坂で目の不自由な旅人は転がり落ちたと言われたところ。この登りは応えた。腹は減るし、お茶も少なくなり、心細い限り。自分では今まで空腹をあまり感じた事は無かったが、今度こそ腹減ったーと感じ、横川で峠の釜飯を買わなかった事を悔やんだ。

「山中部落跡」
左からの御巡幸道と合流し釜場の坂を過ぎると山中の部落跡。立場山中村で明治の頃にはここに学校も有った。

「子持山」
山中坂を登り一つ家跡を過ぎて右手に子持山。万葉歌を紹介した立札がある。
  万葉集巻第14東歌中読人不知(3494)
       子持山若かへるでのもみづまで寝もと吾は思う汝はあどか思う

「思婦石、仁王門跡」
接待茶屋が有った笹沢を過ぎ長坂を登る。はつ坂を過ぎると右手に歌碑と解説板がある。思婦石と呼ばれ、安政4年(1857)上州の国学者関橋守が日本武尊の故事を歌ったもの。
       ありし代にかへりみしてふ碓氷山いまも恋しき吾妻路のそら
隣にもう一つの解説板、この場所が神宮寺仁王門跡。

「熊野神社入口」
左の小道の先にある碓氷川の水源を過ごし間も無く峠に着く。立場・峠で今は社家や茶屋などのある熊野神社の小さな門前町と言ったところ。右手石灯籠に狛犬、石段を登った所が熊野皇大神社。脇に安政遠足決勝点の看板。

熊野神社入口

「熊野神社・本殿」
中央の本宮(祭神は日本武尊、伊邪那美命)は上信国境に、右の新宮(祭神は速玉男命)は上州側に、左の那智宮(事解男命)は信州側に鎮座している。

                 熊野神社・本殿

「上信国境石柱」
神社の石段前に上信国境の石標がある。お参りを済ませ向かいの名物力餅の『しげの屋』に飛び込む。力餅と力蕎麦を食べ、渇きと空腹が満たされ、生き返った心地がした。

「道無き道を下る」
神社を後にし、左へ行くと見晴台。その駐車場のところから下りて、数年前に一世紀振りに中山道と確認された幻の道を行く。沢歩きを余儀なくさせられる所も有り、踏み跡を探しながらの下りは難行する。

「聖沢を渡る」
遊歩道に出てやれやれで、聖沢を渡る。

聖沢を渡る

「周囲は別荘分譲地」
所々で別荘の分譲が行なわれている桜沢を下る。しばらく快適な林間を行くとやがて車道に合流する。

「矢ケ崎川に架かる二手橋を渡る」
時々車の往来のある舗装道路を下り、右からの道路と合流して橋を渡る。矢ケ崎川に架かる二手橋。軽井沢に泊まった旅人が飯盛女に送られてここまで来て、名残を惜しみながら東西二手に分かれたと言う所。

「日本聖公会ショウ記念礼拝所・ショウ胸像」
程無く右手、木立の中の教会前に、軽井沢別荘地の開拓者イギリス人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショウの胸像が立っている。

日本聖公会ショウ記念礼拝所・ショウ胸像

「芭蕉句碑」
左手に天保14年(1843)建立の芭蕉句碑がある。
       馬をさへながむる雪のあした哉   芭蕉翁





      軽井沢


    中山道第十八宿 軽井沢宿


      所在地 長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢
      最寄駅 JR長野新幹線軽井沢駅
      本陣1、脇本陣4、旅籠21、総人口451、家数119
      沓掛へ 1里5町(4.5q)


「江戸方桝形に建つ、つるや旅館」
右手つるや旅館が江戸方桝形の跡で、ここからが浅間三宿の一つ軽井沢の宿の始まり。このつるやは昔休み茶屋だった店で明治以降旅館となり、多くの文豪達が泊まったと言われ、玄関には昔の『つるや』の看板が掛かっている。

「わずかに往時を偲ばせる建物」
道は煉瓦舗装され街は原宿の様な雰囲気に変わってしまい、宿の名残を見せるのは左手にある数軒のお店くらい。汗まみれになってやっと辿り着いた街道歩きの旅人とは全く無縁の街となっていたのには驚きと言うか、がっかりである。

わずかに往時を偲ばせる建物

「京方桝形跡のロータリー」
宿の中で本陣の跡や一里塚跡などを探すにも全く手懸かりが無い。異次元の世界に紛れ込んだみたいで、一刻も早くここを脱出したいと言う衝動に駆られる。このロータリーが京方桝形でここまでが軽井沢の宿。右に行くと峰の茶屋、左へ行くと軽井沢駅、そのまま直進すると沓掛へと向かう。





軽井沢から沓掛へ


「雑踏が消える」
ロータリーから沓掛へ向かうと、とたんに人影が消える。

「唐松林を行く」
見事な唐松林で、足取りも軽く、深呼吸をしたくなるような気持。

唐松林を行く

「離山」
右手に離山が近付いてくる。

「日本離れした景色」
右手に北欧風のホテル。これが中山道かと疑いたくなるような、日本離れした景色。

日本離れした景色

「軽井沢資料館」
右から来た国道18号と離山信号で合流する。右手に旧雨宮邸の軽井沢資料館。この辺りで中山道が国道としなの鉄道で分断される。

「しなの鉄道を渡る」
軽井沢中学校前信号で国道を渡り、続いてしなの鉄道の踏切を渡る。初めての道を右折すると中山道の続きとなる。





      沓掛


      中山道第十九宿 沓掛宿


      所在地 長野県北佐久郡軽井沢町長倉
      最寄駅 しなの鉄道中軽井沢駅
      本陣1、脇本陣3、旅籠17、総人口502、家数166
      追分へ 1里3町(4.3q)


「沓掛宿の入口、湯川橋」
前沢の集落を抜け、しなの鉄道をくぐり、湯川に架かる前沢橋のたもとに出る。右手離山の向こうに浅間が見える。湯川橋からこちらが沓掛の宿。戦後の大火で宿の全体を焼失し、駅名も地名も中軽井沢となり、沓掛と言う地名は公式なものから一切抹消されてしまった。なんだか寂しい気がする。

「長倉神社」
宿に入ってすぐ右手石の鳥居に赤い橋、その向こうの森に延喜式内長倉神社。天長年間(824〜834)の創建、本殿は鞘堂に覆われた江戸時代のもの。境内には碑や石祠が多く、なかに沓掛時次郎(長谷川伸の小説の主人公)の碑がある。

「沓掛宿」
宿の通りは何の特徴も無い。この左手奥に脇本陣跡。少し先左が中軽井沢駅

沓掛宿

「沓掛宿中心部」
宿中央の中軽井沢信号。右へ行くと鬼押し出し、正面少し先右が本陣跡。





今回の行程は沓掛宿の中軽井沢駅で終わる。碓氷峠を越えて軽井沢に下ってきたら、一時足が痙攣ガクガクしたが、やがて元に戻り、軽井沢の雑踏を嫌って足早に通り過ぎ、沓掛まで足を伸ばす。軽井沢のロータリーの交番で沓掛への道を確認したら、お巡りさんが歩かれるんですかーと驚きの顔をした。午後から山沿いでは激しい雨になるかもとの天気予報で、心配したが何とか無事歩き終えることが出来た。

17時45分中軽井沢発しなの鉄道で軽井沢へ。草軽の軽便鉄道が有った頃と大違い、軽井沢の駅は昔と大きく変わって新幹線の停車駅。今では横川軽井沢間は在来線が廃止されている。18時10分発JR連絡バスで横川へと下る。およそ36分、この間で雨が降り出す。18時53分横川発信越本線で高崎へ、19時34分高崎発高崎線快速アーバンで上野へ。21時07分上野着。上野から山の手線で東京へ。
八重洲でゆっくりと食事、東京温泉に入るには時間が足らないので今日はパスする。
23時50分発JR夜行バス「伊良湖ライナー」に乗車、途中まで雨、日付が変わって8月28日(火)5時20分豊橋駅前に到着。5時42分豊橋発東海道線で二川へ、5時53分二川発JRバス。6時に帰宅する。豊橋は晴れていた。


     49,714歩
     松井田〜沓掛   25.6q


ページ公開 平成14年12月10日
ページ改良 平成22年11月1日
 写真追加 平成22年11月11日


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