中山道ウォーク その8

平成14年6月17日(月)     三留野から妻籠(大妻籠)まで
平成14年6月18日(火)     妻籠(大妻籠)から馬籠、落合、中津川まで


雪解けを待って再開した中山道ウォーク、今回は木曽11宿の旅の3回目。下の3宿の三留野、妻籠、馬籠と言った中山道でも最高の見所となる。4月は桜、5月は新緑、そしてこの6月は梅雨の最中。今回も家内と一緒のウォークになるので、週間天気予報を見て慎重に日程を決める。

先の奈良井では、奈良井に宿を決めたがため、到着した時には観光客が引いていった後、出発の時は未だ早くて、何れもお店が開いていなかった。折角の見所も、お客が居なくてお店が閉まっているようでは寂しい限り。そこで今回は妻籠、馬籠では泊らずに、その間にある大妻籠の旅籠(民宿)に泊る事とし、妻籠、馬籠ではお店を覗いたり、お土産を選んだりの楽しみを満喫出来るように配慮した。また前回の寝覚の『たせや』さんで気を良くし、鄙びた宿も良いものだと思うようになった事ももう一つの理由である。





初日 6月17日(月)


前回は今回の段取りが上手くいくように、ちょっと無理をして南木曽の駅まで繋いでおいた。だから乗換えの必要は無く特急を降りたらすぐにスタート出来る。
往きの行程は今までと一緒。豊橋8時54分の新幹線こだま441号で名古屋へ、名古屋10時ちょうどの中央線『特急ワイドビューしなの11号』で南木曾まで。10時54分南木曽着。駅前で体制を整え11時に出発する。
初日は時間にゆとりが有るので、前回時間が無く見ることが出来なかった三留野宿等覚寺の円空仏を見ること、そして桃介橋も見ておく事とする。
今朝のニュース、鈴木宗男議員取り調べ今日逮捕状請求。サッカーワールドカップ8強へ4チーム名乗。





三留野から妻籠へ


「桃介橋」
南木曽駅から右手三留野宿へ戻る方向へ歩き出し、程無く左へ、国道を渡ってすぐ、木曽川に架かる桃介橋に着く。近くで見るとけっこう大きな橋である。

桃介橋

「対岸からの桃介橋」
橋の長さは約250m、白い大きな石が一面に広がる河原を跨いで渡る。『一昨日行って来た上高地の河童橋よりずっと良い』とは家内の言。

桃介橋

「桃介橋の概要」
平成6年9月に復元竣工とある。木造であるだけにメンテナンスが大変。でも大正の文化を何時までも残して欲しいと思う。

「等覚寺」
橋から戻って更に右手線路を越え、読書(よみかき)小学校の前へ、そこから山手へ少し行くと右手に等覚寺。立派な山門と鐘楼が見える。300年前に創建された曹洞宗の寺。今は本堂の建築中。

等覚寺

「円空仏」
山門を入った左手に円空堂があり、その中の金庫の中に祀られている。神像、弁才天像と十五童子像がそれ。

「園原先生碑」
寺を出て右手の道を下ると三留野宿の本陣の前。家内に宿の説明をしながら妻籠へ向かう。読書小学校、三留野営林署貯木場の上を通り、道が二又に分かれる所の左手に碑がある。三留野宿東山神社の神官の家に生まれた園原旧富、江戸中期の学者、尾張、美濃、信濃に多くの門人が居た。ここはその屋敷跡、碑は天明3年(1783)の建立。

園原先生碑

「和合の枝垂れ梅」
次の集落が和合の集落で、左手に枝垂れ梅の古木と標柱・解説板が立つ。ここは江戸時代に木曽谷有数の酒造家であり庄屋でもあった遠山家の屋敷跡で、その庭にあった枝垂れ梅が町の天然記念物として今も残っている。

「SL公園のD51」
中央本線のトンネル入口の上を越えると右手にSLのD51351がある。SL公園とは名ばかりで、この様な野晒しではSLがかわいそう。手入れをしないと鉄屑になってしまう。

「ふりそでの松」
SL公園を過ぎると山に入る。次の集落が神戸(こうど)の集落で、左手に大きな松があり根方に石碑。『木曽義仲公巴御前ゆかりのふりそでの松』とある。

ふりそでの松

「かぶと観音と神明社」
松の右手先にかぶと観音。木曽義仲旗上げの時、兜の八幡座の観音像を祀ったのが始まりと伝えられる。続いて神明社。

「ふりそでの松遠望」
神明社の前から振り向いて、ふりそでの松を見る。

ふりそでの松遠望

「道標」
神社の下に五差路、ここがちょっとややこしい。タクシーの運転手が親切に道を教えてくれる。左に道標。

「せん澤の石畳」
五差路から坂を下って川を渡ると間もなく石畳道になり、左手にせん澤の道標。この先竹薮が多くなる。

せん澤の石畳

「上久保の一里塚」
せん澤の道標を過ぎて間もなく、左右に見えるのが上久保の一里塚。江戸から78里目で比較的原型を留めている。左手に解説板、右手には碑がある。

上久保の一里塚

「良寛歌碑」
一里塚の先左手に良寛歌碑。
       木曽路にて   この暮れのもの悲しさにわかくさの妻呼びたてて小牡鹿鳴くも

「良寛歌碑の解説」
江戸後期の歌人良寛がこの付近を通ったときに詠んだ歌が歌碑になっている。

「くぼはら茶屋跡」
茶屋跡にある民家の庭先を通る。

きぼはら茶屋跡

「水車」
庭園の向こうに石置き屋根の水車小屋。

「中山道蛇石道標」
左手に『中山道蛇石』と書いた道標がある。ここから30mほど入ると蛇の頭に似た蛇石がある。

「しろやま茶屋」
砂利道を行くと右手に荒れた建物、しろやま茶屋の軒行灯。今は使われていないようだ。

しろやま茶屋

「妻籠城址」
茶屋のすぐ先、右手に『史跡妻籠城址』の標柱と碑、そして解説板がある。右手の山が城跡で、戦国時代から 木曽の南の抑えとして重要な役割を持っていた。

妻籠城址

「妻籠宿へ」
ここで道は三つに分かれる。右に上がるのが妻籠城址への道、左の舗装道路が飯田への道。真中の坂を下るのが中山道妻籠への道。





     妻籠


    中山道第四十二宿 妻籠宿


     所在地 長野県木曽郡南木曾町
     最寄駅 JR中央本線南木曽駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠31、総人口418、家数31
     馬籠へ 2里(7.9q)


「宿入口の大吉」
坂を下りきった所に宿場まであと1qの標識。曲がりくねって宿に入る。右手に妻籠宿御宿大吉の軒行灯、暖簾に三度笠、強烈な印象で妻籠へ来た〜という気がする。

宿入口の大吉

「鯉岩」
左手にある大きな岩が中山道三名石の一つの鯉岩。明治24年(1891)の濃尾地震で頭の部分が落ち、形が変わってしまったと言う。

「熊谷家住宅」
右手の古い建物、19世紀初頭に建てられた熊谷家住宅、長屋の一部が残っている。

熊谷家住宅

「口留番所跡」
左手の広場になったところに標柱と解説板。戦国時代から17世紀半ばまで関所が置かれていた。

「地蔵沢橋」
この橋を渡るといよいよ妻籠の宿。昭和51年9月に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、電柱や電話の柱は町裏に移し、現在のような景観が出来た。

「高札場跡」
右手に高札場。幕府が庶民に対し禁制や法度等を示したもので、復元した高札が掛かっている。ここで道はカーブし左手には水車小屋がある。

高札場跡

「下町の家並」
宿の北から下町、中町、上町と続き光徳寺の門前町、その先を寺下と言う。宿の下町に入ってやっと人に出会う。観光客の姿が懐かしいと思えるほど、ここまで人に出会わなかった。この辺りお土産や五平餅、喫茶の出来る店が並んでおり、お店を見ながら歩くのがとっても楽しい。

下町の家並

「脇本陣奥谷」
宿の中程、下町の終わる右手、石の門の奥にある立派な建物が脇本陣跡。問屋、庄屋をも兼ねた林家で屋号を奥谷といった。造り酒屋もしていたので財力が豊かで、今の建物は木曽五木の禁制が解けた明治10年に木曽大工の技術と伝統を結集し、総桧造りで再建されたもの。奥谷郷土館として一般に公開されている。

脇本陣奥谷

「卯建のある柏屋」
白壁の卯建が上がった家が柏屋、壁の白さが印象的。

「再建された本陣」
宿中町の左手、柏屋の先に庄屋を兼ねた旧島崎家本陣が再建されている。以前2度妻籠へ来たがこれは無かった。そのはず平成7年4月営林署跡に、江戸後期の間取図をもとに忠実に復元されたという。ここは島崎藤村の母の生家で、次兄広助が養子に入り最後の当主を勤めた。

再建された本陣

「本陣」
左に人馬会所、中央に冠木門、右に板塀が続く。建物は石置き屋根、正面玄関の右に座敷、奥には上段の間がある。左の土間に入るとかまどがあり、台所には囲炉裏がある。多くの資料が展示されている。本陣の見学を済ませたところでお昼とする。今回は少し戻った所の料理旅館の藤乙、鯉の洗い定食にやまうどの小鉢、それにお酒少々。なかなかの美味。

「桝形」
本陣跡の少し先上町で道が右へと曲がる。ここが桝形。

桝形

「ぎんもくせい」
桝形の手前から左へ上がった所、神官矢崎家の庭木として代々大切に育てられてきた銀木犀の巨木がある。幹周り1.91m、高さ8m、枝張り8m四方で県の天然記念物に指定されている。

「桝形の下の道」
桝形で道は二手に分かれる。左の上を行く舗装道路が新道で、右の石畳、石段で下がる道が旧道。その間に常夜灯が立っている。

桝形の下の道

「桝形を下から見る」
桝形を下から見上げる。右手新道が通っていた所は砦であったところ。石垣はその名残。

「松代屋」
桝形の右にあるのが上丁子屋、その先に旅籠松代屋。軒行灯、吊看板、暖簾が時代を感じさせる。店の前に干されている松代屋の和傘の演出がにくい。この並びが妻籠の代表的な顔。

松代屋

「石段を上がって振り返る」
松代屋の手前に解体復元された下嵯峨屋。石置き屋根、片土間の代表的な庶民住宅で町の文化財に指定されている。石段を上がって新道と一緒になる。

石段を上がって振り返る

「寺下の街並」
光徳寺の石段下から寺下と呼ばれ、右手の生駒屋は200年前の建物。この眺めは妻籠のもうひとつの顔で、書物やポスター等でよくお目にかかる。

寺下の街並

「延命地蔵」
宿の左手光徳寺入口脇に延命地蔵、汗かき地蔵とも呼ばれ、文化10年(1813)光徳寺の住職中外和尚が地蔵尊像の浮かび上がった岩を蘭川(あららぎがわ)から運んできて安置したもの。

「光徳寺」
桝形の上の道の左手に臨済宗妙心寺派瑠璃山光徳禅寺。高台に石垣を築き白壁を巡らせてある寺で、中に樹齢500年の枝垂桜が有り町指定の天然記念物。藤村初恋の人おゆふさんの墓がある。

「厩」
寺下の左手に厩、その先に18世紀の木賃宿上嵯峨屋。寺下地区復元保存工事として昭和44年に解体復元された。

厩





妻籠から馬籠へ


「尾又」
出梁造りに格子の家並、お店が途切れる所が尾又。左手に祠があり、右へ行くと尾又橋。ほとんどの観光客はここで橋を渡って行く。

尾又

「蘭川(あららぎがわ)岸を行く」
右手に川が迫ってきて、せせらぎの音が聞こえてくる。左の山上から導水管、右に関西電力妻籠発電所。それを過ぎると左手に最後のお店があり、民芸品のわら馬を売っている。やがて国道を横断すると町営の第3駐車場。その横、川との間を行き田圃や畑地を通って大妻橋へ。この辺り橋場と言い飯田道(清内路越)との追分、民家の庭に高さ3mの石の道標が立っているのだが、見落としてしまった。

「神明茶屋」
橋を渡ると山道に入る。神明坂を上ると右手に神明茶屋。

「金剛屋」
石畳道を下って旧県道に出るとすぐに男たる川に架かる神明橋。橋を渡ると左手に旅籠金剛屋、『諸人御宿金剛屋』の吊看板と軒行灯。その先に波奈屋がある。

金剛屋

「中山道大妻籠の道標」
左に峠へ上がる県道が見えるが合流せず、右に折れると石の道標、橋を渡ると大妻籠。右にトイレ駐車場と案内板。

「大妻籠水車のある風景」
右に水車小屋を見ながら坂を上る。中山道でも大妻籠を通る道は古い道で、江戸中期以降は先の県道で峠へ上がるコースだった。

大妻籠水車のある風景

「大妻籠の家並」
右手に卯建の上がった大きな旅籠が3軒並ぶ。手前から近江屋、まるや、つたむら屋。

「旅籠まるや」
真中の旅籠が今夜の宿に選んだ「まるや」。懐かしい日本の原風景、何処かから、わらべ歌や民謡が聞こえてきそう。午後4時30分、障子紙に『大妻籠旅籠まるや』と墨書されたくぐり戸をくぐって一夜の宿を乞う。通されたのが二階の座敷、街道に面した側に障子がはまっている。外は廊下で板戸が引けるようになっている。今夜の客は我々2人だけ。風呂に入って、6時過ぎから下の座敷で庭を見ながら夕食。メニューはきのこ(山盛りのしいたけ、まいたけ、エリンギ)の鉄鍋焼き、鯉の洗い、鯉の煮物、鱒の塩焼き、豆腐、茄子の田楽、筍の煮付け、汁に漬物、ご飯等。お酒を友に腹一杯になる。

旅籠まるや





この宿も部屋に新聞、ラジオ、テレビが無く、外界との情報が途絶えている。前回、前々回の経験を踏まえた対策で読み物やパズルを持ってきた。日が落ちると外とは紙障子一枚なので、灯りを求めてやってきた虫や蛾がトントンと障子を叩く。その内に女将が上がってきて、板戸を閉めて殺虫剤をシューシューかけて虫退治、掃除機で集めてハイ終り。エアコンをつけてくれたので何とか夜を過ごす事が出来た。


       21,175歩
       三留野〜大妻籠      7.9q





二日目 6月18日(火)



夜中に近くを流れる男たる川の川音が大きくなったり、小さくなったりする。不思議に思うが外は板戸が閉められていて様子がわからない。気のせいかと思って寝てしまう。朝になって板戸を開けたら、や、や、や、な、な、何と雨が降っている。天気予報では二日とも良いはずだったのに〜。川の音が大きくなったり小さくなったりしたのは雨音だったのだ。

朝食も気前の良いご馳走、たらふく食べてこれからの峠越えにそなえる。女将にいろいろ尋ねてみた。大妻籠とは?古くは今の妻籠よりこちらが大きかった、奥妻籠の意味もある。この建物は?寛政の頃から有ったが明治になって焼け、額に入っているおじいさんが再建、そのときに卯建を上げた。

雨の装備をしっかりとして8時30分、女将さんの見送りを受けて出発する。残念ながら雨は本降りである。





妻籠から馬籠へ


「囲炉裏端にて」
『まるや』には座敷が2階に6つ、下に4つ。収容人員は30名まで。学校の団体を泊めることもあるとか。2階の憩いの間の展示場には民具が集められ、養蚕、糸紡ぎ、機織、農耕具、馬具やランプ。ガラスケースには食器や土雛等もある。民俗資料館のよう。階下には囲炉裏が切られており、後ろの額の写真は、ここのおばあさんがここに座って国鉄時代のポスターのモデルになっているもの。なかなかの美人で木曽路の旅情を誘う良い写真。

囲炉裏端にて

「藤原家住宅」
旅籠を出発し、ここから山手へ少し寄り道する。まるやの裏手を通って約15分、長野県宝・藤原家住宅を見る。大きな改造は加えられているものの、間取り、構造、仕上がりが17世紀半ばまで遡る古い建物。石置き屋根、中は日本昔ばなしに出てきそうな素朴な住宅。

「庚申塚」
まるやの前の道まで戻って、馬籠へと向かう。県道と合流する所に庚申塚。大きな解説板が立つ。

「一里塚」
大妻籠を経由するのが江戸時代初期の道で、大妻籠を通らない今の県道が新しい中山道。庚申塚から少し県道を戻ると両側に一里塚がある。上に庚申を祀ってあると言うが下からは見えない。ここには碑も解説板もない。

一里塚

「とうがの沢道標から石畳道へ」
県道を少し行くと左手に「とうがの沢」と彫った道標があり、ここから左へ石畳道で山に入ってゆく。ガイドブックによっては「とうがめ沢」になっているのもあり、どちらとも読める。

「倉科祖霊社」
杉林の中、かなりきつい坂を上ると、棚田のある緩い坂になり下り谷の集落。その先左手に碑と解説板、石段の上に小祠。天正14年(1586)松本城主小笠原貞慶が秀吉関白就任祝いに、倉科七郎左衛門朝軌を遣わしたが、その財宝を狙った盗賊に襲われ一行は全滅。その後地崩れが起り、祟りを恐れた集落の人が祠を建てた。

「男滝」
200メートルほど行くと街道から右へ、滝へ行く道が分かれる。吉川英治の「宮本武蔵」のなかに登場する滝で、滝壷に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説もある。左に男滝、右に女滝がある。武蔵とお通のロマンスの舞台となった滝で、男滝は力強く流れ落ちる。

男滝

「女滝」

女滝は優雅で上品と言われている。滝から階段状の道を上がると県道に出る。そこが滝見茶屋。

女滝

「木橋を渡る」
県道を行くと間もなく先に分かれた旧道と合流する。男たる川の滝上橋を渡ると、右手に木橋がありこれを渡っ て県道から分かれ山道に入る。

「石畳道」
山道を行き再び県道と交差するところが峠入口。石畳道で山に入る。

石畳道

「神居木」
しばらく行くと左手に大きなサワラの木、周囲5.5m、高さ41m、幹の下から上へ向かって枝が伸びている。この様な木を神居木(かもいき)と言い、山の神や天狗が腰を下ろして休む場所と言われている。

「一石栃の白木改番所跡」
山の中から急に開け田の中の道になる。関所門と広場が有り、休憩所が作られている。白木の番所と言われ桧などの細工物を無断で他国へ出さぬよう取り締まった。10時になった、ここで一息入れる。背中の荷物を降ろし汗を拭う。相変わらず雨は降り続いている。

一石栃の白木改番所跡

「一石栃の立場茶屋跡」
番所跡の先右手に立場茶屋の跡、今は使われていないが建物が残っている。

「馬籠峠頂上」
山道を行き最後の急坂を喘いで上ると石畳になり、それを抜けるとバス道に出会う。ここが馬籠峠。海抜801m中山道の難関の一つ。峠の茶屋があるが今日は閉まっている。

「馬籠峠の碑」
茶屋の横に馬籠峠の碑があり、子規の句が刻まれている。
       白雲や青葉若葉の十三里     子規

馬籠峠の碑

「馬籠峠」
県道7号線馬籠峠で南木曾町から山口村に入る。この長野県木曽郡山口村は岐阜県中津川市との合併話で話題になっている。妻籠から馬籠峠を越えて馬籠に入った。

馬篭峠

「熊野神社」
峠からバス道を少し下って再び右手の旧道に入る。急坂を下ると左手に熊野神社。『明治天皇峠御小憩』の碑がある。

「旅籠桔梗屋」
神社を過ぎると間の宿であった峠の集落、左手に旅籠桔梗屋。この集落は宝暦12年(1762)の大火で全焼した後、その後は火災がなく江戸時代の様子が残っている。昔この集落の人の多くは牛方をしていた。

「峠之御頭頌徳碑」
峠の集落の外れ左手に頌徳碑。安政3年(1856)牛方達が運賃配分のことで中津川の問屋に対抗してストを起こし、牛方が勝利した。その時の牛方の頭分である牛行司今井仁兵衛を称えた碑。この事件は「夜明け前」に出てくる。

峠之御頭頌徳碑

「道標」
妻籠、馬籠間は石の道標や中部北陸自然歩道の道しるべが要所要所に立っていて、道に迷うことはない。

「十辺舎一九の碑」
少し下ると右手に一九の碑。馬籠峠付近の名物に栗強飯があり『続・膝栗毛』の中で歌われた狂歌が刻まれている。
       渋皮のむけし女は見えねども栗のこはめしここ乃名物     十辺舎一九

十辺舎一九の碑

「梨の木坂の石畳道を下る」
清水バス停のある県道を横切って井戸沢橋を渡る。右の茶店の横から県道と分かれ石畳を下る。この坂を梨の木坂と言う。

「水車小屋」
次に県道に出会ったところ右手に石置き屋根の水車小屋と碑があり公園の様に整備されている。明治37年(1904)7月11日夜半、大雨による土石流で蜂谷家の家族4人が亡くなった。難を逃れた家人が後年藤村に碑文を頼み、碑を建立した。苦境時代藤村はこの蜂谷家から援助を受けていた。

水車小屋

「水車塚」
       山家にありて水にうもれる蜂谷の家族四人之記念に島崎藤村しるす

「陣場で視界が広がる」
塩沢橋を渡って右手の旧道に入り、杉木立の中を上る。林を抜け民家を逆コの字形に迂回すると急に視界が広がる。この辺りを陣場と言う。昔武将が陣地を張ったところ。雨はだいぶ小降りになってきた。中学生らしい集団が馬籠から上がってきた。

「道祖神」
右手に可愛い道祖神、馬籠宿まであと100m。

道祖神



ページ公開 平成15年2月12日
ページ改良 平成22年11月5日
 写真追加 平成22年12月4日


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