甲州道中ウォーク その2


平成15年7月30日(水)   八王子から上野原まで
平成15年7月31日(木)   上野原から下初狩まで





「甲州道中ウォークその1」を歩いた翌週の6月10日に東海地方では梅雨入りした。以来お天気が定まらず、あれやこれやの行事や、活動、身の回りの雑用などがあって、あっという間に時間が経過し、学校の夏休みに入ってしまった。

甲州は四方を山に囲まれた盆地で、日照時間が日本一長い所、その分夏の暑さも只者ではなく、真夏の太陽の下では熱中症が心配で歩けたものではない。そこで、何とかそれまでに次を歩きたいと考え、7月26日の東海地方の梅雨明け後、関東地方では未だ梅雨の明けないその僅かな間を狙って挑戦することにした。






初日 7月30日(水)


週間天気予報を見ながら日を選び、バスやホテルの予約を入れて、7月29日(火)夜の出発となった。前回と同様に、家内に二川駅まで送ってもらって23時01分岡崎行きの電車に乗って「甲州道中ウォークその2」の旅が始まった。今回も夜行バス「伊良湖ライナー」を利用する。バスに乗る直前に家内からの携帯電話が鳴り「パソコンの操作教えて〜」こんなに遅くまでやってるんだ〜と感心する。雨がパラパラと降り出した。

「伊良湖ライナー」は7月30日(水)5時36分ほぼ予定どおり東京八重洲口バスターミナルに到着。路面は濡れているが雨は降っていない。バスターミナルの中のお店で朝食をとり、6時12分のJR中央本線特快で西八王子へと向かう。中野を過ぎた辺りから雨が降り出し、八王子に近付くに従って本降りとなってきた。降り立った西八王子の駅で雨装束に身を固め、7時15分万全の態勢で出発する。






八王子から駒木野へ


「西八王子駅入口」
前回のゴール地点、ここで歩数計をリセットして傘をさしての街道歩き、国道20号線甲州街道を駒木野宿目指してスタートする。

西八王子駅入口

「道標」
長房団地入口交差点で右折、この辺りに一里塚が有ったと言われるが何も見当たらない。一筋目で左に折れる。その左角に右高尾山の大きな道標がある。しばらく国道から離れるが並木町で再び合流する。

「武蔵陵墓地参道碑」
高尾警察署を右手に過ごし、多摩御陵入口交差点。ここから右にケヤキ並木の参道が延びる。参道の右に『武蔵陵墓地参道』(昭和天皇)の碑が立っている。

武蔵野陵墓地参道碑

「多摩御陵参道碑」
参道の左手には『多摩御陵参道』(大正天皇)の碑がある。

多摩御陵参道碑


「門構え黒板塀の屋敷」
御陵への道を過ぎ、次の信号で右に分かれる道を進む。静かな道になり、右手には門構え黒板塀の家が目に入る。日本橋からここまでの間、喧騒な市街地ばかりでこのような落ち着いた街は無かっただけに、郊外に来たのだと実感する。

門構え黒板塀の屋敷

「高雄駅」
右へ行くのが高尾街道、左へ行くのが町田街道、その交差点を横切り、国道の町田街道入口交差点の先で再び国道に合流する。その次の信号が高尾駅入口。左先に高尾駅が見える。
国道を進み両界橋の上でJR中央本線をくぐる。川の上流には小さな滝が見える。

高尾駅





駒木野


甲州道中第十二宿 駒木野 【こまぎの】


所在地 東京都八王子市裏高尾町
最寄駅 JR中央本線「高尾駅」
日本橋から 53.3q   小仏へ3.0q


本陣1、脇本陣1があった。かつてここには小仏の関所があった。


「駒木野橋跡」
次の西淺川交差点で国道から右に分かれ、小仏峠への道に入る。すぐ左に駒木野病院。その先に駒木野橋の跡がある。区画整理で橋が無くなったため、橋に嵌め込まれていた橋の名前の表札?が記念に保存されている。容赦なく街の様子が変わってゆく時代に心憎い気配りである。

駒木野橋跡

「小仏関跡」
やがて右に『史跡小仏関跡』の碑がある。碑の前には手形石と手付石、解説によると関を通る旅人が手形石に持参した通行手形を並べ、手付石に手をついて通行の許しを待ったと言う。

小仏関跡


「甲州街道駒木野宿碑」
同じく右に『甲州街道駒木野宿』の碑。元和2年(1616)に小仏峠から関所が宿場の中心部近くに移ってきて、明治2年(1869)に廃止されるまでその役割を果たしていた。

甲州街道駒木野宿碑


「甲州街道念珠坂碑」
左には石仏や石碑4体と並んで『甲州街道念珠坂』の碑が立っている。

甲州街道念珠坂碑





駒木野から小仏へ


「淺川小学校上長房分校」
右に八王子市立浅川小学校上長房分校。白い小さなモダンな建物。夏休みに入っているせいで子供達の声は聞こえない。

浅川小学校上長房分校

「火の見櫓」
荒井のバス停にはクラシックな火の見櫓。いつまでも残しておきたい風景である。右手上の方では圏央道JCT工事、その工事現場への入口の見張りに立っているおじさんが「今から山へ登るのか〜?」、私が「街道歩きで〜す」、おじさん「???」。街道歩きの意味が分かっていないらしい。

火の見櫓


「水場」
蛇滝口バス停付近の左には小屋掛けされた水場がある。峠への上り口、どんなに多くの旅人の喉や牛馬の渇きを潤してきたのだろうか。

水場

「小仏川沿いに行く」
この辺りJR中央本線と中央自動車道と小仏川とが街道の右になったり左になったりしながら高度を上げてゆく。ウグイスとニイニイゼミの声が聞こえる。

小仏川沿いに行く





小仏


甲州道中第十三宿 小仏 【こぼとけ】


所在地 東京都八王子市裏高尾町
最寄駅 JR中央本線「高尾駅」
日本橋から 56.3q   小原へ6.4q


本陣、脇本陣はなく旅籠が11軒あった。武蔵と相模の国境の地。


「宝珠寺」
老人ホームと裏高尾摺差名物の豆腐屋さんを過ぎると間も無く小仏のバスの終点。折り返しのための広場があるだけで周りは何も無い。この宿には本陣も脇本陣も無かったという小さな宿。道はさらに細くなって宝珠寺へと続く。この寺には天然記念物のカゴノキと甲府三度飛脚が寄進した常夜灯がある。

宝珠寺






小仏から小原へ


「パーキング」
最後のパーキングがあって自動車はここまで。この先は舗装が切れて峠への山道となる。

「峠道を行く」
峠への上りの道。鉄道も自動車道もトンネルに入ってしまい、聞こえる音は全て自然の音。上るに従って雨は止んできて小鳥のさえずりが盛んに聞こえるようになる。

峠道を行く

「小仏峠」
峠に上りついた。峠には石仏数体と道しるべ、近くの山への案内ルート図がある。雨はほとんど上がった。かつてはここに関所があった。昔の武蔵国と相模国、現在の東京都と神奈川県との境。標高は560mで景信山や城山等の登山の中継地点となっている。

小仏峠


「峠の休憩施設」
峠には売店の小屋と腰掛が多数置かれているが今日は全くの無人。10時20分ここで小休止。リュックや首から提げたカメラをはずし、帽子を脱いで風を通す。雨は上がったが湿気が多く爽やかとは言えない。でもヒノキの大木の根っこを目指して放尿し、これですっきりした。

峠の休憩施設

「高尾山道標」
頂上のベンチの間に『高尾山道』の道標。ここからは幾つものルートに分かれる。

高尾山道標

「旧甲州街道の標柱」
『旧甲州街道』の標柱のある小道を下るのが小原宿への道。雨は止んだ。足元が滑るのを用心しながら下り一方の道を快適に進む。途中に送電線の鉄塔がある。

旧甲州街道の標柱



「中央自動車道の下を行く」

下界へと下りてきたら中央自動車道をくぐる。高速道路は頭上はるか高い所を走っている。

中央自動車道の下を行く

「馬頭観音と旧道の説明」
中央自動車道の橋脚の下に馬頭観音があり、そばに旧道の説明がある。下ってきた道がカーブするため中央自動車道を3回くぐることになる。

馬頭観音と旧道の説明

「底沢バス停」
下に下りて国道に出会うところが底沢のバス停。ここで小休止して傘を畳んだり、ザックのカバーを外したり、雨装束から開放される。11時35分、下の沢の繁みからミンミンゼミの声が聞こえる。

底沢バス停





小原


甲州道中第十四宿 小原 【おはら】


所在地 神奈川県津久井郡相模湖町
最寄駅 JR中央本線「相模湖駅」
日本橋から 62.7q   与瀬へ1.9q


与瀬村小原宿は江戸より16里、14番目の宿。宿内2町半に本陣1、脇本陣1、旅籠が7軒の宿内29戸の宿であった。難所の小仏峠を越えるとこの小原宿。


「甲州街道小原宿」
底沢バス停から国道を行くとやがて小原の宿に入る。左の舗道上に『甲州街道小原宿』の大きな標柱。もう一方の面には『これより二町半』とある。

甲州街道小原宿


「本陣と高札場」
宿場の道はやや右にカーブし、左にセブンイレブン、右に本陣がある。本陣の門の右には高札場がある。この本陣には管理人のおばさんが居て丁寧に対応してくれた。記帳をすれば入館料は無料、座敷から二階まで見学する。お礼の意味で募金箱にコインを入れる。

本陣と高札場

「本陣正面」
小原宿本陣の清水家は徳川300年の間、本陣を勤めたほか庄屋と問屋も兼ねた。

本陣正面


「中庭より母屋を望む」
兜造りの入母屋風屋根、築後およそ200年、神奈川県には東海道、甲州道中合わせて26軒の本陣があったが、現存しているのはここ1軒のみ、平成8年に県の重要文化財に指定された。

中庭より母屋を望む

「玄関式台」
当時この本陣を利用したのは信州の高島藩、高遠藩、飯田藩の大名と甲府勤番の役人達だった。玄関を上がった所に駕籠が置かれている。

玄関式台

「上段の間」
上段の間にはケヤキの一枚板の床の間があり、これには忍びを防ぐ仕掛けがされているとか。

上段の間

「座敷より庭園を望む」
庭園は上段の間からの眺めが良いように作られ、築山があり、徳川家より拝領のドウダンツツジやタイサンボクが植えられている。

座敷より庭園を望む

「小原宿の町並み」
旅籠だったかと思われる家が数軒残っている。この宿は片継ぎの宿場といって、小仏から来た人や荷物を、与瀬宿を通り越して吉野宿まで継ぎ立てる。その変わり江戸の方へは与瀬宿から小原宿を通り越して小仏宿へ継ぎ立てるという特殊な継ぎ立てをした。

小原宿の町並み





小原から与瀬へ


「題目碑」
宿を出たところの右側に『南無阿弥陀仏』と刻まれた題目碑がある。文政2年の建立。左の沢の向こうに有ったものをここへ移したとある。
国道から平野旅館の右を山手へと進む。JRのトンネルの上を行き中丸三叉路から少し行って「えんどう坂」を下るはず。

題目碑





与瀬


甲州道中第十五宿 与瀬 【よせ】


所在地 神奈川県津久井郡相模湖町
最寄駅 JR中央本線「相模湖駅」
日本橋から 64.6q   吉野へ3.8q


6町50間の宿場に本陣1、旅籠が6軒あった。今は相模湖が目前に広がる観光の拠点。


「相模湖駅」
ところがどこで道を間違えたのか、「えんどう坂」を下って桂北小学校前で国道に出る予定が、JR相模湖駅の裏手に出てしまった。引き返すのも大変なので住宅脇から跨線橋を渡って駅前に出る。12時30分丁度昼の時間、駅前のお店でランチとアイスコーヒーで昼食とする。

相模湖駅

「与瀬宿中心部」
相模湖駅前交差点は商店街。ここから与瀬の宿場に戻り再び甲州道中を行く。

与瀬宿中心部


「与瀬宿の民家」
建物は新しいが造りが何となく古そう。

与瀬宿の民家

「与瀬宿旧本陣」
宿の西の外れ、右に少し入った所に本陣の跡。といっても遺構は無く、家の門柱に『旧本陣』と表札が嵌め込まれていることでそれと判る。

与瀬宿旧本陣


「旧本陣の表札」
右の門柱には『旧本陣』、左の門柱には『坂本家』とある。

旧本陣の表札

「明治天皇与瀬御小休所跡碑」
本陣跡の右先に『明治天皇与瀬御小休所跡』の大きな碑が立っている。

明治天皇与瀬御小休所跡

「与瀬神社の鳥居と石碑群」
碑のところから右山手へ入って行くと与瀬神社の二の鳥居の前に出る。

与瀬神社の鳥居と石碑群

「与瀬神社参道」
神社の参道は二の鳥居から先は階段になっていて中央自動車道を越える。さらに先の山の斜面にお社がある。

与瀬神社参道





与瀬から吉野へ


「中央本線と中央自動車道の間を行く」
旧道の先は階段になって国道へ下りるのだが、国道の下にはJR中央本線、上には中央自動車道が走っており非常に複雑というか、立体的な地形を行く。

中央本線と中央自動車道の間を行く

「相模湖遠望」
中央自動車道を2度ばかりくぐってから、国道から別れ右の坂を上がる。この辺りからは左手に相模湖が良く見える。

相模湖遠望


「中央自動車道と相模湖」
『道なりに進み左にカーブするところから畑の脇の道を下り中央自動車道を越え郷土資料館の手前で国道に出る』のが正解らしいのだが、どうしてもこのルートが判らない。地元の人に聞いてもダメだったので、仕方なく今の道を進み、相模湖ICの先で中央自動車道を越え、ICへの取付け道路を左に見ながら吉野の宿へと下る。

中央自動車道と相模湖

「石仏石碑群」
途中に二十三夜塔や題目碑などが集められている。この辺りでキリギリスの声を聞く。なつかし〜い。

石仏石碑群

「道しるべ」
このような道しるべが何よりの頼りであり、これを見つけるとホッとする。

道しるべ





吉野


甲州道中第十六宿 吉野 【よしの】


所在地 神奈川県津久井郡藤野町
最寄駅 JR中央本線「藤野駅」からバス
日本橋から 68.4q   関野へ2.9q


本陣1、脇本陣1、旅籠が3軒あった。


「藤野町郷土資料館」
資料館の手前で国道に合流する予定が、吉野小学校南の交差点へ出たため少し戻る。ここは旧旅籠ふじやの跡で今は郷土資料館として民具や養蚕などの資料を展示し公開している。

藤野町郷土資料館


「吉野宿中心部」
左に資料館、宿中心部から関野宿方面を眺める。国道沿いの小さな集落である。

与瀬宿中心部

「聖跡」
資料館の向かいに砂利の広場がありその奥玉石垣の上に背の高い『聖跡』の石柱がある。ここがかつての本陣の跡。明治13年明治天皇行幸の際には行在所となった。

聖跡

「旧本陣の土蔵」
広場の脇にある古びた土蔵が本陣の遺構であるとか。

旧本陣の土蔵

「吉野本陣の解説」
広場にあった本陣の解説。これによると吉野家本陣は名主と問屋を兼ねていた。江戸末期には木造5階建ての威容を誇り、明治天皇もここの2階で食事をされた。惜しくも明治29年暮れの大火で消失した。

吉野本陣の解説


「郷土資料館全景」
屋根はトタン葺きになっているが昔の旅籠の姿を窺うことが出来る。

郷土資料館全景

「吉野バス停」
吉野バス停から宿を望む。先の信号が吉野小学校南。

吉野バス停





吉野から関野へ


「吉野橋。気温25度」
吉野宿を出て関野宿へ向かう途中、沢井川の吉野橋を渡る。橋の手前の電光表示に気温25℃と出ている。暑さを覚悟していただけにラッキーである。この川には昔、大月にある猿橋と同じ工法で架けられた小猿橋があった。橋の左手前に説明板がある。

吉野橋、気温25度

「エノキの古木」
吉野からおよそ1qばかりのところ国道の左手に大きなエノキがある。

エノキの古木

「エノキの解説板」
解説板によると津久井の名木のエノキで樹齢およそ300年、昔は一里塚に植えられたとあるが、ここが一里塚の跡ではないだろうか?

エノキの解説板

「山の上のラブレター」
左対岸の山上に大きなラブレターがある。これは藤野町の芸術村構想の一環として作られた野外芸術作品の一つとか。

山の上のラブレター

「中央自動車道の下を行く」
JR中央本線の上を越え、その先はしばらく中央自動車道の下を歩く。ここなら雨に降られても安心。

中央自動車道の下を行く





関野


甲州道中第十七宿 関野 【せきの】


所在地 神奈川県津久井郡藤野町
最寄駅 JR中央本線「藤野駅」からバス
日本橋から 71.3q   上野原へ3.7q


本陣1、脇本陣1、旅籠が3軒あった。相模と甲斐の国境の地。


「関野本陣跡解説板」
ここには目立ったものは何も無い。国道の右に松の木があり、その脇に向こう向きに解説板立っている。江戸から京に向かう方向では振り返って見る形になるので、余程気を付けていないと見過ごしてしまう。

関野本陣跡解説板

「来た道を望む」
これが振り返って見た様子。解説によるとここには本陣、脇本陣があったが明治21年の火災とその後二度の大火により宿場の面影を残すほとんどの建物が焼失してしまったとある。

来た道を望む


「先を望む」
これでは誰も宿場の跡だとは気が付かない。

先を望む





関野から上野原へ


「力士追手風喜太郎の解説」
国道の右手増珠寺の看板の脇に石碑、石仏と庚申塔。そしてこの解説板がある。ここは江戸後期の力士追手風喜太郎の生地で、大関で引退後郷土の増珠寺や三柱神社に多くの寄贈や献納を行い、師匠の追手風小太郎の供養の碑を建てたとある。

力士追手風喜太郎の解説

「増珠寺」
曹洞宗竜渕山増珠寺は津久井三十三所観音霊場の一つ。入口は別のところにあるらしい。

増珠寺

「名倉入口」
国道の名倉入口信号から左下へと分かれる。

名倉入口

「境沢橋」
坂道をどんどん下る。下り切ったところで境沢の境橋を渡る。ここが相模国から甲斐国への境界で神奈川県から山梨県へと入る。

境沢橋

「桂川を望む」
橋を渡ると今度は逆にどんどん上る。息を切らしながらの上りであるが、上るに従って後ろの景色が良くなってゆく。相模湖の上流、桂川が見晴らせる。夏の日が照ってきた、風が爽やか。

桂川を望む

「諏訪番所跡」
坂道を上り切ったところの、右土手の上に石碑や標柱、解説板がある。ここが諏訪の番所跡。

諏訪番所跡


「諏訪番所跡の解説」
ここは甲斐24関の一つで境川番所とも呼ばれた。宝永4年(1707)に諏訪神社東からこの地に移転し、明治2年に廃止されるまで、通行取締りと物資出入りの取調べなどが行われた。

諏訪番所跡の解説

「甲州街道史跡案内図」
向かいに甲州街道の史跡の案内図がある。この番所跡から上野原、鶴川、野田尻、犬目の各宿と、その先の恋塚の一里塚までが描かれている。

甲州街道史跡案内図

「諏訪神社」
右手に諏訪神社。この東に昔は番所があった。境内で女の子が数人で遊んでいる。わらべ歌が聞こえてきそうな風景である。

諏訪神社

「旧甲州街道碑」
『旧甲州街道』の文字の左右に『あいさつをかわす思いやりの道』、『昔をしのぶ思い出の道』とあり、そばには手作りのモニュメントが多数。中には東京73q、甲府63qの標識もある。

旧甲州街道碑

「塚場の一里塚跡と疱瘡神社」
赤い鳥居の前に一里塚の解説板がある。この鳥居には疱瘡神社の額、昔は疱瘡が恐ろしい流行病であった事が良く分かる。

塚場の一里塚跡と疱瘡神社


「一里塚の解説」
塚場の一里塚は日本橋から18里(70.62q)、17番目とある。1里で1番目、18里なら18番目ではないのか? この塚にはモミが植えられていた。

一里塚の解説板





上野原


甲州道中第十八宿 上野原 【うえのはら】


所在地 山梨県北都留郡上野原町
最寄駅 JR中央本線「上野原駅」
日本橋から 75.0q   鶴川へ2.0q


本陣1、脇本陣1、旅籠が20軒あった。境川(諏訪)の関を越えた甲州の玄関口。


「上野原駅への分岐」
街道は市街地に入りやがて右から国道20号線が合流する。その先左へ行くとJR上野原駅。駅は市街地の中心から少し離れていて、中央自動車道を越した桂川に近い所にある。

上野原駅への分岐

「上野原の町並み」
駅入口を過ぎて宿の中心部に入ってきた。ここは上野原町、上野原、鶴川、野田尻、犬目の宿場を抱えたこの辺りの核となる町なのだ。

上野原の町並み

「土蔵造りの民家」
二階が土蔵造りになった家が目に付いた。

土蔵造りの民家






今夜の泊りはこの上野原のホテルをインターネットで予約しておいた。ホームページの案内では近くのコンビにまで徒歩10分とか書いてあったので、勝手に人里離れた田舎のあるものと思い込んでいた。来てみたら何と街道沿いの商店街の中にあるではないか! ラッキー!

16時30分にチェックイン、早速大浴場に浸かって疲れを癒し、全身綺麗さっぱりとする。風呂場にコインランドリーがあったので本日着用のものを全て洗って、これまたさっぱり。世の中便利になったものだ。

夕食はホテルの中でとる。ビールを飲みながら食堂の人にこの宿場のことを色々と尋ねるがあまり良く判らない。東電の裏に空き地がありそれが宿場の名残らしいという事を聞き出す。明日の朝に訪ねてみよう。テレビではプロ野球阪神横浜戦、阪神が逆転勝ちしてM33。


     一日目
     46,896歩(甲州道中正味44,471歩)  ※歩数、距離共に歩数計による
     西八王子〜上野原   25.79q(甲州道中正味24.46q)


 ページ公開 2003年12月10日
ページ改良 2011年4月30日

 写真追加 2011年5月27日



ホームへ   目次へ   戻る   次へ   掲示板へ