二日目 7月31日(木) ![]() 甲州道中第十八宿 上野原 【うえのはら】 所在地 山梨県北都留郡上野原町 最寄駅 JR中央本線「上野原駅」 日本橋から 75.0q 鶴川へ2.0q 「本陣の門」 昨夜教わったホテルの先、東電から右に入った所へ行ってみた。瓦葺の塀と古い立派な門があり、その奥は駐車場に使われている広場、その奥にさらに石の門柱の屋敷がある。表札に旧本陣とあるではないか。ここは本陣の跡だったのだ。 ![]() 「旧本陣の表札」 門柱の左に『旧本陣』、右には『藤田』の表札が掛かっていた。事前には分からなかっただけにこの発見は感動である。 ![]() 「土蔵造りの民家」 街道に戻って鶴川宿へ向け出発。ここにも土蔵造りの民家があった。 ![]() 上野原から鶴川へ 「ノウゼンカズラの咲く街道」 左にカーブしその先が三叉に分かれた交差点がある。中央が国道で、その左が旧甲州街道。この辺りで宿を出る。商店街から外れ静かな街並みになり、家々の庭先にはサルスベリやノウゼンカズラが綺麗に咲いている。 ![]() 「鶴川宿を望む」 この道から右に分かれ国道を歩道橋で渡ったところが鶴川への入口。国道と別れ右に進む。鶴川へ下って行く途中S字カーブ2箇所をショートカットする歩道が作られている。これは便利、何だか得をしたみたい。この下りから鶴川の宿を望む事が出来る。 ![]() 「鶴川橋」 桂川の支流の鶴川に架かる鶴川橋。昔はこの橋の下流に人足渡しの渡し場があった。 ![]() ![]() 甲州道中第十九宿 鶴川 【つるかわ】 所在地 山梨県北都留郡上野原町 最寄駅 JR中央本線「上野原駅」からバス 日本橋から 77.0q 野田尻へ4.0q 本陣1、脇本陣2、旅籠が8軒あった。この地の川越人足は無頼の徒が多かった。 「鶴川宿案内板」 鶴川橋を渡った右手にポケットパークがあり、案内板や宿場の碑がある。 ![]() 「鶴川宿の碑」 まだ新しい『鶴川宿』の碑がある。碑面には『旧甲州街道(道中)』と彫られている。隣には『これより甲州街道鶴川宿』の木製の看板も立っている。ここからやや右にカーブして宿に入る。 ![]() 「鶴川の家並み」 古い家の残った落ち着いた宿である。 ![]() 「問屋脇本陣」 宿の左手に格式のありそうな家がある。玄関式台に白い障子がはまっている。これが問屋・脇本陣だった柏屋の加藤家。 ![]() 「宿出口から振り返る」 案内板では宿の西の出口近くに本陣跡と書かれているが、見付ける事が出来ない。宿の出口の左手には旅籠の跡と思われる家がある。坂を上りながら左へ180度近くカーブして宿を出て、『鶴川野田尻線』を行く。 ![]() 鶴川から野田尻へ 「中央自動車道の横を行く」 ひたすら歩いて中央自動車道に突き当たり、右折して自動車道沿いの道を行く。遥か彼方にこれから渡る鳶ヶ崎橋が見える。 ![]() 「大椚の一里塚跡」 鳶ヶ崎橋を渡って自動車道から離れるように道をとって進む。やがて右側、作業小屋の前に大椚(おおくぬぎ)一里塚の解説板がある。日本橋から19里、18番目、残念ながら塗装が日焼けして読めない状態。せっかくの看板、上野原町教育委員会さん発注する時にこの様な事にならないよう配慮して貰いたいもの。 ![]() 「火口のない秋葉灯篭」 左手に珍しい石塔があると思ったら、倒れて壊れた常夜灯の火口を除いて上の屋根部分を載せたもの。後ろに破片が転がっている。下の部分には安永6年、秋葉道と読める。 ![]() 「吾妻神社」 左手ヒノキの大木の脇に赤い鳥居の吾妻神社。 ![]() 「甲州街道史跡案内図」 中に甲州街道の史跡の案内図がある。上野原から犬目まで、上野原町教育委員会が立てたもの。 ![]() 「神社の鳥居と観音堂」 境内の鳥居の脇に観音堂がある。 ![]() 「大椚観音堂解説」 解説では大椚の観音堂と言い、郡内33観音の24番札所。不動院行満寺の廃跡に立つとあり、道内に大日如来と千手観音像がある。 ![]() 「長峰砦跡」 左にオリンピックCCのゴルフ場、右に中央自動車道が近付いてくる。左手公園のように整備されたところが発掘された長峰の砦跡。 ![]() 「芭蕉句碑」 園内に句碑があり、芭蕉と芭蕉門十哲の一人獅子庵支考(蓮二房)の句が刻まれている。 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉 あかりてはさかり明けては夕雲雀 蓮二房 ![]() 「長峰の史跡解説板」 この砦は武田信玄の家臣加藤丹後守が甲斐の東口を北条の侵略から守るために築いたもの。 砦跡を過ぎて中央自動車道沿いの道を行き『野田尻方面橋で渡る』の看板を見て再び中央自動車道を右へ渡る。 ![]() ![]() 甲州道中第二十宿 野田尻 【のだじり】 所在地 山梨県北都留郡上野原町 最寄駅 JR中央本線「四方津駅」 日本橋から 81.0q 犬目へ3.4q 本陣1、脇本陣1、旅籠が9軒あった。今も蔦屋、紺屋、中田屋、酒屋、鶴屋、万屋などの昔の屋号が残っている。 「野田尻宿の町並み」 中央自動車道を渡って切り通しを抜けると宿に入る。小さな静かな宿場である。 ![]() 「野田尻宿の民家」 切妻の大きな特徴のある民家。 ![]() 「野田尻宿の民家」 明治19年(1886)の大火で、かつての面影を残す家はほとんど失われてしまったとあるが、これらの家は何時ごろ建ったものなのだろうか。 ![]() 「本陣跡の明治天皇御小休所跡碑」 宿の右手『明治天皇御小休所跡』の碑が立っているところが本陣の跡。 ![]() 「野田尻宿碑」 左手に『野田尻宿』の碑がある。先の鶴川宿と同じデザイン。 ![]() 「甲州街道野田尻宿案内板」 宿場碑と並んで案内板が立っている。 ![]() 「犬嶋神社」 宿の出口右手に赤い鳥居の犬嶋神社。この宿の産土守なのだろうか。神社を過ぎ左へ直角に曲がって宿場を出る。 ![]() 野田尻から犬目へ 「お玉井」 宿を出て、もう一度右に曲がると左手に『お玉井』の大きな石碑がある。この伝説は旅籠『恵比寿屋』で働く美しい女中『お玉』にまつわる恋物語で、念願の恋が実ったお礼にと、水不足で悩む野田尻の一角に、澄んだ水をこんこんと湧き出させたと言う。何とお玉の正体は『竜』で長峰の池の主『竜神』と結ばれたと言われている。 ![]() 「西光寺」 その先にあるのが臨済宗建長寺派熊埜山西光寺で天長元年(824)真言宗として創立した歴史あるお寺。宿場からの道と分かれてこのお寺を回るように上って行くのが旧甲州街道。 ![]() 「荻野の一里塚跡」 中央自動車道を越え元の道と合流平和中学校の先右手石垣の上に一里塚跡の標柱と解説板がある。日本橋から20里(78.5q)、19番目のものとある。ここの塚にはマツが植わっていた。 ![]() 「矢坪坂の古戦場跡」 中央自動車道が談合坂SAに近付いたところでその上を矢坪橋で右へと渡る。しばらく行くと『矢坪坂の古戦場跡』解説板があってそこから右上へ上る道がある。これが旧道。脇に『大乗妙典日本廻国供養塔』の石碑がある。 ![]() 「西ノ原古墳」 みるみるうちに高いところまで上がり見晴らしが良くなる。左手下に談合坂SAが見える。道のすぐ下に古墳があり解説板が立っている。 ![]() 「武甕槌神社」 右手に武甕槌神社の立派な石の鳥居がある。社殿はこのはるか上の方にある。 ![]() 「座頭転がし」 正しくは神社の鳥居の前を通って行くのに、誤って下へ下ってしまった。そしてこの下りが『座頭転がし』と思ってしまった。しばらく行って気が付いたが戻るのは大変、仕方なく通常の甲州街道を行き、新田下バス停から畑の中を上に上がって旧道に戻る。 ![]() 「新田の集落」 戻ったところが新田の集落。落ち着いた味のある家並みが続く。 ![]() 「これより甲州街道犬目宿」 安達野で二つの道が合流し犬目宿へと向かう。道路の右手に『これより甲州街道犬目宿』の看板が立っている。 ![]() ![]() 甲州道中第二十一宿 犬目 【いぬめ】 所在地 山梨県北都留郡上野原町 最寄駅 JR中央本線「四方津駅」 日本橋から 84.4q 下鳥沢へ4.0q 天保14年(1842)には本陣2、脇本陣0、旅籠が15軒あった。戸数は56戸、人口255名の小さな宿場であった。葛飾北斎が描いた富岳三十六景『甲列犬目峠』で有名。綺麗な富士が見える所。 「犬目宿の民家」 道路の左下に大きな特徴のある民家。 ![]() 「犬目村兵助之碑」 宿に入ってすぐ、左に犬目兵助の墓の案内があり訪ねてみた。少し山手に上がった見晴らしの良い墓地にあった。 ![]() 「碑側面の碑文」 碑の側面には建立の趣旨が刻まれていた。写真では逆光で判読出来ない。 ![]() 「甲州街道犬目宿の案内板」 宿の中心部に案内板が立っている。 ![]() 「宿の中心部」 左に宿場碑と案内板、右前方には火の見櫓建っている。昭和45年(1970)の大火で宿場の6割近くが焼失してしまい、ほとんどの家が建て替わってしまったと言う。でも、のどかな昼下がり、落ち着いた街並みである。 ![]() 「犬目宿碑」 鶴川、野田尻と同じデザインの宿場碑。右手の山でホトトギスが大きな声で鳴いた。 ![]() 「義民『犬目の兵助』の生家」 宿の左手に犬目兵助生家の解説板がある。それによると天保4年(1833)に続き天保7年(1836)も大飢饉に見舞われた。代官所への救済を申し出るも聞き入れられず、米穀商への穀借りも聞き入れられず、ついに実力行使したのが甲州一揆。その首謀者が犬目の兵助で40歳。家族に類が及ぶのを防ぐため、書置きや妻への離縁状を残し、一揆後逃亡。巡礼姿で中国、四国にまで足を伸ばし、晩年はこっそり犬目に戻って役人の目を逃れて隠れ住んだと言う。離縁状や逃亡日誌が残っている。 ![]() 「明治天皇御小休所跡碑」 宿の右手火の見櫓の先に『明治天皇御小休所跡碑』がある。案内板によるとこの先左に本陣、この先右に問屋大津屋と書かれているので、ここがもう一つの本陣の跡か? ![]() 「犬目宿の家並み」 宿の左手、出口近くに宿場らしい民家が3軒並んでいる。 ![]() 「寶勝寺」 宿の道は突き当たって右に曲がる。その曲がった右、上への石段を上った所に龍澤山寶勝寺がある。 ![]() 犬目から下鳥沢へ 「白馬不動尊の赤い鳥居」 街道の右手に白馬不動尊への赤い鳥居があり、脇に石仏と『甲州街道史跡案内図』、鳥居の足元には道しるべ。この先で右に上ると富士の眺めが良い君恋温泉があり、ここから旧道が有るとの事で上ってみたが、曇っていて富士は見えず、道も通行止めで、強行するには不安があったので元の道に戻る。 ![]() 「藁葺の家」 右手に藁葺き屋根の民家、生活臭が無いので住居としては使っていないのかも。 ![]() 「恋塚の一里塚」 道が左へ、右へと大きくカーブしたところ、左手に塚があってその前に解説板がある。 ![]() 「一里塚の解説板」 これが恋塚の一里塚。日本橋から21里(82.4q)、20番目のもの。この塚の上にはマツが植えられていたと言う。11時50分、ここで小休止。荷を降ろしシャツを脱いで汗をかいた背中に風を通す。 ![]() 「旧甲州街道石畳の道しるべ」 その先に木製の道しるべがあり、右側の山手へ戻る方向に行くと、僅かに石畳が残っている。 ![]() 「石畳の道」 角が丸く、平らな川の石が敷かれている。その距離は50mくらい。 ![]() 「石畳」 東海道箱根の石畳や中山道落合の石畳などとは比べものにならないが、貴重な歴史の証人であり、このような遺物を目にすると何だかホッとする。 この先で大月市に入り道はやがて下りとなる。途中山谷の集落を抜けると南に向かってどんどん下る。カーブのところは通学路と指定された道を行くと傾斜はきついが近道になる。こんな道を通う子供達はかわいそう。中野を過ぎ中央自動車道をくぐると間も無く国道に合流する。 ![]() 甲州道中第二十二宿 下鳥沢 【しもとりさわ】 所在地 山梨県大月市富浜町 最寄駅 JR中央本線「鳥沢駅」 日本橋から 88.4q 上鳥沢へ0.6q 本陣1、脇本陣2、旅籠が11軒あった。桂川と富士の眺望が素晴らしい地。 「鳥沢宿の町並み」 長い下りを終えて国道に出る。何処にでも有りそうな国道沿いの街。 ![]() 「宿の民家」 切妻平入りで煙出しのある民家。街道らしい景色である。 ![]() 「鳥沢小東」 大型トラックの通り過ぎた後は静かな宿場町に戻る ![]() 「コノテガシワの大木」 右手小学校の土手にコノテガシワの大木がある。 ![]() 「鳥沢のコノテガシワの解説」 大月市の天然記念物に指定されている。この辺りに一里塚が有るはずなのでこれと関係があるかも? ![]() ![]() 甲州道中第二十三宿 上鳥沢 【かみとりさわ】 所在地 山梨県大月市富浜町 最寄駅 JR中央本線「鳥沢駅」 日本橋から 89.0q 猿橋へ2.9q 本陣1、脇本陣2、旅籠が13軒あった。昔を偲ぶ甲府商人宿、叶屋がある。 「鳥沢駅前付近」 この辺りからが上鳥沢宿か? 午後1時になった。駅前でお店を探して昼食にと駅へ向かったが何も無い。仕方なく街道に戻って近くの食堂に入る。およそ30分のランチタイム。 ![]() 「宿の民家」 腹ごしらえが出来たところで更に先へと進む。宿の左手に切妻平入り、煙出しのある家が数軒ある。この真ん中の二階に欄干手摺のある家が甲府商人宿の叶屋とか。 ![]() 「宿の民家」 1軒のスケールがかなり大きい。2階の白壁が印象的である。 ![]() 「明治天皇駐驛地碑」 宿の右手出口近く、上鳥沢桜屋商店前バス停のところに『明治天皇駐驛地碑』がある。ここが本陣のあった跡。 ![]() 「宿の民家」 宿の左手出口にも特徴のある民家がある。ここの宿上鳥沢と下鳥沢の宿間距離が5町(およそ550m)と短いため、街道沿いに民家が立ち並んでいるとその区別が付かない。 ここからは猿橋まであまり見るべきもの無く、坦々と歩くのみ。疲れも出てきたが辛抱、辛抱。 ![]() 甲州道中第二十四宿 猿橋 【さるはし】 所在地 山梨県大月市猿橋町 最寄駅 JR中央本線「猿橋駅」 日本橋から 91.9q 駒橋へ2.4q 本陣1、脇本陣2、旅籠が10軒あった。猿橋は日本三大奇橋の一つである。 「猿橋の句碑」 猿橋中学校入口近くで国道から右に折れ、しばらくして左に折れるとそこが猿橋。眼下に橋が見える。階段を下りるとそこが橋。まだ新しい句碑が立っている。この他にも幾つかの句碑があるらしい。芭蕉も猿橋を句に残している。 猿橋や月松にあり水にあり 猿橋や蝿も居直る笠の上 うき我を淋しがらせよかんこ鳥 ![]() 「猿橋を東から見る」 日本三奇橋のひとつに数えられる名勝であるのに観光客が見当たらない。 ![]() 「名勝猿橋の解説板」 解説によるとこの橋は7世紀(推古朝)の頃渡来した百済の工人が、川岸の梢から猿たちが群れをなして川を渡る姿をヒントに、橋脚を用いず棟木と横桁を何段も重ねて中央で結合すると言う独自の構造を考案したとある。 ![]() 「猿橋を西から見る」 柔らかなアーチを描いた小さな橋だが、その下はおよそ30メートルの渓谷である。 ![]() 「猿橋を下から見る」 下の展望台より見上げると棟木と横桁の構造が良く分かる。 ![]() 「猿橋を更に下から見る」 渓谷の川原まで下りて見上げると、なるほど猿が繋がって渡れそうな感じがする。 ![]() 「猿橋にて記念撮影」 橋のたもとのお店大黒屋で休憩しアイスコーヒーで身体を冷やす。汗が引いたところで出発、記念にお店の人に写真のシャッターを押してもらう。 ![]() 「猿橋と宿の民家」 昔の宿場はどんな様子だったのだろうか? 橋の下から遊歩道を通って郷土資料館を経て国道に出る。そのため猿橋から西寄りの宿場の様子を見ずに過ぎてしまった。 ![]() 猿橋から駒橋へ 「三島大明神」 国道に出て進むと右手に三島大明神、石塔、石の鳥居、常夜灯、狛犬とどれも真新しい。左にJR猿橋の駅を過ごし、国道の92キロポストで右下に分かれる。 ![]() 「東京電力駒橋発電所導水管」 左の山の上から導水管が下りてきて右下の発電所に続いている。それを過ぎ脇の道を上がってJR中央本線第5甲州街道踏切を渡る。 ![]() ![]() 甲州道中第二十五宿 駒橋 【こまはし】 所在地 山梨県大月市駒橋町 最寄駅 JR中央本線「大月駅」 日本橋から 94.3q 大月へ1.8q 本陣0、脇本陣0、旅籠が4軒あった。桂川沿いに出来た小さな宿場。 「駒橋宿の民家」 国道に出るまでにあった古そうな民家。 ![]() 「厄王大権現」 右手に厄王大権現、石の柵に寄進者の名前が目立つ。さすが厄除けの神様、寄付集めが上手らしい。 ![]() 「秋葉大権現常夜灯」 続いて安政5年建立の秋葉山の常夜灯と隣には道祖神。土台には道祖神とあるが上には丸い石、像を彫った石が失われ何か別の丸い石が置かれているようだ。 ![]() 「橿屋の屋号の家」 国道に合流して右側、駒橋バス停に『橿屋』の屋号の掛かった古い家がある。昔は旅籠だったのか? 白い土蔵と庭木が印象的である。 ![]() 駒橋から大月へ 「岩殿山」 右手川向こうに大きな岩肌を見せた岩殿山が見える。その麓には岩殿城跡の看板。8月2日には岩殿山かがり火祭りが有るとかでいたる所にポスターが貼られている。 ![]() ![]() 甲州道中第二十六宿 大月 【おおつき】 所在地 山梨県大月市 最寄駅 JR中央本線「大月駅」 日本橋から 96.1q 下花咲へ1.4q 本陣1、脇本陣2、旅籠が2軒あった。甲州街道と富士山道との分岐点。 「大月駅前」 駒橋を過ぎてから右へ線路寄りの道を行くつもりが、入るところを見付けられず国道を大月駅前まで歩く。お祭りが近いと言うことで街中に提灯が飾られている。 ![]() 「明治天皇御召撰所跡碑」 国道から右へ大月駅へと向かい、駅前商店街の中の古い道を左へと進む。すぐに元の国道と合流する。この辺りからが宿の中心部、市役所の先左、電柱の脇に背の高い石柱がある。これが『明治天皇御召撰所跡』の碑で、ここが多分本陣の跡。 ![]() 「大月橋脇の追分道標」 上大月の交差点、左へ行くのが都留方面の国道139号線、直進が甲州街道国道20号線で信号の先が相模川に掛かる大月橋。この交差点の左先、橋のたもとに題目碑、道標、祠、常夜灯が並んでいる。ここが富士道の追分で、右から2番目にあるのが富士道の道標『右甲州道中、左ふじみち』とある。 ![]() 「大月橋」 この相模川はこの辺りでは桂川で通っている。長い橋を渡って宿を出る。 ![]() 大月から下花咲へ 「下花咲の一里塚跡」 しばらく進むと左に中央本線、右に笹子川、その向こうに中央自動車道とみんなが平行して走るようになる。左の植え込みに一里塚の説明板、その先に芭蕉の句碑や庚申塔、題目碑などが並んでいる。ここは下花咲の一里塚で日本橋から24里目。 ![]() 「芭蕉句碑」 しばらくは花のうへなる月夜かな はせを 天保13年壬寅文月之建 ![]() 「庚申塔などの石碑群」 庚申塔や題目碑、馬頭観音、句碑など多くの石碑が集められている。 ![]() ![]() 甲州道中第二十七宿 下花咲 【しもはなさき】 所在地 山梨県大月市大月町 最寄駅 JR中央本線「大月駅」からバス 日本橋から 97.5q 上花咲へ0.3q 本陣1、脇本陣2、旅籠が22軒あった。昔の本陣(星野家住宅)が保存されている。 「本陣星野家住宅」 街道の右手、下花咲バス停そばにある大きな建物が、かつての本陣が今も現存している星野家本陣。 ![]() 「本陣と明治天皇花咲御小休所の碑」 屋敷の前には右に『本陣』と左に背の高い『明治天皇花咲御小休所』の碑が並んで立っている。この星野家本陣は代々名主を務め、庄屋、問屋をも兼ねていた。 ![]() 「本陣全景」 現在の建物は、火事の後嘉永5年(1852)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。 ![]() 甲州道中第二十八宿 上花咲 【かみはなさき】 所在地 山梨県大月市大月町 最寄駅 JR中央本線「大月駅」からバス 日本橋から 97.8q 下初狩へ3.9q 本陣1、脇本陣2、旅籠が13軒あった。下花咲と共に笹子川沿いの宿。 「本陣跡上花咲バス停」 下花咲からおよそ300メートル、右手の大月IC入口交差点を越した先左手、上花咲バス停に空き地があり奥に白い土蔵が見える。ここが上花咲の本陣の跡らしい。 ![]() 上花咲から下初狩へ 「源氏橋を渡る」 中央道大月JCTから河口湖への道をくぐり国道を進む。午後5時近くになると夏の陽とは言えだいぶ影が長くなる。しばらく歩いて源氏橋で左へ笹子川とJR中央本線を渡る。渡ってすぐに右折し、採石場のそばを通り線路に沿って進む。この辺りに丸山の一里塚跡が有るはずだが、何も見付ける事が出来なかった。 ![]() 「聖護院道与の歌碑」 第7甲州街道踏切で右へ線路を渡ると右手に古びた石碑と解説板が立っている。 今はとてかすみを分けてかえるさに おぼつかなしやはつかりの里 京都聖護院門跡道与の歌で、諸国行脚のおり文明19年(1487)この地で詠んだもの。この碑は文化3年(1806)の建立。大月市の文化財に指定されている。 ![]() ![]() 甲州道中第二十九宿 下初狩 【しもはつかり】 所在地 山梨県大月市初狩町 最寄駅 JR中央本線「初狩駅」 日本橋から 101.7q 上初狩へ0.9q 本陣2、脇本陣2、旅籠が12軒あった。駅前に山本周五郎の生誕の碑がある。 「下初狩の町並み」 踏切を渡ると住宅地に入り、やがて右からの国道と合流する。右手にはこの辺りで多く見掛ける切妻平入りの大きな民家が目に入る。 ![]() 「初狩駅前」 信号のある交差点が初狩駅前。今回の行程はここまでとする。左のコンビニで冷たいドリンクを求め一息入れ、ここまでの歩数を記録して歩数計をリセットする。時間は17時25分。 ![]() 信号を左手に入り少し歩いた先がJR中央本線初狩の駅、小さな駅。東京までの切符を買って、駅構内の洗面で顔の汗を流す。少し高くなったホームは風が良く通り、爽やか。後ろの山からヒグラシの声が聞こえる。 今回の「甲州道中ウォークその2」のキーワードは『ノウゼンカズラ』。雨の西八王子を出た時から、ここ初狩の駅に着くまで、街道の左右にはこの花が今を盛りと咲いていた。黄みがかったオレンジや赤みがかったオレンジなど実に綺麗だった。 17時44分の電車で高尾へ、高尾発18時42分の電車で東京へ、19時58分東京着。電話を入れたりお土産を買ったりした後、八重洲の地下街で例の如く食事をして、東京温泉に入る。疲れて大汗をかいているだけに風呂に入り、疲れをほぐせるのは有難い。 夜行バス『伊良湖ライナー』東京23時50分発を利用、今夜もほぼ満席。豊橋へは翌8月1日(金)午前5時40分着、家内が迎えに来てくれている。ありがとう。6時頃に無事我家に帰り着く。 今朝のニュースは北朝鮮6ヵ国協議受諾とロシアが発表。膠着状態だった朝鮮問題に少し動きが出てきたようだ。 二日目 48,566歩(甲州道中正味46,423歩) ※歩数、距離共に歩数計による 上野原〜下初狩 27.03q(甲州道中正味25.53q) 今までの累計 194,720歩(甲州道中正味172,388歩) ※歩数、距離共に歩数計による 日本橋〜下初狩 107.37q(甲州道中正味94.80q) ページ改良 2011年4月30日 写真追加 2011年5月28日 ホームへ 目次へ 戻る 次へ 掲示板へ |