二日目 8月30日(金)


5時階下でボンボン時計の音、うつらうつらとしていると近くの藪からコジュケイの鳴声、そのうち蚊取り線香が切れたのか蚊に悩まされ、とうとう目が覚めてしまった。今日も快晴有り難いことだ。
下の座敷、昨夜と同様に義経の八艘跳びの軸の掛かった床の前で朝食をとって、8時に出発。





「大黒屋」
安政5年(1858)の大火で宿の殆どが焼け、その翌年に再建された建物。街道歩きを楽しむものには有り難いが、維持管理するのは大変な事と思う。女将さんに記念の写真を撮ってもらって元気に出発。

大黒屋にて






細久手から御嵩へ


「津島神社」
8時に宿を出て一路西へと向かう。間も無く右手に津島神社の祠。二又に分かれる道の右手を進む。

「くじ場跡」
杉の林を見ながら進むと右手に真新しい石碑で『旧中山道くじ場跡』が立つ。くじ場とは宿の人足達が休んだり博打を打ったりしていた所で、この付近に3箇所あった。

くじ場跡

「平岩辻」
県道と出会い平岩の集落に入り交差点が平岩辻、橋の袂に道標や石碑が立っている。ここから右に行くと開元院と言うお寺がある。夕べは朝に飲物の手筈をしておかないと・・・と思っていたのに、朝になってすっかり忘れそのまま出発してしまった。大黒屋を出てからはお店や自販機が全く無い。御嵩までの山中コースこのまま水気無しで通さねばならないのかと思っていたら、幸いこの辻の角に一軒の小さなお店があった。有り難い〜と思わず叫んでしまった。

「西の坂の分かれ道」
平岩を出て県道を行くと西の坂、ここで街道は左に分かれ山の中へ入ってゆく。

西の坂の分かれ道

「秋葉坂三尊」
いきなり秋葉坂の急坂となり、右に石積みの崖、その高さにまで登ってくると右手に石積みの石窟が三つ並んでいる。その中に石仏が一体ずつ安置されている。江戸後期の石仏で秋葉坂の三尊と呼ばれている。

秋葉坂三尊

「鴨之巣道の馬頭文字碑」
雑木林の中の細かな砂利道で尾根筋を行く。間もなく左手林の中に馬頭文字碑がある。

「鴨之巣辻の道祖神」
道祖神と『右旧鎌倉街道迄約一里余』と刻まれた道標が立つ。ここは日吉辻とも呼ばれる追分で左へ入る道が鎌倉街道へ出る道。

鴨之巣辻の道祖神

「切られヶ洞」
少し先右手に石碑。昔牛を追ってきた人が強盗に切られた所。

「鴨之巣の一里塚」
林が少し開けた所に鴨之巣の一里塚。ここも両側に塚が残っている。江戸から93番目。この塚の特徴は左右の塚の位置がおよそ16mずれている事。

鴨之巣の一里塚

「笹の茂る道」
一里塚を過ぎると瑞浪市から御嵩町入る。ここまでは細かな砂利が敷かれ歩き易い道に整備されていたが、境界を過ぎるととたんに道が荒れ笹の生い茂った道となる。朝露でズボンの裾が濡れる。ここの下りがくじ上げ坂。

「石室に入った石仏」
間もなく右手に石積みの石室に入った石仏がある。先の秋葉坂の三尊と同様に石室に入っているのが珍しい。

石室に入った石仏

「津橋県道交差点」
津橋の集落に入り県道を横切る。ここを右に折れると津橋薬師堂で中に石仏群がある。交差点の先に真新しい標石で『中山道至御殿場』とある。

「石室に入った石仏」
交差点を直進し、しばらくして右に曲がり急坂を上る。この坂がもちの木坂、諸の木坂とも言う。ここにまた石室に入った石仏がある。

「馬の水呑み場跡」
上りきった所が物見峠で、昔は茶屋が5軒あった。右手に窪みが二つ有り水がしみ出している。昔はこの窪みに水が湧き出していて、ここ物見峠まで荷を運んで来た馬に水を与え休息させたところ。

「御殿場」
右手に階段が有り脇に『御殿場路傍休息地』の標柱と解説板がある。階段の上の見晴らしのよい所が和宮下向の時休息地を設けた跡で御殿場と言う。和宮と同じようにここで休憩をとる。小用を済まして爽やか。

御殿場

「唄清水」
杉木立の道を下ると左手の窪みの脇に真新しい『唄清水』の碑と古い句碑がある。
       馬子唄の響きに浪たつ清水かな     五歩
さらに白い立札があり、『この水は生水での飲用はしないで下さい 御嵩町』とある。

唄清水

「一呑みの清水」
謡坂を下り謡坂の集落を抜けると左手に石で囲われた中に一呑みの清水が湧いていて、中に石の地蔵が2体立っている。高貴な人がこの水を飲んで蘇ったとか、和宮もこの水を飲んだとか。

「十本木立場跡」
次の民家のあるところが十本木の立場跡。十本の松の大木が有った所からこの名が付いた。

「一里塚跡」
塚の前に黒い石碑、『謡坂十本木の一里塚跡』。江戸から94里目。この塚は復元されたもの。

一里塚跡

「十本木の洗い場跡」
木の解説板が立っている。それによると昔ここには茶屋や木賃宿があってここに有った池が共同の洗い場であった。

「謡坂の石畳」
石畳を下る、これが謡坂。西から来た人は急坂なので元気付けに歌を謡ったとか。

謡坂の石畳

「石室に入った地蔵尊と道祖神」
坂の途中右手にお地蔵さんと道祖神、これも石積みの石室に入っている。

「左マリア像の道標」
同じく右手に左マリア像への道標。この先にキリシタン遺跡、昭和56年農道工事の際に墓地の一角から隠れキリシタンの遺物が出た。

左マリア像の道標

「謡坂の石畳」
坂の終わる所、西からの上り口に石畳の標石が立っている。

「橋本鶏二の句碑」
石畳が終り舗装道路に出ると左手に橋本鶏二の大きな句碑がある。
       錦繍の泉の水も錦かな     鶏二

「耳神社」
川に沿って進むと右手石段の上に耳神社。耳の病気にご利益があると言う。

耳神社

「石室に入った寒念仏供養塔」
舗装道路から右に細道を入る。この辺りが西洞の集落。ここを過ぎると急な下り坂のさいと坂。別名牛の鼻かけ坂。途中に寒念仏供養塔、石積みの石室の中に馬頭観音がある。

「和泉式部廟所」
山を下りきって田や畑の中を行く。道を右へ右へととって井尻の集落を抜け国道21号線に出る。国道に出てすぐ右手、道路から少し入った所に屋根が懸けられた大きな碑がある。これが和泉式部の墓。和泉式部は平安時代に女流歌人、寛仁3年(1019)にこの地で没したと言われている。碑には式部の和歌が刻まれ側には小さな石仏や碑がある。
       ひとりさへ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまる

和泉式部廟所

「中街道竣工記念碑」
和泉式部廟所のすぐ横に大きな石碑。

「丸山の稲荷神社」
国道を行くと左手に小さな山、丸山が迫ってくる。麓に赤い鳥居と何本かの石柱が立っている。これが丸山の稲荷神社。ここを過ぎ柏森で国道から左に分かれると間もなく御嵩の宿に入る。





     御嵩


    中山道第四十九宿 御嵩宿


     所在地 岐阜県可児郡御嵩町
     最寄駅 名鉄広見線御嵩駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠28、総人口600、家数66、
     伏見へ 1里(3.9q)


「上町の桝形」
国道に真新しい道標が立っており、右御嵩宿・左細久手宿とある。そこを左折し細道を行くとやがて上町の桝形で宿の中心部へと入る。

上町の桝形

「上町の用心井戸」
左手に水場があり、井戸の脇に正一位秋葉神社の石柱がある。この向かい辺りに高札場が有った。

「かくれ場のあるの家並」
この宿の特徴であるかくれ場のある家並が残る。これは隣の家との軒並が2尺ほど食い違いをもたせた造りになっており、咄嗟の折に身を隠す為のものとか。

かくれ場のある家並

「古い街並」
右手郵便局を過ぎると古い家並が残っている。

「古い街並」
この辺りが脇本陣の有った所か。格子造りの家が並ぶ。

古い街並み

「中山道みたけ館の駐車場」
この駐車場は本陣の跡。

「保存工事中の町屋」
角の家は保存工事中、いずれは一般公開されるのだろう。

保存工事中の町屋

「本陣跡」
右手風格のある門構えが野呂家本陣跡、門には中山道御嵩宿本陣とある。当時は門構えと玄関があり建坪181坪、前棟には部屋が11、奥棟には上段の間を含み13部屋があった。当時のもので今残っているのは裏にある土蔵だけであとは明治10年に建替えられた。

本陣跡

「中山道みたけ館」
新しい郷土館で町の文化財や資料の収集、展示や学習の拠点になっている。でも今日は休館日でトイレすら借りる事が出来ない。このあたりに問屋場があった。

「願興寺」
みたけ館の隣が願興寺。天台宗大寺山願興寺、可児大寺(蟹薬師)とも呼ばれる。このお寺は平安時代初期の弘仁6年(815)の創建、現在の本堂は天正9年(1581)に再建されたと言う。境内には薬師堂、弥陀堂、鐘撞堂、十王堂、庚申堂などがあり、重要文化財や指定文化財が多くある。

願興寺

「桝形にある名鉄御嵩駅」
願興寺の外れが桝形で今は交差点。その交差点を挟んだ対面に名鉄広見線御嶽駅がある。小さな終点の駅。この宿にはいる前から小用をもよおしトイレを探したがどこにも無い。仕方が無いので駅員に頼んでホームにあるトイレを借りた。有難う。

「桝形」
願興寺と桝形を見る。願興寺の角には大きな案内図がある。

桝形

「格子造りに袖壁のある家」
桝形で右折し次の交差点で今度は左折する。所々に宿の名残のような家がある。

「秋葉山常夜灯」
中公民館を左に見て西屋敷で右に折れ、国道21号線中交差点に出る。その直前右手に常夜灯がある。昼になったのでどこかで食事を思ったが、御嵩の宿の中ではそれらしい所が全く無かった。国道に出てやっと喫茶店を見付け、そこで昼食をとる。





御嵩から伏見へ


「鬼首塚」
国道に出て間も無く右手に鬼首塚遺跡の石柱があり、その奥に墓がある。昔寂木の岩屋に住む盗賊関の太郎が人々を悩ませたので、領主纐纈盛康が蟹薬師に祈願すると忽ちにして捕らえられ首を刎ねられた。その首を埋めたのがここだと言う。

鬼首塚

「比衣一里塚跡」
大庭交差点の先で国道から右に分かれるがすぐに戻る。顔戸で再び右へ分かれると、右手に真新しい石碑で中山道比衣一里塚(ガイドブックでは殆どが顔戸の一里塚としている)跡と刻まれたのが立っている。共和中学校の下で国道と合流する。

比衣の一里塚跡

「伏見宿への道標」
左花フェスタ公園の高倉交差点を過ぎ、右手交番のあるところから右に国道から分かれ、名鉄の踏切に向かう。しかしこの踏切は平成13年10月で廃線になった八百津線のもので線路は撤去されている。渡って間も無く右手に道標。坂を上って国道に合流すると伏見の宿である。





     伏見


    中山道第五十宿 伏見宿


     所在地 岐阜県可児郡御嵩町
     最寄駅 名鉄広見線明智駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠29、総人口485、家数82、
     太田へ 2里(3.9q)


「伏見宿本陣跡と領界石」
東町の左手伏見公民館前に、自然石に伏見宿本陣之跡と彫った碑と、右に背の高い領界石が立っている。『是より東尾州領』とあり、これはこの先の西坂に有ったのを移したもの。

伏見宿本陣跡と領界石

「兼山道標」
交差点角に道標があり、右御嵩、左兼山八百津とある。

「伏見の家並」
西町の左手に大きな格子造りの家が数軒有る。これが唯一宿場らしい景色。この宿は国道が走っている為に見るべきものが何ら残っていない。

伏見の家並





伏見から太田へ


「犬山街道の道標」
宿を出て上恵土交差点の左角に犬山街道の道標が立ち、右太田渡経て岐阜、左多治見・犬山とある。ここを右折すると新村湊跡がある。明治の初め頃まで木曽川の船着場であった。

「JR太多線踏切」
ただひたすらに国道を歩く。御嵩町から可児市に入り、中恵土を過ぎ愛知用水を渡ると、国道から右に分かれやがて踏切に至る。これがJR太多線の踏切で、この道になると車の往来が少なくなり歩き易くなる。

JR太多線踏切

「今渡の民家」
大東、住吉を過ぎ左から国道248号が合流すると今渡、また交通量が増える。ここは立場であった所で今もその雰囲気を持った民家が目に付く。

今渡の民家

「龍洞寺」
右手に金剛山と龍洞寺の石柱が立ち、奥にお寺が見える。今渡の子安観音と親しまれ子授け、安産等のご利益がある。

「富士浅間神社」
その先右手に石の鳥居の富士浅間神社。

「国道248号は太田橋へ」
国道は右手にカーブして木曽川に架かる太田橋へ、旧道は直進して太田の渡しへと進む。

国道248号は太田橋へ

「お寺を通って渡し場跡へ降りる」
静かな住宅地となり右手奥にお寺がある。そこの前を通って階段で川岸に下る。

「今渡の渡し場跡」
太田の渡しの解説板があり右手にはトラスブリッジの太田橋が見える。

今渡の渡し場跡

「対岸の船着場」
対岸の船着場には舟が舫ってある。

対岸の船着き場

「木曽川の向こうに太田の宿を望む」
川の左手対岸には太田の街が見える。この渡しは時代によって場所が変わり、天明以前はこの下流1qのところで渡っていた。そこを土田の渡しと言い近くには一里塚があった。

「今渡の民家」
渡し場跡から戻って太田橋へと向かう。橋の手前には二階に欄干手摺のある民家が数軒ある。

「太田橋」
いよいよ木曽川を太田橋で渡る。この橋はレトロなトラスブリッジ。隣には日本ライン下りの看板。

太田橋

「歩道の無い橋を渡る」
橋の雰囲気は良いし天気も良い、良い気分で渡ろうと思ったら、な、な、何と!歩道のスペースが無い。路肩の白線も引かれていない。恐ろしい事この上もなし。大型トラックやバス等と欄干の間に挟まれて歩く。安全はただ運転手の皆さんの腕に頼るのみ。

「もう一つの橋を渡る」
トラスブリッジがやっと終わったと思ったら、次は真新しい橋。これにもやはり歩道部分が無い。渡り終えるまでの時間の長かったこと、ただ一つ無事を願って真剣に歩いた。

もう一つの橋を渡る

「木曽川を渡って美濃加茂市に入る」
木曽川を渡るとそこは美濃加茂市。左へ行くと太田の宿。

「木曽川と国定公園の看板」
街道は橋を渡って左に折れ川岸の道を行く。そこには飛騨木曽川国定公園の標識が立ち、木曽川緑地ライン公園になっている。只今午後3時30分、今まで歩いてきた距離や時間、帰りの交通のこと等を考えて、今回の行程をここで終わる事とする。

木曽川と国定公園の看板





今回歩くコースについては入念な下調べをしたが、交通の便についてはいいかげん。太田からはJRと名鉄が有ると簡単に考えていた。木曽川を太田橋で渡ったところで今日の行程を終わろうとしたのだが、さて駅はどちらと調べてみると、名鉄はここから戻って橋を渡る手前の広見線日本ライン今渡駅で、JRは美濃加茂の町の反対側、高山本線と太多線の美濃太田駅。どちらへも結構距離がある。

ここまで来て逆戻りし、歩道のない恐ろしい橋をもう一度渡るのはゴメン。結局美濃太田から岐阜経由で帰ることとした。美濃太田発16時10分発の高山本線岐阜行きに乗車。遠回りのようだが、岐阜から東海道本線新快速16時45分に乗車出来、しかも座って来れたので、これが正解だったのかも。豊橋に17時53分着、18時10分のJRバスで帰る。自宅へは18時40分頃に到着した。

帰ってみるとテレビの番組の様子がおかしい。小泉首相が北朝鮮へ9月17日に訪問のニュース。世の中が大き
く動いて行きそう。



     40,104歩
     細久手〜太田       23.6q


ページ公開 平成15年2月26日
ページ改良 平成22年11月5日
  写真追加 平成22年12月22日


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