中山道ウォーク その2 平成13年7月26日(木) 鴻巣から熊谷、深谷まで 平成13年7月27日(金) 深谷から本庄、新町、倉賀野まで 初日 7月26日(木) 7月25日(水)、家内にJR二川駅まで送ってもらい、23時01分発の電車で豊橋へ。豊橋23時30分発のJRバス「伊良湖ライナー」に乗車、日付が変わって7月26日(木)5時30分に東京駅八重洲口に到着する。 このバスは初めての体験、座席は3列のフルリクライニングシート。豊橋を出ると神道教前、稲荷公園前に止まって豊川インターから高速へ。新城パーキングで体制を整え、静岡インターで乗務員交代。足柄サービスエリアで時間調整して、東名から首都高へ。霞ヶ関で下へ降りて、日比谷から有楽町、そして東京駅八重洲口バスターミナルに5時30分到着する。 5時39分東京発の京浜東北線で上野へ、6時04分上野発高崎線の電車で北鴻巣へ。 7時身支度を整えていざ出発、前回の終点であった武蔵水路の中宿橋から中山道へ入る。 鴻巣から熊谷へ 「庚申塚」 北鴻巣駅より武蔵水路の中宿橋まで来て中山道に入る。今日はここからスタートする。歩き出して間も無く左手に庚申塚。 ![]() 「地蔵堂」 そして大きく二又に分かれる信号交差点、左に地蔵堂、その前に庚申塔。 「忍道追分」 信号を渡った右に中山道の標石と解説板。右に行くのが行田・忍道と呼ばれる道で、行田を経て日光へ行く道。ここがその追分。中山道は左に道を直進する。 ![]() 「吹上に入る」 中井の辺りが廣重が描いた『鴻巣吹上富士遠望』の場所。周りは青々とした田圃が広がる。しかし今朝は昨夜の雷雨のために水蒸気がいっぱい、空が霞んで遠望がきかない。 「一里塚跡」 前砂に入ると左手の電柱の陰に、史跡一里塚の白い標柱と解説板がある。 ![]() 「妙見地蔵堂」 街道は高崎線の線路に近付き、富士見で右へ踏切を渡る。すぐに左折すると左手に妙見地蔵堂と解説板がある。国道に合流し、左手に吹上駅を見て進む。今朝の出発地の北鴻巣駅からここまで来ても朝食を取れる所が一つも無い。止む無くコンビニでサンドイッチと缶コーヒーを買って済ませる。 「吹上神社」 吹上は立場があった所で、近年まで茶屋本陣が残っていたとか。本町交差点で左折すると、右に東曜寺と吹上神社がある。その前を大きく右にカーブするように進んでゆく。 「中山道間の宿碑」 榎戸陸橋で高崎線を跨ぐ。足元に中山道間の宿の標石と吹上間の宿の解説板がある。 ![]() 「権八延命地蔵」 道の行く手に土手が見える。その土手に上がる手前左手に地蔵堂がある。『白井権八ものいひ地ぞう』と言われ地蔵にまつわる伝説が有る。権八がこの寂しい堤で信州の絹商人を切って金を奪った。そばに立っている地蔵に『今見た事は誰にも言うな』と呟いて通り過ぎようとすると『私は言わぬが、お主も言うな』と地蔵が答えた。 「熊谷堤」 土手を上がると荒川。ここから久下までの2.7qが熊谷堤。嫌になる程遠くまで見渡せる。天正2年(1574)鉢形城主北条氏邦が荒川の氾濫に備えて築いたもので、江戸時代は美しい桜並木が有って花見で賑わったと言う。今は木の一本も無い。海まで72.0qの標識。こんな所で雷雨に出くわしたらどうなる事かと、思っただけでもぞっとする。歩いても歩いても景色が変わらない。 ![]() 「久下神社」 熊谷堤を下った所が久下。鎌倉時代には、熊谷次郎直実の伯父にあたる久下権守直光の領地であった。直光との領界争いに敗れて直実が出家したと言われている。右手に久下神社、久下村の鎮守であった。 ![]() 「久下の旧家」 久下の集落の右手には白壁土蔵に門構えの立派な家がある。荒川舟運の物資の集散地として賑わった時の名残か。 「工事中の橋」 現在の仮橋に変わるべく大掛かりな工事が行なわれている。 「権八地蔵」 道が再び土手に上がる手前右手にまたも権八地蔵。こちらは元禄11年(1698)の造立。先の地蔵と同じ伝説が伝わっている。 ![]() 「久下の仮橋」 左手の荒川に幅2メートルばかりの架設の橋。車がやっと通れるくらいで勿論交互通行、今時こんな橋が使われているとは・・・。これで結構交通量がある。 「みかりや跡」 土手から下った住宅の塀の上に説明板。ここに茶店が有って久下柚餅子が名物であった。忍藩の殿様が鷹狩に来ると、ここで休んだので御狩屋と呼ばれた。 ![]() 「東竹院」 しばらく住宅街を行く。左手に東竹院、久下村の領主久下一族の墓が有る。 「元荒川ムサシトミヨ生息地」 左手の小川に解説板。綺麗な湧き水に生息する淡水魚で、雄が水草で巣を造り稚魚が巣立つまで巣と子供を守る。県の天然記念物に指定されている。 「八丁の一里塚跡」 元荒川通りを越え、八丁を過ぎ、曙町の右手公園内に一里塚跡の解説板。 ![]() 「秩父鉄道、上越・長野新幹線・高崎線と交叉」 道はやや右にカーブし、秩父鉄道、高崎線を踏み切りで渡り、上越・長野新幹線のガードをくぐる。左手に熊谷駅が見える。 ![]() ![]() 中山道第八宿 熊谷宿 所在地 埼玉県熊谷市本町 最寄駅 JR高崎線熊谷駅 本陣2、脇本陣1、旅籠19、総人口3,263、家数1,075 深谷へ 2里半9町(10.8q) 「熊谷駅前の熊谷次郎直実の騎馬像」 街道から左に外れ熊谷駅前に寄り道する。駅前には熊谷次郎直実の立派な騎馬象が立っている。ここでお昼になり昼食をとって小休止する。 ![]() 「高城神社」 街道は踏切を渡って宿に入り、国道17号に突き当たり左折して合流する。市役所入口交差点の先右手に神社の大きな石碑と石の鳥居。大里郡の総鎮守で熊谷次郎直実の氏神。 「札の辻跡碑と解説板」 市駐車場入口の信号左手の歩道上に札の辻跡の碑と解説板。ここに高札場が有った。 「本陣跡碑」 鎌倉町交差点の手前左手熊谷寺バス停脇に本陣跡碑と解説板。ここに本陣竹井家が有ったが、明治17年(1884)の火災と昭和20年(1945)の戦災で灰燼と化し跡形も無い。 ![]() 「宿中心部・本町付近」 本陣跡から見た宿の中心部。道は国道で左手が本陣の跡、右手先には八木橋デパートが建っている。 ![]() 「熊谷寺」 鎌倉町交差点を右に入ると、正面に直実ゆかりの寺、熊谷寺がある。ここに熊谷館があって永治元年(1141)に直実が誕生する。都で法然の弟子となり蓮生坊と名乗った後熊谷に戻り館跡に庵を結んで修行に励み、承元2年(1208)ここで亡くなる。関東では数少ない大きな伽藍や庭園が有って、本堂の横に直実の墓と伝えられる宝篋印塔がある。 ![]() 「旧中山道跡碑」 その先右手の八木橋デパート前に旧中山道の大きな碑がある。旧道は鎌倉町交差点から熊谷寺と国道の間を斜め右に入っていた。その中山道の真上に今八木橋デパートが建っている。 「旧中山道跡碑」 八木橋デパート西口玄関前にも旧中山道の碑がある。この先一番街となって道が続く。 「八坂神社」 静かになった町並みを行くと右手に八坂神社。この辺りで宿が終わる。再び国道と合流し深谷へと向かう。 熊谷から深谷へ 「秩父道道標3基」 国道に出てしばらく進み、石原北交差点の左手前歩道橋下に秩父道の道標が3基並んで立っている。いずれも県指定文化財。 ![]() 「秩父道道標の解説」 左 明和3年(1766)の碑 ちゝぶ道 しまぶへ十一り 右 弘化4年(1847)の碑 寶登山道 中央 安政5年(1858)の碑 秩父観音巡礼道 これより十一里 「植木の一里塚」 国道を進み熊谷警察署前を過ぎ植木バス停手前で左に分かれる。分かれてすぐ右に大きなケヤキが立っている。これが植木の一里塚、道の両側にあった有ったのだが今は片方しか残っていない。この欅は高さ12m、幹の周り3.6m、樹齢およそ300年と言われる。 ![]() 「忍領領界石」 街道の左手に安永9年(1780)に立てられた領界石がある。忍城主が領地の境界を示す為に立てたもので『従是南忍領』と刻まれたいる。 ![]() 「大雷八公道標」 右に『だてんばく』と言う変わった名前の神社への道標。昔の石原村の鎮守で、今は大雷神社になっている。 「新照寺」 左奥に新照寺の山門が見える。住宅地を抜け田園地帯に入り左の農林総合研究センター先で国道に合流。玉井歩道橋で向かいへ渡り今度は右へ分かれる。 「高柳茶屋」 国道から分かれ右に老人ホームを見て進み、バイパスへの道を越える。左にバス停高柳、ここには昔茶屋が有ったところ。 「不動堂と庚申塚」 右に玉井台団地、ここを過ぎた所のコンビニで小休止する。手や顔を洗いちょっとした飲食が出来るコーナーが有って便利。左手に不動堂と玉井邑の庚申塚。 「馬頭観音」 左に馬頭観音。馬への感謝と祈りが込められている。新堀交差点を左に行くと籠原駅。 「熊野神社」 深谷市東方に入り右手に熊野神社の石の鳥居。 ![]() 「愛宕神社」 道は銀杏並木となり右手に愛宕神社。 「深谷市街地」 街路が並木で整備されている。 「見事な銀杏並木」 歩道も敷石が敷き詰められ心地が良い。 ![]() 「深谷市中山道ふるさとの並木道解説板」 昔深谷宿の外れには松、杉合わせて400本も有ったと言われたが、今では見返りの松だけとなってしまった。そこで中山道拡幅に合わせて並木の復元を計り、ふるさとの並木道に指定された。銀杏、黒松、欅が植えられている。 「見返りの松」 街道は原郷交差点で国道と交差する。その左手前に有るのが見返りの松。樹齢300年とも500年とも言われる。根元に由緒を記した碑がある。深谷の宿に泊まった旅人が江戸に向かうとき、前夜契りを交わした女達との別れを惜しんだと伝えられる。 ![]() ![]() 中山道第九宿 深谷宿 所在地 埼玉県深谷市深谷 最寄駅 JR高崎線深谷駅 本陣1、脇本陣4、旅籠80、総人口1,928、家数524 本庄へ 2里半7町(10.6q) 「東の常夜燈」 国道を横切った先も少し銀杏並木が続く。並木の終わり、街道の右手に高さ4mの大きな常夜燈がある。ここが江戸方で西の常夜燈まで1.7qが深谷宿。 「だいまさ」 左手に土蔵のある昔風の米屋だいまさ、宿場時代からの建物で今も仕事を続けている。蔵の白い壁に大政の文字。 ![]() 「深谷まつりの準備」 稲荷町交差点。深谷祭りの準備が行なわれている。5層に懸けられた提灯の壁がお祭ムードを盛り上げている。 「行人橋」 唐沢川に架かる橋が行人橋。橋のたもとに由来を書いた碑が立っている。 「本住町交差点・深谷城入口」 この交差点を右に行くと深谷城跡がある。城址公園になっている。 「宿中心部・仲町」 仲町交差点を左に行くと深谷駅。仲町から本町、宿中心部方面を見る。右手には古い造りの酒屋さん。 ![]() 「本陣跡」 深谷交差点の先右手に飯島印刷、ここが飯島本陣跡。 「深谷本陣遺構解説板」 駐車場脇に深谷本陣遺構の解説板が立っている。飯島氏は宝暦6年(1756)から本陣職を務めたとある。裏手には上段の間等屋敷の一部が残っているとか。 ![]() 「古い建物」 本町の右手に昔旅籠屋であったろうと思われる家がある。連子格子や土蔵等がそれを思わせる。 「酒屋」 右手に酒屋、白壁の蔵に酒林、宿場の風情が感じられる。 「造り酒屋」 西の常夜燈のそば左手に造り酒屋。銘酒菊泉醸造元とある。酒蔵と煉瓦造りの煙突がレトロな感じ。 ![]() 「西の出口の枡形」 西の出口の桝形に京方の常夜灯がある。しかし常夜燈は祭り提灯で隠れてしまっている。桝形の左に呑龍院。その先左に田所町会館がありお祭りの準備中。会館の前に屋体が置かれ中から賑やかな祭囃子が聞こえる。初日の行程はここまでとして、少し早いが時間ではあるが引き返して深谷駅へと向かう。 ![]() 15時38分深谷発JR高崎線で熊谷に戻る。 事前にインターネットで探し予約しておいたホテルへ16時にチェックイン。思っていたより質の良いホテル。真っ先にバスタブへ、全身シャンプーで汗を流す。夜はそばのファミレスで済ます。
47,925歩 鴻巣〜深谷 27.3q ページ改良 平成22年10月31日 写真追加 平成22年11月9日 表紙へ 目次へ ホームへ 次へ 掲示板へ |