馬籠


    中山道第四十三宿 馬籠宿


     所在地 長野県木曽郡山口村
     最寄駅 JR中央本線中津川駅よりバス
     本陣1、脇本陣1、旅籠18、総人口717、家数69
     落合へ 1里5町21間(4.5km)


「高札場」
陣場から石畳道を下ると左手に復元された高札場がある。ここから見下ろす馬籠の宿は文字通り坂の街である。バス道を横切って続く馬籠の宿が見渡せる。

高札場


「中山道馬籠宿碑」
高札場の向かい、上但馬屋の前に『中山道馬籠宿』の大きな石碑がある。『京江五十二里半、江戸江八十里半』

「振り返って見た馬籠宿の家並」
バス道を渡り宿の中心部へと向かう。観光客の姿が見える様になり賑やかな観光地としての馬籠の顔が見えてくる。宿は下り坂になっていて両側には一段づつ石垣を積んでその上に家が建てられている。そのため上から見るより、下から振り返って見る方が眺めが良い。宿に入ってホッとした。一息吐くために左手にあるお店に入りコーヒーを飲む。濡れたザックや足元を拭いて旅装を調える。

振り返って見た馬籠宿の家並

「馬籠宿脇本陣資料館」
宿の中程、右手に馬籠脇本陣資料館があり、前に『馬籠宿脇本陣跡』の説明板と山口誓子の句碑がある。八幡屋こと蜂谷家脇本陣跡で、建物は明治28年の大火で焼けたが蜂谷家の古文書や民具、木曽五木等が裏手の資料館に展示されている。八幡屋は馬籠で初めて酒を造ったという家で金貸しもしていた。初代から4代約100年書き継いだ覚書が藤村『夜明け前』の重要資料となった。

馬籠宿脇本陣資料館


「大黒屋」
脇本陣の1軒おいて先の大きな酒林を吊るした家。酒造りをしていたが今は民芸と喫茶の店大黒屋。前回来たときはここで食べたので、今回は民芸品の花篭を記念に買う。大黒屋の十代目大脇兵衛門信興が文政9年(1826)から明治3年まで書き続けた日記、大黒屋日記が藤村の『夜明け前』執筆のきっかけになった。藤村初恋の人おゆふさまはここ大黒家の娘であった。

大黒屋

「藤村記念館」
大黒家の隣が島崎本陣の跡。藤村の生家、島崎家は馬籠城主島崎監物の子孫で本陣、問屋を勤めかつては代官と呼ばれていた。黒板塀に冠木門、門の奥の白壁に藤村の言葉『血につながるふるさと・・・』。中に記念館と記念堂、裏には隠居所建物や井戸があり、博物館相当施設としなっている。以前に2度来ているので中へは入らず。向かいには観光案内所、隣には藤村長男経営に旅館四方木屋の出店、四方木屋民芸部がある。

藤村記念館


「宿の中心部」
中心部から落合方面を見る。妻籠とは違って宿の中に緑が多い。また前の用水から水を引いて鯉などを飼っているのも目に付く。雨が止んできた。この先で右に入る小道があり、寺道と言う。突き当たり小高いとこるに西沢山永昌禅寺。馬籠本陣の墓地がある。

「槌馬屋資料館」
宿の左手に槌馬屋資料館。ここ槌馬屋島崎家は隣村の庄屋を勤めた家で、藤村の父正樹(小説では青山半蔵)の自筆文献を所蔵している。資料館の向かいには立派な卯建の上がった家がある。

槌馬屋資料館


「清水屋資料館」
槌馬屋の先左手に清水屋資料館。原家清水屋は宿役人を勤めた家で藤村の書簡や宿場の古文書を展示している。

清水屋資料館

「桝形」

何度も見慣れた馬籠の桝形。ここから左へカーブしながら坂を下るのが新道で、真っ直ぐに石段を下りて左に折れるのが復元された旧道。下へ下る石段の右手には水車小屋、左上には常夜灯が立つ。

「桝形の水車と常夜灯」
正面に水車小屋、右には石組みの上に常夜灯が立っている。

「桝形から見上げる」
中山道が急な山の尾根を通っていることから『坂に開けた宿』で、この桝形は城郭を想わせる。水利が悪く風が吹き上がるため、しばしば大火に見舞われ、なかでも明治28年と大正4年の大火で江戸時代の民家はほとんど焼失した。

桝形を見上げる

「車屋坂碑と桝形の解説」
桝形で直角に折れた先が急坂で、車屋坂の標石が立っている。左手に馬籠の宿場と桝形の詳しい解説板がある。


「車屋坂を見上げる」
京から来る時は先ずこの坂を上がる事になる。相当きつい。バス道路の交差点に来ると時代が江戸から平成へと急に変わる。大きな駐車場や土産物、食堂の入った観光施設が建ち並ぶ。昼になったのでこの駐車場の奥にある蕎麦の店『まごめや』に入る。冷たいやまおろし蕎麦が美味しかった。

車屋坂を見上げる





馬籠から落合へ


「丸山の坂碑と馬籠城址」
12時30分、すっかり汗もひいて爽やかな気分で落合に向け出発。小降りではあるが未だ雨は止まない。宿からバス道を横断、お土産施設の間を直進する。急に人影が無くなり元の静かな街道に戻る。下り坂の道、次の集落が荒町。右手に『丸山の坂』の標石と『馬籠城跡』の解説板。

丸山の坂碑と馬籠城址

「庚申塚」
左に庚申塚や多くの石仏がある。

「諏訪神社」
集落の中程左手に諏訪神社。

諏訪神社

「島崎正樹の碑」
諏訪神社の鳥居に傍らに『島崎正樹翁碑』。『夜明け前』の青山半蔵のモデルである正樹を記念するもので、次男の広助の奔走により明治45年に立てられた。

島崎正樹の碑

「子規の碑」
中のかやバス停前右手に正岡子規の句碑がある。
       桑の実の木曽路出れば穂麦かな     子規

「中津川盆地を一望」
子規の句碑のあるところから右手に視界が広がり、落合、中津川方面が一望出来る。

中津川盆地を一望


「芭蕉句碑」
立場のあった新茶屋の左手、小さな池のほとりに芭蕉句碑。
       送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)     芭蕉
裏には天保13年壬寅(1842)水無月建之、哀梅園古狂とあり、大黒屋が立てたもの。

「是より北木曽路の碑」
芭蕉句碑のすぐ先左手に藤村の筆による『是より北木曽路 藤村老人』の碑。藤村記念堂落成10周年の記念に昭和32年に立てられたもの。贄川の手前の桜沢からここ神坂までの二十余里、木曽路はここで終わる。

是より北木曽路の碑


「信濃・美濃国境碑」
木曽路の碑の向かい、一里塚の脇に『信濃・美濃国境』の碑が立っている。道はここから岐阜県中津川市に入り、美濃路の旅となる。

信濃・美濃国境碑

「一里塚古跡の碑」
塚のそばに一里塚古跡の碑と解説板がある。

「中山道、中津川宿・落合宿、石畳の解説板」
100m程でバス道は右へ分かれ、右手に大きな解説板がある。ここから石畳道となり木立の中に入ってゆく。左の碑には『岐阜県中山道落合石畳』、難所と言われた十曲峠で長野県と岐阜県の県境である。

中山道、中津川宿・落合宿、石畳の解説板

「落合の石畳」
素晴らしい石畳、カーブの先、更にそのカーブの先へと石畳が続く。中山道の中でも最高の景色である。

落合の石畳


「なんじゃもんじゃの杜碑」
左手に碑、非常に珍しいなんじゃもんじゃの木の森である。これは学名をヒトツバダコと言いモクセイ科の落葉高木。本州中部木曽川流域に分布する。

「石畳」
更に石畳は続く。殆どが復元されたものであるが、往時の気分になって歩くのには最高の気分。およそ800mの区間であったが随分と長く感じた。

石畳

「医王寺」
石畳を抜けると中山の集落、左手に瑠璃山医王寺がある。本尊薬師如来は行基の作と伝えられ、虫封じの薬師として信仰を集め、江戸時代には旅人相手に『きつね膏薬』を売っており、刀傷に特効があったという。

医王寺

「芭蕉句碑」
医王寺の境内に嘉永6年(1853)建立の芭蕉句碑がある。
       梅が香にのっと日の出る山路かな     芭蕉
この辺りで完全に雨が止む。日傘代わりに差してきた傘も畳んでリュックにしまう。あ〜良かった。

「落合川の下桁橋」
医王寺から道なりに急坂を下ると、落合川に架かる下桁橋を渡る。

「落合川」
下桁橋から見る落合川、上流に砂防堰堤があり、簾のように涼しげに水が落ちている。

落合川


「道標」
橋を渡って上り坂、途中に道祖神や『右飯田道・左御嵩道』の道標や『右神坂ヲ経テ飯田町ニ通ズ』の道標が立っている。





     落合


    中山道第四十四宿 落合宿


     所在地 岐阜県中津川市
     最寄駅 中央本線中津川駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠14、総人口370、家数75
     中津川へ 1里(3.9q)


「落合宿高札場跡」
坂を上って県道を横断する。その左手前に『落合宿の高札場跡』の標石が立っている。このアングルは県道を渡ってから振り返ったもの。後方の赤い橋は中央自動車道。

落合宿高札場跡碑

「上の桝形」
県道を横切って、左にカーブしながら坂を上ると桝形で、角に常夜灯がある。

上の桝形


「常夜灯」
この常夜灯は寛政4年(1792)の建立。この上の桝形から向こうの下の桝形まで約390m、中程に本陣、脇本陣がある。

「落合宿脇本陣跡」
宿の左手『落合宿脇本陣跡』の標柱が立っているのが脇本陣の塚田家。問屋、庄屋も兼ねていた。建物は新しいものに建て変わっている。

落合宿脇本陣跡

「落合宿本陣跡」
向かいの門構えの家が本陣の井口家で問屋、庄屋も兼ねていた。文化12年(1815)の大火の後に再建された中山道でも現存する数少ない本陣建築。この門は加賀藩から火事見舞いとして贈られたものという。門前に『落合宿本陣』の標石と『明治天皇落合御小休所』の石碑が立っている。

落合宿本陣跡


「宿の中心部」
本陣と脇本陣を中心に旅籠14軒、総家数75軒が軒を連ねていた。

「格子造りの民家」
格子に白壁の民家が落ち着いた宿の雰囲気を醸し出している。

格子造りの民家

「桝形と道標」
右手善昌寺があるところが下の枡形。今、宿の道はそのまま国道19号に繋がっているが、昔はここで行き止まり、左に折れて中津川へと向かった。左の角に大きな石の道標『左至中仙道中津町1里』とあり大正11年の建立。道標にしたがって左折する。

桝形と道標






落合から中津川ヘ


「おがらん橋とおがらん四社」
道なりに進むと国道19号線を跨ぐおがらん橋に出る。橋の向こう右手に石段、灯篭、石の鳥居が見える。

おがらん橋とおがらん四社

「おがらん四社の鳥居」
神社の名前が『おがらん四社』、おがらんとは小高い所の意、愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社の四社で、ここは落合五郎兼行の館跡。

「与坂立場跡」
道なりに進むと今度は国道19号をくぐって再び南側へ、ここからは急な上り坂。与坂を上がる。こんな坂道で暮らす人はどの様にしているのだろうか。お年寄りや子供達、車を利用出来ない人達の苦労を思う。坂を上りきった所に立場跡の碑。昔は越前屋という茶屋があり餅を売っていた。

与坂立場跡


「急坂を下る」
今度は急坂を下る。迂回路は無かったのかと思う。

「子野の一里塚跡」
左手に子野の一里塚碑。草叢の中に碑が立っているだけ。

子野の一里塚跡

「覚明神社」
また坂を上って右手、玉石垣の上に覚明神社。覚明とは木曽御嶽講の開祖で、天明5年(1785)木曽御嶽を開くために中山道を通った覚明がここにあった茶屋に泊ったのを記念して建てたという。

覚明神社

「地蔵堂石仏群と枝垂れ梅」
再び坂を下ると地蔵堂川の手前左手に地蔵堂の石仏群。庚申塔や色々な石仏が集められ大きな枝垂梅もある。この辺り急な坂の連続、上り下りが激しい。どうしてこんなルートになったのか。家内はダラダラ歩くとかえって疲れるといって早足で歩くが、大丈夫かとちょっと心配。

「秋葉山常夜灯」
坂を上がって住宅地に入り、国道を地下道でくぐる。間もなく左手に秋葉大権現の常夜灯。

「尾州藩白木改番所跡」
続いて右手に番所跡の碑。ヒノキ等木曽五木を取り締まった役所の跡。

尾州藩白木改番所跡

「芭蕉句碑」
坂を下る途中左手に旭ヶ丘公園があり、藤村『夜明け前』に別名で登場する本陣、問屋、庄屋などを勤めた中津川宿の旦那衆の句碑や芭蕉の句碑などがある。
       山路来て何や羅遊かし寿み連草   芭蕉
この辺りを茶屋坂と言い、前方に中津川宿を見下ろすことができる。





     中津川


    中山道第四十五宿 中津川宿


     所在地 岐阜県中津川市
     最寄駅 JR中央本線中津川駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠29、総人口928、家数228
     大井へ 2里半(9.8q)


「高札場跡」
更に坂を下って県道を渡り、階段を下りると、東屋、中山道中津川宿絵図、復元された高札場と常夜灯、二十三夜塔等がある。ここが宿の入口である。ここで右にカーブして宿中心部へと向かう。

高札場跡


「正善院」
すぐ左手に正善院。

「新町交差点」
300mで駅前通の交差点、右にJR中津川駅が見える。この先一方通行で街路樹、色レンガ舗装、いろいろなモニュメントが置かれた繁華街となる。家内は歩き疲れた様子で、駅が見えたらもうこの先には興味なく、『わたし駅で待ってるから、一人で行ってきて〜』とのこと。折角だから宿中心部を見ておこうと、一人で先へと進む。

新町交差点

「格子造りの民家」
宿場らしくなってきた。

格子造りの民家

「前田青邨画伯生誕之地碑」
右手に『前田青邨画伯生誕之地』と刻んだ銅版のはまった石碑がある。

「大正の蔵」
少し行った左手に間家の大正蔵がある。東濃一の豪商と言われた間家の屋敷内に有った倉庫の一つで市の有形文化財。中津川商人の資料や宿の資料が展示されている。

「中津川宿往来庭」
右手、向かいに街の博物館の往来庭。

中津川宿往来庭

「四ツ目川橋」
四ツ目川に架かる真新しい橋四ツ目橋を渡る。宿の中央を流れる川でよく氾濫し今の川筋が四番目と言う。宿場の橋らしくデザインされている。ここから先が本町通で宿の中心。

四ツ目川橋

「秋葉神社」
橋を渡ったすぐ左手に小祠。昔は街道の中央に防火の為の用水が作られていて、その東端に秋葉山が祀られていた。

「中津川宿脇本陣跡」
左手NTTビルの横に『中津川宿脇本陣跡』の標柱。

中津川宿脇本陣跡

「中津川宿本陣跡」
右手、脇本陣跡の向かいに『中津川宿本陣跡』の標柱と本陣見取り図と解説板がある。この宿には本陣、脇本陣、庄屋と問屋場2ヶ所が置かれていた。

中津川宿本陣跡
   


「本陣、脇本陣跡、庄屋跡の解説板」
NTTの道を隔てた隣、庄屋屋敷の塀に『中津川宿本陣、脇本陣、庄屋跡』の解説板が掛かっている。

「旧肥田家庄屋屋敷」
卯建の上がった堂々とした二階建ては中津川村の庄屋の屋敷で当時の面影を伝える貴重な建物。

旧肥田家庄屋跡


「中津川村庄屋跡碑」
屋敷の前に『中津川村庄屋跡』の標柱と解説板が立っている。

「桝形」
桝形で左に曲がると本町から横町になる。

「川上屋のある古い町並み」
横町には古い家並が残っていて、その中に元治元年(1864)創業『栗きんとん』で有名な川上屋がある。川上屋の前に『右木曽路、左なごや』の道標がある。

川上屋のある古い町並み

「十八屋」
横町右手、川上家の先に十八屋間家。江戸中期に建てられた家で、皇女和宮のお供も泊ったという。

十八屋


「天満屋」
横町左手、天満屋古井家。築後150年以上、格子や軒の低さ、瓦のない屋根が宿の家並を想像させてくれる。

天満屋

「式内恵奈山川上道碑」
横町から下町に曲がる所に立つ道標で、慶応元年(1865)建立。延喜式内社恵那神社へ向かう道を川上道(かおれ道)と言い、細い野道でであったと言われている。

「卯建のある家並」
右に曲がった下町の左手に卯建の上がった家が並ぶ。

卯建のある家並


「卯建のある家並から中津川橋を望む」
桝形を出ると、この先は中津川に架かる中津川橋に至る。

「卯建のある家並を振り返る」
卯建の上がった家に白い蔵、赤い郵便ポストが良く似合う。ここは清酒恵那山の蔵元で一部をギャラリーとして公開している。





雨の中をスタートした今日の行程、馬籠、落合、中津川と見所多く、変化に富んでいたので、雨はそんなに苦にはならなかった。午後には上がってカンカン照り、与坂から子野辺りの上り下りは正直きつかった。中津川宿は一人で見て、急いで駅へと戻る。1548分、ワイドビューしなの18号の発車時刻。大慌てで家内を見付け、切符
も買わずにホームへ駆け込む。そこへ列車が到着。幸い二人並んで席がとれた。


今日はサッカーワールドカップ、決勝トーナメント1回戦、日本対トルコ戦の日。様子が気になる。名古屋で乗り換えた新幹線480号の車中で、日本前半に1点入れられるの速報。1726分豊橋駅着、新幹線待合室のテレビに人だかり、ちょうどゲームが終わったところ。残念、日本敗退ちょっとがっかりした気分で家路につく。


     34,416歩
     大妻籠〜中津川    14.3q


ページ公開 平成15年2月24日
ページ改良 平成22年11月5日
 写真追加 平成22年12月6日


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