中山道ウォーク その1


平成13年6月26日(火)   日本橋から板橋、蕨、浦和まで
平成13年6月27日(水)   浦和から大宮、上尾、桶川、鴻巣まで


平成11年11月7日に京都三条大橋に到達し東海道を完歩して以来、街道歩きはしばらくのご無沙汰であった。
次の目標である中山道を歩きたいと言う欲望が、私の心の中でモゾモゾと蠢きだしている。
退職後のライフスタイルも何とか定まり体調も万全。そろそろ次の企画を考えるそんなゆとりが出てきた。
多くの資料も読んで準備は万全、さあ、京へ向けて中山道六十七次の旅へ出発しよう。



初日 6月26日(火)


6月25日午後11時40分、家内に二川駅まで送ってもらう。日付が変わって6月26日午前0時01分豊橋行き最終電車に乗車、豊橋で0時36分「ムーンライトながら」に乗換え、4時42分東京着。八重洲口の正面をブリジストンビルへ、その前の道、東海道を左折し日本橋へと向かう。5時30分まだ人通りは殆ど無い。時折ごみ収集車やコンビニへの配達の車が通るそんな風景の中、起点の日本橋から中央通(国道17号線、旧中山道)を板橋へ向け出発する。気温は21度、高曇り。平成10年12月27日にはここから日本橋通り(国道15号線、第1京浜国道、旧東海道)を品川へ向かった。





      日本橋


    日本橋


      所在地 東京都中央区日本橋

      最寄駅 JR東京駅
      板橋へ 2里半(9.8km)


「東海道から眺めた日本橋」
しばらく振りに見た日本橋、ここは五街道、街道歩きの原点、何時見ても感動を覚える。

                 東海道から眺めた日本橋

「石造りの日本橋」
普通に道路を歩いていると日本橋らしさが見当たらない。道路脇の植え込みから下に下りるとこのアングルの日本橋が見られる。これが本当の日本橋。

石造りの日本橋


「中山道から眺めた日本橋」
正に中山道への起点である。

「東京市道路元標」
京都三条大橋まで百三十五里二十四丁八間、約533q、東海道より41qほど長い。





日本橋から板橋へ


中山道
左手に昔の三井越後屋呉服店、今の三越がある。車の無い街、昔見た映画「渚にて」のラストシーンを思い出す。

日本橋から見た中山道

「今川橋跡碑」
中央区と千代田区の境を流れていた龍閑川に架かっていたのが今川橋。川は下水となり埋め立てられ、橋も無くなった。碑には「今川橋のあとどころ昭和五十一年三月東山興行株式会社」とある。     

「神田駅東口JRガード」
日本橋のすまし顔の街から仕事の街へと景色が変わる。この辺り現役時代には良く歩いたところだが、趣味で歩くのはまた趣が違う。
  
「昌平橋」
神田須田町交差点を直進、交通博物館を右手に外堀通りへ右折、JR中央線ガードくぐり神田上水に架かる橋を渡る。この辺りが筋違見附で橋が昌平橋。橋を渡ってJR総武線ガードをくぐり左折、右折、左折をして湯島聖堂の裏に出る。このコースはガイドが無いと難しい。

                 昌平橋

「神田明神」
右手に湯島聖堂、孔子とその高弟達の像を安置してある建物。寛永9年(1632)に林羅山が上野に開いた私塾を元禄4年(1691)綱吉が湯島に移し、後に幕府の学問所となった。この向かいに見える鳥居が神田明神。いなせな下町のお兄さんが神輿を担ぐ威勢の良い声が聞こえてきそう。

神田明神

「かねやす」
本郷通りが右手から合流し、東京医科歯科大を左に本郷3丁目交差点へ。ここの左手前角に有るのがかねやす。江戸川柳で「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と言われた口中医師兼安で、乳香散と言う歯磨きを売っていた。今は化粧品店。交差点の右向かいに羊羹の藤村。

「赤門」
右手一帯が元加賀前田家の上屋敷で今は東京大学。朝の散歩をする人がチラホラ。この門は国の重要文化財、文政10年(1827)十一代将軍家斉の娘溶姫が前田家に嫁いだ時に建てた朱塗りの門。正式には旧加賀屋敷御守殿門と言う。

                 赤門

追分一里塚跡
言問通りの交差点が本郷弥生、森川宿と呼ばれた立場であった。そのすぐ先東大農学部前交差点が本郷追分で、日光御成り街道との分岐、ここに中山道最初の一里塚が有った。追分の角が高崎酒店で江戸の頃から約240年続く古い酒屋。中山道はここで左に曲がる。

追分の一里塚跡

「大円寺」
ほうろく地蔵。街道から少し右に入った所にある。高島秋帆の墓とほうろく地蔵。八百屋お七の火事はこの寺から出火した。

「真性寺」
白山上の交差点が駒込追分。この先東洋大学を左手に進み、千石駅前で白山通りと合流。道幅が広くなる。右手に六義園を望み、間も無くJR巣鴨駅前。山手線の上を巣鴨橋で渡るとその先左斜めに入るのが中山道で巣鴨商店街。巣鴨商店街の入口の左手に醫王山真性寺。江戸六地蔵の一つ、大きな笠かぶり地蔵菩薩坐像があり、その脇に芭蕉句碑がある。
      しら露もこぼれぬ萩のうねり哉     芭蕉

「巣鴨地蔵通商店街」
街道の上に大きな商店街の看板。お参りに行く年配ご婦人の多さから、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれ、昼間は真っ直ぐに歩けない程と言われるが今は未だ早朝7時30分、お店や露天の開店準備が始まったところ。ここで一息入れて朝食を取る。

巣鴨商店街

「洗い観音」
とげぬき地蔵の高岩寺境内にある。最近人気とかで早朝からたわしで洗う順番待ちが出来る。

高岩寺
街道の右手。明治二十余年に下谷の上車坂町から移ってきたと言う。病人がここの地蔵の絵姿を飲むか、患部に貼るなどすれば刺が抜けたように治ると言うので、とげぬき地蔵と呼ばれ有名になった。

                 高岩寺

「中仙道庚申塚」
とげぬき地蔵の先交差点の右角に巣鴨猿田彦大神のお堂。その前に「中山道庚申塚・猿田彦大神庚申堂」の石柱。昔巣鴨の立場茶屋が有った所。地蔵通商店街から庚申塚商店街に変わる。

「都電荒川線」
東京に残る唯一の都電・荒川線を渡る。明治通と交差し滝野川に入る。

「滝野川にある古い商家」
このような何でもない造りの家が目立つほど、今の街は新しくなってしまったのかと思う。埼京線踏切の手前に一里塚があった。埼京線の踏切を渡る。左手が板橋駅。





      板橋

    中山道第一宿 板橋宿


      所在地 東京都板橋区板橋
      最寄駅 JR埼京線板橋駅
      本陣1、脇本陣2、旅籠54、総人口2,448、家数573
      蕨へ 2里10町(9.0q)


「板橋宿のアーチ」
埼京線を渡ると板橋区になる。ここからが板橋宿の中の平尾宿と呼ばれたところ。やがて国道17号に斜めに交差。17号は立体になっており頭の上高い所にも車が走っている。向かいに渡り右斜めに進むのが中山道。道路入口に板橋宿のアーチ。路面は石畳風に舗装されている。

                 板橋宿のアーチ

「観明寺」
宿に入ってすぐ右手に如意山観明寺。入口左手に寛文元年(1661)建立の庚申塔。

「銭湯」
右手に銭湯花の湯。子供の頃に通ったお風呂屋さんの記憶が懐かしく蘇ってくる。

「板橋宿本陣跡碑」
右手スーパーライフの手前、民家の脇に、黒御影石で板橋宿本陣跡。この奥のお宅が本陣の飯田家。

                 板橋宿本陣跡碑

「宿中心・仲宿」
右手に本陣跡碑が見える。左手の石神医院の玄関脇に高野長英ゆかりの地の説明板がある。

宿中心・仲宿

「文殊院」
スーパーの先を右に入った所にあるお寺。本陣飯田家の菩提寺で、宿場遊女の墓がある。

「板橋」
仲宿と上宿を分ける石神井川に架かる橋が板橋。板橋の地名発祥の橋。木製の欄干が作られ距日本橋二里二十五町三十三間の木柱と解説板が立っている。橋を渡った左手に脇本陣板橋家があった。

板橋

「板橋から左手国道17号線を望む」
下を流れるのが石神井川、高い所を走るのが17号線。パトカーや救急車のサイレンの音が絶え間無く聞こえる。橋のすぐ先右手に大きな常夜灯のある賑わい広場。ここで小休止、顔の汗を拭う。





板橋から蕨へ


「縁切榎」
その先信号交差点右向こうに縁切り榎。小さな祠と榎の木。側に解説板。榎の皮を煎じて相手に飲ませれば、別れられると言われた。昔は左側に有ったが今の3代目から右に。嫁入り行列は決してこの下を通らない。皇女和宮下降の時はこの榎を包んで見えないようにしたとか。環七通りを渡って清水町に入る。泉町の交差点で国道に合流、程無く都営地下鉄三田線本蓮沼駅。

「志村の一里塚」
国道の左右に榎が見えてくる、これが江戸から3里目、初めて現存する一里塚に出会う。国指定の史跡志村の一里塚。今の木は3代目とか、両側の塚を結ぶように歩道橋が架かっている。

志村の一里塚

「志村の一里塚」
こちらが左側の塚。この歩道橋を渡り清水坂へと向かう。

「清水坂上」
一里塚の先が志村坂上駅。志村坂上交差点の交番を挟んで左の細い道が中山道。静かな住宅街を下る。

「庚申塔と大山道道標」
静かな住宅街に入る。坂の途中、左に折れる道の角に庚申塔と道標が立っている。庚申塔は道標を兼ねていて「是より富士大山道、練馬江一里、柳沢江四里、府中江七里」とあり万延元年(1860)の建立。道標は「大山道ねりま川こえみち」とあり寛政4年(1792)の建立。

                 庚申塚と大山道道標

「清水坂碑・上」
坂の途中に二つの清水坂碑がある。どちらも街道の左手。

「清水坂碑・下」
坂をS字型に下り最後に急に右折する所の左手に下の碑と解説板。この右折する手前辺りが右富士の名所。中山道で右手に富士が見えるのはここだけと言う。右折した所が志村の立場跡。

「まもなく戸田橋」
清水坂を下り、地上に出てきた都営地下鉄三田線をくぐり、国道17号へ出る。この国道の向かい辺りに総泉寺がありその境内に薬師の清水がある。環八通りの交差点を対角線状に向かいへ渡る。国道の右一筋目が中山道、500mばかり行って再び国道に合流する。やや右にカーブしながら進むと前方に戸田橋が見えてくる。

まもなく戸田橋

「戸田橋」
中山道最初の難所と言われた戸田の渡し、戸田橋の右、埼京線新幹線鉄橋の少し下流にあった。今は歩いて渡るしかない。切れ目無く走る車を横目に歩く。他に歩いて渡っている人は誰も居ない。これを渡ると埼玉県戸田市になる。

                 戸田橋

「水神社」
荒川の戸田橋を渡って右に入ると堤防の下に小さなお社の水神社。石の鳥居と水神の碑がある。

「戸田渡船場跡碑」
神社の前の堤防上に中山道戸田の渡し場跡碑と解説板。平時の川幅は約60間(100m)深さ4尺(1.2m)。出水すると1丈8尺(5.5m)にもなり川止め、旅人は水が引くまで滞在するか、江戸へ引き返して千住宿へ回った。

「中山道説明板」
途切れ途切れの旧道をガイドの地図を頼りに歩く。戸田団地先のスーパーベルクスのマックで小休止、アイスコーヒーとハンバーガーで一息吐く。ここを出て国道までのわずかの、斜めの道が中山道。右手に小公園があり中に「歴史の道中山道」の案内板が立っている。





      蕨  


    中山道第二宿 蕨宿


      所在地 埼玉県蕨市中央
      最寄駅 JR京浜東北線蕨駅
      本陣2、脇本陣1、旅籠23、総人口2,223、家数430
      浦和へ 1里14町(5.5q)


「蕨宿入口」
錦1丁目南交差点で国道から右に分かれる。

「中山道蕨宿碑」
交差点の中洲に、真新しい石碑が建っている。

中山道蕨宿碑

「二階が格子造りの民家」
宿に入ってすぐ目に入ったのが、街道の右側にある二階が格子造りの民家。堂々としている。

「古い民家」
街道の左、何処もがマンションに建て変わる時代に、古い佇まいを残している。何か由緒が有りそう。

「本陣跡」
中央5丁目の左、本陣跡のモニュメントと解説板。岡田加兵衛家と岡田五郎兵衛家が宿場の問屋・本陣・名主を世襲し中山道をはさんで向かい合うように建っていた。加兵衛家には文久元年(1861)には皇女和宮が休息し、明治元年(1868)と3年には明治天皇の御小休所となった。

                 本陣跡

「本陣跡と蕨市立歴史民俗資料館」
本陣跡は一の本陣と呼ばれた岡田加兵衛本陣の跡で、本陣をイメージしたモニュメントがあり、左隣に資料館がある。

本陣跡と蕨市立歴史民俗資料館

「脇本陣跡の薬局」
資料館の左隣の薬局が脇本陣の跡。

「蕨宿出口」
旧道が国道17号と交差する手前左にふれあい広場。ここにも中山道蕨宿碑。角のファミリーレストランで昼食をとる。出た汗が一度に引く。





蕨から浦和へ


「古い民家」
国道17号を渡った左に街道の面影を残す民家、豪壮な造りと蔵が当時の繁栄を物語る。

「一里塚の跡碑」
錦町5丁目を過ぎると浦和市に入る。緩いカーブの続く道となり、やがて東京外環状自動車道をくぐる。その手前右に一里塚公園があり一里塚跡の碑と弁天様の小祠が立っている。

一里塚跡碑

「焼米坂」
国道と交差し次の五差路を左斜めへと進むと南浦和小学校。この前の上り坂が焼米坂、昔はここに茶屋が有って、焼き米はここの名物であった。籾のままの米を焼きそれを搗いて殻を取ったもので、旅人の携行食や備蓄用に用いられた。この下を武蔵野線がトンネルで通っている。

「調神社」
市街地に入り、右手の森が調神社。祭神は月読命、昔、税の一種の調(つき)をここに集めた。

                 調神社

「調神社の狛犬代わりの兎像」
権現造りの社殿は安政5年(1858)のもので、境内の樹林は天然記念物に指定されている。調を月とし、月の使いの兎を狛犬の代わりに置いてある。鳥居のない神社でもある。

調神社の狛犬代わりの兎像

「古い商店」
神社の先は市街地であるが、ところどころに街道の名残の風情を見せる民家が目に付く。




      浦和


    中山道第三宿 浦和宿


      所在地 埼玉県さいたま市(旧浦和市)常盤

      最寄駅 JR東北本線浦和駅
      本陣1、脇本陣3、旅籠15、総人口1,230、家数273
      大宮へ 1里10町(5.0q)


「中山道浦和宿碑」
道は商店街となり、歩道も整備され、宿の入口には中山道浦和宿の碑が立っている。

中山道浦和宿碑

「浦和宿中心部」
左手には立派なセンチュリーシティービル、この中に美術館も有るとか。ここを左に行くと市役所。左手奥には玉蔵院。弘仁11年(820)弘法大師の創建と言われ、江戸時代には関東十檀林(僧の学問所)の一つに数えられた名刹がある。

「本陣跡説明板と明治天皇行在所跡碑」
市役所通りの交差点を過ぎ、左手少し入った所に小公園。ここに大きな「明治天皇行在所跡」の碑があり、その横に「本陣跡」の解説板がある。幼稚園バスが着く時間なのか若いお母さん達でいっぱい、脇に避けて貰って写真を撮る。

本陣跡説明板と明治天皇行在所跡碑

「慈恵稲荷と浦和宿二・七市場跡碑」
本陣跡のすぐ先、慈恵稲荷前の歩道の脇、慈恵稲荷神社の標石に寄り添うように二・七市場跡の白い標柱が立っている。二の日と七の日、月に6度の市が立ち付近の村々から穀類、木綿、布等が商われた。戦国時代から続く古い歴史を持っていたと言う。写真を撮ろうとする場所に不法駐車、こんな事がしばしば有る。

慈恵稲荷と浦和宿二・七市場跡碑

中山道浦和宿碑
街道の左手、宿の出口あたりの歩道上に、入口に有ったのと同じ碑がある。





初日の行動は午後5時にて打上げ、今夜の泊まりの浦和東武ホテルに入る。今回は現地へ入ってから電話でホテルを探した。中山道から左に入った県庁第二庁舎の近くにあるシティーホテルだが、キャンペーン中とかで割安で泊まれることになった。先ずは頭からシャワーを浴びて今日一日の汗を流す。今日はこの夏最高の暑さだったとか。明日も晴天で暑く北部では雷雨の予報。


       57,756歩
       日本橋〜浦和   24.3km





二日目 6月27日(水)


7時朝食はホテルのバイキング、腹ごしらえ十分にして7時30分チェックアウト。本日午後から雷雨注意報が出ている。用心、用心。





浦和から大宮へ


「一本杉碑」
街道を進む。有料道路新浦和橋の下をくぐり、JRの上を浦和橋で越える。JRを左に見て進むと北浦和駅東口、さらに進んで針ヶ谷3丁目の左手に一本杉碑。ここは仇討が行われた所として有名。昔は供養塔が有ったらしいが今は無い。

「与野の半里塚の欅」
与野駅信号交差点の右、道路の真中に大きな欅、これが半里塚の欅と言われているもので、半里塚と言う言葉自身が珍しい。

与野の半里塚の欅

「欅並木」
与野駅東から「さいたま新都心」駅(何時の間にか昔の大宮操車場跡に近代的な駅が開業している)東までの間、道の両側に欅の並木、市街地でこのような立派な並木が有るのは貴重だ。

「さいたま新都心」
針ヶ谷から大宮までの間は、昔は広大な原っぱで、中ほどに立場茶屋があった。ここから近国の高山が見えた。富士、浅間、甲斐、武蔵、下野日光、上州伊香保などで、そのため六国見と呼ばれた。今は左前方にさいたま新都心の高層ビルが見える。

さいたま新都心

「さいたま新都心」
新しいビルと線路の先にさいたま新都心駅が見える。

「刑場跡の二基の碑」
欅並木が切れた所が高台橋、この辺りは昔の刑場跡。祠の中に受刑者の供養碑がある。



ページ公開 平成14年11月28日
ページ改良 平成22年10月28日
 写真追加 平成22年10月28日



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