中山道ウォーク その10



平成14年8月29日(木)     大井から細久手まで

平成14年8月30日(金)     細久手から太田まで





9月2日と3日には越中八尾の「風の盆」のツアーに予約してあり、兄の個展が8月16日から9月6日まで大阪梅田であり、何処かの日で見に行きたい。この間を縫っての中山道ウォーク、日程の調整と台風の動きを見極めながらぎりぎりになって決断する。

中山道最大の難所は和田峠。しかし十三峠はあまり知られていないが西の難所。幕府が防衛上の理由でわざと困難なルートを作ったと言われ、現在でも鉄道や幹線道路から外れている為に難所であり続けている。今回はその峠越えへの挑戦と細久手の大黒屋さんに泊るのが目的である。うまい具合に予約も取れてラッキー。






初日 8月29日(木)


心配していた台風15号は太平洋上を西進、日本付近は高気圧に覆われて連日猛暑が続いている。先日来我がパソコンにウイルスが進入しその対応に時間を取られ少し寝不足。今日はそれから開放されての街道歩き、自然の中で脳みその洗濯をしてこよう。

前回と同様、豊橋8時20分のJR東海道本線新快速で名古屋へ、今日のコースには昼食をとる所が無いので駅のホームでお弁当と飲物を買い込んで9時30分の中央本線のセントラルライナー1号に乗車。列車が内陸へ進むに従って雲が消え真っ青な空になる。早い田圃では稲穂が色付き雀除けのネットが張られている。10時22分恵那に到着。態勢を整えて駅正面の道を中山道に向けて出発する。十三峠への挑戦である。





大井から大湫へ


「商店街の和菓子屋さん」
恵那駅前から正面の広い道を南へ。間もなく銀座商店街と交差する。それが中山道。先回はここで終わって駅へと向かった。今回はここから出発、右に曲がると格子に白い袖壁の和菓子屋さん、早速街道の気配がしてきた。

商店街の和菓子屋さん

「中野村庄屋の跡」
商店街が寂れ民家が目立つようになった左手に立派な家、これが中野村庄屋の跡。塀の端には洪水から屋敷を守る為の石の施設が残っている。

中野村庄屋の跡

「中野の観音堂」
永田川の中野橋、ガイドブックによっては長島橋(おさじまばし)となっているもある、を渡って通りに出る。この辺りに中野の観音堂が有るはずだがと振り返って見る。交差点角の茂みがそれかと思ったが、それではなさそう。

「西行硯水公園」
間も無く五叉路に出る。『野井みちの分かれ』と呼ばれた場所で、右に行くとJRを越え中央自動車道の恵那インター。右から二番目の道を行く。緩い上り坂で道が左にカーブする左手、生垣のある公園が西行硯水公園。

西行硯水公園

「公園の碑や石仏」
園内には石碑や石仏がある。

「硯水碑と西行歌碑」
小さな池これが西行ゆかりの水。硯水の碑と歌碑がある。
       道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ち留りつれ

硯水碑と西行歌碑

「西行塚碑」
硯水を過ぎ国道に合流する手前右手に西行塚の大きな石碑が有り、そこを右に折れる。

西行塚碑

「中山道大井宿の案内」
JRの踏切までの間に『歴史の道中山道』の地図と『中山道大井宿』の立派な解説板がある。

中山道大井宿の案内

「西行塚入口」
JRの踏切を渡り、道を左手にとって田の中の道を行く。高速道路の下をくぐって山道に入るとやがて石畳の道となり右西行塚の案内がある。ここから十三峠の上り下りが始まる。

西行塚入口


「西行塚」
杉の植わった小山の頂上に五輪塔がある。これが西行塚と言われるもので、室町時代の物とか。西行は晩年に恵那で庵を結び3年を過ごした。死期を悟った時、村人に今の西行塚の場所に葬るように頼んだといわれている。村人は西行のためにこの五輪塔を建てた。ここに西行歌碑と芭蕉の句碑があるとガイドにあるが見当たらなかった。

西行塚

「大井宿遠望」
小山を下り石畳道に戻ると駐車場があり、さらに石畳道を上ると左手に視界が広げ大井宿が遠望出来る。

「槙ヶ根の一里塚」
すぐの両側に塚が有りこれが槙ヶ根の一里塚。右手の塚は林に続いているが左手の塚はその向こうに眺望が開け、実に気持ちが良い。休憩の施設や水道もあり大いに助かる。

槙ヶ根の一里塚

「槙ヶ根公園から屏風山を望む」
左手は恵那市まきがね公園で桜百選の園がある。公園の向こうに屏風山断層山岳群が見える。この辺りJRの新槙ヶ根トンネルの上を歩いている。右からの道と合流すると槙ヶ根の立場跡。その道と分かれ右手に入ってゆく。

「槙ヶ根の追分」
立派な解説板があり、その先に石の道標がある。ここが追分で名古屋・伊勢への分かれ道。街道沿いには栗の木があり実を付けている。ススキの穂が出た道をオニヤンマが行ったり来たりして道案内をして呉れているかのよう。

槙ヶ根の追分

「追分の道標」
鳥居に大神宮、右西京大坂、左伊勢名古屋道とある。側には姫街道400年祭の旗が立っている。

追分の道標

「姫御殿跡」
追分から分かれた旧道を進んで間も無く、右手に木製と金属製の2本の標柱が立っている。姫御殿とは皇女和宮が江戸へ下向した時の休息所のこと。

姫御殿跡

「首なし地蔵」
左手屋根組みの下に2体の地蔵と、側に首なし地蔵跡の石柱と由来を書いた解説が立っている。昔二人連れの侍が中山道を旅しこの場所で寝てしまった。一人が目覚めるともう一人の侍の首が無い、驚いて側の地蔵に『仲間が襲われたのに黙っていたのか』と怒って地蔵の首を切り落としてしまった。以来この地蔵は首なし地蔵と呼ばれるようになった。

首なし地蔵

「乱れ橋」
地蔵を過ぎるとみたらしの坂を下り乱れ橋に着く。昔は『石はしる音すさまじき流』と言われた流れに架かった大きな橋で、大坂の三度飛脚が架けた橋。1駄2文ずつ徴収したとか。いまは静かな小川に架かる小さな橋である。乱れ橋の名は坂が急なために行列が乱れたからとか、お女中の着物の裾が乱れたからとか言われている。林を抜け田圃の中の道を緩やかに上るお継原坂となる。

乱れ橋

「大名街道」
四ツ谷の集落に入ると左手に大名街道の木製の解説板がある。岩村藩が江戸への参勤交代の時に使った道が、ここで中山道に合流した。大名が通ったところから大名街道と呼ばれた。しかし今では開発などによって道は無くなってしまっている。

「平六茶屋跡」
平六坂を上ると田の中に『平六茶屋跡』、『びやいと茶屋跡』の標柱が立っている。びやいととは枇杷湯糖と書き枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもので、ここの茶屋で売っていた。

「紅坂の一里塚」
少し坂を上り茂みに入ると左右に一里塚、ここが江戸から89番目の紅坂の一里塚。石碑と標柱と解説板がある。日差しが強いので木陰を選んで腰を下ろし昼食とする。時計は12時30分を指している。

紅坂の一里塚

「ぼたん岩」
昼食を済ませ紅坂の一里塚を出発して間も無く街道の足元にぼたん岩。うっかりすると草や木陰で見落としてしまいそう。直径5m位ぼたんの花のような岩が街道上に露出している。

ぼたん岩

「ふじ道道標」
紅坂の石畳を下ると右手にふじ道と刻んだ道標と標柱が立っている。

「三社灯篭」
続いて念仏坂を下ると右手に三社灯篭。その奥に神明神社があり、そこには歌碑や句碑が集められており、芭蕉の句碑もある。
       山路来てなにやらゆかしすみれ草


「佐倉宗五郎大明神」
左手すぐ先に二十二夜塔と小さな祠と灯篭と佐倉宗五郎大明神の碑がある。元禄年間(1700頃)岩村藩で農民騒動が起きそうになったとき、竹折村の庄屋田中氏が将軍に直訴してこれを救ったが、庄屋は首を刎ねられてしまった。佐倉宗五郎事件に似ているので宗五郎大明神として祀られたとか。

佐倉宗五郎大明神

「藤村の高札場」
県道を越えると右手に復元された高札場があり、右に解説板が、左には庚申塔が立っている。

藤村の高札場

「深萱の立場跡」
右手に深萱の立場の解説プレート。これを見て右手に進み、坂を上ると左手奥に『ちんちん石』が有るとの標識が立っている。付近をしばらく捜したがどれだか判らなかった。

「三城峠」
坂を少し上り石畳を上ると頂きが三城峠。この峠から藤、権現、奥の三城が望めると言うことでこの名が付いた。ここにはばばが茶屋跡がある。

三城峠

「中山道碑」
峠から茶屋坂を下ると右手に大きな中山道碑が立っている。ここで恵那市と分かれ瑞浪市に入る。この写真は振り返って見たもの。

中山道碑

「観音坂」
しばらく進むと道が二手に分かれる。左が旧道で階段状の道をのぼってゆく。

「大きな岩」
正面の杉木立の中に大きな岩がある。

「馬頭観音」
岩の裏側に回ると石像の馬頭観音が立っている。

馬頭観音

「観音坂霊場巡拝碑」
続いて右手に観音坂霊場巡拝碑が有り、これを見て坂を下る。

「大久後立場跡」
坂を下りきると民家が数軒現れる。ここが大久後の立場の跡。

「大久後の観音堂と弘法様」
大久後の外れの右手に観音堂と弘法様が並んでいる。

大久保の観音堂と弘法様

「炭焼立場跡」
権現坂を上ると右手に炭焼の立場の解説と、その下に『旧中山道炭焼立場』の石柱がある。

「樫の木坂の石畳」
右手が権現山。石がごろごろした炭焼の五郎坂を上り、続いて樫の木坂を上る。樫の木坂は綺麗な石畳道である。

樫ノ木坂の石畳

「権現山の一里塚」
街道の両側杉木立の中に塚が残っている。左の塚には『瑞浪市史跡権現山一里塚』の石柱が立っている。右手の塚には『岐阜県史跡瑞浪の一里塚(権現山)』の白い標柱と解説板がある。ここは江戸から90里目。時計は2時10分、小休止して写真のフィルムを入れ替える。

権現山の一里塚

「十三峠の巡礼水」
林の中をしばらく進むと、右手に新しい石碑に『中山道巡礼水』の文字と太田南甫の紀行文の一部が彫られている。そばに十三峠の巡礼水の解説。右手の岩の間から湧き出している清水が病んだ巡礼の命を救ったといわれ、旅人達から「十三峠のお助け水」として大切にされてきた。でも今は枯れている。

十三峠の巡礼水

「曽根松坂」
巡礼水を過ぎると中山道ゴルフクラブの中に入る。ホール間の道と交差し右手には緑のネットが張られている。街道の真中に白いゴルフボールが落ちている。ロストボールだ。曽根松坂を下る。ここにも真新しい石碑があり、『中山道曽根松坂』の文字と壬戊紀行の一文が彫られている。

曽根松坂

「阿波屋の茶屋跡」
右手に『中山道十三峠阿波屋の茶屋跡』の碑。茶屋跡は少し広くなっていて奥に石窟が有って石仏が祀られている。

阿波屋の茶屋跡

「十三峠の三十三観音」
石窟の前に解説板があり、旅人ばかりか宿や助郷の人馬役のものにとってもこの十三峠は大変な所だった。この観音様はこれらの人々が人馬の道中安全を願って立てたものとある。

十三峠の三十三観音

「石窟の中の観音様」
石積みの石窟の中には33体の観音様、格子戸の向こうに鎮座されている。

「尻冷やし地蔵」
地蔵坂を下る途中の左手、杉林の中に石地蔵が立っている。湧き出す清水の前に立っていると、あたかも地蔵が尻を冷やしているように見えるところからこの名が付いた。今日は残念ながら水が枯れていて尻を冷やしているようには見えない。

尻冷やし地蔵

「八丁坂の観音碑」
杉林を抜け右手からの県道合流、少し歩いて標識から右手の砂利道に進む。ここからが八丁坂の上り、上りきった所に『十三峠八丁坂の観音碑』の白い標柱、奥に『南無阿弥陀仏』の碑。左に新しい碑があり、それには『中仙道しゃれこ坂(八町坂)』の文字と太田南甫の壬戊紀行でこの碑を見たくだりが彫られている。

八丁坂の観音碑

「山の神坂」
さらに牛がほら坂、山の神坂と続く。山の神坂では左手に茶畑が広がる。

「寺坂の石仏群」
寺坂の下りの途中に3体の石仏と2基の南無阿弥陀仏碑が集められている。ミンミン蝉の声が聞こえところどころで萩が咲いている。

寺坂の石仏群

「大湫宿と十三峠入口」
坂を下ってくると前方が開け大湫宿が見えてくる。左手に中山道十三峠の解説板。ここで『十三峠におまけが七つ』と言われた十三峠が終わる。初めのうちは峠の上り下りに数を数えていたが、そのうちに判らなくなってしまって数えるのを諦めた。

大湫宿と十三峠入口

「宗昌寺」
左手に寺坂の名前のもとになった『宗昌寺』の石柱。これで難所と言われた十三峠を無事に越えたことになる。山を下って初めてのお店でドリンクを買い喉を潤す。





     大湫


    中山道第四十七宿 大湫宿


     所在地 岐阜県瑞浪市
     最寄駅 JR中央本線釜戸駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠30、総人口338、家数66、
     細久手へ 1里半(5.9q)


「大湫小学校」
坂を下って行くと大湫小学校の裏手に突き当たり左折して宿場に入る。

「大湫宿の家並」
静かで落着いた街並である。当初中山道は大井から御嵩の間(32q)に宿は無かったが、大変不便であったところから慶長9年(1604)にこの大湫宿が、2年後に細久手宿が開かれた。

大湫の家並

「本陣跡の公民館」
右手にある公民館の裏が本陣の跡。公民館の向かいに売店と休憩施設、トイレがあるが、この売店は残念ながら休日だけしか開いていない。午後3時、ここで小休止する。自分以外に誰一人人影が見えない。

「大湫宿本陣跡」
公民館の左横から石畳で上って行く道がある。これが小学校への道で、脇に『大湫宿本陣跡』の解説板が立っている。この本陣は保々氏が務め、問屋、庄屋も兼ねていた。本陣の間口は22間、奥行15間、部屋数23、畳数212、別棟添屋6と言う広大なたてものであった。

大湫宿本陣跡

「皇女和宮歌碑」
皇女和宮は文久元年(1861)10月28日にこの本陣で道中の一夜を過ごされた。小学校の校庭に皇女和宮の歌碑が立っている。
       遠ざかる都と知れば旅衣一夜に宿も立ちうかりける
       思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは

皇女和宮歌碑

「問屋場跡」
本陣の並び、白山神社の手前に問屋場跡の解説板が立っている。

問屋場跡

「虫籠壁の家」
宿の左手に虫籠壁の家、宿場の雰囲気をよく残している。

虫籠窓の家

「脇本陣跡」
宿の右手石段の奥に脇本陣の門が見える。部屋数19、畳数153、別棟6と言う規模であったが、今ではその半分くらいしか残っていないとか。

脇本陣跡

「神明神社」
宿の右手に神明神社。石灯篭があり、石段を上がり、石の鳥居をくぐり、門をくぐると県の天然記念物に指定されている大杉がある。

神明神社

「神明社の大杉」
この大杉は周囲11m、高さ約60m、樹齢1200年と推定されており、この宿のシンボル。

「宿の街並」
旅籠屋風の格子作りの家、白壁になまこ壁の土蔵、犬矢来があり宿場の姿がよく保存されている。

「高札場跡」
右手上の方に大湫観音堂。その先に『中山道大湫宿』の大きな碑があり、横に高札場が復元されている。復元された高札場には大小10枚の高札が掛かっている。

高札場跡




大湫から細久手へ


「紅葉洞の石橋」
高札場を出ると道は二つに分かれる。直進するとJR釜戸駅、分かれ道を右手にとる。その先左手に『紅葉洞の石橋』の白い標柱、大きな岩がある。

紅葉洞の石橋

「小坂の馬頭様」
その先巨岩の上に石仏が二つ乗っている。

「二ッ岩の母衣岩」
右手林の中に高さ6m幅18mという真中に縦の筋が入った巨岩があり、母衣(ほろ)岩と言う。武者が鎧の上に被った弓矢除けの袋を母衣(ほろ)と言い、母衣のようにふっくらとしている所からこう呼ばれた。

二ッ岩の母衣

「二ッ岩の烏帽子岩」
少し先に高さ6m幅9mの巨岩がある。こちらはその形から烏帽子岩と呼ばれている。昔の旅人は母衣岩を陰石、烏帽子岩を陽石と見立て、これらを二つ岩と呼び信仰心にも似た気持ちで眺めてきた。

「琵琶峠上り口」
広い大湫病院の中を通り抜けるように進むと、舗装道路から分かれ右手へ上る石畳道がある。これが琵琶峠の入口となる。

琵琶峠上り口

「上り口の石碑と石仏」
中山道琵琶峠東上り口の碑と、石仏や石碑が何体か集められている

「琵琶峠の石畳」
日本最長と言われる琵琶峠の石畳が残っている。

琵琶峠の石畳

「頂上の文学碑群」
琵琶峠の頂上に文学碑群がある。この峠海抜540mで美濃十六宿の最高地点、ここから丑寅の方に木曽の御岳、北には加賀の白山、西に伊吹が見えると言われる。

頂上の文学碑

「八瀬沢の一里塚」
峠から石畳を下ると両側の林の中に一里塚、一面に羊歯で覆われている。『瑞浪市史跡八瀬沢一里塚』の標柱と解説板がある。ここは江戸から91里目。

八瀬沢の一里塚

「県道を越えて石畳は続く」
県道を横切って更に石畳の道が続く。

「琵琶峠西の上り口」
下りの石畳で横切った県道と出会うところが琵琶峠の西の入口、八瀬沢の集落に入る。ここからは舗装された一般道となる。

「一つ家茶屋跡」
右手に大規模な養鶏場、騒がしい鶏の声と鶏糞の匂い。左手は国際警察犬訓練所、塀の向こうから吠えてくる。竹林の中の道を抜けると右手路傍に白い標柱で『一つ家茶屋跡』。立場の有った所。

一つ家茶屋跡

「天神辻の地蔵尊」
天神前のバス停近くにお地蔵様。これが天神辻の地蔵尊。ここから細道を北に入って行くと北野天神がある。

「焼坂の馬頭様」
街道筋のいたるところで馬頭観音が祀られている。旅の安全、馬への感謝が祈りに込められている。このあたりツクツクボウシとアブラ蝉の声がしきり。

「弁天池」
天神坂を下ると右手に弁天池が見えてくる。池の小島に石の小祠があり、天保7年(1836)に建てられたと言う弁財天の宮が祀られている。池一面に蓮が茂っている。この池尾根筋上にあっても何時も水を湛えていて、旅人達から愛されてきたと言う。

「南垣外ハナノキ自生地」
アカマツ林の続く中、左手に白い標柱。この木は別名ハナカエデ、春4月頃葉が出る前に真紅色の花が咲く。本州の愛知、岐阜に自生し、愛知県の県の木に選ばれている。

南垣外ハナノキ自生地

「夫婦松の跡」
左手に白い標柱と小さな石碑、ここに夫婦松があって街道を行く旅人に親しまれていた。

「奥ノ田の一里塚」
街道の左右に大きな塚がある。左手に有るのが南塚で高さ4m径10m。右手に有るのが北塚で高さ3.5m,径12.6m。江戸から92里目、瑞浪市には四つの一里塚が全て残っており、よく手入れされている。

奥ノ田の一里塚

「三国見晴台と馬頭様」
白い標柱と崖の上に小さな馬頭観音がある。





     細久手


    中山道第四十八宿 細久手宿


     所在地 岐阜県瑞浪市
     最寄駅 JR中央本線瑞浪駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠24、総人口256、家数65、
     御嵩へ 3里(11.8q)


「細久手宿高札場跡」
一里塚から坂を下り、大きな工場(多治見工業)を左に見て進むと、右手に木の道標、奉納美濃瑞浪三十三霊場の幟が立てられている。その先に『細久手宿高札場跡』の標柱がある。ここが宿の入り口にあたり、右奥に宿の鬼門除けの庚申堂がある。

細久手宿高札場跡

「東海自然歩道(旧中山道)瑞浪コース案内図」
宿に入って左手に大きな案内図と駐車場、その奥には公民館。この駐車場は東海自然歩道利用者の為のものとか。

「尾張藩定本陣大黒屋」
右手には屋根の両端に卯建が上がった平入りの二階建て、看板には『中山道細久手宿(尾張藩定本陣)旅館大黒屋』。昔の面影を残す唯一の建物。今夜の泊りをお願いしてある。


尾張藩定本陣大黒屋
「宿の街並」
夕日の傾いた宿の中心部。全く人通りが無い。

「脇本陣跡」
宿の中程左手奥に竹薮と土蔵がある。これが脇本陣小栗八左衛門家の跡。この向かいの畑になっている所に本陣小栗八右衛門家があった。何れも昔を偲ぶよすがも無い。

脇本陣跡

「格子造りに袖壁のある家」
宿の外れの左手に格子造りに白い袖壁のある家、大黒屋と並んで宿の名残を感じさせる貴重な建物である。

格子造りに袖壁のある家

「日吉愛宕神社」
宿の出口、右手に石の鳥居、その奥に赤い鳥居が見えるのが日吉愛宕神社。この宿の産土神。





日も西に傾いた午後5時15分大黒屋さんに入る。玄関の式台から声を掛けるが応答がない。仕方なく横の勝手へ回り中の台所に行くと初めて返事があり、迎えてくれた。
玄関から上がってすぐの箱階段を上がり、吹き抜けをぐるりと回って二階の表の座敷に案内される。古い建物はこの道中何度も泊り、少々のことには驚かないが、ここの部屋のテレビにはビックリ。カラーテレビが出始めた頃のもので、大きなチャンネルつまみをカチカチと回す。よくぞ今まで保存してきたものだ、まるで資料館の中に
居るみたい。お風呂に入ってまた驚いた。木の浴槽が二つ有るが蓋を開けるとその一つに湯がたかれており、その量たるや行水ができる程度。「節水を」の紙が張られており、井戸に頼る生活の厳しさを思い知らされる。十三峠と琵琶峠を越えた汗と疲れを風呂で流し、夕食の膳につく。
 メニューは酢の物、百合根、胡麻豆腐、鯉のうま煮、鮎の塩焼、揚げ物はすり牛蒡の海苔巻、煮物は山芋の
海老団子、にゅう麺、香の物、ご飯。ビール2本があっと言う間に喉を通って行った。


今夜は自分の他には自転車で中山道を回っているという岐阜の夫婦が一組泊っている。石畳に閉口してトラ
ックに乗せて貰ったとか。
今夜はテレビと扇風機、網戸と蚊取り線香のお陰でぐっすりと休めそう。


     35,751歩
     大井〜細久手    19.6q


ページ公開 平成15年2月25日
ページ改良 平成22年11月5日
 写真追加 平成22年12月22日


表紙へ   目次へ  ホームへ  次へ  掲示板へ