中山道ウォーク その13



平成15年1月13日(月)
成人の日     赤坂から柏原まで





前回の『中山道ウォークその12』では新加納から赤坂までを暮れの12月14日に歩いた。年内にもう一度と考えたのだが、何やかやがあって実現出来ず、年を越してしまった。

明けて今年は平成15年。日本橋から板橋に向けてのこの『中山道ウォーク』の第1歩を踏み出したのが平成13年6月であるから、数えて丸1年半が経った事になる。今年こそは早い時期に中山道を完歩したいと言う気持ちと、完歩してしまうのが惜しいと言う気持ちとが複雑に交錯する。





1月13日(月)成人の日


今朝も家内にJR二川駅まで送ってもらって出発する。前回と同じ電車二川発7時35分に乗車、豊橋で乗換え、7時50分発特別快速で大垣へ、大垣から枝線の美濃赤坂行きに乗換え9時17分発、2駅目の終点美濃赤坂に9時23分着。駅前から矢橋家横の路地を通って中山道赤坂の宿へ。前回はここで終わったが、今朝は赤坂湊まで戻ってそこから改めてスタートする。

今朝の新聞の見出しには『理系・文系中学で色分け埼玉県志木市』とある。





     赤坂


    中山道第五十六宿 赤坂宿


     所在地 岐阜県大垣市
     最寄駅 JR東海道本線美濃赤坂駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠17、総人口1,129、家数292
     垂井へ 1里12町(5.2q)


「矢橋家横の路地」
美濃赤坂駅から宿場へ向かうと矢橋家の横の路地を通る。この辺りみんな矢橋**で元本陣矢橋家一族のものと思われる。屋敷の壁や塀は蔵のように普段は板壁で火急の時は楔を外すと土壁が出るようになっている。

矢橋家横の路地

「赤坂湊の常夜灯とモニュメント」
宿に入ってから一旦赤坂湊まで行き、そこからスタートを切ることにする。杭瀬川大橋の右手には常夜灯と復元された赤坂湊。その奥に白い洋館の赤坂港会館。左手には常夜灯をイメージした背の高いモニュメントが聳えている。

赤坂湊の常夜灯とモニュメント


「赤坂湊」
川の向こうに港が再現されている。3階建ての洋館が白く朝の日に輝いている。

赤坂湊

「赤坂宿本陣跡碑」
赤坂湊から宿場を西に向かうと間も無く西濃鉄道貨物線の踏切を渡る。この貨物線は石灰岩の山である金生山から掘り出された石灰を搬出するための鉄道である。赤坂から北に見える金生山は東斜面を大きく削られ無残な姿を見せている。貨物線を渡った先、左手小公園に『本陣跡』の標石と碑、解説板がある。ここに矢橋家本陣があった。間口24間4尺(約45m)敷地2反7畝(2,650u)建坪239坪(約790u)の規模で、玄関・門構えを備えた建物であった。門は現在の矢橋家に移築されている。

赤坂宿本陣跡碑


「所郁太郎の像」
公園の奥に勤皇の志士、所郁太郎の銅像がある。解説によると、彼はこの宿の矢橋亦一の4男として産まれ、医師所伊織の養子となり、その後勤皇の志士となる。長州藩遊撃軍参謀となり、井上馨が刺客に襲われ重傷を負うと外科手術をして一命を救った。28歳で病没とある。

所郁太郎の像

「谷汲道道標」
宿の中央十字路の手前右手一画に小さな禅蔵寺道標と大きな常夜灯型谷汲道道標と赤坂宿碑がある。右に行くのが谷汲山華厳寺への巡礼道。

谷汲道道標


「矢橋家の屋敷」
左向こう角に建つのが本陣を務めた矢橋家の屋敷。明治以後の建物と言われるが立派なのには驚かされる。

矢橋家の屋敷


「脇本陣跡の榎屋旅館」
本陣の先左手の民家、二階袖壁に榎屋旅館と印されている。その家の前に『史跡中山道赤坂宿脇本陣跡』の標石が立っている。ここが脇本陣の跡で当時は建坪155坪(約512u)であった。この家の前の部分は旅館に変わったが、奥には上段の間など屋敷の一部が残っている。

脇本陣跡の榎屋旅館

「日蓮宗妙法寺」
右手に日蓮宗妙法寺、入口左手に『史跡所郁太郎墓』の標石がある。

「子安神社」
右手奥に鳥居が見えるのが子安神社。祭神は神功皇后で安産の神様。角の塀に『こくぞうぼさつ金生山明星輪寺』の看板がある。神社の右手がこのお寺への参道で、持統元年(678)役の行者の創建という古い寺。

「御茶屋屋敷跡」
左手に少し入ったところ赤坂中学校の横に将軍専用の宿泊施設だった『御茶屋屋敷跡』がある。大垣市指定文化財で矢橋家が管理し、今はぼたん園になっている。

御茶屋屋敷跡

「赤坂宿の家並」
二階の低い、袖壁を持った格子造りの家が並び落着いた雰囲気である。

赤坂宿の家並

「赤坂宿御使者場跡碑と兜塚」
左手少し高いところに兜塚。関ヶ原の合戦前日の戦いで亡くなった兵士を葬ったところで、古代の古墳でもある。左に『史跡赤坂宿御使者場跡』の標石も立っている。再び西濃鉄道貨物線を渡る。これは大久保駅や昼飯駅の石灰の荷積み駅から来る線。これを渡って宿を出る。

赤坂宿御使者場跡碑と兜塚





赤坂から垂井へ


「大塚古墳」
宿を出て間も無く、左手街道沿いの民家の間から古墳が見え隠れする。ここ昼飯と次の青墓地区は古墳の密集地帯で、その中に有ってこの大塚古墳は最大級の古墳と言われる。

「花岡山如来寺」
昼飯の集落右手に浄土宗の花岡山如来寺があり、参道入口の右手に『善光晝飯御憩舊跡』の石柱が立っている。本田善光が難波の堀江で海から拾った仏像を、背負って信濃へ行く途中ここで昼食の供養をした事からこの地を昼飯(ひるいい)村と名付けられた。その後善光寺三尊仏の分身を奉じて花岡山に如来寺が建立され、後ここに移ったと言う。

花岡山如来寺

「よしたけ庵跡」
県道を横切りJR東海道本線下り線のガードをくぐると青墓に入る。集落の西の外れ、右手に石仏や石碑、五輪塔があり、『青墓のよしたけあん』の解説板と『小篠竹の塚』がある。源義経が金売り吉次と奥州へ下る途中、ここで父や兄の供養をし、源氏再興を祈願して芦(よし)の杖を地面に突き立て歌を詠んだ。
       さしおくも形見となれや後の世に源氏栄えばよし竹となれ
その後杖から根や葉が生えよし竹となった。

よしたけ庵跡

「照手姫水汲みの井戸」
よしたけ庵跡のすぐ手前を左に折れしばらく行った右手に『史跡照手姫水汲井戸』の石柱と奥に井戸と解説板がある。説教浄瑠璃『小栗判官』伝説で、照手姫が青墓の長者大炊家で召し使われこの井戸で水汲みをさせられたと言う。この辺り伝説の多い所だ。

「国分寺道道標」
橋の側に『青墓宿』と書いた標柱が立つのを見て大谷川を渡り、県道を斜めに横断する。この辺り集落ごとに国旗掲揚台が有り日の丸が翻っている。今日は成人の日、久しく見なかった風景に感動を覚える。やがて右手に常夜灯を兼ねた『国分寺道』道標がある。この先山麓に国分寺、途中の田の中に史跡公園がある。

国分寺道道標

「教覚寺」
国分寺道に折れたすぐ左手に春日の局ゆかりの寺と言われる教覚寺がある。

「一里塚跡」
旧道に戻って間も無く右手に背の高い『大神宮』と彫られた常夜灯がある。その前に『史跡中山道一里塚跡』の石柱がありこれが青野一里塚。ここからしばらくは、かつて青野ヶ原と呼ばれた所を西に向かって一直線に進む。黙々と歩くことおよそ30分。

一里塚跡


「垂井の追分道標」
左から来る道と合流する角に鎖で囲われた一画が有り、中に背の低い松と『右東海道大垣みち』の道標と解説板がある。囲いの外、道の角に木製の道標がある。ここが中山道と美濃路の合流点、垂井の追分である。美濃路を行くと東海道宮の宿に至る。

垂井の追分道標

「相川橋」
継父(ままてて)川に架かる追分橋と相川に架かる相川橋を渡る。





     垂井


    中山道第五十七宿 垂井宿


     所在地 岐阜県不破郡垂井町
     最寄駅 JR東海道本線垂井駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠27、総人口1,179、家数315
     関ヶ原へ 1里14町(5.5q)


「相川の人足渡し跡」
相川橋を渡ると垂井の宿に入る。橋を渡った左手に『相川人足渡し跡』の解説板があり、かつてここは大井川のように人足で渡っていたとある。享保8年では、ひざで16文今に換算すると約100円、腰で24文(160円)、ちちで45文(300円)だった。

相川の人足渡し跡

「東の見付の解説板と宿場マップ」
すぐ先左手に『東の見付』の解説板、隣に大きな『中山道垂井宿観光マップ』があり、その前に『中山道垂井宿』の標柱が立っている。宿に入ってすぐに右にカーブする。

東の見附の解説板と宿場マップ

「旅籠亀丸屋」
宿場の中で僅かに鍵の手になった十字路が有りそこが桝形で、ここからが宿の中心部になる。この十字
路の右向こう角に旅館亀丸屋がある。

旅籠亀丸屋


「亀丸家の説明板」
江戸から200年続いた旅籠亀丸屋で今も当時の姿を残して営業している。建物は安永6年(1777)のもので
二階の格子が当時の姿で残っている

「問屋跡」 
宿の左手『垂井宿問屋』の解説板が立った家がある。背の低い二階屋で下は格子作りになっている。問屋は3軒あって3日交代で勤めた。ここは金岩家で宿の庄屋も務めていた。

問屋跡

「立派な入口の民家」
宿の右手には立派な入口を構えた家がある。何をしていた家なのだろうか。

「垂井宿本陣跡」
左手安田歯科医院の建物に張り付くように『中山道垂井宿本陣跡』の標柱と解説板がある。寛政12年(1800)の記録では建坪178坪で玄関や門、上段の間を備えた広大なものであった。本陣職は栗田家が務め酒造業も営んでいたとある。

垂井宿本陣跡


「南宮大社の大鳥居」
宿の中ほど左手に南宮大社の大鳥居、鉄製で高さ21m、額には『正一位中山、金山彦大神』。大社は旧国弊大社で美濃国一宮、祭神は金山彦命。鉱山や金属の神様でこの先およそ600mのところにある。鳥居の前には常夜灯がある。

南宮大社の大鳥居


「垂井の泉と玉泉寺」
鳥居をくぐった少し先、右手に臨済宗の玉泉寺、お寺の前には『臥龍山玉泉禅寺』と『奥山半僧坊大権現』の石柱が立っている。その先に垂井の泉がある。

垂井の泉と玉泉寺

「垂井の泉」
垂井の泉は、垂井の地名の起こりとなったもので、奥にある欅の大木の根元から湧き出している。泉は県の指定史跡、欅は県の天然記念物になっている。良く整備されボタンを押すとスピーカーから説明が流れる。ボタンを押してみたら聞くのは自分一人なのに結構大きな声だったので慌ててスイッチを切った。

垂井の泉


「芭蕉句碑」
泉の左手に芭蕉の句碑があり、投句のポストも備えてある。
       葱白く洗いあげたる寒さかな     芭蕉翁

「本龍寺」
街道に戻って先に進むと右手に大きなお寺がある。浄土真宗の東光山本龍寺で門前に『明治天皇垂井御小休所』の石柱と解説板が立っている。奥の山門は脇本陣から移したもの、この辺りに高札場が有ったと言う。

本龍寺

「垂井宿商家油屋卯吉家跡」
本龍寺の向いには古い商家がある。二階は黒い塗篭造り下は格子で如何にも宿場の家と言った感じ。文化年間末頃に建てられたものと言う。

垂井宿商家油屋卯吉家跡

「本龍時と垂井宿の街並」
左に油屋、右に本龍寺を見て先へと進む。

「西の見付と廣重の絵」
やがて左手に木製の垂井宿の標識と、金属製の廣重の絵と解説板が立っている。解説板にはここが西の見付で、廣重はここから西の松並木を見て、雨の中を大名行列が向かってくる様子描いているとある。

西の見附と広重の絵





垂井から関ヶ原へ


「日守の茶屋」
宿を出てしばらく進むと東海道本線上り線の踏切を渡る。続いて国道21号線を歩道橋で越して左斜めへと進むと左手に垂井の一里塚がある。その手前にあるのが日守の茶屋、昭和の頃までは茶屋として使われていた。

「垂井の一里塚」
今は左の塚しか残っていないが、良い状態で保存されており史跡に指定されている。関ヶ原の合戦では東軍の浅井幸長が陣を敷いたと言う。この辺りで昼になった。今度は国道を右へ横断するのだがその手前に喫茶軽食の店が有ったのでここで昼食とする。旧道を歩いているとなかなか上手い具合に食堂が見付からないのだが今回はラッキー。

垂井の一里塚


「伊富岐神社」
国道から右に出てしばらく進む。垂井町から関ヶ原町に変わった。右手に『縣社伊富岐神社』の石柱と常夜灯と石の鳥居があり、門松注連縄が飾られている。神社は鉄道線路を越したはるか先、祭神は鵜鵞草葺不合尊で美濃国一の宮だった事もあるとか。

伊富岐神社

「班女の観音堂」
左手の国道の先には専念寺。謡曲『班女』の観音堂があるとか。

「松並木」
しばらく振りで松並木になる。一部の区間は綺麗に整備されており、若い松も補植されている。

松並木

「六部地蔵」
松並木の中に地蔵の祠と綺麗な解説板。これが六部地蔵と言われる地蔵さん。厨子を背負って行脚する行者がこの地で倒れ、村人が祠を建てて祀ったもの。

「徳川家康最初陣地」
左手国道の向こうの山の斜面に『桃配山徳川家康最初陣地』の看板と幟がはためいている。関ヶ原の合戦で徳川家康が最初に陣地を構えた所。また壬申の乱で天武側の本拠地であった所とも言う。

徳川家康最初陣地

「松並木」
国道と合流し一ッ軒交差点で右折し、国道とJR東海道本線との間にある道へと左折する。再び松並木が続く。





     関ヶ原


    中山道第五十八宿 関ヶ原宿


     所在地 岐阜県不破郡関ヶ原町
     最寄駅 JR東海道本線関ヶ原駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠33、総人口1,389、家数269
     今須へ 1里(3.9q)


「若宮八幡」
松並木が終り左手の国道21号線に合流すると関ヶ原宿の東町に入る。右手に村社若宮八幡神社がある。

「関ヶ原宿の家並」
この宿の道は国道となっているため車の往来が激しく騒音がひどい。山間部へ入ったこと、両側に家が並んでいる事等が理由かと思ったのだが、どうも全ての車が冬用タイヤを履いているかららしい。

関ヶ原の家並


「旅籠桝屋」
次の交差点東公門の先右手に古びた木の看板で『旅籠枡屋』、灯りの入る看板に『創業永長元年旅館桝屋』とあるのが昔の旅籠の面影を残した旅館の桝屋。

「脇本陣跡」
駅前への交差点を過ぎた右手に門が有り『脇本陣』の表札が架かっている。門の前には『至道無難禅師誕生地』の標石。ここが脇本陣だった相川家でここから江戸初期に標石に有る禅僧が出た。

脇本陣跡


「八幡神社」
この先歩道橋の有る所を右に曲がると八幡神社がある。この宿の産土神で祭神は応神天皇。

「本陣跡のスダジイ」
八幡神社境内、鳥居の右手に大きなスダジイがある。これが『天然記念物関ヶ原本陣跡スダジイ』で本陣の庭に有ったのを移されたもの。本陣はこの前辺りに有ったものか。

本陣跡のスダジイ


「八幡神社と北国街道」
八幡神社の前を通って北に向かう道が北国街道脇往還で、この北側一帯が関ヶ原古戦場。

八幡神社と北国街道

「園龍寺の明治天皇御膳水碑」
国道365号線を横断する手前右手に大きな『明治天皇御膳水』の石柱の立つのが遍照山園龍寺。

園龍寺の明治天皇御膳水碑

「常夜灯」
交差点を渡って西町に入ると左手に常夜灯があり、門松としめ飾りがしてある。過去の遺物ではなく、まだ人々の暮らしと繋がっているようで、ほのぼのとした温かみを感じた。

常夜灯

「西首塚」
右手に西首塚がある。幟が何本か立っていて、奥に『史跡関ヶ原古戦場西首塚』の石柱と祠が二つある。その奥の大木の下に塚が有る。家康が敵の首を実験し埋めた所が東首塚と西首塚と言う。

西首塚





関ヶ原から今須へ


「月見の宮碑」
西首塚から約200mで国道から左に分かれる。しばらく行った左手に『月見の宮、福島陣跡一丁』の標石がある。この奥に月見の祠(やしろ)と言われた月見の名所松尾春日神社があった。またこの辺りに東軍の福島正則が陣を張った。

「不破の関跡」
上りの道を進むと左手に白い土塀の家が目に入る。犬矢来のある門前に『不破関舊跡』の標石と『不破関跡』の解説板がある。1300年前壬申の乱の後、天武天皇がここに関所を置いた。愛発、鈴鹿と共に三関と言われた。雪が残っていて雪と白壁の白さがとても印象的。

不破の関跡


「不破の関にある中山道道標」
ここを過ぎると道が二手に分かれる。右に行くと資料館、街道は左の坂を下る道を行く。

「藤古川」
坂を下ったところが藤古川、橋の横に解説板がある。壬申の乱はこの川を挟んで東に天武軍(大海人皇子)、西に弘文軍(大友皇子)が陣を張り、夫々の地区が夫々についた。戦後東の地区は天武天皇を、西の地区は弘文天皇を氏神として神社を立てた。

藤古川

「矢尻の池」
橋を渡って坂を上るとやがて左に小さな池がある。大海人皇子の軍の兵士が水を求めて矢尻で掘った池と言われている。

矢尻の池

「若宮八幡」
右からの国道に合流しすぐに右手へ分かれると山中の集落になる。右に若宮八幡神社の鳥居、神社は上の東海道本線を越したその上、山の中腹にある。

「鶯滝」
左下の川から聞こえるのが鶯滝の音。

「藁葺き屋根の家」
街道の右手に藁葺き屋根の家がある。街道を歩いていてもめったに見られない貴重な風景。住んで居る人には申し訳ないが良い目の保養になった。

藁葺き屋根の家


「常盤御前の墓」
新幹線の下をくぐってすぐ、右に少し入った所に常盤御前の墓。小さな二つの五輪塔と側に芭蕉の句碑がある。鞍馬山を抜け出して東国に走った義経を追い、乳母を連れた母常盤御前はここまで来て賊に遭い殺された。土地の人が哀れんでこの墓を作ったという。芭蕉もここを訪れている。
       義朝の心に似たり秋の風

常磐御前の墓

「雪のある今須峠」
人里を抜け山路に入って、左右の鉄道線路がトンネルに消えると今須峠である。この辺り冬は積雪が多く通行が困難な所と言われるだけあって、今回も北の斜面や道路脇に雪が残っている。

雪のある今須峠

「石仏群」
峠を下って国道に合流する直前、右の斜面に石碑や石仏などが並んでいる。

「一里塚」
国道に合流した所、左手に道路際に復元された一里塚がある。

一里塚





     今須


    中山道第五十九宿 今須宿


     所在地 岐阜県不破郡関ヶ原町
     最寄駅 JR東海道本線関ヶ原駅
     本陣1、脇本陣2、旅籠13、総人口1,784、家数464
     柏原へ 1里(3.9q)


「門前橋と今須橋」
一里塚の先で国道から左に分かれるのが中山道。門前橋と今須橋を渡ると今須の宿である。

「今須橋と常夜灯」
今須橋を渡った左手に常夜灯があり、道は右に緩くカーブし宿へと入って行く。

今須橋と常夜灯


「今須宿碑」
左手に『中山道今須宿』の標石が立っている。それ以外何も無く説明も無い。

今須宿碑

「妙応寺」
右手に駐車場が有りその先の国道と東海道本線をくぐると妙応寺がある。ガードの手前には『曹洞宗青阪山妙応寺』の石柱やその他の石柱が立っている。ここは薬草の拘杞を使った精進料理で有名とか。

「今須小学校と中学校」
左手奥に今須小学校と中学校がある。ここの校庭が本陣の跡と言うのだが、何の表示も無い。子供達に地元の歴史を教える為にも是非標示と解説板くらいは欲しいもの。周りが広いので、万一見落としていたらゴメンナサイ。

今須小学校と中学校

「問屋場跡」
学校の先右手に、二階の屋根に煙出しのある古い立派な民家がある。ここが問屋場の跡。美濃十六宿の中で当時のままの姿で残っているのはこの山崎家のみ。

問屋場跡


「今須宿の家並」
問屋場跡から先を望む。誰も通らない午後、時間が止まっているようだ。

「問屋場の解説」
この宿場には一時問屋が7軒も有ったと言う。これは非常に珍しい。

「常夜灯」
左手の常夜灯には解説板がある。それによると『文化5年(1808)京都の問屋河内屋が大名の荷を運んでいる途中今須付近で紛失し、金毘羅さんに願をかけ祈った所無事見付かった。そのお礼に建てたもの』

常夜灯

「真宗寺」
左手に真宗寺。

「法善寺」
川を渡って西町の右手には法善寺。どの宿場にもお寺があるが、それを維持してゆくのは大変だな〜と思う。
法善寺

「八幡神社」
左手八幡神社の鳥居の前に一対の常夜灯がある。門松、注連縄が張られまだ正月の気分である。

八幡神社

「常夜灯」
左手にも常夜灯。ここのは三段上がった所に有り、周りを低い石塀で囲まれている。門松が立てられ常夜灯に注連縄が巻かれている。世話をする人々の様子が目に浮かぶ。





今須から柏原へ


「車返しの坂と車返地蔵尊」
宿を出て右に緩くカーブしながら登る坂が『車返しの坂』。左手に解説板と地蔵尊がある。南北朝の頃二条良基という公家が、不破の関が荒れ果て板庇から漏れる月の光が面白いと聞いて、都から牛車でやって来た。この坂を上る途中屋根を直したと聞いて引き返してしまった。

「芭蕉句碑」
国道とJRの線路を渡り、工場の前を左に折れるとやがて寝物語の里長久寺の集落。右手に大きな芭蕉の句碑がある。
       正月も美濃と近江や閏月     はせを

芭蕉句碑

「寝物語の里」
美濃側から国境を隔てて近江側を見る。

「旧跡寝物語碑と国境の標識」
左手に明治36年建立の『舊跡寝物語美濃国不破郡今須村』の石柱と国境の溝を越えた所に『近江美濃両国境寝物語近江国長久寺村』の木の標識が立っている。

旧跡寝物語碑と国境の標識


2軒の間が美濃と近江の国境」
街道の右手にあるこの2軒、右が美濃左が近江、国境の溝を挟んで寝物語が出来る。

2軒の間が美濃と近江の国境

「寝物語の里碑」
右手に『寝物語の里』の碑と由来を刻んだ石板がある。

寝物語の里碑


「寝物語の由来」
国境の溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに『寝ながら他国の人と話し合えた』ので寝物語の名が生まれたとある。

「長久寺集落」
静かな落着いた集落である。

長久寺集落

「寝物語の里碑と解説」
左手消防ポンプ小屋の脇に新しい碑と解説板が立っている。

「かえで並木」
長久寺の集落を抜けると右手に山が迫り左手にJRの線路が見え、道はかえでの並木になる。

「神明神社」
右手神明神社の石の鳥居と常夜灯を見て間も無くJRの踏切を左に渡る。

「照手姫地蔵堂」
線路沿いに進むとやがて右手に地蔵堂がある。照手姫が地蔵に笠を被せて小栗判官の病気平癒を祈ったと言う伝説がある。

照手姫地蔵堂





     柏原


    中山道第六十宿 柏原宿


     所在地 滋賀県坂田郡山東町
     最寄駅 JR東海道本線柏原駅
     本陣1、脇本陣1、旅籠22、総人口1,468、家数344
     醒ヶ井へ 1里半(5.9q)


「柏原宿東見付」
右手床屋さんの脇に『柏原宿東見付』の木の看板がある。ここから西見付まで拾三丁(約1500m)とある。

柏原宿東見附

「柏原宿の街並」
宿に入ってすぐ東町から中心部を望む。この辺りでは生垣のある家が目立つ。

柏原宿の街並

「秘仏安置龍宝院跡」
右手に自然石の大きな常夜灯とこの石柱が立っている。

「若宮八幡宮」
右手に『若宮八幡宮』、門松が立ち、注連縄が飾られ正月の装い。

「柏原宿脇本陣跡」
信号交差点を過ぎJR柏原駅への道も過ごすと、右手郵便局の手前に『脇本陣跡』の看板が立っている。当時は建坪73坪(約241u)の屋敷であったが、今は何の痕跡も残っていない。

柏原宿脇本陣跡

「旅籠屋跡」
郵便局の向い、宿場の通りの左手には『旅籠屋跡』の看板が有り格子造りの家がある。この辺りには大小の旅籠が並んでいた。

旅籠屋跡


「問屋場跡の宿解説板」
郵便局の先に『柏原宿』の解説板とその下に柏原宿復元図がある。解説板の左脇に『問屋場跡』の看板が立っている。

問屋場跡の宿解説板

「柏原宿本陣跡」
問屋場跡の先に『柏原本陣跡』の看板が立っている。ここには建坪128坪(約422u)の本陣屋敷が建っていたが、脇本陣共に昔の物は何も残っていない。

柏原宿本陣跡

「伊吹堂亀屋左京」
右手に文化12年(1815)建立の常夜灯と高札場跡を見て小川(市場川)を渡ると、左手に伊吹艾(もぐさ)で有名な旧家『伊吹堂亀屋左京』がある。今日はと言うかこの時間はと言うか店が閉まっていて、店の中にある廣重の『柏原』にも描かれている有名な福助人形にはお目にかかれなかった。

伊吹堂亀屋左京


「造り酒屋跡」
伊吹堂の向いに格子造りの造り酒屋跡。

造り酒屋跡

「柏原宿歴史館」
その先右手に商家旧松浦邸を改造した歴史館がある。観光案内所の大きな看板が立掛けられており、宿場の資料が展示されている。

柏原宿歴史館





今回は寒中の事ゆえ関ヶ原辺りで雪景色が見られるものと少し期待して出掛けたのだが、正月を過ぎてから暫く温かな日が続いたせいで雪は無く、期待した冬らしい写真が撮れなかった。ただ1箇所今須峠の道の斜面に残っていたのがせめてもの慰めである。

柏原で関ヶ原までの切符を買って(後になって気が付いた事だが、青空フリーパスは東海道本線二川米原間で有効、関ヶ原までと思い込んでいたので不要な柏原関ヶ原間の切符を買ってしまった。)16時11分の豊橋行きに乗車する。この電車は岐阜から新快速となり乗換えなしで豊橋まで行く。休日だからか乗ってすぐには座れなかったが、幸い次の関ヶ原で席が空きその後はずっと楽して来れた。17時53分豊橋着、18時10分の豊橋鉄道バスで家路に着く。

全て予定どおりに行動出来た。関ヶ原と今須は期待外れであったが、赤坂と垂井、柏原は見るところが多く良かった。今日も心地よい疲れと沢山の思い出が残った。

35,649歩
       赤坂から柏原      18.5q



ページ公開 平成15年3月21日
ページ改良 平成22年11月6日
写真追加 平成23年1月3日


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