二日目 5月22日(水)


5時45分、下の部屋から聞こえてきた町内の有線放送の声で目が覚める。部屋の外のガラス戸を開けたら冷たい空気が入ってきた。空は霞んでいるが天気は今日も良さそう。食事の前に下に降りて様子を見たり、外に出て改めてこの建物を眺める。


7時30分から朝食、身支度をして、主人や女将さんの見送りを受けて8時にたせやを出発する。





上松から須原へ


「たせやを出発」
女将さんにシャッターを押してもらって記念撮影。

「桂の大木」
街道を須原に向けて歩き出して直ぐ、正面に大きな桂の大木。二手に分かれる道の右へと進む。

桂の大木

「上松中学校校庭からの駒ケ岳」
まもなく左手に上松中学校があり、その校庭から駒ヶ岳が見える。

「石畳道」
この先道路の舗装が途切れ石畳となり坂を下って県道に出る。

石畳道

「小野の滝」
滑川橋を渡り、老人ホームの右手を通り坂を下る。中央本線のガードをくぐり国道に出て左へ。国道を進んでまもなく左手、鉄橋の向こうに滝が見える。木曽八景の一つに数えられる小野の滝。高さ三丈(約9m)浮世絵にも描かれた名瀑布と言われている。

小野の滝


「荻原の一里塚跡」
やがて国道から左に分かれて萩原の集落に入るが、その角に一里塚跡の碑がある。江戸へ73里、京へ64里。

荻原の一里塚跡

「神明社」
萩原の集落を抜け国道に合流する。そのまま国道を行き串下、宮戸を過ぎると左手の上に神明社。

「明治天皇立町御小休所碑」
国道の右手、萩原小学校の脇に『明治天皇立町御小休所』碑がある。

明治天皇立町御小休所碑

「立町の立場」
そこから旧道は右に分かれ立場茶屋の有った立町に入る。国道から離れるとホッとする。

「倉本の一里塚跡」
再び国道に出てしばらく進むと左の上に倉本の駅。大沢橋を渡り、その先右手の駐車エリアの奥に一里塚跡。江戸へ74里、京へ63里。

倉本の一里塚跡

「池の尻の立場」
国道から右に分かれると池の尻の集落。ここも立場であった所。道路の舗装が無くなり、草道となり、それが細くなって、廃屋となった食堂の脇で国道に出る。それからは兎に角歩く、歩く、歩く。国道をただひたすらに歩く。





     須原


    中山道第三十九宿 須原宿


     所在地 長野県木曽郡大桑村

     最寄駅 JR中央本線須原駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠24、総人口478、家数104
     野尻へ 1里30町23間(7.2q)


「須原宿入口」
須原の駅前で国道から左に分かれる。角に『須原宿』の看板、その裏にはこの宿の水場、水舟の場所が地図で記されている。そばに水場があり渇きを癒し、汗を拭う。10時50分、出発からおよそ3時間。

「須原名物桜の花漬けの大和屋」
右に須原名物桜の花漬けの大和屋がある。旧道は国道からこの店の裏を通り左脇へ出てきた。この辺りに桝形があった。店の左手に一里塚跡の標札が有る筈なのだが、見落としてしまった。

須原名物桜の花漬けの大和屋

「幸田露伴と須原宿の碑」
須原駅の左手に幸田露伴と須原宿の碑がある。ここは露伴の『風流仏』の舞台になったところで小説ではこの桜の花漬けが紹介されている。

「須原宿」
駅の正面に須原宿の解説板と道標。

「須原の民家」
雁木造り、外障子の紙の白さが眩い。日本の民家の見本のようだ。

須原の民家

「元脇本陣の西尾酒造」
右手の立派な建物が問屋と庄屋を兼ねた元脇本陣の西尾酒店。杉玉の酒林が下がり菰樽が積まれ、地酒蔵元木曽のかけはしの旗。屋敷の前には碑と解説板。この向かいが本陣跡。

元脇本陣の西尾酒造


「水舟と子規歌碑」
これが須原の代表的な景色。子規の歌碑と水舟。その前に無造作に投げ込まれた木の枝が心なごませてくれる。
       寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は月出つるほとの空たにもなし   子規

水舟と子規歌碑


「宿の中心部」
この宿は両端に桝形を設け中央でややくの字に曲がるが、街並が比較的真っ直ぐな為鉄砲町と言われた。筒先にあたるところに定勝寺がある。

「用水が流れる」
昔から宿の中央に用水を通し、裏山から引いた豊富な湧き水を桧の大木を刳りぬいた長い水槽にあふれさせ共同井戸として利用していた。

「水舟」
宿場の道端7箇所に『井戸』と呼ばれる水場を設け、13軒〜14軒を一組として井戸組合を作り、飲料水はもちろん下水から防火用水としての管理をしていると言う。このような日常の管理があるからこそ宿の景色として自然に溶け込んでいるのだ。水でもお茶でもペットボトルで気軽に持ち歩ける時代ではあるが、やはり新鮮な湧き水はありがたい。

水舟

「講札の下がった柏屋」
宿の西の桝形近く左手にある元旅籠の柏屋。二階の軒下に『三都講』など講札が下り、昔の雰囲気がそのまま残っている。

講札の下がった柏屋


「定勝寺」
浄戒山定勝禅寺、臨済宗妙心寺派、永享2年(1430)創建、木曽川の洪水により3回流失し現在に建物は慶長3年(1598)のもので、山門、庫裏、本堂が国の重要文化財。木曽七福神布袋尊霊場でもある。

定勝寺

「宿出口の水舟と案内板」
寺の先宿の出口に水場と案内板がある。今、道は通っているが、昔は寺で行き止まり。柏屋のところで右に曲がり坂を下る。この坂を鍵屋の坂と言った。民家の間を沢が流れ、沢の両側に幅1間ほどの道が付いている。これが昔の風景。しかし、残念ながら流れに落ちないようにフェンスが張り巡らされており絵にならない。





須原から野尻へ


「橋場の古い旅館」
桝形で宿を出て県道を上り踏切を渡る。橋場の集落の入口右手に御宿喜久屋の建物。レトロな感じ。

橋場の古い旅館

「岩出観音堂」
橋場の中程で左折、しばらく行くと山の中腹に懸崖造りの観音堂が見えてくる。木曽の清水寺と言われる岩出観音堂。

「伊奈川橋から観音堂を振り返る」
伊奈川に架かる伊奈川橋から振り返ってみると綺麗に見える。橋を渡って右折、大島へ。

伊奈川橋から観音堂を振り返る


「天長院」
大島の集落大島橋の手前で左折、目の前の城山を巻くように進むと、左にあるのが天長院。ここの石仏の中にマリア地蔵と言われている子育て地蔵がある。

「弓矢の立場茶屋跡」
寺のすぐ先の集落が昔の立場茶屋の有った所。

弓矢の立場跡

「大桑の民家」
弓矢集落に入り、右手に大桑駅を過ごし長野橋を渡る。ここにも街道らしい民家が残る。踏み切りで線路を渡り国道に出る。

大桑の民家

「国道からアルプスが見える」
国道に出てしばらくして振り返ると中央アルプスが綺麗に見える。

「歩いてきた道を振り返る」
しばらく川沿いの国道を行く。関山の関所跡(今は汚いモーテルの廃屋が有るだけ)を通って国道にある道の駅大桑に着く。午後1時30分、汗を拭い顔を洗ってさっぱりして、ここのレストランで昼食をとる。





     野尻


    中山道第四十宿 野尻宿


     所在地 長野県木曽郡大桑村
     最寄駅 JR中央本線野尻駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠19、総人口986、家数108
     三留野へ 2里半(9.8q)


「高札場跡」
道の駅を出て間もなく国道から右手に分かれ、しばらく国道と鉄道と平行して進む。道なりに踏み切りを渡って上在郷、林の集落へ。集落を過ぎ再び踏み切りを渡って右にカーブし倉坂を上がる。直進せず左に進むと宿に入る。右に曲がる角に高札場跡の解説板があり、横に髭題目碑。碑の台石はイボ石と言われ、この石に触るとイボが治る。

高札場跡

「宿の入口」
高札場が宿の入口でそこから宿を眺める。この宿の特徴は七曲りと呼ばれ、外敵を防ぐため道が左右にくねっている。左手の家が『はずれ』と言う屋号の尾上家で宿の東の外れ。

宿の入口

「用水と常夜灯と祠」
左手に用水と常夜灯と小さな祠、宿場の中で良く見掛ける景色。

「本陣跡」
左手の植え込みに、小さくて墨跡が辛うじて判る『本陣跡』の木の標識がある。

本陣跡

「明治天皇御小休所碑」
本陣跡に『明治天皇御小休所』の大きな石碑が建つ。

本陣跡の明治天皇御小休所の碑

「脇本陣跡」
本陣跡の斜め向かい、クリーニングの看板のある所が脇本陣の跡。この宿は何度かの大火で宿場らしい建物は失われてしまった。

脇本陣跡

「居酒屋おくや」
昔ながらの看板が軒先に吊るされている。

「旅館庭田屋」
旅館庭田屋の看板が宿場らしさを感じさせる。

旅館麻田屋

「野尻宿の家並」
くねくねと曲がった道に軒を寄せ合って家が並ぶ野尻宿の典型的な風景。

「はずれの吉村家と説明板」
西のはずれの吉田家、家の前に説明板がある。この写真は振り返って見ている。

はずれの吉村家






野尻から三留野へ


「熊野神社」
宿を出て下在郷の集落を過ぎ国道に出る。ここからしばらくは旧道が線路の右へ出たり左に出たり、しかも足場悪く危険な所が有るので止む無く国道を歩く。そのため下在郷と十二兼の一里塚跡を見付けることが出来なかった。十二兼駅手前左崖の上に熊野神社。今日の行程は当初この十二兼駅までと考えていたが只今14時30分、都合の良い電車も無いしまだ早いので、この先の三留野宿の南木曽駅まで足を伸ばすことにする。

「中河原明治天皇御小休所」
十二兼で国道から右に分かれ線路の右に出る。右手に工事中の柿其橋を見て進むと右手に『中河原明治天皇御小休所跡』。ここを過ぎて国道に出る。

中河原明治天皇御小休所

「羅天を行く」
羅天から与川渡までは断崖が垂直に落ち込んでいて、昔は羅天の桟道と呼ばれた木曽屈指の難所であった。藤村の『夜明け前』の有名な書き出しはこの辺りの事を指している。
  『木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに
  臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を
  貫いていた。』

羅天を行く

「与川渡を行く」
急な崖に張り付いて中央本線と国道が走る。鉄道や道路の無かった頃を想像しながら歩く。昔の難所も今は景色の良い快適な道である。

与川渡を行く


「ガードをくぐり牧ヶ沢橋を渡る」
金知屋で国道を渡り、左へ分かれ、国道と線路の間の道をだらだらと上る。これが三昧坂。ガードをくぐり牧ヶ沢橋を渡り坂を上ると三留野宿に入る。





     三留野


    中山道第四十一宿 三留野宿


     所在地 長野県木曽郡南木曾町
     最寄駅 JR中央本線南木曽駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠32、総人口594、家数77
     妻籠へ 1里半(5.9q)


「与川道の分岐」
宿に入ってすぐ左へ上る与川道がある。三留野付近は山が木曽川べりまで迫って、大雨になると『蛇抜け』と呼ばれる山津波が起こり非常に危険であった。そのための迂回路として開かれたのがこの道で、桃の木峠、与川村、与川峠を越えて野尻宿に至る。与川は木曽八景の一つ『与川の秋月』で知られた所。

与川道の分岐

「宿入口から宿を望む」
宿の入口から中心部を眺める。この宿も何度かの大火で古い街並は焼失してしまった。

「昔の屋号が掛かる」
家々には昔の宿場の屋号を書いた表札が掛かっている。

「宿の家並」
卯建のある家が少し残っているとガイドにはあるが、見るべきものは無い。

三留野宿の家並


「脇本陣跡」
宿の中央左手にブロック塀の上に『脇本陣跡』の解説板。

脇本陣跡

「本陣跡」
右手南木曽町森林組合の前に『明治天皇行在所記念碑』と『三留野宿本陣跡』の解説板。

本陣跡


「本陣の枝垂れ桜」
森林組合の駐車場の奥に本陣の庭に有った枝垂れ桜の古木が残っており、町の天然記念物に指定されている。

「格子の美しい民家」
昔の宿の面影を残すものが少ない中にあって、このような民家の姿を見ると、何だかホッとする。

格子の美しい民家

「階段で下る旧道」
街道は道路から右下へ細い階段になって下る。

「秋葉山常夜灯と新しい祠」
左手に秋葉山の常夜灯とその後に真新しい白木の祠。宿の人たちの信仰が今も生きている証。

「梨沢橋」
梨沢橋を渡る。この先左手に読書小学校、珍しい名前。これは三留野村が与川と柿其とが合併し与三柿村となり、その後読書村と変わり、今は南木曾町の読書と言う地名として残っている。





三留野から妻籠へ


「蛇抜橋」
如何にも恐ろしい名前。山津波の恐怖を蛇抜けと表現した昔の人の気持ちが良く判る。

「桃介橋遠望」
街道は三殿営林署の前に出る。ここからは貯木場と線路越しに木曽川に架かる桃介橋が良く見える。これは電力王・福沢桃介によって大正11年に架けられた日本最大級の木造吊橋。

桃介橋遠望

「妻籠宿への道」
この道標に従って先へ進むと妻籠宿へと向かう。しかし今日の行程はここまでとし、右に分かれ南木曽駅へと下る。歩道橋で線路を越えると駅前広場に出る。

「南木曽駅前の中山道標識」
駅前にある中山道の標識、『中山道信濃路自然歩道、上り妻籠宿へ至る』とある。

南木曽駅前の中山道標識

「南木曽駅」
午後4時15分、今回の終着点の南木曽駅に到着す。





今回のウォークは二日とも好天に恵まれラッキーだった。暑くも無く、寒くも無く、日は長いし新緑の木曽路を思う存分楽しむ事が出来た。緑の中、小鳥の囀る声を聴きながら見たニセアカシアの白い花、キリの薄紫の花はとても印象的だった。そしてホオノキの車輪状に広がった大きな葉の中心に、白い蓮のような花が付いたそのまんまの状態で、地面に落ちているのを見たのはビックリで、まるで植物図鑑を見ているような気がした。

南木曽16時36分の中央本線特急ワイドビューしなの22号に乗車。指定席は取れず、自由席は満員で次の中津川まで立ちんぼう。幸い中津川から座る事が出来た。名古屋発17時54分の新幹線こだま482号に乗換え。途中ビールで渇いた喉を潤す。豊橋18時26分着。豊橋駅18時50分のバスに乗車。19時20分無事帰宅。足の裏にマメが出来たようだ。


     47,034歩
     上松〜三留野    29.8q




ページ公開 平成15年2月4日
ページ改良 平成22年11月5日
 写真追加 平成22年12月4日


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