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本坂越(姫街道)独歩記


ほんざかごえ(ひめかいどう)ひとりあるき




本坂越(姫街道)ウォーク その6 


平成17年3月30日(水) <その1>

先回は三ヶ日から本坂峠を越えて和田辻まで歩いた。今回は和田辻から豊川市内を通り東海道御油の追分のゴールまでを歩く、本坂越・姫街道の最後の区間である。しかし、このコースはほとんどが市街地を行くので、街道歩きの醍醐味を味わえる所が少ない。

3月28日には再びスマトラ島沖でM8.7という大きな地震が発生した。今回は津波の被害がほとんど無かったのが幸であるが、多くの犠牲者が出ている模様。12月の大地震との双子の地震と見られており、近いうちに起こるであろうと言われる東海地震が東南海地震や南海地震と双子で起こったらどうなるかと心配である。
 さて、今日の街道歩きは消化試合のようなものなので家内はパス。一人で歩く事となった。気象庁の発表した桜の開花予想では、今日あたりが開花の日であるが、まだまだその気配は無い。今日も風が冷たくとっても強い。バスを使って豊橋駅前経由で和田辻まで来た。9時40分、西風に逆らうように御油へ向かってスタートを切る。



和田辻から豊川まで

「和田辻、街道脇の菜の花」
和田辻交差点から国道362号線を西へと向かう。歩き始めてすぐ右手に菜の花が綺麗に咲いている。黄色が鮮やかで、まさに春の象徴。今日の街道歩きのスタートを祝福して呉れているようである。

和田辻、街道脇の菜の花


「馬頭観音と弁慶首塚二本松の碑」
間も無く道は下り坂となり左に、次いで右にと緩くカーブする。カーブが終わった所の右手に馬の頭の浮き彫りのある『水難除馬頭観世音』の石碑が立っている。大正12年に牛馬運送業者や通運業者が建てたもの。隣の石碑には松の図の下にぎっしりと漢文が彫られている。読んでみるとその要点は『ここに弁慶の首塚が有り、径七尺の二本の松の大木があった。一本は明治26年4月に、もう一本は明治32年9月に倒れてしまった。それを惜しんで地元の有志が明治34年7月に碑を建てた』とある。何でこんな所に弁慶の首塚が有るのだろう?

馬頭観音と弁慶首塚二本松の碑


「小倉橋」
次の信号交差点が牟呂用水に架かる小倉橋で、ここから右、用水沿いに北へ行く道が《しょうぶ街道》で、この先加茂町の賀茂神社には豊橋市の菖蒲園があり、5月には大いに賑わう。

小倉橋


「国道から分かれ当古の渡しへ」
交差点を直進すると一気に視界が開け、田圃が広がる。猛烈な向かい風、歩いても歩いても前へ進まない。帽子は吹き飛ばされるので被っていられない。右手にJA豊橋の集荷施設がある。この先で国道は緩く左へとカーブしてゆくが、街道は真っ直ぐに先へと延びて豊川の堤防に出る。ここに当古の渡しがあった。

国道から分かれ当古の渡しへ


「当古橋」
今は少し下流に国道362号線の当古橋が架かっており、これを使って豊川を渡る。

当古橋


「当古の渡しと本宮山」
橋を渡りながら当古の渡し付近を眺める。渡し付近の河川敷には木が生い茂り畑地になっている所もあり、昔を想像することが出来ない。遥か先には姿の良い本宮山が見える。これは三河一宮の砥鹿神社の御神体山で山上に奥宮が祀られている。

当古の渡しと本宮山


「中山家と当古の渡し碑」
橋を渡って直ぐに左に入り、堤防を下りると公園があって、そこに黒く光った石碑がある。これが『中山家と当古の渡し』の碑である。碑には長々と説明が刻まれている。『中山家は、八名郡西郷(現豊橋市石巻町)に居城した西郷弾正左衛門尉の子孫にあたる家柄で・・・(中略)。天正8年(1580)に中山吉次宗秋がこの地に居を構え、貞享年中(1684〜1687)から代々当古村庄屋を務めました。また、徳川家康が浜松城主の頃、本坂道を通って浜松と岡崎を往復する途中、豊川の増水で立往生していたところ、中山家の先祖が当古の船渡しをした功績により慶長年中(1596〜1614)から渡船の御用を任ぜられ、以来、安政6年(1858)に村に権利が移るまでの間、当古の渡しの運営にあたりました。当古の渡しは昭和9年(1934)に旧当古橋が完成されたのを期に、三百数十年に及ぶ長い歴史に幕を閉じました。』

中山家と当古の渡し碑


「山中家旧跡の解説板」
碑のそばに家の間取りなどが書かれて解説板がある。これが『山中家旧跡』の解説板でそれには『この敷地は、江戸時代に、当古の渡しを掌り、また、当古村の庄屋をつとめた累家・中山家の屋敷跡です。近年まで、江戸時代の長屋門・主屋や、大正時代の倉が建っていました。(中略)・・・豊川舟運の舟唱や、本坂道(姫街道)の馬子唱が聞こえてきた、往時の当古ののどかな風景がしのばれます。』

中山家旧跡の解説板


「豊川市に入る」
再び堤防に戻って橋の西詰から行く手を見ると『豊川市』の標識がある。豊川を境に豊橋市から豊川市に変わる。

豊川市へ入る


「豊川堤防から街道を眺める」
橋の西詰で国号を上流側へと渡り少し遡ると、土手から降りる小さな階段があり、その先に街道が真っ直ぐに延びている。

豊川堤防から街道を眺める


「町屋」
堤防を下りて直ぐ、街道の入口左に大きな二階家がある。一階、二階共に格子がはまり街道らしい雰囲気がある。

町屋


「秋葉山常夜灯」
県道380号松原豊橋線を過ぎて右側に常夜灯があり、その後に祠がある。常夜灯には秋葉山、文政2年(1819)と刻まれているが、後の祠には何の印も無く、何れの神様が祀られているのかは分からない。

秋葉山常夜灯


「マキの生垣が続く」
その先しばらくの間、街道の両側にマキの生垣のある家が続く。独特の雰囲気、落ち着いていて良いものだ。間も無く左に曲がって国道に出る。この後はゴール直前、名鉄と国道1号線に遮られるまでは、只ひたすらに国道を行くことになる。

マキの生垣が続く


「三谷原神社」
当古橋を渡ってからは北西の方向に向かって歩いていたが、右手の市営睦美住宅、睦美地区市民館のある辺りから、やや左にカーブしてほぼ西に向かう。その先右手に三谷原神社がある。広い境内のどこを探しても神社についての由緒が書かれたものが無く、どの様な神社なのか分からない。

三谷原神社


「金剛寺」
右手のJA睦美支店を過ぎた辺り、街道の左へ入ると金剛寺がある。街道からは一寸分かり難い。お堂の前に大きな蘇鉄が1対植わっている。そこに『東三河四郡弘法大師霊場二十二番金剛寺』の看板が立っていた。

金剛寺


「寿命院」
国道に戻って三谷原信号を過ぎると街道沿いの左手に瓦の乗った白いコンクリート塀に囲まれて寿命院がある。塀越しに高く掲げられて看板には『三ツ橋不動尊霊場真言宗寿命院』とある。三河新四国霊場めぐり41番札所である。三谷原神社と寿命院の間に江戸から75里目の三橋の一里塚が有ったのだが、どこを探してもその痕跡すら見当たらない。

寿命院


「国道151号線馬場町交差点」
やがて頭上に緑色の東名高速の案内標識や青い大きな案内標識が見えて、国道151号線との交わる馬場町交差点に至る。ここは大きな交差点で歩行者は地下道を通って向かい側へと渡る。

国道151号線馬場町交差点


「熊野神社」
馬場町交差点の西北、地下道を上がった所に『村社熊野神社』の石柱がありその奥に常夜灯と石の鳥居、更に奥に社殿が見える。街道沿いに立てられた看板『馬場熊野神社由緒略記』によると『熊野より新宮大明神を奉斎、吉田城主久世氏の崇敬を受け、その寄進により宝永元年(1704)社殿を造立する。・・・』とある。

熊野神社


「三明寺入口の常夜灯」
その先街道の右手に『豊川辨財天三明寺』の看板が立っていて、一対の常夜灯がある。そこから畦道の様な参道が北へと延びている。

三明寺入口の常夜灯


「薄墨桜と三重の塔」
奥には屋根の反りの美しい国指定重要文化財の三重の塔がある。解説板によると『三明寺は、寺伝によれば大宝2年(702)の創立、平安時代の末に戦火にあい焼失したが、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子無文元遷が遠州方広寺に行く途中ここに立ち寄り、その荒廃を嘆いて再興したと伝えられる。諸堂中最も古いこの三重の塔は享禄4年(1531)の建造で、総高14.5mの柿葺の小塔。一層、二層を和様に、三層を禅宗様にしたのが全国的にも珍しく、三層の軒の反り、扇垂木、鎬(しのぎ)のある尾垂木などに禅宗様の意匠が認められる』とある。本堂は解体修理中で、本堂との間にある薄墨桜が綺麗に咲いていた。

薄墨桜と三重の塔


「参道の土筆」
参道を国道へ戻る途中に土筆を見付けた。

参道の土筆


JR飯田線踏切」
程無く姫街道の踏み切りに差し掛かる。警報が鳴り、遮断機が降りてJR飯田線の電車が通って行った。

JR飯田線踏切


「同じ踏切を名鉄豊川稲荷線が通る」
JR飯田線の電車が通り過ぎたのに警報が鳴り止まない。今度は赤い名鉄の豊川稲荷線の電車通って行った。この踏み切りは二つの電車が共用しているのだ。踏切からは右手にJRの豊川駅と名鉄の豊川稲荷駅が見える。

同じ踏切を名鉄豊川稲荷線が通る


「お線香の店と姫街道掘下げ絶対反対の看板」
踏み切りを渡ると古宿のバス停、この辺りが古宿町で僅かに古い町屋が残っている。中央通り1丁目の信号交差点の右先角にお線香の店がある。ここで作っているのか建物の二階は風が通り抜けるような造りになっている。お線香のお店(工場か?)の建物の奥、道路に面して『姫街道掘下げ絶対反対』の看板が貼られていた。鉄道との立体交差化の話があるのだろうか。

お線香のお店と姫街道掘り下げ絶対反対の看板


「古宿の町屋」
続いて格子のはまった町屋がある。この辺りの街道沿いでは貴重な存在と言えそうなものである。

古宿の町屋


「素盞鳴神社」
中央通り3丁目交差点の一筋手前右手に『素盞鳴神社』の石柱が立っていて、奥に常夜灯、石の鳥居、境内、社殿が見える。社殿まで行ってみたが神社に関する由緒書きなどは何もなかった。名前のとおり素盞鳴尊(スサノオノミコト)が祀られているのだろう。この交差点の遥か右に森が見える。これが有名な豊川稲荷(日本三大稲荷の一つ、稲荷とは言え他と違って禅宗豊川閣妙厳寺の境内に鎮守として祀られている『「豊川だ枳尼真天』の通称)。

素盞鳴神社


「佐奈川の鮎保護碑と枝垂桜碑」
しばらく繁華な町中を行く。中央通り4丁目、中央通り4丁目西、金屋橋の交差点を過ぎると佐奈川に至る。金谷橋の手前に丸々と太った鯉のような石像が乗った『佐奈川鮎保護碑』と『枝垂桜碑』とがある。この川に鮎が居たのか?

佐奈川の鮎保護碑と枝垂桜碑


「佐奈川沿いの桜並木」
この佐奈川は、この地方では桜の名所として有名なところ。例年ならば今頃は桜が咲いて大勢の人で賑わう頃なのに、今年は残念ながら未だ開花していない。

佐奈川沿いの桜並木


「市役所東の桜トンネル」

金谷橋を渡って直ぐの交差点が免許センター前。右手奥に自動車学校、自動車運転免許試験場、東三河運転免許センターがある。数年に一回免許の書き換えでお世話になる所。それから先へ進み市役所東の交差点を右に曲がるとここにも綺麗な桜並木、桜のトンネルがある。

市役所東の桜のトンネル



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