中山道ウォーク その9


平成14年7月30日(火)     中津川から大井まで


盛夏、夏の真っ最中である。今年は7月に台風が二つも接近し異常な年と言われたが、月末になって天気が安定し連日猛暑続き、今年の最高気温の更新が毎日のニュースになっている。

前回は家内と二人で三留野から中津川までを歩いたので今回はその続きを一人で歩く。中津川から先の行程は、宿間距離、交通の便、宿泊施設から考えると、先ずは中津川から大井までを日帰りコースでこなし、次に大井から十三峠を越え細久手で泊まり、翌日は伏見か太田あたりまで歩くのが最善と思われる。今回の日帰りはちょっと贅沢な気もするが、真夏で日陰の無い時季だけに無理をしないためにも許して頂く事にしよう。





7月30日(火)


今日からは再び単独行に戻る。天気も安定し予定の入っていないこの日を選んで決行する。7時40分のJRバスで豊橋へ、8時20分発JR東海道本線特快で名古屋へ、9時30分発JR中央本線セントラルライナー1号で中津川へ、10時32分中津川着。駅で身支度を整え、正面の道を進み、新町の信号交差点を右折して中山道に入る。暑い、カンカン照りである。

今朝の新聞一面記事は住基ネット市町村稼動へ戸惑いとあり、プロ野球阪神は依然2位を保っている。





     中津川


    中山道第四十五宿 中津川宿


     所在地 岐阜県中津川市
     最寄駅 JR中央本線中津川駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠29、総人口928、家数228
     大井へ 2里半(9.8q)


「旧肥田家庄屋屋敷の卯建」
中津川駅から来ると再び宿を通ることとなるので、今度はこの宿の特徴である家々の卯建をじっくり観察して歩くことにする。この庄屋屋敷の卯建は妻の部分が板壁になっている。

旧肥田家庄屋屋敷の卯建

「白木屋横井家の卯建」
比較的高く上がっており白壁が塗られている。

白木屋横井家の卯建

「桝形角の家の卯建」
比較的低く、瓦の文様などそれぞれに表情が違う。

「蔵元の卯建」
ここは3軒が軒を連ねており、それぞれに卯建が上がっていて壮観である。

蔵元の卯建

「川上屋の前の道標」
川上家の前にある道標。『右木曽路、左なごや凡二十三里』とあるがこれは他から持ってきた物だとか。

「横町の家並」
川上屋がある横町通りの家並には台灯籠や解説板があり時代を感じさせる良い眺めである。

横町の家並

「下町の家並」
桝形で曲がった下町には清酒『恵那山』の蔵元はざま酒造があり、酒遊館として内部を公開している。何処の街でもそうだが造り酒屋のある街は、どこから見ても絵になる。

「下町の常夜灯」
宿の出口に当るあたり、右手に常夜灯が二つと『下町かいわい』の解説板がある。ここにも高札場が有ったとか。

下町の常夜灯

「中津川橋」
宿を出ると中津川に架かる中津川橋を渡る。昔は川上川(かおれがわ)と川上川橋(かおれがわばし)と呼ばれた。廣重の『木曽海道六拾九次の内中津川』でこの橋が描かれている。

中津川橋





中津川から大井へ


「津島神社参道石碑」
中津川橋を渡って柳町を過ぎ、道が左に折れる右手に『津島神社参道』の石碑がある。

「石屋坂の石仏」
左に折れて石屋坂を少し上った右手に四つの石仏があり、その中の三つが馬頭観音。

石屋坂の石仏

「駒場村の高札場跡」
県道を渡ると駒場の集落。左手に『駒場村の高札場跡』の碑と建物の板壁に最近作られた高札が3枚掛かっている。

駒場村の高札場跡

「東山道道標」
右手に道標、道標の中央に東山道坂本駅、右に阿智駅、左に大井駅とある。その先に『米田川』の碑、これに架かる橋が上宿橋。

「中山道駒場村道標」
橋を渡って間もなく左手に道標。道標の中央に中山道駒場村、右、大井宿、左、中津川宿。

中山道駒場村道標

「小手ノ木坂」
やがて道はヘアーピンカーブにさしかかる。右手に『中山道小手ノ木坂』の碑。街道は二つのヘアーピンカーブを串刺しのようにして階段で進む。上がった所が上宿。

小手ノ木坂

「小手ノ木坂の石仏群」
坂を上りきった右手に小手ノ木坂の石仏群がある。

「双頭一身道祖神」
その中に市の文化財に指定されている珍しい道祖神がある。男女別々の頭を持ち肩から足元にかけて一体となっている双頭一身道祖神。左上に苗木道と彫られており道標を兼ねていたもの。

双頭一身道祖神

「上宿の一里塚跡」
石仏群のすぐ先右手に一里塚跡、ここは江戸から85番目。塚の上に『史跡中津一里塚趾』の碑、側に『上宿の一里塚跡』碑と解説板、『明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟』の碑が建っている。

上宿の一里塚跡

「小石塚の立場跡」
しばらく進んで右手に『小石塚の立場跡』、ここは碑が立っているだけ。

「嵐讃岐の板碑」
やがて道は行き止まりとなる。その右手少し高いところに板碑と言う珍しい墓がある。寛永3年(1626)に建てられたもので、この人物は戦乱で焼かれた千旦林の八幡神社の再建に尽した人とか。

「消えた中山道」
道の突き当たりに解説板があり、国道19号、国道257号、中央道中津川インターの合流のため約400mの区間で中山道が無くなったことが記されている。ガイドに従って鉄道線路沿いに歩き、インターの取付け道路を半円状に迂回すると、再び旧道が現れる。

消えた中山道

「六地蔵」
静かになった道を進むと、右手に六地蔵がある。この六地蔵は石幢と呼ばれ灯篭のような形の6面に彫られている。昔大林寺と言う寺があり、その入口に立てられたもので、明暦3年(1657)の建立。脇の『南無阿弥陀仏』の碑は明治の廃仏毀釈で壊されたのを修理してあり、寛政の年号が読める。突然路線バスが停まった。ここはバス停で親切な運転手さんが停めてくれたのだった。

六地蔵

「坂本神社入口」
少し先、右手に入る道の両側に常夜灯と『式内坂本神社八幡宮』の石柱。ここは坂本神社の入口で奥に石の鳥居が見える。鳥居の先にJRの踏み切りがあり、ちょうど警報機が鳴り出して電車が来た。

「千旦林村の高札場跡」
その先右手、花畑の中に『千旦林村の高札場跡』の碑がある。ここには札の辻と言う地名が残っている。

千旦林村の高札場跡

「石仏」
東巣川の大藪橋を渡ると左手に2体の石仏がある。その片方は馬頭観音。ここで道は二手に分かれる。直進する広い綺麗な道はJR美乃坂本駅への道、旧道は左手に進む。田畑が有り街道らしい風情のある道である。

「将監塚」
右手に将監塚の解説板と常夜灯がある。「しょうげんづか」とか「しょうぐんづか」とも呼ばれ美濃国二代目代官の岡田将監の名前から来たと言われている。

将監塚

「宝篋印塔」
常夜灯の奥、茂みに隠れるような小さな宝篋印塔がある。岡田将監に関係のある人の墓とされている。

「三ツ家の一里塚跡」
右手草叢の中に『三ツ家の一里塚跡』の標石、このままではすぐに草に覆われてしまいそう。

三ツ家の一里塚跡

「坂本立場跡」
坂を上りきって交差点の右手向こうに『坂本立場跡』の標石。ここから先、藪の中の急坂を下る。

坂本立場跡

「坂本の石仏群」
坂を下ると左手に石仏群がある。

「坂本観音」
右手に坂本坂の馬頭観音と言われる観音様があり、道路際に『坂本観音様』の由来を彫った石碑が立っている。

「尾州白木改番所跡」
その先右手に番所跡の石柱と解説板がある。

尾州白木改番所跡

「茄子川小休所」
美乃坂本駅から来た道と出会い東町に入る。しばらく行くと左手に門構えの立派な屋敷がある。門の脇に『明治天皇茄子川御小休所、御膳水』の碑が立っている。

「茄子川村庄屋篠原家」
これが旧茶屋本陣の篠原家で村方役人や庄屋を代々勤めた。中津川から大井までが2里半6町(約10.5q)もあったので多くの旅人がここ茄子川立場で休息したと言われている。

茄子川村庄屋篠原家

「秋葉道常夜灯兼道標」
篠原家の横から左に折れる道がある。これは秋葉山道と言われ、道の両側に安永5年に立てられた秋葉大権現の常夜灯兼道標が立っている。

「茄子川焼窯場跡」
左手に解説板、天正6年(1578)に始まり明治末頃まで続いた窯で、木曽、伊那、松本方面に販路を持ち村の重要産業であった。

「市境にある中山道碑」
広久手の坂を下ると中津川市から恵那市へ入る。その市境、左手に『中山道、是より大井』の碑がある。

市境にある中山道碑

「岡瀬沢の常夜灯」
広い道路の交差点先左手に常夜灯と『中山道岡瀬澤』の碑がある。すじかい橋を渡り岡瀬沢の集落を過ぎると甚平坂になる。

「甚平坂」
距離は短いが急坂であったため明治天皇巡幸の際、頂上を2m程掘下げ傾斜を緩やかにした。坂の名は甲州武田信玄の家臣根津甚平是行に由来する。今は公園の様に整備されている。

甚平坂

「馬塚」
信濃の国の桔梗ヶ原の化け鳥を退治しようとしたが、鳥が西へ逃げたため後を追いこの坂で犬と馬が倒れ、日吉の地でやっと討ち取ったと言う。坂の途中に『中山道馬塚』の碑。

「犬塚」
坂を少し上ったところに『中山道犬塚』の碑がある。

犬塚

「甚平坂ポケットパーク」
坂の上に見晴の良い広場があり、廣重の浮世絵『大井』の図柄を彫った大きな石や地元の俳人橋本鶏二の句碑それに東屋、トイレもある。
       初蛙廣重の絵の峠かな     鶏二
午後2時、ここで一休み。汗を拭い喉の渇きを潤す。ここからは御岳が綺麗に見えるはずだが、今日は水蒸気が多く残念ながら見ることが出来ない。近くの林から鶯の囀りが聞こえる。

甚平坂ポケットパーク

「根津神社」
坂の上に石段と『祖霊社根津神社』の石柱。石段の上の神社の裏に宝篋印塔、その子小次郎が父甚平の供養のために立てたもので県の文化財に指定されている。

「関戸一里塚跡」
しばらく行くと左手に石碑『中山道関戸一里塚跡江戸日本橋より八十七里』

関戸一里塚跡

「大井鬼子母神」
上宿で県道に突き当たる。右手角の小高い所に『大井鬼子母神尊神』と『明治天皇行在所御舊址』の碑。

大井鬼子母神

「大井宿遠望」
合流した県道の右手に大井宿、恵那市方面の展望が開ける。

「長石塔」
坂を下る途中の左手に長石塔がある。これは大井宿の長国寺4世丹山和尚が村内安全の為に延宝8年(1680)に立てたもの。高さは3.62mある。

長石塔

「菅原神社」
中央自動車道を渡り県道と分かれるところ、右手に菅原神社。その前に解説板があり中山道大井村内の図とその説明がある。

菅原神社

「階段で下る」
県道から右へ分かれ階段で降りる。

「寺坂の石仏群」
階段を下りた所に『寺坂』の標石と石仏群がある。

「明智鉄道をくぐる」
明智鉄道の小さな低い鉄橋の下をくぐると、その先が大井の宿である。

明知鉄道をくぐる

「名号碑」
『南無阿弥陀仏』の大きな碑、この辺りに旅人いろの供養塔があると先の大井村内の図にあったが、これかどうかの確認は出来なかった。





     大井


    中山道第四十六宿 大井宿


     所在地 岐阜県恵那市
     最寄駅 JR中央本線恵那駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠29、総人口466、家数110
     大湫へ 3里半(13.7q)


「五妙坂の高札場跡」
右手玉石垣の上に『中山道五妙坂』の碑と復元された高札場、掲げられた高札の解説をした説明板がある。大井の宿に入ったことを実感する。

五妙坂の高札場跡

「上横橋」
阿木川の支流の小さな川に架かる上横橋を渡る。木の欄干の橋で如何にも宿場の入口の橋。その先には第1の桝形が見える。

上横橋

「延寿院横薬師」
右手の真言宗醍醐派横薬師の前で左折する。これが横町の桝形で第1の桝形である。この宿には6ヶ所の桝形があり、横町、本町、竪町、茶屋町、橋場と続き、ジグザグに曲がっているのが特徴である。この横薬師の創建は天文年間(1532〜1555)で、本尊の薬師如来は行基作と伝えられる。

「大井宿本陣跡」
横町を南に進み第2の桝形を右に本町へ曲がる左手角、風格のある門構えの屋敷が大井宿林家本陣跡。門の脇に岐阜県史跡の石柱が立っている。

大井宿本陣跡

「大井宿本陣跡解説板」
間口24間奥行22間の塀に中に151坪の客殿が有り、書院造りの上段の間や枯山水の庭園があったが、昭和22年夏の火災でほとんどを焼失し、門と庭園だけが焼け残り老松が当時を偲ばせる。

「中山道ひし屋資料館」
2の桝形を右に曲がり本町へ入ると、左手に格子造りに青い暖簾のひし屋資料館。古山家住宅を改修・復元して大井宿の町屋体験施設として平成12年に開館した。

中山道ひし屋資料館

「大井村庄屋古山家解説板」
ひし屋古山家は大井宿の有力商家で江戸中期以降大井村の庄屋を勤めた。

「大井宿の商家」
ひし屋資料館の向かいに蔵を持った犬矢来のある立派な家がある。当時はこのような屋敷が軒を並べていたのだろうか。

大井宿の商家

「大井宿中心部」
本町の街並、両側に宿場らしい建物が並ぶ。道路は片側を石畳風にもう片側は吸水舗装がされている。

「上の問屋林家」
本町中程右手に有るのが上の問屋林家。文化2年に本陣より分家して以来明治に至るまで宿役人・問屋を勤めた。格子造りに虫籠壁、歴史を感じさせる建物である。

上の問屋林家

「宿役人の家解説板」
解説板には宿役人の家となっている。

「下の問屋場跡」
本町左手ブロック塀の前に解説板。大井宿下問屋場跡とあり、その解説板に脇本陣高木家跡の木札が打ち付けられている。

下の問屋場跡

「大井宿下問屋場跡解説板」
この解説板には下の問屋を勤める家の名前が無く、脇本陣についても触れられていない。ここが脇本陣兼下問屋林家の跡と解釈するのではないだろうか。

「明治天皇行在所舊趾」
本町の右手に大きな石碑が2本立っている家が明治天皇の行在所となった岩井家で、右の石碑には『明治天皇大井行在所』左の石碑には『明治天皇行在所舊趾』となっている。

明治天皇行在所旧跡

「旅籠角屋跡」
3の桝形、本町の突き当たりに旅籠角屋があった。昭和10年に取り壊され本町の道が真っ直ぐ大井橋へとつながった。角の家の通り沿いに解説板があり明治初年撮影の角屋の写真が入れられている。

旅籠角屋跡

「大井村庄屋古屋家」
3の桝形を右に曲がると竪町になる。黒い塗籠作りで卯建に門構え、大きな松の木が一段と目を引く、ここが庄屋の古屋家。

大井村庄屋古屋家

「大井村庄屋古屋家解説板」
古屋家は商家で大地主、天保元年(1830)から20年間大井村の庄屋を勤めた。特別客室があり母屋と塀は柱、梁、垂木も土壁で塗り、卯建を持った防火建築である。

「市神神社」
4の桝形、竪町の突き当たりに石の鳥居のある市神神社。祭神は大己貴命、天水分主命、国水分主命の三神。正月7日は福市で賑わう。

市神神社

「虫籠窓のある家」
4の桝形を左に曲がると茶屋町で、右手には二階が虫籠窓の家がある。

虫籠窓のある家

「白木番所跡」
茶屋町の右手マンションの横壁に白木番所跡の解説板。ここに尾張藩の役人が常駐して木曽の材木、木製品の監視、領内の山林の見回り等をした。御禁制が厳しかったことを物語る。

5番目の桝形」
茶屋町を行くと第5の桝形になりそこで左に折れると橋場になる。この曲がり角には赤いレトロな郵便ポストが立っている。

5番目の桝形

6番目の桝形から大井橋を望む」
橋場から6番目の桝形を右に曲がると大井橋畔に出る。

「大井橋」
宿の出口にある橋で、昔は川の中央に石で島を築き両岸から二つの橋を架けていた。

大井橋

「大井橋から阿木川を望む」
現在の橋は西行塚をイメージした灯篭が橋の親柱に設置され、廣重、英泉による木曽街道六十九次の浮世絵の陶板が欄干にはめ込まれている。

「東銀座商店街」
橋を渡るとそこは商店街、『中山道』や『東銀座』等の看板が目に入る。

「交差点角の中山道の案内」
次の交差点を右に曲がると恵那駅。交差点の角に小さな広場があり、中山道の案内地図が描かれている。交差点を右に曲がって5分も行くと、モダンな駅舎の恵那駅に着く。ここはJR中央本線と明智鉄道の駅になっている。

交差点角の中山道の案内板





暑い一日だった。炎天下、熱射病にもならず無事に恵那の駅に到着することが出来た。今日のコースは今までの木曽路と比べて起伏が少なく、歩くのには楽なコースであった。街道筋の家々には百日紅や夾竹桃の赤や白の花が咲き、庭先にはアメリカフヨウの大きな花が目に付いた。このあたりで栽培するのが流行っているのだろうか。日陰の無い道に蝉時雨だけが激しかった。
大井の宿はあまり宣伝されておらず予備知識が無かっただけに、意外と宿場らしいものが残っており、感心したり感激したりが多かった。これからの美濃路、近江路もこれと同様大いに期待が持てる。
帰りは恵那15時44分発JR中央本線快速で名古屋へ、17時05分発JR東海道本線新快速にて豊橋へ、18時10分発JRバスに乗り継いで、18時40分頃帰宅する。


     25,775歩
     中津川〜大井      9.8q



ページ公開 平成15年2月24日
ページ改良 平成22年11月5日
  写真追加 平成22年12月15日


表紙へ   目次へ  ホームへ  次へ  掲示板へ