二日目 6月6日(金)


ホテルで爽やかにお目覚め。天気予報によると、今日も好天で、昨日と同じくらいの温度になりそう。バイキングスタイルの朝食、しっかり歩けるように十分か腹ごしらえをして、8時過ぎにホテルをチェックアウト。

JR八王子駅前から京王線京王八王子駅まで行くのに、斜めに進むところを北へ真っ直ぐに歩いてしまって、アレ〜? 朝から少し余分に歩いてしまった。
8時39分の電車で飛田給まで。9時15分飛田給駅入口交差点を府中に向け出発する。





上石原から府中へ


「飛田給駅入口」
駅入口交差点から右(北の方角)を見ると味の素スタジアムの特徴ある建物が見える。ここで歩数計をリセットする。

「飛田給瑠璃光寺薬師堂」
駅入口の次の信号左に薬師堂が有る。ここの石薬師像は貞亨3年(1686)に元仙台藩医師の松前意仙の造った像。松前意仙は仏門に帰依して諸国を巡歴、この地に居を定めてからは終日読経し、ときどき行脚托鉢に出たという。この間に薬師如来を彫り上げ大願成就後、深さ2.5メートルの墓穴を自ら掘り、「鉦の音が消えたら土をかけてくれ」と言い、鉦を持って中に入った。意仙は座禅を組み読経を続け、数日後に成仏したと言う。

飛田給瑠璃光寺薬師堂

「行人塚」
瑠璃光寺薬師堂敷地内にある行人塚。石薬師像を造った松前意仙のお墓で、調布市の史跡に指定されている。

行人塚


「常夜灯」
薬師堂の少し先、右側に常夜灯がある。

常夜灯

「下染谷」
調布市から府中市に入って白糸台3丁目右の神社(何神社だったか?・・・)の前に銅版の嵌め込まれた『下染谷』の立派な石碑がある。この辺りに有った集落の名で、調布で織った布を染めていたとか。

下染谷

「染谷不動尊」
西武玉川線を越え、多磨霊園への道との交差点左先に染谷不動尊があり、境内左に『上染谷』の碑がある。この辺りが『上染谷』という集落だった。

染谷不動尊


「常久」
若松町1丁目の右に『常久』の碑。この常久の集落の名は名主の名前から来ているとか。

常久

「常久八幡神社」
碑の先に石の鳥居があり、ずっと奥に神社が見える。

常久八幡神社

「甲州街道常久一里塚跡碑」
八幡神社から街道を道1本戻って左に入ると甲州道中と平行して走る品川道にあたる。その道の左すぐ先に一里塚がある。『しながわ道の一里塚』の標柱と『府中市指定文化財・市史跡・甲州街道常久一里塚跡』の解説板と地図イラストの入った解説板もある。

甲州道中常久一里塚跡碑


「常久の一里塚」
片方の塚だけが残っている。江戸日本橋から7里目。多摩川の洪水により街道が付け替えられたことにより塚が取り残された。

常久の一里塚

「東府中駅前」
元の道に戻って間も無く左に京王線東府中の駅。右には国道、直進して電車の踏切を斜めに横断する。


東府中駅前





府中


甲州道中第九宿 府中 【ふちゅう】


所在地 東京都府中市
最寄駅 京王線「府中駅」、JR南武線「府中本町駅」
日本橋から 30.7q   日野へ8.7q


古くは武蔵国の中心で武蔵の国府が置かれていた。本陣、脇本陣、問屋、旅籠が揃っていた。


「八幡町から宿中心部を望む」
京王線の踏切を渡ると市の中心部に入る。左へ行くと府中競馬場正門前駅、その先に東京競馬場がある。

八幡町から宿中心部を望む

「八幡宿」
八幡1丁目の左に八幡神社。入口の左に八幡宿の碑が、右には常夜燈と背の高い『武蔵国府八幡宮』の石柱ある。聖武天皇(724〜749年)が一国一社の八幡宮として創立したと伝えられている。この辺りは八幡宿という村名であったが、農業中心の村落であった。

八幡宿


「鍋屋横丁と鍋屋」
交差点の右角に標石が立っていて鍋屋横丁とある。鍋屋横丁の名は旧甲州街道からこの道に入る角の家(佐藤家)の屋号「鍋屋」に由来する。同じ鍋屋の屋号のついた「鍋屋道」が北の方にあるとのこと。ちなみに、この石碑のある交差点には「鍋屋」の看板の架かったお店がある。

鍋屋横丁と鍋屋

「大魂神社」
市の中心部左に鬱蒼たる繁みがあり、ここが大魂神社。国司が巡拝すべき武蔵国内の重要な6社を集めて祀り武蔵総社(または六所宮)とされていたが、明治18年(1885)に大國魂神社と改名された。寛文7年(1667)に改築された本殿は、東京都の有形文化財に指定されており、5月上旬に行われる「くらやみ祭り」が有名とか。

大国魂神社


「万葉歌碑」
神社から街道を隔てた向いに万葉仮名で刻まれた歌碑と解説板がある。
     武蔵野乃久佐波母呂武吉可母可久母伎美我麻尓末尓吾者余利尓思乎
     万葉集巻十四、三三九五、武蔵の国の歌九首の一つ。
     (武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを)

万葉歌碑

「蔵造りの酒屋」
神社を過ぎて甲州街道と府中街道とが交わる次の信号が府中市役所前。信号の右先に黒い蔵造りの酒屋さんがある。そこが問屋場の有った所。

蔵造りの酒屋


「高札場跡」
その交差点の左先、神社の御旅所の角に高札場が再現されている。

高札場跡

「番場宿」
街道の左に『番場宿』の碑。神社の先、今の宮西町辺りを番場宿と呼んだとある。

番場宿

「街道気分の割烹の店」
右に街道気分を出した建物の番場屋という割烹のお店がある。

「高安寺」
間も無く左に高安寺。門前の石柱には『曹洞宗高安寺』、看板には『安国利生之祈願所、開基足利尊氏公、曹洞宗龍門山高安寺』。弁慶がお寺の裏の、古井戸の水を飲んで大般若経を書写したと言う伝説がある。

高安寺


「片町」
街道の右に『片町』の碑。南に名刹高安寺があり、町は北側のみにあったのでこの名になった。

片町

「弁慶橋、橋供養塔」
京王線の踏切を越えた先右に『弁慶橋』標石と『橋供養塔』があり、その先から街道はなだらかな下り坂となる。「江戸名所図絵」に弁慶橋、弁慶坂があると記されている所で、橋や坂の名は高安寺の弁慶伝説にちなんでいると言う。

弁慶橋、橋供養塔

「本宿」
右からの国道と合流する所に『本宿』の碑がある。甲州古街道の頃この集落が宿場であった。

本宿





府中から日野へ


「本宿村の常夜燈」
西府町の交差点左先に由来書と共に立っているのが寛政4年(1792)建立の秋葉大権現常夜燈。街道は古くは多摩川近くに有ったが、慶安年間〜寛文年間(17世紀半ば)に道筋が変わり台地上に移った。そのため水が乏しく度重なる火災に苦しみ、村で秋葉講を作ったとある。

本宿村の常夜灯

「常夜燈」
街道の右にも秋葉山常夜燈。説明には火伏せの守りと街道の明かりとして文久3年(1863)に立てられたもので、「ジョートミ」と呼ばれた回覧版が各戸に廻り、毎夕交替で灯りをともしたとある。

常夜灯

「谷保天満宮」
国立市に入り間も無く街道の左に、石の鳥居と大きな天満宮の石柱が立つ『谷保天満宮』。拝殿は参道を下り奥まったところにある。これはかつての甲州街道が神社の南側を通っていたためと言う。「天満宮縁起」によると、菅原道真が太宰府に流された時、道真の三男の道武がこの地に流されたとある。境内をのんびりと鶏が歩いている。

谷保天満宮


「元上谷保村の常夜燈」
街道の右に寛政6年(1794)建立の『元上谷保村の常夜燈』。本宿村の秋葉常夜灯と同じく、火難から守るために火伏せの神を祀ったもの。大正時代までは村人が順番に毎日夕方灯を灯していたとある。

元上谷保村の常夜灯

「元青柳村の常夜燈」
街道の左、青柳福祉センター前に寛政11年(1799)に建てられた『元青柳村の常夜燈』がある。昭和初期頃までは村の人が毎晩当番でろうそく1本を灯す習慣があったとある。

元青柳村の常夜灯

「間も無く日野橋交差点」
国立市から立川市に入り日野橋交差点。五差路になっており国道は左折して日野橋で多摩川を渡る。旧道は右から2番目の道を斜め右方向へと進む。

間も無く日野橋交差点


「国道と分かれ旧道を進む」
2番目の道を進み、Y字路で左にとると片側のみ歩道と並木のある落着いた道になる。左には蔵のある家が続く。柴崎市民体育館前を通り、下水処理場前で先の五差路からきた大きな道に出て右折。すぐに立日橋北交差点、頭上に多摩モノレールが走る。

国道と分かれ旧道を進む

「立日橋」
頭上の多摩モノレールと一緒に多摩川の立日橋を渡る。左手下流、下水処理場のある辺りが昔の渡し場『日野の渡し』であった。この橋を渡ると立川市から日野市に入る。

立日橋






日野


甲州道中第十宿 日野 【ひの】


所在地 東京都日野市
最寄駅 JR中央本線「日野駅」
日本橋から 39.4q   八王子へ7.0q


本陣1、脇本陣1、旅籠が20軒あった。かつての宿場の面影は何も残っていないが、総名主屋敷や立派な寺社などが点在し、新撰組に関わる史跡が多く残されている。


「石造りの店と蔵」
立日橋を渡りスポーツ公園の前を通ってしばらく進むと、日野橋を渡ってきた国道に丁字路で突き当たる。右に折れて日野宿に入る。すぐ左に石の蔵造りの建物がある。ちょっと珍しい。

石造りの店と蔵

「日野館」
川崎街道入口交差点の先左に日野館がある。門を入ったところに『明治天皇御小休所及建物附御膳水跡』の碑。かつての名主佐藤彦五郎屋敷で天然理心流の道場があった。この道場では、近藤勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎等をはじめとした、後の新撰組の中心人物達が稽古に励んでいた。

日野館


「武州日野宿総名主屋敷」
この建物は佐藤彦五郎(彦五郎の妻のぶは土方歳三の姉)が文久3年(1863)に建てたもので、本陣(もしくは脇本陣)としても利用された。現在この建物では蕎麦の店として営業しており、誰でも家屋内部に入ることができる。せっかくのチャンス、ここで蕎麦を食べて昼食とする。

武州日野宿総名主屋敷

「甲州街道日野宿問屋場・高札場跡」
日野館の向いに問屋場・高札場跡の碑がある。この辺りがかつての日野宿の中心部。

甲州街道日野宿問屋場・高札場跡


「宿中心部」
かつての宿場の面影は何も無く、国道は直進しJR中央本線と中央自動車道をくぐって八王子へ向かう。旧道は日野駅の手前で左折し宝泉寺へ。

宿中心部

「宝泉寺」
左に臨済宗宝泉寺、このお寺には、かつての新撰組六番隊長井上源三郎のお墓と顕彰碑がある。井上源三郎は天然理心流の門下生で、新撰組六番隊長として働いたが、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで戦死した。
日野駅の下をくぐって左に進み、中央自動車道をくぐり上り坂を先へと進むと日野大坂上で国道と合流する。

宝泉寺





日野から八王子へ


「日野自動車」
やがて右に日野自動車の工場。なるほどここは日野市なのだ。工場から運転台の後がシャーシーだけのトラックが次々に出てくる。乗用車ならキャリーカーで何台も陸送できるがトラックではそうもいかない。

日野自動車

「八王子の銀杏並木」
左にあるコニカの工場を過ぎると八王子市に入る。ここから銀杏並木が始まる。八高線を越え八王子バイパスをくぐると右にムラウチの家具。ここから旧道は左に分かれ大和田橋のたもとまで行く。

八王子の銀杏並木


「浅川の大和田橋」
橋の手前で国道と合流し浅川に架かる大和田橋を渡る。

淺川の大和田橋


「大和田橋から八王子の宿を望む」
大和田橋には先の戦争で被弾した焼夷弾の跡が保存されている。ガラスで見える様になっているものと、敷石の色を変えそこと判るようにしてあるのとがある。
国道は直進してから右に曲がるが、旧道は橋を渡ってすぐに右に曲がる。

大和橋から八王子宿を望む





八王子


甲州道中第十一宿 八王子 【はちおうじ】


所在地 東京都八王子市
最寄駅 JR中央本線「八王子駅」、京王線「京王八王子駅」
日本橋から 46.4q   駒木野へ6.9q


八王子宿は横山宿と八日市宿が本宿で、他に小門、上野原、本、八幡、寺町、本郷、久保、子安、横町、嶋坊、馬乗、新町、八木の宿場が次々に開設され八王子横山十五宿と呼ばれ甲州街道最大の宿場であった。日光往還、案下道、横浜道、五日市往還、大山道等が合流する交通の要衝としても賑わった。現在宿場の面影はほとんど無く、町名に名残があるのみ。


「一里塚跡」
第5中学校の先で斜め左に進むと右に竹の鼻公園があり、そこに『史跡一里塚跡』の碑がある。日本橋から12番目。江戸初期の頃はここが八王子宿の入口であったが、その後街道が移動して、現在は甲州街道筋からは外れている。

一里塚跡


「新町の永福稲荷」
公園の隣には石垣の上に永福稲荷神社。道に突き当たって左へ、この辺りが新町。

新町の永福稲荷

「新町宿から横山宿」
新町から国道に出て右へ、横山町。左後方に京王線京王八王子駅、左に行くとJR八王子駅。

新町宿から横山宿

「市守神社・大鳥神社」
国道に出てすぐ右に赤い鳥居の市守神社・大鳥神社。天正18年(1590)豊臣秀吉の天下平定戦で八王子城が落城。戦後処理で市場が再開され、市場の守護神と殖産・武勇の守護神として両社祀られた。市守神社では初午祭、大鳥神社では酉の市がある。

市守神社・大鳥神社

「この先横山町」
昔の横山宿、今も八王子の中心となっている。

この先横山町

「この先相模原、川越分岐」
この先で左に行くと国道16号線で相模原へ、右に行くと同じく国道16号線で川越へ。

この先相模原、川越分岐

「八日町」
昔の八日町宿、横山宿と共に八王子の中心地。

八日町

「一般国道八王子道路元標」
街道の左、歩道にタイルが埋め込まれ解説の石碑が立っている。昔は法律で各市町村に1個設置が義務付けられていた。今は国道16・20号線の八王子を示す距離の起点とするとある。

一般国道八王子道路元標


「八日町の高層住宅」
八日町の右に建設中の高層住宅、下およそ5階?が公共の部分で、上の23階(数えてみたが目が眩んで・・・違っているかも?)が住宅になっている。今の住宅は上へ上へと伸びるが、事故や、東京の大停電(今年の6月下旬に起ると心配されている)が起ったらどうするのだろうと、お節介な心配。

八日町の高層住宅


「えびす八日市の幕」
その先右のアーケードに下げ幕、昔の宿の市の様子が目に浮かんでくる。この街に入って初めて宿場の匂いを感じた。

えびす八日市の幕


「八日町」
八日町4丁目バス停、目の前に大きな案内標識が二つ、右が東京環状、中央道。この道は案内標識がめったやたらと多い。昔から交通の要衝であったことが良く判る。

八日町

「八幡町この先秋川街道分岐」
織物組合前バス停、ここの案内標識は右秋川街道、あきる野。

八幡町この先秋川街道分岐

「路上へ商品を並べたお店」
左にスーパーと八百屋さん、路上にまで商品を並べ自転車がいっぱい。今まですましていた街の顔がいっぺんに普段の顔になった様。

路上へ商品を並べたお店

「八木町から追分を望む」
八木町に入ると追分での分岐の案内標識が見えてきた。

八木町から追分を望む

「造り酒屋」
街道の右に造り酒屋、白い漆喰壁と黒板塀、犬矢来があってこの街には珍しい和の雰囲気。

造り酒屋

「こんにゃくのお店」
左にちょっとクラシックなこんにゃくのお店。店先で食べさせてくれるみたい。

こんにゃくのお店

「追分交差点」
ここが追分町、追分の交差点。右へ行くと関東の吉野山といわれる桜の名所陣場高原。

追分交差点

「追分の道標」
『右あんげ道・左甲州道中高尾山道』文化8年(1811)に江戸の足袋屋清八が立てたもの。空襲で四つに折れ一部は失われたが復元補修され今年5月に元の場所に戻された。

追分の道標


「追分道標について」
道標の詳しい説明。2段目と4段目が当時のもの。





八王子から駒木野へ


「銀杏並木」
八王子追分から国道を行く。国道は再び銀杏の並木になる。これは大正天皇の御陵造営を記念して昭和2年(1927年)に植えられたもので、ここから高尾の間に768本が植わっていると言う。
並木を見て気が付いた。都心からここまでおよそ50qを歩いてきたが、自然が全く無い。みどりは街道に沿って植えられたケヤキやイチョウがあるだけで、他はビルや住宅の僅かな空間に植えられた庭木のみ。なんて悲しいこと。


「千人町」
千人同心の屋敷があったことから来た地名。徳川氏の関東入国に際して、甲斐・武蔵の国境警備と、八王子周辺の治安を担当した郷士集団のことを八王子同心と呼び、当初は武田家の遺臣250人がこの任にあたり、後に1,000人あまりに人数が増えて千人同心と呼ばれるようになった。追分付近に当時拝領した屋敷があって、その場所に記念石碑が有ると言うが見付けることが出来なかった。

千人町


「千人町の標示」
たんなる町名に過ぎないが、その奥には歴史が詰まっていて、これらを調べながら歩くのが街道歩きの醍醐味である。

千人町の標示

「西八王子駅入口」
今回の街道歩き『甲州道中ウォークその1』のゴール地点にたどり着いた。16時25分。ここで歩数計をリセットし甲州道中の正味の記録をとる。

「西八王子駅」
JR中央本線西八王子駅、どこにでもある郊外の小さな駅。次回はここからの出発となる。

西八王子駅





駅で顔の塩気を洗い流して、高尾から来た特別快速16時42分に乗車、東京着17時42分。久し振りに八重洲のブックセンターに寄る。甲州道中の資料や昔に出版された『今昔三道中独案内』、『甲州道中宿村大概帳』に関する本が無いかを探す。残念ながら思った本は見当たらない。八重洲地下で夕食、冷酒で食事、疲れた身体にひんやりとアルコールが回ってきて最高の気分。後はお決まりの東京温泉、夜行バスまでの間、湯に浸かり、サウナに入って汗を流し、足のマメを治療して、テレビを見てのんびりと過ごす。

『伊良湖ライナー』東京23時50分発、今夜は金曜日の夜と言うことで満席。豊橋午前5時25分着、始発の電車で帰るつもりだったが、家内が気を利かせて迎えに来てくれた。ありがとう。6時前に無事我家に帰りつく。

2日間歩いている間に、韓国の盧武鉉(ノムヒョン)大統領が初の来日、有事3法成立、戦後初の戦時体制整備と日本や世界が少しずつ動いている。


        二日目
     46,394歩(甲州道中正味35,676歩)  ※歩数、距離共に歩数計による
     上石原〜八王子   25.50q(甲州道中正味19.62q)


ページ公開 2003年12月10日
ページ改良 2011年4月30日
 写真追加 2011年5月24日



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